第2話 タチアナは台湾へ日本軍の弾薬を送ります。8月15日になっても戦争は終わりません。
第2話 タチアナは台湾へ日本軍の弾薬を送ります。8月15日になっても戦争は終わりません。
第五章 沖縄から見えるもの
1945年4月1日 沖縄・第32軍司令部
沖縄の第32軍司令部では、台湾上陸の報告を受けても、すぐに安心する者はいなかった。
日本陸軍第32軍司令官・牛島満中将は、地図を見ながら参謀に確かめた。
「第10軍の主力が台湾へ入ったことは分かりました。そのあと沖縄へ来ないと判断できる材料はありますか」
「まだありません。台湾を早期に片付けて、その後こちらへ向かう可能性は残っています」
「そうでしょうね。こちらとしては準備を緩める理由にはなりません」
沖縄は台湾より日本本土に近い。米軍が台湾を先に取ったとしても、次に沖縄を攻略して本土への基地とする可能性は十分にある。
そこで第32軍は陣地構築を続けた。
住民も、米軍上陸があるものとして動員される。飛行場には空襲が続き、海上輸送も細くなっていく。それでも上陸船団は現れなかった。
春が過ぎ、夏になり、台湾戦がなお続いても、沖縄沖に米第10軍は来なかった。
それでも、この段階では「飛ばされた」とはまだ言えなかった。
その後、米軍は沖縄を攻略しないまま日本本土への上陸作戦へ移る。結果として沖縄は、太平洋を北上する飛び石作戦の中で、攻めずに残された島になる。
第六章 台湾の奥行き
1945年4月20日 台湾・嘉義北方
台湾西部の戦線は北へ動いた。
西部平野には水田と畑が続き、晴れた日には遠くの山地が薄い青色に見えた。ところどころで砲撃に焼かれた草木の匂いが混じり、道路脇では砂糖黍の葉が風に擦れて乾いた音を立てた。前線を離れると一見静かな農村に戻るのに、数km先では野砲の音が低く続いた。
台南から嘉義へ進むにつれ、米軍は帝国陸軍の陣地だけでなく、壊された橋と鉄道、破壊された道路に時間を取られた。工兵は前線の直後に入り、仮橋を架け、路盤を直し、港から来た燃料と弾薬をさらに北へ送った。
帝国陸軍は、平地で米軍の戦車と砲兵にまともに付き合うことを減らした。
西部の交通線を使いながら後退し、必要な場所で抵抗し、山地へ寄れる地域では陣地を深くした。空襲で工場や鉄道施設を失い、燃料の補給も細っていたため、日本側の戦力は確実に減っている。それでも、沖縄のように狭い島の南端へ追い詰められる形にはならなかった。
安藤は補給状況の報告を受けた。
「小銃弾はまだ持ちますが、迫撃砲弾と野砲弾は部隊によって差が大きくなっています。燃料は航空部隊を中心に厳しくなっています」
「島外からまとまった補給が来る可能性は低いでしょう。残っているものを、戦線全体で均等に減らす必要はありません。必要な地点へ寄せる方がよいと思います」
「台北を最後の中心にしますか」
「台北だけを守ればよいわけではありません。米軍に島全体を使わせないことが重要です。東側へ移れる部隊についても準備を進めてください」
台湾戦は、日ごとに日本側が不利になった。
それでも、終わる日だけは見えなかった。
第七章 台湾へ送るもの
1945年5月~6月 モスクワ・極東
ドイツの降伏でヨーロッパの戦争が終わると、ソ連軍の鉄道輸送は西から東へ向きを変えた。戦車、砲兵、工兵、通信部隊、司令部要員がシベリア鉄道を通り、極東へ運ばれた。
航空部隊も東へ回された。中心になるのは、ドイツ戦で地上軍の直前を飛び続けたIl-2「シュトルモビク」と、新しいIl-10だった。戦闘機だけを増やすのではなく、砲兵陣地、車列、橋、鉄道、飛行場を低空から叩くための地上攻撃機をまとまった数で持っていく。
この世界では、ドイツで鹵獲したJu 87「シュトゥーカ」のうち整備可能な少数機も、部品取り機と一緒に極東へ回された。ソ連製機ほど数はそろわず主力にはならないが、日本側の戦闘機が少ない地域で限定的な低空攻撃に使う。黒い十字を消して赤い星を描いた機体が、シュトルモビクに混じって東へ送られた。
タチアナ中佐の仕事は、その軍隊を直接指揮することではなかった。
台湾へ何を送れば、米軍を最も長く拘束できるかを選ぶことだった。
日本製小銃を何万丁も送っても、台湾の帝国陸軍にはすでに小銃がある。必要なのは、撃てばなくなるものだった。
必要なのは、小銃弾と機関銃弾、迫撃砲弾と野砲弾、爆薬、無線機の部品、包帯や医薬品、それに被服だった。
タチアナは一覧を見ながら、同じ口径でも製造時期や保存状態の違う箱を選別させた。ノモンハン以来保管されていたものには劣化した弾薬もある。台湾で暴発させれば、味方を助けるどころか、供給経路そのものを疑われる。
