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第91話 倉庫係の妻は、港の夜勤だと聞いていた

 ハンス・ベルトの家は、港湾区の外れにあった。


 王都の中心から見れば、決して裕福な場所ではない。


 石畳は途中で土道に変わり、家々の壁には潮を含んだ風の跡が薄く残っている。洗濯物は低い紐に干され、窓辺には割れた鉢を直して使っている花が置かれていた。


 貧しい。


 けれど、荒れてはいない。


 誰かが毎朝掃き、誰かが夕方に戸口を拭き、誰かが小さな暮らしを守っている場所だった。


 クラリスは馬車を少し離れた場所に止めさせた。


 王弟府の調査官カレルは、最初からその判断に頷いた。


「馬車を家の前に付けると、近所に騒ぎになります」


「はい」


「王宮の者が来た、と分かるだけで、ご家族に余計な負担がかかります」


「だから、歩きましょう」


 同行しているのは、クラリス、カレル、オスカー、そしてミレーヌだった。


 ミレーヌを連れてくるか、クラリスは少し迷った。


 だが、本人が望んだ。


 理由は一つ。


「倉庫係、搬出確認者、休暇中、所在確認中。その人が、家ではどう呼ばれているのかを見たいのです」


 そう言われて、クラリスは同行を認めた。


 ただし、聞き取りの主導はカレル。


 クラリスは必要以上に前に出ない。


 ミレーヌは記録補佐として、発言は控える。


 そう決めていた。


 ハンス・ベルトの家の扉は、古い木でできていた。


 カレルが控えめに叩く。


 しばらくして、扉が少しだけ開いた。


 中から顔を出したのは、二十代後半ほどの女性だった。


 細い顔に、疲れた目。


 けれど、髪はきちんと結ばれ、前掛けも清潔だった。


「エレナ・ベルト様でしょうか」


 カレルが静かに尋ねる。


 女性は警戒した顔で頷いた。


「はい。どちら様ですか」


「王弟府調査官のカレルと申します。こちらは王宮筆頭実務顧問のクラリス・フォン・エルディア様です」


 エレナの顔色が変わった。


 扉の隙間が、ほんの少し狭くなる。


 当然だった。


 王弟府。

 王宮筆頭実務顧問。

 そんな者たちが急に家へ来れば、誰だって身構える。


 クラリスは、すぐに深く頭を下げた。


「突然の訪問、申し訳ありません。ご主人を責めに来たのではありません」


 エレナは答えなかった。


 疑っている。


 それも当然だった。


 カレルが続ける。


「ハンス・ベルト様の所在確認について、事実関係を伺いたいだけです。ご家族を処罰するための聞き取りではありません」


 エレナは、少しだけ目を伏せた。


「夫は……何かしたんですか」


 その声は震えていた。


 ミレーヌの指が、手元の記録板を握る。


 クラリスは、胸の奥が少し痛んだ。


 現物不一致。

 臨時棚C-3。

 王宮指定先急送。

 休暇中。

 所在確認中。


 それらの言葉の向こうには、こういう家がある。


 夫が戻らず、不安で扉を開ける妻がいる。


「まだ分かりません」


 クラリスは正直に答えた。


「だからこそ、分かることを確認しています」


 エレナはしばらくこちらを見ていた。


 やがて、扉を開いた。


「……中へどうぞ。狭いですが」


 家の中は、本当に狭かった。


 小さな卓。

 古い椅子が三つ。

 壁際に簡素な寝台。

 炉のそばには、子ども用の木馬が置かれている。


 奥の部屋から、小さな子どもの声が聞こえた。


 エレナは振り返り、小声で「奥にいてね」と言った。


 子どもは返事をしたが、足音は扉の近くで止まっていた。


 父親の話をしていると分かったのかもしれない。


 カレルは、椅子に座らず立ったまま尋ねた。


「奥様。まず確認します。ハンス様は、いつからご自宅に戻っていませんか」


「三日前の朝からです」


「三日前の朝」


 オスカーが記録する。


