第4話 米軍はOLYMPICをやめ、九州へ来ません。ソ連軍は津軽海峡を渡ります。
第4話 米軍はOLYMPICをやめ、九州へ来ません。ソ連軍は津軽海峡を渡ります。
第十五章 OLYMPICをやめる
1945年9月25日 米軍太平洋方面司令部
台湾戦が終わった直後、北海道にはすでにソ連軍が入り、日本人民軍という日本人部隊まで生まれた。米軍にとって、予定どおり南九州へ大軍を上陸させる意味は急速に薄れた。
机の上にはOperation OLYMPICの地図が開かれたままだった。宮崎、有明湾、串木野。帝国陸軍が一年以上かけて兵力と火砲を寄せた場所でもある。
マッカーサーの幕僚の一人が地図を指した。
「日本側は、われわれがここへ来ると信じています」
「そのとおりだ。だから行く必要がない」
別の参謀が紀伊半島を示した。
台湾を取った以上、米軍には南方から日本本土へ直接兵力を運ぶ海上輸送力がある。関東ではソ連軍の南下が進んでいる。南九州を攻略してから東へ進めば、時間をかけて日本側が最も厚くした正面を正面から殴ることになる。
狙うべきは京阪神だった。
大阪、京都、神戸を押さえれば、西側の政治中枢、工業、港湾、鉄道の大部分を一度に握れる。紀伊半島西岸から和歌山へ入り、そこから大阪方面と奈良方面へ分ければよい。奈良を抜けた部隊は大阪を経由せず京都へ向かえる。
「熊野、尾鷲、多気は?」
「大軍を通す道路ではありません。山の中で補給車列を詰まらせるだけです」
紀伊半島を東から大きく回る案は外された。
南九州へ上陸するOLYMPICも、実施計画から外された。
九州は上陸攻略せず、海上封鎖と航空攻撃で孤立させ、集結している日本軍をその場に固定する。中国、四国、九州へ地上部隊を分散させず、京阪神攻略へ兵力を集中する方針になった。
海軍側から一つだけ、重い問題が出た。
「紀伊水道へ入るなら、飢餓作戦の機雷原を自分たちで抜けます」
会議室が少し静かになった。
日本の海上交通を止めるため、B-29は西日本の海峡、港湾、水路へ大量の機雷を投下している。東日本側は、将来ソ連船舶が入る可能性を考えて投下地域から外した区間が多い。その結果、機雷の密度は西側へ偏っていた。
「掃海するしかない」
「回数設定と遅延作動があります。磁気、音響、水圧を組み合わせたものもある。こちらが敷設記録を持っていても、通路を一度開ければ終わりではありません」
「それでも九州へ行くより早い」
結論は変わらなかった。
日本側が全力で待っている九州には行かない。
米軍は、紀伊半島へ向きを変えた。
第十六章 来ない九州
1945年9月末 九州・四国
九州では、米軍上陸を待つために集められた兵器が残っていた。
砲、弾薬、特殊兵器、航空機、対上陸用の資材。帝国陸海軍は「次は南九州」と考え、本州や四国からも運べるものを運んでいる。台湾戦が長引いたため、なおさら九州へ重点が置かれていた。
ところが米軍の上陸船団は、九州へ姿を見せなかった。
九州側から京阪神へ戦力を戻す道も、すでに輸送力の崩壊で塞がれていた。
燃料備蓄はほぼ底をついていた。
日本の内航船は事実上停止し、帝国海軍の艦艇も港内に固定された。港内に残った艦は、砲台として砲塔や砲を動かすためにわずかな燃料を使える程度だった。石炭は炭鉱に残っていても、空襲で鉄道網が寸断され、必要な場所まで届かなかった。機関車も貨車も橋も不足している。
九州へ集めた対米専用兵器の九割ほどは、米軍機の反復攻撃で地上に置かれたまま壊された。
残る一割ほどを移すにも船か鉄道が必要だった。船舶運航は止まり、鉄道輸送も崩れ、車両用燃料まで枯渇していた。
「敵が来ないなら、九州の兵力を大阪へ回せ」
命令だけなら出せた。
現場から返る答えも決まっていた。
「どうやって運ぶのですか」
