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第98話 S確認前のSは、署名ではなく印だった

 リーヴェ商会から、商会員一覧が届いた。


 翌日正午。


 約束の刻限ぎりぎりだった。


 封筒を受け取ったオスカーは、開封前から少し眉を寄せていた。


「軽いですね」


「紙が?」


「はい。商会員一覧と言うには、薄いです」


 クラリスも同じことを思った。


 リーヴェ商会は、王都でもそれなりの規模を持つ商会である。港湾、仕立て場、中継倉庫、商会事務所。そこに関わる者をすべて出せば、もっと厚くなるはずだった。


 だが、封筒の中身は数枚しかない。


 開くと、予想通りだった。


 正式雇用者一覧。

 役職者一覧。

 商会主サムエル・リーヴェ。

 倉庫長ロイド・カーマン。

 代理人マルティン・ケイル。

 会計係、帳場係、倉庫係、搬出係。


 名前は並んでいる。


 しかし、臨時雇い、港湾仲介、夜間人足、外部手配人は含まれていない。


「狭く出してきましたね」


 オスカーが言った。


「はい」


 クラリスは頷いた。


「こちらは“Sに該当する商会員一覧”を求めました。向こうは“正式商会員のうちSに該当する者”を出してきた」


「外部協力者や臨時関係者を外しています」


「ええ」


 ミレーヌが、横から一覧を覗き込んだ。


「Sで始まる人は……」


 指で追う。


 サムエル・リーヴェ。


 セドリック・ノール、会計補佐。


 サビナ・ロウ、帳場係。


 シモン・グレン、搬出係。


 四人。


「サムエル様だけではないですね」


「そうです」


 クラリスは答えた。


「だから、“S確認前”のSをサムエル様と断定してはいけません」


「でも、外部の人を入れたら、もっと増えるかもしれません」


「その通りです」


 ミレーヌは、少し困った顔をした。


「増えると、分かりにくくなります」


「ええ。でも、狭くしすぎると見落とします」


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「小さな網では、小さな魚しか捕れませんから」


「今日は漁の例えなのね」


「港の案件ですので」


 クラリスは少しだけ笑った。


 だが、すぐに表情を戻す。


 問題は、Sが誰かだけではなかった。


 伝言棚から見つかった紙片には、こうあった。


 G席より黒控え。S確認前。C-3と南。


 S確認前。


 もしSがサムエルなら、商会主確認前に黒い帳面がどこかへ動いたという意味になる。


 もし別人なら、そのSが確認役だった可能性がある。


 あるいは、Sは人名ではなく、何かの印や棚番号、処理区分かもしれない。


「人名とは限らないですね」


 クラリスが言うと、ミレーヌが顔を上げた。


「Sは、人ではないかもしれない?」


「はい。今まで、名前が役割に変わった例を見てきました。逆もあり得ます。記号が人名のように見えているだけかもしれません」


 オスカーが頷く。


「S確認、という処理印かもしれません」


「商会内の確認印を調べましょう」


 その言葉に、イリスが小さく札を置いた。


 文字は、名前とは限らない


 ミレーヌがそれを見て、すぐ自分の紙に写した。


 最近、イリスの札を警戒しつつも、役に立つときは写すようになっている。


 昼過ぎ、王弟府調査官カレルがリーヴェ商会の追加資料を持ってきた。


 それは、商会員一覧よりも少し厚かった。


「伝言棚の運用控えです」


「出してきましたか」


「王弟府から、保全手続きへ移る可能性を伝えたところ、任意提出されました」


 クラリスは資料を受け取った。


 伝言棚は、リーヴェ商会の倉庫棟と帳場の間にある小さな棚だった。


 用途は三つ。


 一、港湾からの急ぎ連絡。

 二、倉庫から帳場への搬出控え。

 三、商会主または倉庫長の確認待ち紙片。


 棚は三段。


 上段、商会主確認。

 中段、倉庫長確認。

 下段、帳場回収。


 問題の紙片が見つかったのは、上段の奥。


 商会主確認の棚だった。


 ミレーヌが息を吸った。


「では、Sはサムエル様……?」


「まだです」


 クラリスは止めた。


「上段が商会主確認棚だからといって、Sがサムエル様とは限りません。上段に置かれた理由と、Sの意味を分けます」


