第97話 商会主は、伝言棚を知らないと言った
リーヴェ商会主サムエル・リーヴェは、王宮へ呼び出されても、表情を崩さなかった。
細身の体に、皺ひとつない上着。
指先は白く、爪は整えられている。
港の荷を動かす商会主でありながら、自分自身は潮風にも埃にも触れないような男だった。
もちろん、それは罪ではない。
商会主は荷を担ぐ者ではない。
人を雇い、金を回し、契約を結び、危険を避け、利益を出す者だ。
けれど、クラリスは彼の手を見ていた。
最近、手を見る癖がついた。
倉庫番ダンの手。
針子ニナの手。
ミレーヌが震えながら記録した手。
ハンス・ベルトの妻エレナが紙片を差し出した手。
そして、サムエル・リーヴェの手。
その手は、きれいだった。
きれいすぎるほどに。
「クラリス顧問。弊商会への確認が続いておりますが、そろそろ商会運営にも支障が出始めております」
サムエルは、椅子に座るなりそう言った。
場所は王宮中央棟の小会議室。
出席者は、クラリス、オスカー、エリオット、王弟府調査官カレル。
レオンハルトは同席していない。
だが、王弟府の印が入った記録箱が机の端に置かれている。
それだけで十分だった。
「支障については記録します」
クラリスは答えた。
「ただし、現物不一致と黒い帳面の件については確認を続けます」
「黒い帳面」
サムエルは、少しだけ眉を動かした。
「私はその帳面を見ておりません」
「マルティン・ケイル様は、サムエル様へ渡すように言われたと証言しています」
「彼の誤解でしょう」
早かった。
あまりに早い否定だった。
カレルが静かに尋ねる。
「では、あなたはマルティンに黒い帳面の受け取りを指示していない」
「しておりません」
「ギデオン名義の伝言を使ったことは?」
「ありません」
「濡れ帆亭の貸し席については?」
「港の者が使っていたことは知っていますが、私が指示したことはありません」
「馬車引き用外套を借りるよう指示したことは?」
「当然ありません」
サムエルは淡々と答えた。
答え方は整っている。
だが、整いすぎていた。
クラリスは、一つ紙を出した。
マルティンの追加聴取記録。
そこには、黒い帳面を「サムエル様へ渡すように」と聞いたことが記されている。
「マルティン様は、誰からその指示を受けたと言っていますか」
「ギデオン名義の伝言、と聞いております」
「サムエル様から直接ではない」
「その通りです」
「では、リーヴェ商会では、商会主への伝言がギデオン名義で届くことがあるのですか」
サムエルは、一瞬だけ黙った。
短い沈黙。
けれど、クラリスは見逃さなかった。
「……港湾手配に関する連絡が、ギデオンを通じて来ることはありました」
「それは商会として認めていた連絡経路ですか」
「港湾の慣行です」
また出た。
慣行。
便利な言葉だった。
カレルが静かに記録する。
クラリスは続けた。
「正式な連絡経路ではなく、慣行として使っていた」
「そういう言い方もできます」
「では、ギデオン名義の伝言でマルティン様が動いたことは、完全に不自然とは言えませんね」
サムエルは口を閉じた。
自分で否定した道が、少し戻ってくる。
クラリスは声を荒げない。
ただ、言葉の場所を確認する。
「サムエル様。あなたは、黒い帳面の受け取りを直接指示していない」
「はい」
「ギデオン名義の伝言を、商会内で使う慣行はあった」
「港湾手配上は」
「マルティン様がその慣行に従って動いた可能性はある」
「……可能性としては」
サムエルの声が少し硬くなった。
「ただし、私は黒い帳面について知りません」
「その点は、あなたの証言として記録します」
クラリスは答えた。
「しかし、商会の連絡経路としてギデオン名義が使われていたことも記録します」
オスカーが清書する。
商会主証言:黒帳面受取指示は否定。ただし港湾手配上、ギデオン名義の伝言が商会内で使われる慣行は認める。
サムエルは、その一文を見て眉を寄せた。
「少し強い表現ではありませんか」
「どの部分が?」
「慣行は認める、というところです」
「では、どう表現しますか」
「……過去に例があった、程度で」
クラリスは少し考えた。
「過去に例があり、商会内で異例扱いされていなかった」
サムエルは黙った。
逃げ道を完全に塞がず、しかし意味を薄めない表現だった。
「それでよろしいですか」
「……はい」
カレルが次の紙を出した。
「リーヴェ商会内に、伝言棚というものがありますね」
サムエルの表情が、初めてはっきり動いた。
「伝言棚?」
「港湾からの急ぎ連絡、倉庫からの受け渡し札、商会内の搬出控えを一時的に置く棚です」
「商会内の小さな運用です。私が詳細まで知るものではありません」
クラリスは、心の中で小さく息を吸った。
出た。
知らない。
商会主が、商会内の運用を知らないと言った。
もちろん、本当に知らないこともある。
商会主が全ての棚を把握しているわけではない。
だが、今回の黒帳面が商会主宛てだった可能性がある以上、「知らない」で終わらせることはできない。
「伝言棚の管理者は?」
「倉庫長です」
「ハンス・ベルト様ですか」
「いえ。ハンスは倉庫係です。倉庫長ではありません」
「倉庫長名は?」
「ロイド・カーマン」
「現在どこに?」
「商会におります」
カレルがすぐに記録した。
新しい名前。
ロイド・カーマン。
また一つ、足跡が増える。
「伝言棚の記録はありますか」
クラリスが尋ねると、サムエルは少し不快そうにした。
「一時置きの棚です。正式な帳簿ではありません」
「控えは?」
「あるかもしれませんが、全て残しているわけではありません」
「今回の黒い帳面が置かれた可能性は?」
「知りません」
カレルが、机に一枚の写しを置いた。