動ける兵だけを徒歩で何百kmも移動させれば、食料が必要になる。重火器は九州に残すことになる。橋を渡り、海峡を越え、米軍航空隊が見ている道路を列になって歩けば、到着する前に部隊としての形を失う。
九州に集めた戦力は、米軍と戦わないまま九州へ縫い付けられた。
四国も同じだった。
松山には第304海軍航空隊の人員と機体が残っている。パイロットも整備員も生きていたが、航空ガソリンの備蓄は空に近かった。
無線は連合軍にほとんど読まれている。現場は暗号通信も平文に近いものとして扱った。
関西側から届いた指示は簡単だった。
「来るな」
仮に松山から残存機を飛ばしても、関西側の補給燃料も底をついていた。機体だけ移せば、到着した時点で置物になる。
米軍側も、その状態を把握した。飛んでこない機体を一機ずつ地上で破壊する優先順位は下がり、航空写真に機影が写っても攻撃されない日が増えた。
部隊員は畑へ出た。
松山周辺で食料を作り、機体を擬装し、整備だけは続ける。海軍の航空隊ではあるが、しばらくは屯田兵に近い生活になった。
瀬戸内海では日本船の航行そのものが消えていた。
四国から本州へ出る道そのものが消えていた。
第十七章 京阪神へ来させない
1945年10月初旬 西日本
米軍が南九州へ行かないと決めても、西日本への航空攻撃は弱まらなかった。
むしろ目的がはっきりした。
九州の各都市、徳島、高松、姫路以西の市街地を焼く。対象を工場だけに絞らず、都市住民ごと市街を焼いて、兵員と工場労働者が京阪神へ流れ込む基盤を断つ。地上軍の通路確保ではなく、人的・生産的増援の遮断が目的だった。
カーチス・ルメイは、都市を工場だけでなく、人員と生産力をまとめた戦争資源として見ていた。
兵員になり得る人口、弾薬や衣服や部品を作る労働者、鉄道を直す人間、港で荷を動かす人間。その全体が戦争継続能力だと考えた。
鉄道を爆撃し、機関区を焼き、駅周辺の住宅まで焼く。
工場は労働者を失えば止まり、兵舎も輸送列車を失えば増援拠点として機能を失う。
九州の都市では、焼け残った一角を次の編隊が狙った。
徳島と高松も同じだった。
姫路から西では、市街地という言葉が地図上の記号だけになった場所が増えた。
日本側は、これを京阪神への増援阻止だと理解した。
九州で動けなくなった兵は、爆撃を受けるたびに同じことを考えた。
米軍の地上軍は九州へ来ない。
その一方で、九州から関西へ向かう余地も空襲で削られていく。
都市間の鉄道は切れ、港から日本船が消え、道路輸送も燃料枯渇で止まっていた。都市そのものが焼ければ、途中で食料を集め、宿泊し、修理を受ける場所まで失われる。
西日本は、地上軍に占領される前から、京阪神へ人と物を送る能力を削られていった。
第十七章補 飛べる機体だけ
1945年10月初旬 近畿・四国各地
日本側にも、わずかな航空燃料の備蓄は残っていた。
残った燃料は、訓練不足の搭乗員を大量特攻へ消費せず、帰還できる熟練者へ優先して回した。
飛ばすのは、低空で地形を読めて、攻撃したあと帰ってこられる可能性のある搭乗員だった。
通常の飛行場は目立つ。
残存機は、農地の中にある比較的長い直線部、農道に沿った平坦地、造成途中の土地などを整地し、上空から畑に見えるよう擬装して使った。それは畑の一部にしか見えない擬装簡易離着陸地だった。
短い離陸距離に合わせ、艦船攻撃用の250kg、500kg爆弾ではなく、60kg爆弾を主装備にした。
九九式襲撃機などの残存機は、機関砲・機銃と60kg爆弾を中心に装備した。
山影を低く飛び、米軍の車列、砲兵陣地、集積所、飛行場を短時間だけ襲う。撃ち終われば別の谷へ抜け、元の場所とは違う擬装離着陸地へ戻ることもあった。
機体数はごく限られた。
それでも飛行場を潰せば航空攻撃が止まるという米軍側の考えを外すには十分だった。
地上部隊も同じ発想になった。
一般的な野砲や重砲は、すでに戦力として数えられる量を失っていた。牽引車も砲弾も失われている。