「出る時、何とおっしゃっていましたか」


「港の仕事で、少し泊まりになるかもしれないと」


 クラリスは、エリオットから届いた記録を思い出した。


 商会側の説明。


 休暇中。


 家族側の説明。


 港の仕事。


 ここで、はっきり分かれた。


「休暇とは聞いていませんか」


 カレルが尋ねると、エレナは驚いた顔をした。


「休暇? いいえ。休みなら、あの人は必ず家にいます。子どもと遊ぶ約束をしていましたから」


 その言葉は、書類より強かった。


 休暇中なら、家にいるはず。


 家族にとって、休暇とはそういうものだ。


 所在不明の別名ではない。


 ミレーヌが、震えないように気をつけながら書いた。


 妻証言:休暇とは聞いていない。休暇なら家にいるはず。子どもとの約束あり。


 クラリスは、その字を横目で見た。


 ミレーヌはしっかり書いている。


 カレルはさらに尋ねた。


「港の仕事、と聞いたのは、ハンス様ご本人からですか」


「はい。朝、出る時に」


「誰かから伝言があったのではなく?」


「前の晩に、商会の若い人が来ました」


 クラリスとカレルが、同時にわずかに反応した。


 カレルは声を変えずに聞く。


「若い人?」


「名前は……たぶん、マルティンさんです。夫と何度か話していた人です」


 マルティン・ケイル。


 リーヴェ商会代理人。


 昨日、搬出変更を求めた男。


 ミレーヌの筆が少し止まった。


 だが、すぐに続ける。


「その方は、何と?」


 エレナは記憶を辿るように目を伏せた。


「急ぎの荷のことで、ハンスに確認してほしいことがある、と。港の方で夜の作業になるかもしれないから、少し家を空けるかもしれない、と言っていました」


「ハンス様は、その時どうされましたか」


「最初は嫌そうでした。子どもと約束があるから、と。でも、マルティンさんが……」


 そこで、エレナの声が少し詰まった。


「何と?」


 カレルは急かさずに尋ねる。


「“今出ておかないと、あとでハンスさんの名前が面倒なところに出ますよ”と」


 部屋の空気が冷えた。


 クラリスは、唇を結んだ。


 脅しに近い。


 ただし、言い方は曖昧だ。


 面倒なところに名前が出る。


 直接の脅迫ではない。


 だが、十分に不安を煽る。


「その言葉は、奥様も聞きましたか」


「はい。台所にいましたから」


「ハンス様は何と答えましたか」


「……“分かった。朝一番で行く”と」


「その後、荷物は?」


「少しだけ。上着と、仕事用の手袋と、帳面を一冊」


「帳面」


 カレルの声が少しだけ低くなった。


「どのような帳面ですか」


「小さな黒い帳面です。夫が、自分用に作業のことを書いていたものです。商会の帳簿とは別の」


 オスカーの筆が速くなる。


 ミレーヌも懸命に書いている。


 小さな黒い帳面。


 ハンス個人の作業控え。


 それは、彼の机から見つかった南施療院関連搬出控えと同じ性質のものかもしれない。


「その帳面は、家に残っていませんか」


 エレナは首を振った。


「持っていきました」


「他に、何か置いていったものは?」


 エレナは少し迷った。


 そして、炉の脇の小さな棚へ向かった。


 そこから、布に包まれた小さなものを持ってくる。


「これ……夫が出る前に、子どもの木馬の下に入れていました。私があとで見つけて」


 布を開くと、中には短い紙片があった。


 文字は荒い。


 急いで書いたのだろう。


 C-3は俺じゃない。王宮指定先は、ギデオンに聞け。ハーゲンの古い帳簿。


 クラリスは、その紙片を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 C-3。


 ギデオン。


 ハーゲン。


 古い帳簿。


 ハンスは、何かを知っていた。


 少なくとも、自分がすべてを背負わされるかもしれないと感じていた。


