EX II - 6 そして日は沈む
楽しくお話ししていると、時間が経つのはあっという間で。
やがて空は深い星夜に包まれ、私たちが囲んでいた焚き火の炎も少しずつ弱くなってきた頃だった。
「……さて。そろそろ帰らなくちゃね」
お姉ちゃんがパッと立ち上がり、水着についた砂を払いながらそう言った。
「えっ、日帰りだったの!?」
驚いてお姉ちゃんの顔を見上げた。てっきり、どこかの宿にでも泊まるのだとばかり思っていたからだ。
「あはは……、実は私、お仕事、サボってきちゃったから」
お姉ちゃんは視線を逸らしながら、誤魔化すように愛想笑いを浮かべて、足早に馬車の方へと歩き出した。
「ご、ごめんカイナ!後始末よろしく!……お姉ちゃん!?」
私も慌てて立ち上がり、カイナに焚き火の片付けを押し付けて、お姉ちゃんの背中を追った。
……嘘だよ。
歴代最高とまで言われている、あの真面目なお姉ちゃんが、ただ海で遊ぶためだけに仕事をサボるなんてあり得ない。
きっと、今日が何か『特別な日』なんだと思う。
その理由を聞き出そうと、小走りで馬車に乗り込んだのだけど。
「さあリゼ、着替えましょうか」
「あ……」
馬車の中で振り返ったお姉ちゃんの言葉に、私はハッとした。
忘れてた。私は今『可愛いの塊』みたいなフリフリの水着姿のままだったんだ。
そんな格好で、さっきまでいっちょ前に皮肉っぽいツッコミを入れたり、得意げにお魚を獲ったりしていたのかと思うと、急にカァァッと顔が熱くなった。
「……うん」
急激に押し寄せた恥ずかしさのあまり、大人しく小さく頷くことしかできなかった。
そんな私を見て、お姉ちゃんはふふっと優しく微笑むと、濡れた水着を丁寧に脱がせてくれた。
「リゼ、ちょっと目を閉じててね」
「なんで?」
疑問に思いつつも、言われた通りに素直に目を閉じていると。
頭からふわりと柔らかい布を被せられ、お姉ちゃんの手で手際よく着替えさせられていく。
「はい、もういいよ」
声に合わせてゆっくりと目を開け、自分の姿を見て固まった。
そこにあったのは、いつもの地味な平服じゃない。
さっきの水着以上にフリフリな、まるで純白のドレスのような服だった。
「お、お姉ちゃん、これ、何……?」
「お母様が用意してくださった、リゼのネグリジェ……パジャマ?かな?」
お姉ちゃんは、自分のことのように嬉しそうに微笑んだ。
お母様まで……。確かに、肌触りは最高に良くて着心地は抜群なんだけど。デザインがどう考えても私のキャラじゃない。
「……その格好、まさに『姫』だな!」
いつの間に後片付けと着替えを終えていたのか。
馬車の入り口からひょっこりと顔を出したカイナが、私のフリフリのパジャマ姿を見て、ニヤニヤと笑いながらそう言い放ったのだった。
その後、お姉ちゃんも手早く着替えを済ませた。
お姉ちゃんが選んだのは、さっきのきらびやかな水着や私の過剰なネグリジェとは打って変わって、とてもシンプルな白いワンピースだった。
けれど、ただの飾り気のない平服のはずなのに、お姉ちゃんが着るとそれだけで神聖な空気を纏っているように見えてしまうから不思議だ。
「それじゃあ帰るか!姫様方、私の馬術に振り落とされるなよ!」
御者席に座ったカイナが、夜の海に向けて楽しそうに叫んだ。
「……いや、馬車なんですけど」
呆れてツッコむと、カイナの豪快な笑い声と馬のいななきが夜空に響き、馬車はゆっくりと帰路に向けて動き出した。
そんな私たちのいつものやり取りを見て、お姉ちゃんは満足そうに、優しく微笑んでいた。
ガタゴトと、一定のリズムで車輪が土を蹴る音が響く。
窓から差し込む青白い月明かりが、薄暗い車内を優しく照らしていた。
私たちの髪や肌からは、まだ微かにあの不思議な潮の匂いが残っている。
「……リゼ、今日はどうだった?」
しばらくの沈黙の後、お姉ちゃんがふと、ぽつりと尋ねてきた。
その声はいつもよりずっと穏やかで、どこかひどく疲れているような、けれど心地よい疲労感に包まれているような響きだった。
「……とても、とても楽しかった、かな」
私は、窓の外に遠ざかっていく波の音を聞きながら、今日一日の光景を一つ一つ思い返して、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「初めて見た海の壮大さも。カイナとお姉ちゃんと一緒に泳いで、お魚を獲ったのも。焚き火を囲んで、目を洗ってもらったのも」
そこで一度言葉を切って、自分の右手を見た。
そこには、行きにお姉ちゃんが私の手首を縛るのに使った、あの綺麗なシルクのリボンが大切に巻かれていた。
「……それから、その、私には似合わないって思ってた、可愛い水着も。全部……一生忘れられない思い出になったよ」
最後の方は少しだけ照れくさくなって声が小さくなってしまったけれど、これは嘘偽りのない、心からの本音だった。
私はずっと、必死に訓練ばかりしてきた。魔法も使えない、可愛げもない、ただの戦士。
でも今日だけは、お姉ちゃんとカイナのおかげで、ただの『普通の女の子』として、あの広く美しい世界に立つことができた。
「そっか……」
その言葉を聞いたお姉ちゃんは、心の底から安心したような、とても優しい声でそう呟いた。
「よかった。リゼが笑ってくれて、本当に……」
そのままこてん、と。
私の肩に頭を預けると、お姉ちゃんは静かに目を閉じて、あっという間に規則正しい寝息を立て始めた。
「……寝ちゃったのかな」
肩に伝わる、お姉ちゃんの少し高めの体温と、柔らかな重み。
慣れない海賊の役回りに、お魚を獲るための奮闘、そして魔法を使った気遣い。
きっと、お姉ちゃんも私が思っている以上に疲れていたのだろう。
今日が一体なんの『特別な日』だったのかは、結局聞きそびれてしまった。
けれど、そんなことはもう、どうでもよかった。
今日という日が、ただ私を喜ばせるためだけに、お姉ちゃんが一生懸命に作ってくれた時間だということだけは、痛いほど伝わってきたから。
窓の外からは、御者席のカイナが上機嫌で鼻歌を歌う声が聞こえてくる。
前には、私の背中を預けられる最高の親友。そして隣には、私のために無茶をしてくれる、世界で一番愛おしい家族。
私は、肩で眠るお姉ちゃんを起こさないように、そっと自分の羽織りものをその華奢な肩にかけてあげてから。
その神聖で美しい寝顔に向けて、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、ポツリと呟いた。
「……ありがと、お姉ちゃん」
この秘密の言葉は、遠ざかる波の音と馬車の揺れる音に紛れて、夜の闇の中へと静かに溶けていったのだった。