代わりに、倉庫に残った航空爆弾を地上発射用の噴進弾へ転用した。
射撃は精密砲撃より、短時間の面制圧を狙った。
発射架を据え、観測員が目標方向を伝え、数発撃ったら逃げる。
反撃の艦砲射撃や航空攻撃が発射地点へ来るころには、人も発射架も山の別の場所へ移っている。
残存戦力の基本は、撃ったら逃げることになった。
第十八章 津軽海峡
1945年9月12日 函館・津軽海峡・弘前
札幌での合意は、津軽海峡の戦い方を変えた。
函館へ届いた第5方面軍からの命令は、組織的な抵抗を中止し、武装解除の条件についてソ連側と交渉するよう求めていた。
守備隊の大半は命令を受け入れたが、沿岸砲台の一部と港内に残る小型艦艇では抗戦を主張する将校が残った。通信が途切れた陣地もあり、札幌から届いた武装解除命令そのものを信用しない部隊もあった。
日本人民軍になったばかりの帝国陸軍出身の将校が、白旗を付けた車で函館の各陣地を回った。
「札幌で樋口閣下が交渉に入っています。武装解除しても部隊全員を国外へ送ることはありません。港と鉄道の警備に残る者も必要です」
「ソ連軍の命令を伝えに来たのか」
「第5方面軍の命令も持ってきています。ここで函館市街を戦場にしても、守るものまでなくなります」
砲台ごとに返事は違った。
砲身を海へ向けたまま閉鎖する部隊があり、砲尾を外して武器を引き渡す部隊があった。
最後まで戦うと決めた陣地も残った。
ソ連軍が函館へ近づいたとき、港全体から砲撃を受けることはなかった。
発砲したのは、命令に従わなかった函館守備隊の一部だった。
ソ連艦艇は、その砲台だけへ射撃を集中した。日本側の砲弾が海面に水柱を上げ、港内から出た小型艇も夜間に接近を試みたが、戦闘は局地化した。
港湾労働者と鉄道員は、日本人民軍の警備下で仕事へ戻った。
函館港が使えるようになると、津軽海峡を渡る準備は一気に進んだ。
◇ ◇ ◇
9月の津軽海峡は風が強く、波頭が白く崩れた。甲板へ出れば潮の匂いより先にディーゼル排気が鼻に入り、波しぶきが顔に冷たく当たった。
掃海艇が先行し、上陸用舟艇と輸送船が続く。
船団にはソ連兵に加え、札幌と函館で編成された日本人民軍の将校、通信兵、鉄道員も乗り込んだ。青森側の帝国陸軍へ降伏条件を説明し、港と鉄道を破壊させずに接収するのが彼らの任務だった。
海峡の南側では、その知らせが先に弘前へ届いた。
弘前師管区司令部には、札幌で第5方面軍司令官と北海道庁長官がソ連側と交渉し、函館守備隊の大半も戦闘をやめたという報告が入った。
「函館は落ちたのですか」
「違います。大部分が交渉に応じました。一部の砲台だけが戦闘を続けています」
「では、海峡を渡ってくる日本兵は捕虜ではないのか」
「日本人民軍と名乗っています。帝国陸軍出身の将校が、ソ連軍と一緒に来るそうです」
会議室の空気が変わった。
弘前師管区司令部は、名前だけを見れば大きな部隊を抱えているように見える。しかし、師管区そのものは補充と動員を担う組織で、弘前の町に完全装備の野戦師団が待っているわけではなかった。
もともと弘前師管区からは、満州や南方へ送る部隊の補充要員を長く出している。1945年になって青森県内で第157師団、第308師団など本土決戦用の師団も急造されたが、装備は揃わない。この世界ではさらに台湾戦と九州防衛へ人員、砲、車両、弾薬の転用が続き、9月の弘前周辺で直ちに戦闘へ出せる兵力は、書類上の定数の2割にも届かなかった。
砲兵はもっと苦しい。
残った野砲は少なく、牽引車も足りない。対空火器は飛行場や重要施設へ回され、歩兵部隊へ十分には配れない。兵がいても、小銃だけで道路沿いへ集めるしかない部隊まである。
しかも、彼らが準備してきた相手は米軍の上陸だった。
海峡の向こうからソ連軍が来るだけでも想定外なのに、同じ帝国陸軍の制服を着ていた者まで同行してくる。
