第94話 貸し席代は、商会名ではなく個人名で払われていた
《濡れ帆亭》の店主は、朝になっても王弟府へ来なかった。
約束の刻限を半刻過ぎた時点で、王弟府の空気が変わった。
怒号が飛んだわけではない。
誰かが慌ただしく走ったわけでもない。
ただ、調査官たちの声が一段低くなり、紙の動きが速くなった。
クラリスは王弟府の小会議室で、カレル調査官から報告を受けていた。
「店主は来ていません」
「店には?」
「王弟府の者を向かわせています。昨夜から見張りは置いていました」
「何かありましたか」
カレルは、短く頷いた。
「夜明け前、店の裏口へ若い男が来ました」
ミレーヌが、手元の記録板を握る。
「若い男……」
「身なりは商会の使いに近い。店主と短く話し、裏口から中へ入ろうとしましたが、見張りが声をかけたため逃げました」
「捕まえられなかったのですか」
オスカーが尋ねる。
「路地に慣れた者でした」
カレルの声に、苛立ちはない。
ただ、事実だけを置く声だった。
「顔は?」
「完全には確認できず。ただし、背格好はリーヴェ商会代理人マルティン・ケイルに似ています」
また、その名が出た。
クラリスは、机上の資料へ視線を落とした。
マルティン・ケイル。
リーヴェ商会代理人。
第三北方倉庫で用途追跡木札確認前に搬出変更を求めた男。
ハンス・ベルトの家に前夜訪れ、「面倒なところに名前が出る」と告げたらしい男。
そして今度は、ギデオン名義の貸し席がある酒場の裏口に現れた可能性がある。
まだ断定できない。
しかし、足跡は増え続けている。
「店主は無事ですか」
クラリスが尋ねると、カレルは頷いた。
「はい。店内にいました。ただ、提出予定だった支払い控えを“探しているところだった”と説明しています」
「探しているところ」
便利な言葉だった。
ミレーヌが小さく呟く。
「探している、も、確認中に似ていますね」
「ええ」
クラリスは頷いた。
「探していると言えば、まだ出せない理由になります」
そこへ、レオンハルトが入ってきた。
手には、薄い紙束。
彼は席に着くことなく、そのまま机へ置いた。
「控えは出た」
カレルがわずかに眉を動かす。
「店主が?」
「王弟府の者が立ち会って、酒場奥の棚から出させた」
クラリスは、紙束を見た。
古い貸し席控えだった。
酒場の勘定帳とは別に、席の使用料だけを簡単に記したものらしい。
日付。
席番号。
名義。
支払者。
備考。
整った帳簿ではない。
店主が忘れないための控えだ。
だが、こういう紙ほど、正式帳簿に出ない名前を残していることがある。
クラリスは、慎重にページをめくった。
問題の席は、奥壁際の四人席。
名義欄には、何度も同じ文字があった。
G・M
ギデオン・マース。
本人名ではなく頭文字。
それだけなら、まだ弱い。
しかし、支払者欄が問題だった。
ある日付には、こう書かれていた。
M.K.
クラリスの指が止まる。
マルティン・ケイル。
もちろん、同じ頭文字の者はいる。
断定はできない。
けれど、これまでの足跡と重なるには十分だった。
「M.K.」
オスカーが低く言った。
「マルティン・ケイルの可能性がありますね」
「可能性です」
クラリスはすぐに言った。
「断定しません」
レオンハルトは頷いた。
「だが、確認対象にはなる」
「はい」
さらにページをめくる。
現物不一致が発覚する数日前の日付。
席番号は同じ。
名義はG・M。
支払者はM.K.
備考欄に、乱れた字で短く書かれていた。
黒帳面預かり
ミレーヌが息を飲んだ。
「黒帳面……」
ハンス・ベルトが家を出る時に持っていたという、小さな黒い帳面。
妻エレナがそう証言した。
ハンスは、その帳面を持って港へ向かった。
そして戻っていない。
その黒い帳面らしきものが、ギデオン名義の貸し席の備考欄に出てきた。
クラリスは、紙の文字を見つめた。
古いインク。
雑な字。
店主が書いたものか、誰かの指示で書いたものか。
まだ分からない。
だが、これで黒い帳面は単なる私物ではなくなった。
事件の中心に近づいた。
「店主は、この備考について何と?」
クラリスが尋ねる。
カレルが答えた。
「最初は覚えていない、と。後に、若い男が“ギデオンの席に預けものを置く”と言い、席代と一緒に小さな包みを置いていったと証言しました」
「包みの中身は見た?」
「見ていないそうです」
「保管場所は?」
「席の奥にある小棚。ただし、現在は空です」
クラリスは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
黒い帳面は、そこにあったかもしれない。
そして、もうない。
「いつ消えたかは?」
「不明。店主は“翌日にはなかったと思う”と曖昧に答えています」
「誰が取りに来たか」
「不明」
不明が続く。
しかし、これまでの不明とは違う。
ただの空欄ではない。
黒い帳面が、確かにどこかを通った可能性を示す不明だった。
ミレーヌは、震える手で記録していた。
だが、途中で顔を上げた。
「お姉様」
「何?」
「黒帳面預かり、と書いた人も確認した方がいいです」
クラリスは頷いた。
「その通りです」
「店主の字でしょうか」
「照合が必要ですね」
カレルがすぐに答える。
「酒場の通常勘定控えと筆跡を比較します」
ミレーヌは、ほっとしたように小さく息を吐いた。
