第一章 折れない鍬しか出ない外れスキルで、停学ヤンキーが異世界の畑を耕したら村が飢えなくなった
潰された畝と、火のつかないライター
重機のキャタピラが、鬼神龍魔呂の二年を踏み潰していた。
国立農林大学、第三試験圃場。朝の七時。
まだ土が夜の湿り気を残している、一日で一番いい時間だ。
その一角――ロープで区切られた十メートル四方の畝が、黒い鉄の履帯にえぐられ、原形をなくしていた。
青々と葉を広げていたはずの大豆が、根ごとめくり返され、泥に混ざって潰れている。
鬼神龍魔呂、二十歳。農学部二年。
身長百九十センチ。泥のこびりついた作業ツナギの上に、黒いスタジャン。
彼は、しばらく黙ってそれを見ていた。
「……ああ、鬼神君。ちょうどよかった」
背後から、やけに軽い声がかかった。
白衣の下にポロシャツを着た中年の男――蓮沼教授が、書類を小脇に抱えて立っている。
「説明しようと思っていたんだ。今日から、この区画は使えない」
「……使えない」
「企業との共同研究が決まってね。来週から試験栽培を始める。向こうの品種で」
龍魔呂は振り返らなかった。
潰れた葉の一枚を、指先で拾い上げる。
「この畝、二年かけて選抜してたんすけど」
「知っているよ。だが、在来種の系統維持は――正直に言うとね、金にならないんだ」
教授は困ったように笑った。悪意はなかった。それが一番たちが悪かった。
「代替の圃場は用意する。君の単位にも卒業にも影響はない。悪い話じゃないだろう」
龍魔呂は、ゆっくりと立ち上がった。
百九十センチの影が、朝日を背にして教授にかかる。
そして、質問をひとつだけした。
「種は」
「……え?」
「あの区画の、収穫済みの種。倉庫にあったやつ」
教授は、ああ、と思い出したように言った。
「処分したよ。棚を空ける必要があったのでね」
沈黙が落ちた。
龍魔呂の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「あんた、俺に言ったよな」
「なんだね」
「一年の実習で。種ってのは、誰かが繋いだ二千年だって」
「――それは、まあ、教科書的な話で」
次の瞬間、乾いた音が圃場に響いた。
龍沼教授の身体が、畝の上に尻から落ちる。
書類が宙に舞い、朝日を受けてバラバラと散った。
一発だけだった。
「……すんません。力加減、間違えました」
龍魔呂は、そう言って背を向けた。
◆
「――君ね、分かっているのかね」
学部長室のパイプ椅子が、ぎしりと悲鳴を上げていた。座っている男が、大きすぎるのだ。
「教授への暴行だぞ。これは傷害だ。相手が告訴を取り下げてくれたから、この程度で済んでいるんだ」
机の上には、既に書かれた処分通知が置かれている。
無期停学。
「それに……君の夜の素行についても、報告が上がっている」
学部長がハンカチで額を拭いながら、言葉を選ぶように続けた。
「都内の、その、そういう集団の……頭をやっていると。事実かね」
「…………」
「君のような学生に、うちの土は預けられんのだよ」
龍魔呂は、その言葉に初めて反応した。
顔を上げ、静かに笑う。
「そうっすか」
立ち上がる。長い脚がパイプ机の脚に軽く触れただけで、ガンッ、と机が床を滑り、湯呑みが跳ねた。
「ひいいっ!?」
「……すんません。力加減、間違えました」
今日、二度目の台詞だった。
◆
研究室の私物は、置いていった。
参考書も、白衣も、マグカップも。
持って出たのは、ジッパー付きの小さな袋がひとつだけ。
中には、去年の秋に自分で採って、自分で乾かして、自分で保管しておいた在来種の種。
教授が処分し損ねた、最後の一袋だった。
薄暗い廊下を歩いていると、階段の陰から誰かが飛び出してきた。
「り、龍魔呂さん!」
同じ研究室の後輩だった。目に涙をいっぱいに溜めている。
「私、学部長に掛け合います! だって、あんなの絶対おかしいですもん! 龍魔呂さんの畝を勝手に潰したのは向こうなのに――」
「ばーか」
龍魔呂は、その頭にポンと大きな掌を乗せた。
「気にすんな」
「でもっ……!」
「お前はちゃんと、育ててるトマトに水やってろ」
それだけ言い残し、彼は振り返らずに歩き出した。
◆
校門へ向かう途中、龍魔呂はわざわざ遠回りをした。
第二圃場の隅。後輩が管理している、小さなトマトの区画。
葉が少し萎れている。今朝、それどころではなかったのだろう。
彼は無言でジョウロを取り、水道でいっぱいに満たすと、一株ずつ丁寧に根元へ流し込んでいった。
水を吸った土の匂いが、朝の空気に立ち上る。
「……これでいい」
空のジョウロを元の場所に戻し、龍魔呂は今度こそ校門を出た。
◆
路肩に停めた、黒いバイク。
パンアメリカ1250。買った時は不動車で、半年かけて自分で直した鉄馬だ。
跨がる前に、ふと左手首を見る。
ブロンズの、傷だらけの腕時計。育った施設の園長が、死ぬ前に押し付けてきたものだった。
『あんたは、腹減らしてる奴を放っておけない子だから。だから、時間くらいは自分で持ってなさい』
あの婆さんも、もういない。
「……ふー」
ポケットからマルボロの赤を一本抜き、口に咥える。
使い込んだ真鍮製のオイルライター。親指をフタにかける。
――カチッ!
澄んだ金属音が、朝の路地に響いた。
だが。
「……あ?」
火が、つかなかった。
代わりに、火口から青白い光が咲いた。
文字とも紋様ともつかないものが、くるくると回りながら空中に広がっていく。
アスファルトが消えた。
バイクが消えた。
朝の光ごと、世界が下からめくれ上がった。
◆
足の裏が、やたらと柔らかいものを踏んでいた。
畳だった。
みかんの乗ったコタツ。脱ぎ捨てられた健康サンダル。壁際には空き缶が転がっている。
そして目の前には、ピンク色の芋ジャージを着て、片手に缶ビールを持ったオバサンが、目を丸くしてこちらを見上げていた。
咥え煙草のまま、龍魔呂は言った。
「……あ? ここは何処だ」
「え? あ? な、何あんた!?」
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




