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第92話 ハーゲンの古い帳簿は、雑費控えとして眠っていた

 財務院の帳簿保管室は、王宮の中でも空気が重い。


 埃っぽい、という意味ではない。


 むしろ、よく掃除されている。


 棚には番号札が並び、年度別、部署別、案件別に帳簿が収められている。古い紙の匂いと革表紙の匂いが混ざり、窓は細く、光は淡い。


 重いのは、そこに積まれた過去だった。


 支出。

 収入。

 減免。

 臨時費。

 補填。

 雑費。

 確認済み。

 未処理。


 人が忘れても、紙は残る。


 ただし、残っている場所が正しければ、の話だった。


「ハーゲン補助官の担当棚はこちらです」


 エリオットが低い声で言った。


 彼はいつもより緊張していた。


 無理もない。


 ここは財務院の内部であり、しかも旧バルツァー派に近い職員の担当棚を確認するのだ。


 王弟府調査官カレルが同席しているとはいえ、財務院の者であるエリオットにとっては、かなり重い仕事だろう。


 クラリスは頷いた。


「無理はしないでください」


「はい」


「必要なら、王弟府が前に出ます」


「分かっています」


 エリオットはそう答えたが、手は少し強く帳簿棚の札を握っていた。


 同行者は、クラリス、オスカー、エリオット、王弟府調査官カレル。


 そして財務院側の帳簿保管責任者である老書記官、モーリス。


 モーリスは、七十近い痩せた男だった。


 髪は白く、背は少し曲がっている。


 だが、目はよく動く。


 帳簿を扱う者特有の、紙のわずかな乱れを見逃さない目だった。


「ハーゲンが病欠だというので、こちらも困っております」


 モーリスは淡々と言った。


「病欠届は?」


 カレルが尋ねる。


「正式なものは、まだ」


「口頭連絡のみですね」


「はい。直属上司を通じて、体調不良と」


 クラリスは、それを記録させた。


 ハンス・ベルトは休暇願を出していなかった。


 ハーゲンも診断書を出していない。


 休暇中。

 病欠。

 所在確認中。


 便利な状態名が続く。


 状態名だけでは、人は見えない。


「確認したいのは、古い港湾帳簿です」


 クラリスは言った。


「特に、南施療院未着事件前後、リーヴェ商会、ギデオン・マース、王宮指定先急送、臨時棚C-3に関係する記録」


 モーリスは、少しだけ眉を上げた。


「ずいぶん広い」


「はい」


「ですが、言葉は絞られていますね」


「探すべき足跡は、そこにあります」


 モーリスは、しばらくクラリスを見た。


 それから、棚へ向き直る。


「正式帳簿から見ましょう」


 正式帳簿は、すぐに出てきた。


 港湾減免記録。


 慈善物資関係臨時処理簿。


 商会別搬出報告控え。


 それらは整っていた。


 整っていたが、やはり薄かった。


 リーヴェ商会の名はある。


 南施療院関連の搬出記録もある。


 しかし、搬出先はまたしても「王宮指定先」。


 急送理由は「冬季対応」。


 具体的受領先なし。


 ギデオン・マースの名は出ない。


 ハーゲンの名も、表には出ない。


「綺麗ですね」


 オスカーが静かに言った。


 その言葉は褒め言葉ではなかった。


 クラリスも同じ感想だった。


 綺麗すぎる。


 必要な汚れがない。


 誰が運び、誰が急がせ、どの棚に置かれ、誰の手で搬出されたのか。


 現場でつくはずの汚れが、正式帳簿には残っていない。


「ハンスさんの紙片には、“ハーゲンの古い帳簿”とありました」


 クラリスは言った。


「これは正式帳簿ではないかもしれません」


 エリオットが顔を上げる。


「補助帳簿ですか」


「あるいは、雑費控え」


 その言葉に、モーリスの目が少し動いた。


 クラリスは見逃さなかった。


「心当たりがありますか」


 モーリスは、少し黙った。


「雑費控えは、正式帳簿ではありません」


「知っています」


「部署ごとの作業控え、精算前の一時記録、現場から上がる細かな支出のメモです。正式処理後は破棄されることもあります」


「残っているものは?」


「残っている場合もあります」


「どこに?」


 モーリスは、すぐには答えなかった。


 代わりに、棚の奥へゆっくり歩いた。


 そこには、表の棚より古い木箱が並んでいる。


 札はついているが、正式帳簿のように整っていない。


 旧港湾雑費控え

 臨時人足費控え

 倉庫移動雑記

 未整理


 最後の二文字が、クラリスの目に刺さった。


 未整理。


 便利すぎる言葉だった。


「このあたりです」


 モーリスは言った。


「ハーゲンは、古い港湾関係の補助記録を整理していました。正式な帳簿棚ではなく、この未整理箱も触っていたはずです」


