EP 2
獲るもんがねぇ男と、外れスキルの箱
畳の匂いがした。
みかんの乗ったコタツ。テレビ。脱ぎ捨てられた健康サンダル。壁際には空き缶が四本。
どこからどう見ても、日本のどこにでもある、だらしのない六畳間だった。
ただ一点。障子の向こうに、星が流れていた。
「え、えっと……! よくぞ参りました、迷える魂よ!」
ピンクの芋ジャージのオバサンが、慌てて缶ビールをコタツの下に隠しながら立ち上がった。
「あなたは先ほど、トラックに轢かれそうになった猫を助けて、亡くなりました。その尊い善行に感動し――」
「オバサン」
「オ・バ・サ・ンじゃないわよ! 永遠の十七歳、女神ルチアナよ!」
龍魔呂は眉間に深く皺を寄せた。
「猫? トラック? ……俺、さっきまで大学の門んとこにいたし、かすり傷ひとつねぇぞ」
「きぃぃぃっ! 仕方ないでしょ! こういうのはテンプレなの! いいから死んだことにしておきなさい!」
逆ギレしながら机を叩くジャージ姿の自称女神。
その隣では、同じくピンクのジャージを着た小柄な少女が、コタツに潜り込んだままみかんを剥いていた。
「ルチアナ先輩、うるさいですぅ。私、寝てるんですぅ」
「リリス! あんたも起きなさい! ……もう、なんで私の部下は全員こうなの」
龍魔呂は、この時点で理解を諦めた。
ポケットから角砂糖をひとつ取り出し、ボリッと無作法に噛み砕く。
甘さが脳に回って、なんとなく現状を受け入れさせた。
◆
「ま、こうなったのも何かの縁だから。あなたには、剣と魔法の世界『アナステシア』に転生してもらいます」
ルチアナはコタツの上の書類を雑に払いのけ、ニヤリと口角を上げた。
「そこで――特別に、ユニークスキルをあげる。何がいい?」
指を一本立てて、彼女は数えはじめた。
「どんな攻撃も弾く『絶対防御』? 相手の装甲を紙みたいに引き裂く『防御力貫通』? ああ、レベルが際限なく上がるやつも人気ね」
それは、普通の転生者なら泣いて喜ぶ提案だったはずだ。
だが龍魔呂は、鼻で笑った。
「……馬鹿がよぉ」
「は?」
「神にもらった力で勝って、何が『俺の喧嘩』だ。ふざけんな」
部屋の空気が、わずかに軋んだ。
ルチアナは目を丸くして彼を見上げ――そして、耐えきれないように肩を揺らして笑い出した。
「あっはははは! いいじゃない、あんたみたいな規格外、久しぶりに見た!」
ひとしきり笑ってから、彼女はふと真顔になって、缶ビールに口をつけた。
「……じゃあ、あんた。何がしたいの?」
「あ?」
「向こうで何がしたいのって聞いてんの。金? 女? 名声? 復讐?」
龍魔呂は答えなかった。
窓の外の、流れていく星を見ていた。
半グレは、去年のうちに全部潰した。
目的は、二年前に済んでいる。
なのに看板だけが残った。降ろせば、行き場のない元下っ端が五十人、そのまま他所に食われる。だから週末に呼び出されて、後始末をして、月曜に大学へ戻る。
その大学も、今朝で終わった。
畑も、種も、二年も。
「…………」
「ちょっと。聞いてる?」
「……もう、獲るもんが何もねぇんだよ」
低く、静かな声だった。
ルチアナが缶を口元で止めた。
みかんを剥いていたリリスの手も、いつの間にか止まっていた。
◆
「……ふぅん」
ルチアナは缶を置くと、コタツの下から埃をかぶった木箱を引っ張り出した。
「なら、これでいいわ」
「なんだそりゃ」
「在庫処分。誰も選ばないから十年ここに転がってるやつ」
差し出されたのは、掌に乗るくらいの、なんの装飾もない木の箱だった。
「ユニークスキル『農具箱』。できることは三つだけよ」
ルチアナが指を折る。
