第96話 馬車引き風の男は、馬車を引いていなかった
馬車引き風の男。
その言葉は、最初から曖昧だった。
馬車引き、ではない。
馬車引き風。
酒場《濡れ帆亭》の給仕娘リタは、そう言った。
朝の掃除前、奥の貸し席にいた男。
港の馬車引きのような上着を着ていた。
顔はよく覚えていない。
黒い包みが消えた後、その男もいなくなっていた。
王宮筆頭実務顧問室の机に、その証言が置かれている。
クラリスは、何度もその一語へ目を戻した。
馬車引き風。
「風、なのですよね」
ミレーヌが言った。
「ええ」
「リタさんは、馬車引き本人だとは言っていません」
「そうです」
「では、馬車引きではない人が、馬車引きのように見えた可能性もあります」
クラリスは頷いた。
「その確認が今日の中心になります」
王弟府から届いた予定では、まず港湾区の馬車組合へ確認を取ることになっていた。
《濡れ帆亭》の近くには、荷馬車の待機場がある。
港から商会倉庫へ荷を運ぶ馬車。
倉庫から仕立て場へ布を運ぶ馬車。
夜間急送を請け負う小型馬車。
馬車引きが酒場に出入りすること自体は珍しくない。
だからこそ、見た目だけで職業を決めつけるのは危険だった。
イリスが茶を置きながら、静かに言った。
「制服と身分は、同じではございませんね」
「ええ」
「前掛けをつければ侍女に見える者もおりますが、銀器の磨き方で分かります」
「イリスらしい例えね」
「港なら、馬車引きの上着だけでは足りないのではないかと」
クラリスは、すぐに記録した。
服装だけでは職業確認不可。道具・手・言葉・記録で確認する。
ミレーヌも自分の紙に同じように書いた。
風、と本人は違う。
その日の午後、王弟府調査官カレルが馬車組合から戻ってきた。
同行していたのは、財務院のエリオットと、港湾会計担当官ボルクだった。
ボルクは港の現場に顔が利く。
馬車組合でも、王宮の調査官だけでは聞けない話を引き出せたらしい。
「結論から言います」
カレルはいつものように無駄なく切り出した。
「リタが見た時間帯に、《濡れ帆亭》へ立ち寄った正規登録の馬車引きは確認できませんでした」
ミレーヌが顔を上げる。
「では、馬車引きではなかった?」
「少なくとも、登録馬車引きとしては確認できません」
クラリスは頷いた。
「登録外の荷運び人は?」
ボルクが答えた。
「います。港にはいくらでも。だが、《濡れ帆亭》周辺でその時間帯に馬車を停めた記録はない」
「馬車そのものも確認できない」
「はい」
つまり、馬車引き風の男は、馬車を引いていなかった。
その可能性が高くなった。
カレルは次の紙を置いた。
「ただし、馬車組合の貸し道具記録に妙なものがありました」
「貸し道具?」
「雨具、荷覆い布、替え手袋、作業上着などを、一時的に貸すことがあります。港では急な雨や汚れが多いので」
ボルクが補足する。
「荷役人や臨時雇いが借りることもあります。正式な馬車引きでなくても、保証金を置けば貸す」
クラリスは、嫌な予感を覚えた。
「その記録に?」
カレルが紙を指した。
日付は、黒帳面が消えた朝。
貸出品。
馬車引き用外套 一着。革手袋 一組。古帽子 一つ。
借受者名。
M
返却。
未返却。
ミレーヌが小さく息を飲んだ。
「M……」
マルティンかもしれない。
だが、Mだけでは弱い。
弱いが、無視はできない。
「借りた人の特徴は?」
クラリスが尋ねた。
カレルは淡々と答えた。
「組合番の少年が覚えていました。若い男。商会の使いのような話し方。手に小さな包みを持っていた。名を聞くと、“マルで通じる”と言った」
部屋の空気がまた冷えた。
マル。
リタが言ったマルさん。
M.K.。
マルティン・ケイル。
もちろん、まだ断定できない。
だが、呼び名が重なっていく。
「その包みは黒帳面でしょうか」
ミレーヌが尋ねた。
「可能性はあります」
