第95話 黒帳面預かりの字は、店主の字ではなかった
黒帳面そのものは、まだ見つからなかった。
けれど、黒帳面という言葉だけが、紙の上で何度もこちらを見ていた。
ハンス・ベルトが家を出る時に持っていた、小さな黒い作業帳面。
妻エレナが見たもの。
酒場《濡れ帆亭》の貸し席控えに残っていた、黒帳面預かりという備考。
そして、その黒帳面は今、どこにもない。
王宮筆頭実務顧問室の机に並べられた写しを見ながら、クラリスはしばらく黙っていた。
黒い帳面が本当にそこにあったのか。
あったなら、誰が持ち去ったのか。
ギデオン・マース本人なのか。
ギデオン名義を使っていた誰かなのか。
マルティン・ケイルなのか。
ハンス自身が取り戻したのか。
まだ、どれも断定できない。
「黒帳面預かり、の字ですね」
オスカーが言った。
「はい」
「店主の筆跡とは違う可能性がある、と王弟府から」
「ええ」
クラリスは、王弟府から届いた筆跡比較の初期報告を見た。
酒場の通常勘定控え。
貸し席控え。
店主の署名。
そして、問題の備考欄。
黒帳面預かり。
その五文字だけ、他の文字と微妙に癖が違う。
店主の字は、横線が短く、数字の七に小さな跳ねがある。
だが、黒帳面預かりの文字は縦に細く、帳の字の右側が少し潰れている。
文字そのものは乱れている。
けれど、乱れ方が違う。
「店主が書いていないなら、誰が書いたのでしょうか」
ミレーヌが呟いた。
彼女は最近、問いをそのまま紙に残す癖がついている。
今日も、手元には小さな図がある。
ハンス宅。
黒帳面。
濡れ帆亭。
G・M名義貸し席。
M.K.支払い。
黒帳面預かり。
所在不明。
その横に、新しく書かれていた。
誰の字?
単純だが、大事な問いだった。
「王弟府が店主へ再確認しています」
クラリスは答えた。
「今日は、その報告を待ちます」
「はい」
ミレーヌは頷いた。
少し前の彼女なら、待つことを嫌がったかもしれない。
分からないなら早く聞けばいい。
早く決めればいい。
そう思っただろう。
けれど今は、待つことも仕事の一部だと分かり始めている。
確認中を回答にしない。
だが、確認する時間は必要。
その違いを、彼女は学んでいた。
昼前、王弟府からカレル調査官が来た。
表情は相変わらず薄い。
だが、手にしている紙は数枚に増えていた。
「《濡れ帆亭》店主への再聴取結果です」
クラリスは席を勧める。
同席したのは、オスカー、ミレーヌ、そしてエリオット。
エリオットは財務院の仕事を抱えながらも、この件から離れようとしなかった。
ハーゲンの旧港湾雑費控えが出てから、彼の中で何かが変わったように見える。
責任感というより、逃げたくないという意思だった。
「店主は、“黒帳面預かり”の字について、自分の字ではないと認めました」
カレルは言った。
ミレーヌの筆が止まりかける。
すぐに動き直す。
「誰の字か分かりましたか」
クラリスが尋ねる。
「店の給仕娘、リタの字である可能性が高いです」
「リタ」
「年は十七。店主の姪です。帳場を手伝うことがあります」
「その方は?」
「昨夜から店にいません」
部屋の空気が変わった。
また、人がいない。
ハンス。
ハーゲン。
そして今度は、リタ。
「所在は?」
「母親の家へ帰ったと店主は説明しています」
「確認は?」
「王弟府の者が向かっています」
クラリスは、深く息を吸った。
怒らない。
焦らない。
だが、記録する。
「店主は、なぜ最初からリタの字だと言わなかったのでしょう」
ミレーヌが尋ねた。
カレルは資料を見た。
「店主の説明では、姪を巻き込みたくなかったと」
「それは……」
ミレーヌは言葉を止めた。
分かる気もする。
だが、隠されると困る。
その両方が顔に出ていた。
クラリスは静かに言った。
「それも記録しましょう。保護のための隠し事が、調査を遅らせることがあります」
オスカーが書く。
関係者保護を理由とする証言遅延。善意・恐怖・保身の可能性を分けて扱う。
エリオットが小さく頷いた。
「財務院でもあります。部下を守ると言いながら、記録を出さない」
「守ることと、隠すことは違います」
クラリスは言った。
その言葉を、ミレーヌは自分の紙に書いた。
守ることと、隠すことは違う。
カレルは続けた。
「リタ本人への聞き取りは、まだです。ただ、店主から追加で話が出ました」
「何でしょう」
「黒い帳面を預けた人物は、店主が直接見たわけではない。リタが受け取り、貸し席の小棚へ置いたそうです」
「預けた人物は?」
「若い男。店主の説明では、商会の使いに見えた。リタは“マルさん”と呼んでいた、と」
マルさん。
マルティン・ケイル。
断定はできない。
だが、また近づいた。
クラリスは、紙に書く。
“マルさん”証言。マルティン・ケイルの可能性。断定不可。リタ本人確認待ち。
「黒帳面の中身は?」
エリオットが聞いた。
「店主は見ていない。リタが見たかは不明です」
「帳面は包まれていましたか」
「布に包まれていたそうです」
「色は?」
「黒に近い濃紺の布」
ハンスの妻エレナが言った黒い帳面と一致する。
ただし、まだ帳面そのものではない。
包みの色の話だ。
「小棚から消えた時期は?」
クラリスが尋ねる。
「店主は翌朝にはなかったと言っています。ただ、リタが朝の掃除前に一度、席の小棚を見た可能性があると」
「リタさんが鍵を?」