彼女はまた一つ、確認すべき線を見つけた。
レオンハルトが貸し席控えを指で押さえた。
「この控えは、写しではなく原本を保全する」
「はい」
カレルが答える。
「店主には?」
「任意提出として記録。拒否した場合は、別手続きに移る」
王弟府の言葉は短い。
だが、段階がはっきりしている。
クラリスは、その横で自分の紙に見出しを書いた。
貸し席控え確認報告
項目は、自然に増えていく。
一、ギデオン名義の貸し席が継続使用されていた。
二、ギデオン本人は一か月ほど未確認。
三、支払者欄にM.K.の記録あり。マルティン・ケイルの可能性。断定不可。
四、備考欄に「黒帳面預かり」。
五、ハンス・ベルトが持ち出した黒い作業帳面との関連確認が必要。
六、預かり物は現在所在不明。
七、備考欄筆跡の確認が必要。
八、店主証言は一部変遷あり。証言変化として記録。
オスカーが横で同じ内容を清書している。
イリスがいれば、きっと「証言も変わるなら、変わった場所を記録」と言うだろう。
いなくても、クラリスの頭にはその声が浮かんでいた。
午後、リーヴェ商会代理人マルティン・ケイルへの再聴取が行われた。
場所は王弟府の小聴取室。
クラリスは同席したが、質問の主導はカレルだった。
マルティンは入室した時点で、かなり顔色が悪かった。
カレルは、最初に貸し席控えの写しを机へ置いた。
「このM.K.は、あなたですか」
いきなりだった。
マルティンは目を動かした。
「……私とは限りません」
「限らない。では、違うと断言しますか」
「確認が必要です」
「自分のことを?」
マルティンは口を閉じた。
カレルは次の紙を置く。
黒帳面預かり。
「この黒帳面について、知っていますか」
「知りません」
返事は早かった。
早すぎる。
クラリスは、マルティンの手元を見た。
指が、袖口を強く握っている。
カレルは淡々と続ける。
「ハンス・ベルトの妻は、あなたがハンスの家を訪れたと証言しています」
「仕事の連絡です」
「その後、ハンスは黒い帳面を持って家を出た」
「それは知りません」
「同日以降、ギデオン名義の貸し席に“黒帳面預かり”の記録がある」
「偶然では」
「偶然の可能性はあります」
カレルは言った。
「ですので、確認しています」
マルティンは黙った。
その沈黙は、書類の空欄より重かった。
クラリスは、口を挟まなかった。
ここは王弟府の場だ。
ただ、記録する。
マルティンは、最終的にこう答えた。
G・M名義の貸し席代を支払ったことは「あるかもしれない」。
商会の指示で港湾手配人との連絡場所を確保しただけ。
黒帳面については「知らない」。
ハンスに港の仕事を頼んだのは認めるが、脅したつもりはない。
「面倒なところに名前が出る」と言ったかは覚えていない。
ギデオン本人とは最近会っていない。
連絡は、別の者を通じていた。
別の者の名は「確認中」。
確認中。
また出た。
クラリスは、その言葉を聞いて、静かに紙へ書いた。
確認中は回答ではない。
何度でも書く必要がある。
聴取後、レオンハルトは短く言った。
「マルティンは切られ役かもしれない」
「上がいると?」
「可能性だ」
クラリスは頷いた。
「リーヴェ商会主サムエルですか」
「あるいは、財務院旧派。あるいは、ギデオン名義を使える別の誰か」
エリオットがその場にいたら、顔を強張らせただろう。
だが、これはもう財務院だけの問題ではない。
商会、港湾、仲介人、財務院旧派。
それぞれの線が絡んでいる。
夕方、顧問室へ戻ると、ミレーヌは自分の図に新しい点を書き足した。
《濡れ帆亭》貸し席。
G・M名義。
M.K.支払い。
黒帳面預かり。
所在不明。
そして、ハンスの家から伸びる線を、そこへつないだ。
「黒い帳面は、ここを通ったかもしれません」
「はい」
クラリスは頷いた。
「でも、まだ“かもしれない”です」
「分かっています」
ミレーヌは、少しだけ悔しそうに言った。
「でも、もうただの休暇でも、ただの積み間違いでもありません」
「ええ」
それは確かだった。
ただし、それをどう書くかが重要だった。
断定せず、弱めすぎず。
クラリスは報告書の最後に、こう書いた。
黒い帳面は、ハンス宅から港のギデオン名義貸し席へ移動した可能性がある。ただし、現物未確認のため、移動経路は未確定。
ミレーヌは、その文を見て頷いた。
「可能性。でも、消さない」
「そうです」
彼女は自分の札に書いた。
可能性は、消さずに薄く書く。
イリスが横から見ていた。
「薄く書く、よい表現でございます」
「写しますか?」
ミレーヌが少し身構える。
「今日は写しません」
「今日は」
「可能性ですので」
イリスは澄ました顔で答えた。
クラリスは少しだけ笑った。
その夜、国際案件の箱に新しい報告書が入った。
貸し席控え確認報告。
G・M。
M.K.
黒帳面預かり。
名前は短く、しかし重かった。
ギデオン・マースは、まだ見つからない。
ハンスの黒い帳面も、まだ見つからない。
けれど、二つは同じ貸し席の上で、初めて紙の上につながった。
人は消えても、席代は残る。
帳面は消えても、預かりの一言が残る。
正式帳簿ではない場所にこそ、消えたものの影が残る。
クラリスは箱を閉じた。
そして、イリスが置いた終業札を見た。
今日は帰る
今日は、帰る。
明日また、消えた黒い帳面を追うために。