船積み書類には、できるだけ帝国陸軍の補給品に見える名称を使った。箱を新品に詰め替えるより、古い部隊印の付いた木箱をそのまま使った方が自然なものもある。
「満州の部隊印は消しますか」
担当者に聞かれ、タチアナは首を振った。
「全部消す方が不自然です。帝国陸軍の補給品が帝国陸軍の手に戻るのですから。出所が一つに見えない方がいい」
台湾から戻る船には、約束どおり砂糖とバナナが積まれた。
最初の輸送が成功してからおよそ1か月後、モスクワへまとまった台湾産の砂糖とバナナが届いた。
スターリンのところへ回された木箱の上には、小さな封筒が置かれていた。
中にはタチアナの字で一行だけ書いてあった。
「親愛なる同志へ」
それ以上の説明はなかった。
台湾では、帝国陸軍の砲弾使用量が一度落ちたあと、再び増え始めた。米軍の情報部は異変に気づいたが、島内の隠匿在庫なのか、別の経路から来たものなのかをすぐには確定できなかった。
作戦そのものは機密のままだったが、タチアナには昇進辞令が出て、中佐から大佐になった。同僚が祝いの席で言った。
「台湾工作で大佐になったそうだな」
タチアナはバナナを一本持ち上げた。
「バナナと引き換えに大佐になりました」
笑いが起きたが、彼女の机にはすでに次の資料、北海道の港湾図が置かれていた。
第八章 満州で鹵獲したもの
1945年8月13日 満州
ソ連軍が満州へ入ると、関東軍の倉庫から大量の帝国陸軍装備を鹵獲した。
倉庫の中は油紙、古い木箱、機械油の匂いでむっとする。長く積まれていた弾薬箱には埃が厚く付き、釘を抜くと乾いた木の音のあとに、油を染み込ませた包装紙の匂いが立った。ソ連兵にとっては敵軍の規格品でも、箱の中身は台湾の日本兵がそのまま使える小銃弾や砲弾だ。
小銃、機関銃、迫撃砲、砲弾、小銃弾、被服、通信器材。
すべてがそのまま使えるわけではない。保管状態の悪いものもあり、種類も揃っていない。それでも、台湾の帝国陸軍にとっては価値があった。
ソ連側は、その中から比較的状態の良い帝国陸軍規格の弾薬を選び、複数の経路に分けて台湾方面へ流した。
台湾北部の補給所では、見慣れない部隊印の箱が増え始めた。
「満州向けの印が入っていますね」
補給将校が箱を見ながら言った。
「こちらへ転送された記録はありません」
「中身は使えますか」
「選別は必要ですが、規格は同じです。迫撃砲弾も相当数あります」
参謀は箱の側面を見た。
「出所については、今は詮索しても答えが出ないでしょう。危険なものを除いて、使える分だけ部隊へ回してください」
安藤利吉のところにも報告は届いた。
「ソ連から来たのではないか、という話まで出ています」
参謀がそう言うと、安藤は少し考えた。
「確証がない以上、司令部から推測を広げる必要はありません。ただ、補給が戻った理由は記録しておきましょう。戦後に誰かが調べるかもしれません」
台湾の帝国陸軍は、再び迫撃砲と野砲を使う頻度を上げた。
米軍情報部も、ほどなく異変に気づいた。
「6月には砲弾の使用量が落ちていましたが、8月半ばから増えています。島内生産が急に回復した形ではありません」
「隠し倉庫が見つかった可能性は?」
「もちろんあります。ただ、回収した弾薬箱の一部に満州方面の部隊印があります」
情報参謀は、その事実だけを報告書に書いた。
ソ連が送った、と断定できる証拠はなかった。
それでも台湾戦は、また少し長くなった。
第九章 仲介を頼んでいた相手
1945年7月12日 モスクワ
日本政府は、ソ連の動きを読み違えた。
7月になっても、政府内にはモスクワを通じて米英との和平条件を探れないかという考えが残っている。近衛文麿を特使として送る案も、その一つだ。
駐ソ日本大使・佐藤尚武は、東京の期待が現実的ではないことを何度も伝えた。
「ソ連政府は、こちらの希望どおりの仲介役にはなりません。少なくとも、具体的な条件を示さずに話を進められる状況ではありません」
東京から返ってくる指示は、それでも、連合国との敗戦処理条約を少しでも日本に有利な条件で結べるよう、ソ連に仲介してもらう可能性を探ってほしい、というものだ。
そのため、日本国内でのソ連像は奇妙なままだ。
米英に対しては、「鬼畜米英」という言葉まで使って敵愾心を煽る宣伝が長く続いてきた。一方、ソ連については警戒していても、政府自身が最後まで敗戦処理の仲介者になり得ると期待している。住民の側から見ても、米英とソ連は同じ強さの敵像ではない。
8月にソ連が参戦したあとも、その心理の差はすぐには消えなかった。