「小棚は鍵付きではありません。貸し席の客が一時的に品物を置く場所だったようです」
ミレーヌが顔を曇らせた。
「そんな場所に、大事な帳面を?」
「大事だと知らなければ、ただの預かり物です」
カレルは淡々と答えた。
「港の酒場では、手袋、帳面、伝言袋、小銭袋などを一時的に預けることがあるそうです」
クラリスは頷いた。
王宮の感覚で見てはいけない。
港には港の預け方がある。
だからこそ、そこを利用される。
「リタさんが戻り次第、聞き取りですね」
「はい」
カレルは資料を閉じた。
「ただし、逃げたとは限りません。怖くなって母親の家へ戻った可能性があります」
「断定しません」
「お願いします」
王弟府の調査官が、そう言った。
その言葉に、クラリスは少しだけ頷いた。
王弟府も、今はとても慎重に動いている。
人が一人ずつ消えていくように見える状況で、疑いを強めるのは簡単だ。
だが、怖くて逃げる者と、隠すために逃げる者は違う。
そこを混ぜてはいけない。
午後、リタの所在確認が取れた。
彼女は本当に母親の家にいた。
逃亡というより、怯えて帰ったらしい。
王弟府の者が同行を求めると、最初は泣き出したという。
それでも、夕方前には王弟府の小聴取室へ来た。
クラリスは同席しなかった。
若い給仕娘に、クラリスの肩書きは重すぎる。
代わりに、カレルと女性調査官が聞き取りを行った。
その報告は、夜に届いた。
リタは、黒帳面預かりの字が自分のものだと認めた。
預けた人物は「マルさん」。
店ではそう呼んでいた。
正式な名前は知らないが、リーヴェ商会の人だと思っていた。
その男は、濃紺の布に包んだ小さな帳面を持ってきて、こう言った。
ギデオンさんが取りに来るまで置いておいて。誰かに聞かれたら、古い席代の控えって言って。
リタは中身を見ていない。
ただ、包みを受け取った時、紙の端が少し出ていた。
そこに、数字と「C-3」の文字が見えた。
そして、翌朝には包みはなくなっていた。
誰が持っていったかは見ていない。
ただ、朝の掃除前、奥の席に港の馬車引き風の男が座っていた気がする。
顔は覚えていない。
クラリスは報告書を読み、ゆっくり目を閉じた。
黒い帳面は、やはり濡れ帆亭に来ていた。
少なくとも、その可能性は濃くなった。
そして、帳面にはC-3が書かれていた可能性がある。
ミレーヌが横で、息を詰めるようにして報告を読んでいた。
「リタさんは、中身を見ていないのですね」
「はい」
「でも、C-3は見た」
「紙の端に」
「それだけでも、書くのですね」
「書きます。ただし、“見えたと証言”です。帳面の内容確認ではありません」
ミレーヌは頷き、丁寧に書いた。
リタ証言:包みの紙端にC-3の文字が見えた。帳面内容を確認したわけではない。
「よい書き方です」
クラリスが言うと、ミレーヌは少しだけ安心した顔をした。
だが、すぐに表情を戻す。
「マルさんは、マルティンさんでしょうか」
「可能性は高まりました」
「でも、断定はまだ」
「はい」
「馬車引き風の男は?」
「次の確認対象です」
ミレーヌは図に新しい線を引いた。
マルさん。
濡れ帆亭。
黒帳面預かり。
ギデオン名義。
馬車引き風の男。
包み消失。
線は増える。
しかし、黒い帳面そのものはまだない。
クラリスは報告書の見出しを書いた。
黒帳面預かり筆跡およびリタ証言報告
主な内容。
一、「黒帳面預かり」の筆跡は店主ではなく、給仕娘リタのものと確認。
二、リタは濃紺の布包みの小さな帳面を「マルさん」から預かったと証言。
三、「ギデオンさんが取りに来るまで」と伝えられた。
四、誰かに聞かれたら古い席代の控えと言うよう指示された。
五、包みの紙端にC-3の文字が見えたと証言。ただし中身は未確認。
六、翌朝には包みが消失。持ち去った者は未確認。
七、朝の掃除前に馬車引き風の男が奥の席にいたとの曖昧な記憶あり。
八、「マルさん」はマルティン・ケイルの可能性があるが、断定不可。
九、店主は姪を巻き込みたくないとして証言を遅らせた。保護と隠蔽を分けて扱う必要あり。
オスカーが清書しながら言った。
「かなり進みましたね」
「進みました」
クラリスは答えた。
「でも、帳面はまだありません」
「はい」
「そして、黒帳面の存在は強まりましたが、内容はまだ確認できていません」
「次は馬車引き風の男ですね」
「ええ」
イリスが茶を置いた。
「帳面は、ずいぶん人の手を渡っておりますね」
「はい」
「帳面にも、用途追跡札が必要でございましたね」
クラリスは思わず苦笑した。
「本当に」
布には用途追跡木札をつけた。
だが、黒い帳面にはついていない。
だから、人の手を渡るたびに足跡が薄くなる。
ミレーヌが、その言葉を聞いて自分の札に書いた。
物だけでなく、証言にも足跡がいる。
クラリスはそれを見て、静かに頷いた。
夜、国際案件の箱へ新しい報告書が入った。
黒帳面預かりの字は、店主の字ではなかった。
給仕娘リタの字だった。
彼女は知らずに、黒い帳面を預かっていた。
マルさんから。
ギデオンさんが取りに来るまで、と言われて。
そして、帳面は消えた。
ただし、消える前に一つだけ文字を見せていた。
C-3。
臨時棚の名。
ない布の足跡。
クラリスは箱を閉じた。
次に探すべきは、帳面を持ち去ったかもしれない馬車引き風の男。
そして、「マルさん」という呼び名の先にいる人物だった。