「一、クワ、スコップ、ジョウロ、種籾、ハサミが出る。絶対に折れない。それだけ。攻撃力の補正はゼロよ」
「……ほう」
「二、種籾。手に取った作物の種を、一日にひとつだけ複製できる」
「ふむ」
「三、ジョウロ。撒いた水が、その土地の土に一番合う成分に変わる。以上」
コタツから顔を出したリリスが、心の底から呆れた声を出した。
「うわぁ……めちゃくちゃハズレですぅ。それ、モンスター一匹も倒せないやつですぅ」
「うるさいわね。文句あるならあんたが持って行きなさい」
「嫌ですぅ」
だが。
龍魔呂は木箱を受け取ると、なぜか、少し笑った。
「……折れねぇのか」
「え? ええ、まあ、そこだけは保証するけど」
「そうか」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
◆
「あ、そうだ。リリス、あんたこの子の担当女神ね。一緒に下界に降りなさい」
「えええええっ!? 急ですぅ! ブラックですぅ! 私まだ見習いで――」
ぎゃあぎゃあと騒ぐリリスが、ふと言葉を止めた。
彼女の視線が、龍魔呂の左手に吸い寄せられている。
中指に、黒い指輪がひとつ。
装飾もなく、傷だらけで、どう見ても千円もしない安物だった。
なのに。
「……あれ?」
リリスの背中で、女神の羽が勝手にざわりと逆立った。
「その指輪、なんですか。すごく――」
「触るな」
短い一言だった。
声を荒らげたわけでも、睨んだわけでもない。ただ、それだけで部屋の温度が三度下がった。
リリスは口を半分開けたまま固まり、それきり、何も聞けなくなった。
◆
「じゃあね! ちゃんと一日三食食べるのよ! 喧嘩は買ってもいいけど怪我はしないこと!」
「……てめぇは俺のお袋か」
光の扉を抜けた瞬間、足の裏の感触が変わった。
畳ではない。土だ。
鬱蒼と生い茂る巨大な木々。ビルもアスファルトもない。
濃い腐葉土の匂いが、肺の底まで入ってきた。
「ふー……」
龍魔呂は咥え煙草の煙を吐き出し――そして、真っ先にヤンキー座りになった。
足元の土を、無造作に掬い上げる。
指先で揉む。鼻を近づける。舌の先に、ほんの少しだけ乗せる。
「…………おい」
「ふぇ? な、なんですかぁ?」
健康サンダルを鳴らしながら草むらから転がり出てきたリリスが、恐る恐る覗き込む。
龍魔呂は、土を握ったまま言った。
「この土、生きてやがる」
「……は?」
「水はけがいい。腐葉土もたっぷりだ。粘土質だが、締まりすぎてねぇ。……日本じゃ、これ作るのに二十年かかる」
彼は立ち上がり、ぐるりと森を見渡した。
そして、眉をひそめる。
「……なのに、どこにも畝がねぇ」
これだけの土がある。
なのに、誰も耕していない。誰も蒔いていない。
龍魔呂はスタジャンのポケットに手を入れ、そこに残っていたものを取り出した。
ジッパー付きの、小さな袋。
去年の秋に自分で採って、自分で乾かして、教授が処分し損ねた、在来種の最後の一袋。
「……二千年、誰かが繋いできた種だ」
彼は袋の口を開け、掌に一粒だけ転がした。
朝日に似た、この世界の光がその一粒に当たる。
「大学に返す当てはもうねぇ。畑も潰された。……だがな」
――カチッ。
真鍮のフタが弾ける音が、森に響いた。
今度は、ちゃんと火がついた。
深く煙を吸い込み、龍魔呂はゆっくりと吐き出す。
「繋ぐぞ。ここで」
「……え?」
「畑を作る。まずはそこからだ」
その背中を、リリスは呆然と見上げていた。
獲るものが何もないと言った男が、来て五分で、次に獲るものを決めていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




