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第93話 ギデオン・マースは、酒場の貸し席に名前を残していた

ギデオン・マースという男の所在は、簡単には出てこなかった。


 港湾仲介人。


 その肩書きだけなら、港には珍しくない。


 船荷の積み替えを手配する者。

 倉庫の空きを探す者。

 商会と荷役人の間をつなぐ者。

 急ぎの搬出で馬車を集める者。

 夜間作業の人足をそろえる者。


 正式な役職ではない。


 だが、いなければ現場が詰まることもある。


 問題は、そういう者ほど、正式な台帳には残りにくいことだった。


 王宮筆頭実務顧問室の机には、ギデオンに関する紙片が並んでいる。


 旧港湾雑費控えに残っていた、G・マース。


 ハンス・ベルトの家から見つかった紙片にあった、ギデオンに聞け。


 リーヴェ商会の過去の倉庫変更記録に何度も出てくる、仲介者不詳。


 そして、南施療院未着事件前後の「王宮指定先急送」。


 クラリスはそれらを見つめた。


「名前はあるのに、本人がいませんね」


 ミレーヌが言った。


 彼女は最近、こういう言い方をするようになった。


 以前なら「分かりません」とだけ言っていた。


 今は、何が分からないのかを言葉にしようとする。


「ええ。名前だけが先に動いています」


 クラリスは答えた。


「港では、そういう人間が一番厄介だ」


 レオンハルトが低く言った。


 今日は王弟府での協議だった。


 出席しているのは、クラリス、オスカー、ミレーヌ、レオンハルト、カレル調査官。


 財務院からはエリオットも来ている。


 彼の顔には疲れがある。


 旧港湾雑費控えからハーゲンの略字が出たことで、財務院内部の空気はかなり悪くなっているらしい。


 だが、エリオットは席を外そうとしなかった。


 むしろ、以前よりも資料の読み方が鋭くなっている。


「ギデオン本人の正式な住所記録はありますか」


 クラリスが尋ねると、カレルが首を振った。


「古い登録住所はあります。ただし、現在は別人が住んでいます。三年前に出たとのことです」


「転居先は?」


「不明」


「商会契約書には?」


「名前は出ません。代わりに“港湾手配人”“臨時仲介”“現場調整”という名目が出ます」


 クラリスは目を細めた。


 また、名前が変わっている。


 ギデオン・マースという個人名が、正式書類では役割名になる。


 役割名になれば、本人の足跡は薄くなる。


「人名が役割名に変わっている」


 ミレーヌが小さく言った。


 クラリスは頷いた。


「それも記録しましょう」


 オスカーが筆を動かす。


 人名の役割名化:特定の仲介人名を“港湾手配人”“現場調整”等の役割名に置き換えることで、個人の関与が正式記録上見えにくくなる状態。


 レオンハルトが静かに言った。


「今日、港の酒場に行く」


 ミレーヌが目を丸くした。


「酒場、ですか」


「ギデオンは正式な住所にはいない。商会の表書類にも出ない。だが、港で人を動かすなら、港の人間が知っている」


 カレルが補足する。


「酒場、荷役人の詰所、馬車組合の休憩所。そういう場所に足跡が残ります」


 クラリスは少し考えた。


「私は同行しない方がよいですね」


「目立つ」


 レオンハルトは即答した。


 ひどく簡潔だったが、事実だった。


 公爵令嬢であり、王宮筆頭実務顧問であるクラリスが港の酒場へ行けば、話を聞く前に空気が固まる。


「では、王弟府で」


「カレルを行かせる。必要なら俺も後から動く」


 レオンハルトはそう言って、カレルに目を向けた。


「聞き取りは、脅すな」


「承知しています」


「港の人間は、王宮に話したことが知られるのを嫌がる」


「はい」


「金で口を割らせるな。後で証言の価値が落ちる」


「はい」


 クラリスは、そのやり取りを聞きながら、王弟府の調査は顧問室とは違うのだと改めて思った。


 顧問室は、紙を分ける。


 王弟府は、人の動きを見る。


 どちらも必要だった。


 その日の夕方、カレルは港湾区の酒場《濡れ帆亭》へ入った。


 その場面をクラリスは見ていない。


 だが、後で受け取った報告書には、匂いや音まで記されていた。


 安い酒。

 焼いた魚。

 濡れた外套。

 木の床に染みた潮気。


 《濡れ帆亭》は、荷役人と馬車引きが多く出入りする店だった。


 店主は口が重い。


 ただし、王弟府の調査官が来たことを騒ぎ立てるほど愚かではなかった。


 カレルは表向き、古い港湾手配人について確認に来たとだけ告げた。


「ギデオン・マース?」


 店主は最初、知らないと言った。


 だが、カレルが旧港湾雑費控えにあった「G・マース」の写しを見せると、少しだけ目を細めた。


「その名前で座ってた時期はある」


「座っていた?」


「貸し席だよ」


 店主は、店の奥の小さな区画を顎で示した。


 そこには、四人がけの古い卓があった。


 壁に近く、出入り口も見える。


 話をするには都合がよい場所だった。


「港の手配人連中は、たまに席を押さえる。荷役人を呼んだり、商会の使いと話したりする。ギデオンも、その席をよく使っていた」


「最後に見たのは?」


「ひと月前くらいかね」


「最近は?」


 店主は少し黙った。


「本人は見てない。だが、席代は払われてる」


「誰が?」


「若い男。商会の使いっ走りみたいなやつ」


 カレルは、そこでリーヴェ商会代理人マルティンの特徴を確認した。


 店主は断言しなかった。


 だが、似ていると言った。


 王弟府の報告書では、そこはこう記された。


 店主証言:ギデオン本人は一か月ほど未確認。ただし、ギデオン名義の貸し席代が最近も支払われている。支払者は若い商会関係者風の男。マルティン・ケイルに類似する可能性あり。断定不可。