カレルは答えた。
「ただし、少年は包みの中身を見ていません。濃い布で包まれていたと証言しています」
「濃紺の布包み」
オスカーが記録する。
前回のリタ証言と一致する。
だが、ここでも中身は確認されていない。
クラリスは、その点を強く意識した。
「黒帳面と断定しないでください」
「承知しています」
オスカーはすでに書き分けていた。
濃色布包み。黒帳面の可能性。中身未確認。
「貸し道具を借りた後、その男は?」
クラリスが尋ねる。
ボルクが答えた。
「《濡れ帆亭》の裏手へ向かったらしい。馬車組合の少年が、古帽子をかぶり直しながら路地へ入るのを見ています」
「つまり、馬車引き風の格好を整えてから酒場へ」
「そう見えます」
ミレーヌが、ゆっくりと言った。
「リタさんが見た“馬車引き風の男”は、馬車引きの上着を借りた人だったかもしれない」
「はい」
クラリスは頷いた。
「服装で、名前を変えたのですね」
ミレーヌは自分の紙に書いた。
服で職業の名前を借りる。
クラリスは、その一文を見て目を細めた。
名義仲介に似ている。
ギデオンの名前を借りて、港湾手配を動かす。
馬車引きの外套を借りて、酒場で顔を曖昧にする。
名前も、服も、役割も、借りられる。
そして、借りられたものが足跡を薄くする。
「これにも名前をつけます」
クラリスは言った。
「外見名義」
オスカーが筆を構える。
「定義は?」
「服装や道具により特定の職業・立場に見せかけ、証言上の識別をずらす状態。実際の所属や役割を確認するには、登録記録、貸出記録、道具、行動を照合する必要がある」
オスカーが記録した。
ボルクは低く唸った。
「港じゃ珍しくない。上着を借りること自体は普通です」
「はい」
クラリスはすぐに答えた。
「借りることが悪いとは書きません。問題は、その服装が証言をずらすことです」
カレルが頷く。
「王弟府でも同じ扱いにします」
エリオットは、貸し道具記録を見ながら顔を曇らせていた。
「返却されていないのですね」
「はい」
カレルが答える。
「外套、革手袋、古帽子。すべて未返却です」
「未返却なら、まだどこかにある可能性が」
「あります」
「その服から、人物を追えるでしょうか」
カレルは少しだけ目を伏せた。
「港の古外套です。難しい。ただ、古帽子の内側に組合印があるそうです。見つかれば、貸出品と確認できます」
クラリスは頷いた。
「捜索対象ですね」
「はい」
しかし、問題はそれだけではなかった。
馬車組合の少年は、もう一つ証言していた。
借りた男は、外套を借りる時、こう言ったという。
急送の受け取りだ。王宮回しの黒い控えを取りに行くだけだ。
王宮回し。
黒い控え。
また、便利な言葉と、黒帳面に近い言葉が出た。
ミレーヌは、少し眉を寄せた。
「黒帳面ではなく、黒い控え」
「はい」
クラリスは言った。
「呼び名が変わっています」
「黒帳面、黒い控え、古い席代の控え」
「どれも同じものを指している可能性があります」
「でも、断定は」
「できません」
ミレーヌは頷き、図に新しい言葉を書き足した。
黒帳面。
黒い控え。
古い席代の控え。
濃色布包み。
その横に、彼女は書いた。
同じ物か、違う物か、まだ分ける。
クラリスは、その言葉を見て少し安心した。
ミレーヌは焦っていない。
似た言葉をすぐ一つにまとめず、まだ分けようとしている。
これは大事な成長だった。
夕方前、マルティン・ケイルへの追加確認が行われた。
彼は、馬車組合の貸し道具について尋ねられると、最初は知らないと言った。
しかし、M.K.、マルさん、M、マルで通じる、という複数の証言が並べられると、表情を崩した。
「私は……外套を借りただけです」
その場にいた者の手が止まった。
認めた。
完全ではないが、一部を認めた。
カレルが静かに尋ねる。
「なぜ借りたのですか」
「港で目立たないためです」