「札幌の樋口閣下が本当に認めたのなら、こちらだけで抗戦を続ける根拠は何ですか」
若い参謀がそう口にすると、誰もすぐには答えなかった。
その日の午後、答えを出す時間そのものがなくなった。
北海道側の飛行場へ進出していたIl-2「シュトルモビク」が、編隊で津軽海峡を越えてきた。
Il-2編隊は弘前市街を避け、鉄道操車場、軍用道路、車両集積地、砲兵陣地、飛行場を攻撃した。
低空から機関砲とロケット弾が入り、貨車と燃料車が燃えた。道路へ出ようとしていた車列は林へ逃げ込む前に撃たれ、少数しか残っていない野砲も牽引中に放棄された。
1波が去ると、別の編隊が来た。
さらにその後ろからYak戦闘機が上空を押さえた。
地上の兵には、灰緑色の地上攻撃機が本当に蠅のように次々と来るように見えた。
弘前周辺には兵員が残っていたが、本格的な防御線を作る前に移動手段と通信を失った。砲の集結、弾薬輸送、部隊単位での津軽方面への増援ができなくなり、組織的な反撃能力から先に崩れていった。
しかも、残っている兵の質も揃っていない。長い戦争で熟練した下士官や技術兵は何度も前線へ抜かれ、急造部隊には十分な訓練を受けていない兵が多かった。分隊や小隊を実際に動かせる下士官が少なく、砲兵、通信、工兵、車両整備などの技能を持つ者はさらに限られる。
「この状態で青森へ増援を送れますか」
「歩兵だけなら歩かせられます。しかし、砲も車両もありません」
「では、着くころには何が残っています」
参謀は答えなかった。その沈黙が、そのまま増援案への答えになった。
やがて弘前周辺で武装解除が始まると、日本人民軍側は部隊を隊列のまま受け取らなかった。兵は武器を置いたあと、氏名と階級、所属、実戦経験、扱える機材を一人ずつ聞かれた。
「通信はできますか」
「有線です。無線も扱えます」
「こちらへ」
実戦経験のある下士官、通信兵、工兵、砲兵、衛生兵、鉄道・自動車・整備の技能を持つ者が、そこで別の列へ移されていく。新しい部隊の骨格になれる者を先に拾い上げ、残る兵は武器を返納したあと復員させる。
「人数だけ集めても軍にはなりません」
日本人民軍の将校がソ連側顧問へ言った。
「分隊をまとめられる伍長や軍曹、無線機を扱える通信兵、砲を動かせる兵を先にください。ほとんど訓練を受けていない兵まで抱えれば、食料と宿舎だけ必要になります」
「残りはどうします」
「武器を返納させて解散です。必要なら後で改めて召集し、今度は訓練してから使います」
ソ連側にも異論はない。必要な技能だけを新軍へ残せば、占領地で抱える食料と宿舎も減らせる。
弘前周辺では、帝国陸軍・帝国海軍の部隊番号がそこで途切れる。熟練者や技能者は日本人民軍の各部隊へ散り、残る兵は復員の列へ回っていく。
一方、青森港と海岸陣地の一部では上陸阻止の射撃が始まるものの、弘前から大きな増援が来る気配はない。
海峡を越える最初の船団が動くのは夜だった。沿岸砲の砲弾が輸送船の近くへ落ち、1隻が損傷する。すぐにソ連側の艦砲と航空機が火点を叩き、先頭部隊が海岸へ取りつくころには、射撃は断続的なものへ変わっている。
その上陸部隊の前へ、日本人民軍の将校が出た。
「札幌と函館で使った条件を、そのまま説明します。武装解除後に全員を国外へ送ることはありません。鉄道、通信、医療、警備に残る者も必要です」
弘前側では、この説明を待つまでもなく、組織的な反撃が難しいことを多くの将校が理解している。撃つ部隊は残っていても、それだけで戦線を作れる状態ではない。
赤軍にとって、日本語で降伏条件を説明する日本人部隊が一緒に海峡を渡る効果は大きい。航空攻撃で軍事的な選択肢を削り、そのあとを日本人民軍が交渉で埋めていく。
札幌で生まれた日本人民軍は、ここで北海道だけの警備組織を離れ、本州の帝国陸軍を内側から崩していく政治的な力へ変わっていく。