リーヴェ商会倉庫で昨日追加確認した時、奥の連絡棚に挟まっていたという小さな紙片だった。
そこには、乱れた字でこう書かれていた。
G席より黒控え。S確認前。C-3と南。
サムエルの顔から、少し血の気が引いた。
「これは……」
「伝言棚の奥に挟まっていました」
カレルが言った。
「正式記録ではありません。ですが、黒い帳面に関わる伝言控えの可能性があります」
クラリスは紙片を見た。
G席。
ギデオン名義の貸し席。
黒控え。
黒い帳面。
S確認前。
S。
サムエルか。
それとも別のSか。
C-3と南。
臨時棚C-3。
南施療院。
短い紙片に、これまで追ってきた言葉が詰まっていた。
「Sとは誰ですか」
カレルが尋ねる。
サムエルは答えなかった。
「あなたではありませんか」
「私とは限りません」
「では、違うと断言しますか」
前にも聞いた問いだった。
マルティンにも。
サムエルは、ゆっくりと言った。
「断言はできません。商会内にSで始まる名は他にもあります」
「一覧を提出してください」
「……分かりました」
クラリスは、紙片の文字に目を落とした。
「S確認前、ということは、誰かがSに見せる前に何かをした、という意味でしょうか」
「分かりません」
サムエルは言った。
「私は、この紙を知りません」
「では、知らないと記録します」
クラリスは答えた。
「ただし、伝言棚から黒い帳面に関係する可能性のある紙片が発見されたこと、S確認前という文言があること、C-3と南が併記されていることも記録します」
サムエルは、何か言いたそうに唇を動かした。
だが、言わなかった。
言えば言うほど、記録されると分かっているのだろう。
聴取は一度中断された。
サムエルは、商会へ戻って伝言棚の管理記録、倉庫長ロイド・カーマンの説明、Sに該当する商会員一覧を提出することになった。
期限は翌日正午。
これ以上遅らせれば、王弟府が保全手続きに移る可能性があるとカレルが明言した。
サムエルは、初めてはっきり不快そうな顔をした。
だが、拒否はしなかった。
彼が退室した後、ミレーヌはしばらく紙片を見つめていた。
「G席より黒控え。S確認前。C-3と南」
彼女は小さく読み上げた。
「短いのに、怖いですね」
「ええ」
「C-3と南が同じ紙にあります」
「はい」
「今までは、別々の事件かもしれないと思っていました。でも、この紙だと……」
「つながる可能性が高まります」
クラリスは答えた。
「ただし、まだ“可能性”です」
「はい」
ミレーヌは頷き、自分の図に線を引いた。
C-3。
南施療院。
黒控え。
G席。
S確認前。
伝言棚。
そして、書き足す。
伝言は、棚に置かれると誰の声か分からなくなる。
クラリスは、それを見て静かに頷いた。
「それも記録しましょう」
オスカーが新しい見出しを書く。
伝言棚による指示者不明化
定義。
商会内の一時伝言棚に口頭・非公式連絡の紙片や控えが置かれることで、誰が発した指示か、誰が受け取ったか、いつ確認されたかが曖昧になる状態。
エリオットがぽつりと言った。
「財務院にもあります」
全員が彼を見る。
「決裁前の付箋置き場、照会中の棚、部局内回覧箱。そこに置かれた紙が、いつの間にか誰かの判断のように扱われることがあります」
クラリスは、すぐに理解した。
リーヴェ商会だけの問題ではない。
王宮にもある。
誰が言ったか分からない伝言が、棚に置かれ、次の人がそれを前提に動く。
そして、最後には「そういう指示だった」とだけ残る。
「では、商会の問題としてだけ扱わない方がよいですね」
「はい」
エリオットは頷いた。
「制度上の問題として整理できます」
クラリスは報告書に加えた。
伝言棚問題は商会固有ではなく、王宮内の未確認回覧・一時置き運用にも類似例あり。今後、重要物資・重要決裁では指示者名、受領者名、確認日時を必須とする検討が必要。
夕方、顧問室へ戻ると、イリスがいつものように茶を置いた。
「商会主は、知らないとおっしゃいましたか」
「はい」
「知らないことにも、種類がございますね」
「種類?」
「本当に知らない。知っていたが忘れた。知っているが言えない。知る立場にあったのに見なかったことにした」
クラリスは、茶に手を伸ばしかけて止まった。
「……イリス」
「はい」
「それ、報告書に入れます」
「恐れ入ります」
オスカーがすでに書いていた。
知らないの分類:未把握、失念、秘匿、確認義務不履行。
ミレーヌが目を丸くする。
「知らない、も分けるのですね」
「分けます」
クラリスは答えた。
「今回、サムエル様が本当に知らないのか、知っていて言わないのか、知るべき立場で見ていなかったのか。そこを分けなければいけません」
ミレーヌは自分の札に書いた。
知らない、で終わらせない。
短い。
けれど、とても顧問室らしい札だった。
その夜、国際案件の箱へ新しい報告書が入った。
リーヴェ商会主聴取および伝言棚紙片確認報告。
サムエルは、黒い帳面を知らないと言った。
だが、商会内にはギデオン名義の伝言が動く慣行があった。
伝言棚からは、黒控え、C-3、南をつなぐ紙片が出た。
そして、S確認前という文字が残っていた。
Sが誰かは、まだ分からない。
サムエルなのか。
別人なのか。
あるいは、誰かがわざと曖昧にしたのか。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
「知らない」という言葉もまた、便利すぎる。
だから、次はそれを分ける。
知らなかったのか。
忘れたのか。
隠しているのか。
知るべき立場で見なかったのか。
商会主は、伝言棚を知らないと言った。
けれど、その棚は、彼の商会の中にあった。