 カレルがすぐに言う。


「箱の開封記録は?」


「あります」


 モーリスは壁際の薄い台帳を持ってきた。


 未整理箱閲覧記録。


 そこには、日付と閲覧者名が並んでいる。


 ハーゲンの名が、いくつもあった。


 そして、二日前にも。


 ハーゲン・ロウ 旧港湾雑費控え箱 閲覧


 病欠の前日だった。


 クラリスは静かに息を吸った。


「病欠の前日に、この箱を見ていますね」


「はい」


 モーリスの声は少し硬くなっていた。


「何を見たかは?」


「箱単位の記録です。中のどの帳簿かまでは、通常書きません」


「通常は」


「はい」


 また、通常。


 通常だから書かない。


 通常だから残らない。


 だが、通常の隙間に、今回の足跡がある。


「箱を開けても?」


 カレルが確認する。


 モーリスは頷いた。


「王弟府立会いなら」


 古い木箱が開かれた。


 中には、革表紙ではなく、薄い紙束を紐で綴じた控えが入っていた。


 正式帳簿ではない。


 字も揃っていない。


 紙の大きさもまちまち。


 現場の控えだ。


 そこには、正式帳簿では消えたはずの、細かな汚れが残っていた。


 人足代。

 夜間搬出手当。

 臨時棚使用料。

 急送馬車代。

 倉庫札書換え費。

 確認茶代。


 最後の項目を見て、オスカーが小さく咳をした。


「確認茶代とは」


 モーリスが少し気まずそうに答える。


「現場の慣行です。夜間確認に来た者へ茶を出す費用です」


「正式帳簿には?」


「雑費に入ります」


 クラリスは、その項目を見つめた。


 正式帳簿では雑費。


 補助帳簿では確認茶代。


 名前を変えると、意味が消える。


 ここにも、同じ構造がある。


 ページをめくるうちに、エリオットの手が止まった。


「ありました」


 彼の声は低かった。


 机の上に広げられた紙には、古い日付。


 南施療院未着事件の直前。


 項目名。


 王宮指定先急送 北方保温布八梱


 支出内容。


 夜間人足費。

 急送馬車代。

 臨時棚C使用料。

 仲介礼金。


 仲介者欄には、はっきりと書かれていた。


 G・マース


 クラリスは、思わず目を閉じた。


 ギデオン・マース。


 正式帳簿には出なかった名前が、雑費控えに残っていた。


「ハーゲンの名は」


 カレルが尋ねる。


 エリオットが紙の下部を指した。


 処理確認欄。


 そこには小さく、略字で書かれていた。


 Hgn


 ハーゲン。


 正式な署名ではない。


 だが、現場控えの確認略字。


 モーリスが険しい顔で言った。


「これは正式署名ではありません」


「分かっています」


 クラリスは答えた。


「しかし、足跡です」


 カレルがすぐに写しを取る準備を始めた。


「原本保全します」


 モーリスは抵抗しなかった。


 むしろ、肩を落としたように見えた。


「この箱は、もっと早く整理すべきでした」


「整理されていたら」


 クラリスは言いかけて、止めた。


 責めるために来たのではない。


 今は、出てきたものを正しく扱うことが先だ。


 ミレーヌがここにいたら、きっと「未整理も名前ですね」と言ったかもしれない。


 クラリスは代わりに、自分で記録した。


 未整理箱に、正式帳簿から消えた現場名が残っていた。


 さらにページをめくる。


 同じような記録がいくつか出てきた。


 王宮指定先急送。

 臨時棚C。

 仲介礼金 G・マース。

 処理確認 Hgn。


 そして、今回のC-3に近い形式の新しい紙片もあった。


 日付は現物不一致の数日前。


 臨時棚C-3 北方厚織保温布一梱 急送手配予定


 ただし、正式処理欄は空白。


 その横に、鉛筆のような薄い筆跡で一言。


 差替注意


 誰が書いたかは分からない。


 だが、これがもしハーゲンの筆跡なら。


 あるいはハンスの持っていた黒い帳面と照合できれば。


 クラリスは、焦りを押さえた。


「この紙片も保全してください」


「はい」


 カレルが答える。


 エリオットは、顔色を悪くしながらも資料を見続けていた。


「財務院の正式記録では、仲介礼金は出てきませんでした」


「雑費に入っていた?」


「可能性があります」


「仲介礼金という名で出せなかったから?」


「はい」


 グレゴール参事官がいれば、苦い顔をしただろう。


 財務院が嫌う、名目のすり替え。


 必要経費なら、必要経費として出すべきだった。


 だが、仲介礼金は表に出しづらい。


 だから雑費になる。


 雑費になると、誰に払ったか見えなくなる。


 見えなくなると、ギデオンのような者が動きやすくなる。