 カレルが頷く。


「運用控えに、確認印の説明がありました」


 彼は一枚の紙を出した。


 そこには、商会内で使う略印が並んでいた。


 L――倉庫長確認。

 A――帳場確認。

 M――代理人確認。

 S――商会主確認済または商会主確認待ち。


 クラリスは、眉を寄せた。


「同じSで、確認済と確認待ちの両方?」


「はい」


 カレルの声は淡々としている。


「印の位置で区別していたようです。紙の右上にSなら確認待ち。右下にSなら確認済」


「問題の紙片は?」


「文字として“S確認前”と書かれています。印ではありません」


「では、運用上のSを文章にした可能性がありますね」


「あります」


 オスカーが記録する。


 リーヴェ商会内略印S:商会主確認済または確認待ちを示す。位置で区別する運用。ただし問題紙片は印ではなく文言“S確認前”。


 クラリスは、紙片の写しを改めて見た。


 S確認前。


 もし運用に従うなら、商会主確認前。


 つまり、黒い帳面は商会主の確認を受ける前に、何らかの処理がされた。


 あるいは、商会主確認を避けるために動かされた。


 ただし、サムエル本人が関与したとはまだ言えない。


「サムエル様は、伝言棚を知らないと言いました」


 ミレーヌが言った。


「でも、商会主確認棚がある」


「はい」


「それを知らないことは、あり得るのでしょうか」


 クラリスはすぐには答えなかった。


 あり得る。


 大きな商会なら、棚の運用細部まで商会主が知らないことはある。


 だが、商会主確認棚という名がついているなら、まったく知らないというのは不自然だ。


「あり得ますが、不自然です」


 クラリスは言った。


「ですので、“知らない”を分類します」


 ミレーヌは、自分の札を見る。


 知らない、で終わらせない。


 彼女は頷いた。


「未把握、失念、秘匿、確認義務不履行」


「その分類で見ます」


 カレルが言った。


「サムエル・リーヴェへの再確認が必要です」


「はい」


 その日の午後、サムエルは再び王宮へ呼ばれた。


 前回より、顔色は少し悪かった。


 それでも商会主としての姿勢は崩さない。


「また確認ですか」


「はい」


 クラリスは静かに答えた。


「伝言棚の運用について」


「私は詳細を知らないと申し上げました」


「では、確認します。リーヴェ商会には、商会主確認棚という運用がありますね」


 サムエルはわずかに目を動かした。


「あるようです」


「あるようです、ではなく、提出資料にあります」


「倉庫内の便宜的な運用です」


「商会主確認棚という名ですが、商会主であるあなたは関与していないのですか」


 サムエルは、少しだけ苛立ったように息を吐いた。


「毎日、棚を見ているわけではありません」


「誰が見ますか」


「代理人や倉庫長が、必要なものだけ上げてきます」


「つまり、商会主確認棚に置かれたものを、あなたが直接見るとは限らない」


「はい」


「では、商会主確認棚という名称は正確ではありませんね」


 サムエルは黙った。


 クラリスは続ける。


「実際には、商会主へ上げるかどうかを代理人や倉庫長が選別する棚、ですか」


「……そういう面はあります」


 オスカーが記録する。


 商会主確認棚:名称上は商会主確認だが、実際には代理人・倉庫長による選別棚として機能していた可能性。


 クラリスは次に、略印表を出した。


「Sについて確認します」


「S?」


「商会内略印です。Sは商会主確認済または確認待ちを示す、と提出資料にあります」


 サムエルは資料を見た。


「そう記されていますね」


「あなたは、この運用を知っていましたか」


「細部までは」


「知っていたか、知らなかったかでお答えください」


「……存在は知っていました」


 ようやく、言葉が変わった。


 知らない。


 から、


 存在は知っていた。


 クラリスは、静かに頷いた。


「では、前回“伝言棚を知らない”とおっしゃったのは、棚の存在を知らないという意味ではなく、問題の紙片を知らないという意味ですか」


 サムエルは、少し口元を引き締めた。


「そうです」


「そのように訂正しますか」


「はい」


 オスカーが書く。