「目立ちたくなかった理由は?」
「商会の仕事で、非公式の確認があったから」
「何の確認ですか」
「古い帳面を受け取るだけです」
「誰から?」
「……ギデオンの席から」
「ギデオン本人からではない?」
「いませんでした」
「帳面はどこへ」
マルティンは黙った。
長い沈黙だった。
カレルは急かさない。
クラリスも口を挟まない。
やがて、マルティンはかすれた声で言った。
「私は、預かっただけです」
「誰へ渡した」
「商会へ」
「商会の誰に」
「……サムエル様へ渡すように、と」
「実際に渡したのですか」
「いえ」
「では、誰に?」
マルティンは目を伏せた。
「港の南門近くで、別の男に」
「名は」
「知りません」
「特徴は」
「馬車引きのような男です」
クラリスは思わず目を閉じた。
また戻った。
馬車引き風の男。
今度は、マルティンがそう言った。
「あなた自身も馬車引き風の格好をしていたのですね」
カレルが言う。
マルティンは答えなかった。
「その男に渡した理由は?」
「サムエル様の指示だと」
「誰から聞いた」
「……ギデオン名義の伝言です」
名義。
まただ。
本人ではない。
名義が動く。
マルティンは、泣きそうな顔ではなかった。
むしろ、逃げ道を失った顔だった。
「黒い帳面を見ましたか」
カレルが尋ねる。
「少しだけ」
「何が書かれていましたか」
「数字と、棚番号と、名前です」
「名前?」
「G、Hgn、リーヴェ、南……」
「南?」
「南施療院、かもしれません。全部は見ていません」
部屋の空気が重く沈んだ。
黒い帳面には、南施療院の名があった可能性がある。
C-3だけではない。
過去の未着事件と、今回の現物不一致。
その両方をつなぐ帳面だった可能性が、さらに強まった。
聴取後、カレルは短くまとめた。
「マルティンは外套を借りたこと、黒い帳面らしきものを受け取ったことを認めた。ただし、最終的な渡し先は不明」
「サムエル商会主の名が出ましたね」
クラリスが言うと、カレルは頷いた。
「本人に確認が必要です」
「ギデオン名義の伝言とは?」
「そこも確認します」
「馬車引き風の別の男」
「こちらも」
確認すべき点は増える。
だが、今回の進展は大きかった。
馬車引き風の男は、少なくとも一人ではない。
外套を借りたマルティン。
帳面を受け取ったという別の馬車引き風の男。
もしかすると、同じ外見名義が複数人に使われている。
クラリスは報告書にそう書いた。
馬車引き風という証言は、単一人物ではなく、外見名義を共有した複数人物を指す可能性がある。
夜、顧問室に戻ると、ミレーヌは疲れた顔で自分の図を見ていた。
「お姉様」
「何?」
「人も名前を借りて、服も借りて、役割も借りています」
「ええ」
「本当の人が、どんどん見えなくなります」
「だから、借りたものを一つずつ返してもらうのです」
ミレーヌは顔を上げた。
「返してもらう?」
「名前。外套。帳面。指示。誰から借りたのか。誰へ渡したのか。それを記録で戻していく」
ミレーヌは、少しだけ息を吐いた。
「難しいです」
「難しいですね」
「でも、少し分かりました」
彼女は札に書いた。
借りた名前は、誰から借りたか聞く。
イリスがそれを見て、珍しく何も言わなかった。
今日の言葉は、少し重すぎたのだろう。
クラリスは国際案件の箱へ、新しい報告書を入れた。
馬車組合貸し道具記録およびマルティン追加聴取報告。
内容は重い。
馬車引き風の男は、馬車を引いていなかった。
少なくとも一人は、馬車引きの外套を借りただけだった。
黒い帳面は、その外套を着た男の手を通り、さらに別の馬車引き風の男へ渡されたらしい。
人は見えない。
しかし、借りた外套は記録に残った。
名前は曖昧でも、貸出品は嘘をつかない。
次は、その外套を返さなかった者と、帳面を受け取った者を追う番だった。