スターリンは、日本側のこの認識も利用できると考えた。
第十章 終戦にならなかった日
1945年8月14日~15日 東京・松代
広島と長崎に原子爆弾が落ち、ソ連軍が満州へ侵攻すると、日本政府内では降伏を求める意見が急速に強くなった。
しかし、この世界では沖縄はまだ落ちていない。台湾でも帝国陸軍は後退しながら戦闘を続けていた。米軍が南九州へ来ることは予想されていたが、本土の主要地域で地上戦が始まったわけでもない。
政府、大本営、帝国陸軍、帝国海軍の内部は、降伏を求める側と継戦を主張する側に割れた。
史実の8月とは違い、この時点では継戦派の方が多かった。
「原子爆弾を使われた以上、次もあります」
「だからこそ、降伏条件を決めないまま武器を置くわけにはいかない」
「ソ連まで参戦しました」
「満州と本土は同じではない。沖縄もまだ取られていない。台湾も戦っている」
議論はまとまらなかった。
天皇も、この段階では全国へ降伏を表明しなかった。
東京への空襲が続く中、皇室、政府中枢、大本営は松代へ退避した。地下壕に通信、会議、執務の機能が集められ、東京には官庁と行政機能の多くが残った。
8月15日に全国へ流れた玉音放送はなかった。
帝国陸軍と帝国海軍には戦闘継続を前提とする命令系統が残り、それぞれの方面軍、鎮守府、基地が上級司令部からの指示を待った。
ただし、中央が一枚岩だったわけではない。
降伏派の官僚や軍人は戦争終結の方法を探し続け、現地では戦況と補給の悪化から独自に停戦交渉へ入る部隊も出た。一方、松代には継戦派が集まり、政府と大本営を維持して本土決戦を続ける構えを取った。
この時点で、日本はまだ降伏していない。
しかし、東京と松代、降伏派と継戦派、各地の司令部の判断は、少しずつ別々の方向へ動き始めていた。
第十章補 本土防衛の向き
1945年8月9日 東京・大本営
ソ連軍が北海道へ向かったとき、日本本土の守備兵力は同じ密度で全国へ置かれていたわけではなかった。
本土防衛のために使える人員、砲、車両、燃料、築城資材の多くは、長い時間をかけて別の方向へ寄せられていた。
一つは九州だった。
台湾へ米軍が上陸したこの世界では、台湾を取った米軍が次に南九州へ来るという判断が強くなった。第16方面軍の九州には、本土各地から新設・転用された師団や独立混成旅団が集められ、飛行場、海岸陣地、山地陣地、弾薬集積所も米軍上陸を前提に整備された。帝国海軍も、残存航空機、潜水艦、特殊潜航艇、回天、震洋などを米軍輸送船団へ集中する構想を持った。
もう一つは松代だった。
東京への空襲が激しくなるにつれ、皇室、政府、軍中央の中枢機能を松代へ移す準備が進み、それを守るための部隊、通信、警備、物資も集められた。
その結果、北関東から東京北方にかけては人口も鉄道も工場も多いのに、まとまった野戦軍として使える部隊が薄くなった。
巨大な平野に町と工場が詰まっているのに、中身の軍事力を吸い出された海綿のような状態だった。
大本営の会議で、参謀が北方への増援を検討した。
「九州から師団を抜けますか」
兵站担当者は首を振った。
「米軍が南九州へ来ると考えて、1年以上かけて砲と弾薬を集めています。いま抜けば、上陸正面を自分で薄くすることになります」
「松代周辺からは」
「政府と大本営を守る部隊です。そこを空にする判断を誰が出しますか」
「では、北関東から拾うしかない」
「部隊番号はあります。しかし、人員だけ多くて重火器が少ない部隊もあります。空襲で鉄道輸送力も落ちています」
九州の部隊を北へ動かすには、兵だけでなく、砲弾、食料、車両、通信機材まで何千kmも運ばなければならない。燃料も貨車も不足している。橋梁と操車場は空襲を受けている。
この時点の大本営は、米軍が本当に南九州へ来ると信じていた。
ソ連参戦を知ったからといって九州の兵力を北へ移せば、その直後に米軍上陸を受けると考えた。
日本側には、米軍正面を薄くして新しいソ連正面を厚くする判断ができなかった。
そのため、九州には長く準備された帝国陸軍の大兵力と対米専用兵器が残り、北海道から東北では地域守備部隊がソ連軍を受け、北関東には交通と人口の大きさに比べて野戦兵力の薄い空間が残った。
のちに米軍がOLYMPICを取りやめても、燃料と輸送力を失った九州の大兵力は簡単には動けない。この偏りが、ソ連軍が関東へ近づいたとき一気に効くことになる。
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12話構成です。