 商会主証言訂正:伝言棚の存在は認識。問題紙片および黒帳面の具体的内容は知らない、という趣旨。


 ミレーヌは、それを見て小さく息を吐いた。


 知らないが、分かれた。


 棚を知らないのではない。

 紙片を知らない。

 黒帳面の中身を知らない。


 それぞれ意味が違う。


 クラリスは、問題の紙片を出した。


 G席より黒控え。S確認前。C-3と南。


「このSは、商会内略印のSと見てよろしいですか」


「分かりません」


「分からない理由は?」


「これは正式な印ではなく、誰かの走り書きです」


「ただし、商会内でSが商会主確認を意味する運用があった」


「はい」


「では、S確認前とは、商会主確認前という意味で書かれた可能性がありますね」


「可能性はあります」


「その場合、黒控えは商会主確認前にどこかへ移された」


「そうとは限りません」


「なぜです」


「“S”が別の人物を指す可能性もある」


「その別の人物の候補一覧を提出してください」


「提出しました」


「正式商会員だけでした。臨時、外部、港湾関係者が含まれていません」


 サムエルは、また黙った。


「追加提出を求めます」


 クラリスは言った。


「Sに該当する可能性のある、商会内外の関係者。正式雇用者、臨時雇い、外部手配人、港湾仲介、過去三か月の関与者を含めて」


「それは広すぎます」


「Sがサムエル様でないとおっしゃるなら、広く確認する必要があります」


 サムエルは、反論しようとして止まった。


 狭く出せば、サムエル本人に近づく。


 広く出せば、関係者が増える。


 どちらにしても、商会は動かなければならない。


 カレルが静かに言った。


「任意提出をお願いします。拒否の場合、王弟府で別手続きを検討します」


 サムエルは、しばらく机の木目を見ていた。


 そして、短く言った。


「提出します」


 聴取が終わった後、ミレーヌは小さく言った。


「知らない、が変わりました」


「はい」


「棚を知らない、から、紙を知らない、になりました」


「大事な変化です」


「言葉を分けると、隠れていたものが少し出てきますね」


「ええ」


 クラリスは頷いた。


 それこそ、顧問室の仕事だった。


 怒鳴るのではない。


 決めつけるのでもない。


 ただ、言葉を分ける。


 すると、相手が逃げるために使った言葉の中から、事実が少しずつ顔を出す。


 夜、報告書がまとめられた。


 表題。


 リーヴェ商会伝言棚運用およびS確認前文言に関する報告


 主な内容。


 一、商会内には伝言棚三段運用あり。上段は商会主確認棚。

 二、ただし実態としては、代理人・倉庫長による商会主への上申選別棚として機能していた可能性。

 三、商会内略印Sは、商会主確認済または確認待ちを示す。位置で区別。

 四、問題紙片の“S確認前”は正式印ではなく文言。商会主確認前を意味する可能性あり。

 五、サムエル商会主は、前回の“伝言棚を知らない”発言を訂正。棚の存在は知っていたが、問題紙片と黒帳面の具体内容は知らない趣旨と説明。

 六、Sがサムエル本人以外を指す可能性があるとして、商会内外関係者の追加一覧提出を求めた。

 七、“知らない”の範囲が変化したため、証言変化として記録。


 クラリスは、最後に一文を書いた。


 S確認前のSは、署名ではなく、商会主確認という運用の印だった可能性がある。


 ミレーヌは、それを見て自分の札に書いた。


 文字は名前にも、印にも、逃げ道にもなる。


 イリスが横から見て、少しだけ目を細めた。


「よい札です」


「写しますか?」


「これは、写したいですね」


「イリスさん」


「冗談でございます」


 たぶん、半分は本気だった。


 クラリスは国際案件の箱へ報告書を入れた。


 Sが誰なのか、まだ確定していない。


 だが、Sはただの頭文字ではなかった。


 商会主確認という運用の印でもあった。


 そして、サムエル・リーヴェの「知らない」は、ひとつ形を変えた。


 棚を知らないのではない。


 問題の紙を知らない。


 黒帳面を知らない。


 そういう意味だった、と。


 知らないという言葉も、確認されると形を変える。


 ならば、次はその形の変化を追えばいい。

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