「名前をつける必要があります」


 クラリスは言った。


「雑費化による仲介者隠し」


 オスカーがすぐに書く。


 雑費化による仲介者隠し:仲介礼金、急送手配費、夜間人足費等を一括雑費として処理することで、実際に関与した仲介者名が正式帳簿上見えなくなる状態。


 モーリスは、その言葉を重そうに聞いていた。


「耳が痛いですな」


「財務院だけの問題ではありません」


 クラリスは答えた。


「王宮全体が、便利な雑費に多くを入れてきました」


 モーリスは、少しだけ笑った。


「顧問殿は、責める時も逃げ道を残すのですな」


「逃げ道ではありません。直す道です」


 そう言うと、モーリスは黙って頭を下げた。


 調査室へ戻ると、レオンハルトが待っていた。


 保全された写しを受け取り、目を通す。


 彼の表情は、ほとんど変わらない。


 ただ、紙を持つ指に少し力が入った。


「G・マース。Hgn。臨時棚C。王宮指定先急送」


「はい」


 カレルが答える。


「南施療院未着事件前後と、今回のC-3に同じ型が見えます」


「ハーゲンは?」


「病欠中。所在確認を続けています」


「ハンスは?」


「未発見です」


 レオンハルトは紙を机に置いた。


「ハンスが残した紙片は、正しかった」


「少なくとも、ハーゲンの古い帳簿という点では」


 クラリスは言った。


「ただし、帳簿は正式帳簿ではありませんでした。雑費控えです」


「むしろ、その方が残りやすいこともある」


 レオンハルトは静かに言った。


「正式に消したつもりのものが、現場控えに残る」


 まさに、その通りだった。


 人は、正式帳簿を整える。


 しかし、現場の支払い、急ぎの手配、茶代、人足費、礼金。


 そういう小さなものは、どこかに控えが残る。


 そこに、消し忘れた本音がある。


「次はギデオン・マースですね」


 クラリスが言うと、レオンハルトは頷いた。


「所在を追う。だが、すぐに捕まえに行くわけではない」


「なぜですか」


「彼が動けば、誰に連絡するか分かるかもしれない」


 その言葉に、部屋が静かになった。


 王弟府の領域だ。


 ここから先は、顧問室の照会文だけでは進まない。


 人の動き。

 連絡先。

 隠れ場所。

 金の流れ。


 それを追う段階に入っている。


「顧問室は」


 レオンハルトはクラリスを見た。


「雑費控えから制度上の問題をまとめてくれ。仲介礼金の扱い、急送費、臨時棚使用料、王宮指定先表記。これらを整理する」


「承知しました」


「ただし、今夜は帰れ」


 先に言われた。


 クラリスは一瞬言葉を失った。


 レオンハルトは、ほんの少しだけ口元を動かした。


「イリスに言われる前に」


「……承知しました」


 顧問室に戻ると、すでにイリスが待っていた。


 まるで全て知っているかのように。


「今日は帰る、でございますね」


「まだ報告書を」


「緊急分だけです」


「分かっています」


 オスカーが手早く速報をまとめる。


 表題。


 旧港湾雑費控え確認速報


 主な内容。


 一、ハーゲン補助官が病欠前日に旧港湾雑費控え箱を閲覧。

 二、同箱より南施療院未着事件前後の“王宮指定先急送”記録を確認。

 三、仲介者欄にG・マース、処理確認欄にHgnの略字あり。

 四、今回の臨時棚C-3に近い記録も確認。

 五、仲介礼金、急送馬車代、夜間人足費等が正式帳簿上では雑費化していた可能性。

 六、雑費化による仲介者隠しの疑い。

 七、原本は王弟府立会いで保全。


 クラリスは最後に、短い一文を加えた。


 雑費控えには、正式帳簿から消えた名前が残っていた。


 ミレーヌは、その報告を読んで静かに言った。


「未整理は、捨て忘れではなく、残っていた記憶だったのですね」


 クラリスは、妹を見た。


「それも記録しましょう」


 ミレーヌは少し驚いたが、すぐに自分の札へ書いた。


 未整理の中に、残っている記憶がある。


 イリスが横から見て、今回は何も言わなかった。


 その言葉は、今日の箱に入れるには静かすぎた。


 夜。


 クラリスは国際案件の箱へ、旧港湾雑費控え確認速報を入れた。


 箱の中で、紙がまた重なった。


 南施療院。

 C-3。

 ギデオン。

 ハーゲン。

 雑費控え。


 これまで別々に見えていた足跡が、同じ古い紙面に並び始めていた。


 ハーゲンの古い帳簿は、正式な帳簿棚にはなかった。


 雑費控えとして、未整理箱の中に眠っていた。


 そこには、消したつもりの名前が残っていた。


 そして、次に探すべき名前は、もう一つ。


 ギデオン・マース。

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