 断定不可。


 だが、足跡だった。


 さらに、荷役人の一人が別の話をした。


 ギデオンは、自分で荷を運ぶ男ではない。


 人を集め、棚を変え、急ぎの馬車を呼ぶ。


 彼が使う言葉はいつも似ていたという。


 王宮回しだ。急げ。

 上の印はあとで来る。

 名前は書くな、棚だけ書け。

 臨時扱いにしておけ。


 クラリスは報告書のその箇所を読んだ時、手を止めた。


 名前は書くな、棚だけ書け。


 まさに、今回見えてきた構造だった。


 人の名を消し、棚の名にする。


 目的を消し、急送にする。


 受領先を消し、王宮指定先にする。


 荷役人は、その言葉が不正かどうか分からなかったと言う。


 港では急ぎの荷がある。


 上の印があとで来ることも、まったくないわけではない。


 臨時扱いも珍しくない。


 だから、その時は従った。


 ただ、今思えば多かった。


 そう証言した。


 カレルは、その曖昧さも記録していた。


 証言者は当時不正と認識せず。港湾慣行の範囲と理解。ただし、同様の指示が複数回あり、現在振り返ると不自然との所感。


 クラリスはその書き方に、静かに頷いた。


 よい記録だった。


 過去の人間を、今の知識で裁きすぎない。


 しかし、現在から見て必要な違和感は残す。


 その線引きができている。


 夜、王弟府から戻ったカレルは、淡々と報告した。


「ギデオン本人の所在は未確認。ただし、ギデオン名義の貸し席が今も使われています」


「本人がいなくても、名前が使われている」


 クラリスは言った。


「はい」


「人ではなく、名義が動いている」


「その可能性があります」


 エリオットが眉を寄せた。


「ギデオン本人が逃げているのか、誰かがギデオン名義を使っているのか」


「まだ不明です」


 レオンハルトが報告書を見ながら言った。


「ハンスの黒い帳面は、まだ見つからない」


「はい」


「だが、酒場に貸し席記録があるなら、支払いの控えがあるはずだ」


 カレルが頷く。


「店主は控えを出すことに同意しました。ただし、明日、王弟府へ持参するとのことです」


「持参?」


 クラリスが少し反応した。


「その場では出さなかったのですね」


「ええ。店の奥にあると言っていましたが、すぐには出しませんでした」


 レオンハルトの目が細くなる。


「警戒しているな」


「はい」


「控えが消える可能性は?」


「あります」


 その瞬間、空気が変わった。


 クラリスは思わず言った。


「保全は」


「表立って押さえるには弱い」


 レオンハルトは答えた。


「だが、見張りは置く」


 王弟府の仕事だった。


 クラリスはそれ以上言わなかった。


 顧問室ができるのは、報告書を整理し、制度上の穴を名前にすることだ。


 ここで無理に踏み込めば、王弟府の動きを乱す。


 ミレーヌは、手元の紙に図を書いていた。


 ギデオン本人。

 ギデオン名義。

 貸し席。

 若い商会関係者風の男。

 マルティンに類似。

 名前は書くな、棚だけ書け。


 彼女は、しばらく考えてから言った。


「ギデオンという名前が、道具みたいになっています」


 クラリスは妹を見る。


「道具?」


「はい。本人がいるかどうかより、ギデオン名義なら人が動く。席が取れる。荷役人が集まる。棚が変わる。そういう……鍵のような名前です」


 部屋が少し静かになった。


 レオンハルトが、ほんのわずかに頷いた。


「悪くない見方だ」


 ミレーヌは驚いて顔を赤くした。


 クラリスは紙を出した。


「名前をつけましょう」


 オスカーが筆を構える。


「名義仲介」


 クラリスは言った。


「本人が直接動かなくても、その名義や信用で手配が進む状態。実際の指示者が別にいる場合、責任の所在が見えにくくなる」


 オスカーが記録する。


 名義仲介:特定の仲介人本人ではなく、その名前・信用・過去の関係性を用いて港湾手配や倉庫変更が進む状態。実際の指示者と名義上の仲介者が分離し、責任の所在が不明瞭になる危険がある。


 エリオットが低く言った。


「財務院の雑費控えに“G・マース”とだけ残るのは、まさにそれですね」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「G・マース本人が受け取ったのか、ギデオン名義で誰かが受け取ったのか。そこを分ける必要があります」


 イリスが茶を置きながら言った。


「名前も貸し借りできるものなのでしょうか」


「港では、あるのかもしれません」


「では、返却記録が必要でございますね」


 オスカーがまた咳をした。


 だが、クラリスは笑わなかった。


 イリスの言葉は冗談めいていたが、かなり本質に近い。


 名前を借りて動かしたなら、誰が借りたのか。


 そこが分からなければ、足跡は途切れる。


「貸し席記録と支払い控えが重要ですね」


「はい」


 カレルは答えた。


「明朝、店主から提出させます」


 その夜、クラリスは報告書をまとめた。


 表題。


 ギデオン・マース所在確認第一報――貸し席および名義仲介の疑い


 主な内容。


 一、ギデオン本人は一か月ほど港の酒場で未確認。

 二、ただしギデオン名義の貸し席代は最近も支払われている。

 三、支払者は若い商会関係者風の男。マルティン・ケイルに類似する可能性あり。断定不可。

 四、荷役人証言として「名前は書くな、棚だけ書け」「臨時扱いにしておけ」等の指示あり。

 五、当時は港湾慣行の範囲と理解されていたが、現在振り返ると不自然との所感。

 六、ギデオン本人ではなく、ギデオン名義が使われていた可能性。

 七、名義仲介として整理。

 八、貸し席支払い控えの提出待ち。


 クラリスは、最後に一文を入れた。


 人がいなくても、名前だけが荷を動かすことがある。


 ミレーヌはそれを見て、自分の札に書いた。


 名前が動く時、誰が動かしたかを見る。


 イリスは、その札を見て静かに頷いた。


「今日は写しません」


「本当ですね?」


 ミレーヌが念を押す。


「本当です。今夜は、名前が勝手に動きそうなので」


 妙な冗談だった。


 けれど、少しだけ場が和らいだ。


 クラリスは国際案件の箱へ報告書を入れた。


 箱の中で、また一枚、足跡が増えた。


 ギデオン・マース本人は、まだ見つからない。


 だが、彼の名前は港の酒場に残っていた。


 貸し席に。


 支払い控えに。


 荷役人の記憶に。


 そして、「名前は書くな、棚だけ書け」という言葉の中に。


 人ではなく、名義が荷を動かしていたのなら。


 次に探すべきは、ギデオン本人だけではない。


 その名前を借りた者だった。

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