 カレルは、表情を変えずに紙片を確認した。


「この紙片は、お預かりしてもよろしいですか。写しを取り、証拠保全します」


 エレナは不安そうに紙を見た。


「夫は……戻りますか」


 誰もすぐには答えられなかった。


 クラリスは、嘘をつけなかった。


「必ずとは言えません」


 エレナの顔が青ざめる。


「ですが、探します」


 クラリスは続けた。


「この紙は、ご主人が自分の言葉を残そうとしたものです。無駄にはしません」


 エレナは、しばらく紙片を見つめた。


 それから、両手でカレルへ差し出した。


「お願いします」


 その声は、とても小さかった。


 けれど、確かだった。


 聞き取りは、さらに続いた。


 ハンスは最近、帰宅後に疲れていたこと。


 商会で「古い荷のことで名前を使われた」と漏らしたこと。


 ギデオンという名を一度だけ家で口にしたこと。


 ハーゲンという名は、エレナは知らなかったこと。


 そして、二日前の夜、家の近くで見慣れない男が立っていたこと。


 その男が誰かは分からない。


 これもまた、分からない記録だった。


 クラリスは一つずつ、断定しない形で記録させた。


 妻証言。

 本人発言として聞いた内容。

 伝聞。

 不明。

 印象。


 混ぜない。


 家族の不安と、証拠を混ぜない。


 それが大事だった。


 聞き取りの終わり、奥の部屋から小さな男の子が顔を出した。


 五歳くらいだろうか。


 母のスカートを握り、こちらをじっと見ている。


「お父さん、帰ってくる?」


 子どもの声は、部屋の中でまっすぐ響いた。


 ミレーヌが、泣きそうな顔になった。


 クラリスはしゃがんだ。


 子どもの目線に合わせる。


「探しています」


「悪いことしたの?」


 その問いは、無邪気だからこそ痛かった。


 クラリスは少しだけ息を吸う。


「まだ分かりません」


「分かんないの?」


「はい。だから、分かるようにしています」


 子どもは、不思議そうに首を傾げた。


「紙で?」


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「紙と、人の話と、残っているものを見て」


「ふうん」


 子どもは完全には分かっていない。


 でも、少し納得したように母の後ろへ戻った。


 家を出ると、ミレーヌはしばらく何も言わなかった。


 馬車へ戻る道の途中、ようやく小さく言った。


「家族の証言を書くのは、怖いですね」


「ええ」


「間違えたら、余計に傷つけます」


「だから、分けます」


 クラリスは答えた。


「本人が言ったこと。妻が聞いたこと。誰かからの伝言。印象。不明。全部分ける」


「はい」


 ミレーヌは、記録板を抱え直した。


「家庭の言葉も、時系列になるのですね」


「なります」


「休暇ではなく、港の夜勤」


「はい」


「その違いだけで、見えるものが変わります」


「大きく変わります」


 王宮に戻ると、カレルはすぐに王弟府へ向かった。


 紙片の保全。

 マルティン・ケイルへの再聴取準備。

 ギデオン・マースの所在確認。

 ハーゲンの古い帳簿の保全。


 王弟府が静かに動き始める。


 クラリスは顧問室で、聞き取り報告をまとめた。


 表題。


 ハンス・ベルト家族聞き取り報告


 主な内容。


 一、妻エレナは休暇とは聞いていない。

 二、ハンス本人は港の仕事で泊まりになる可能性があると説明。

 三、前夜、リーヴェ商会代理人マルティン・ケイルが訪問。急ぎの荷について確認を求めた。

 四、マルティンは“今出ておかないと、あとでハンスの名前が面倒なところに出る”趣旨の発言。

 五、ハンスは小さな黒い作業帳面を持って出た。

 六、家に紙片を残していた。内容は、C-3、ギデオン、ハーゲンの古い帳簿に言及。

 七、家族は休暇ではなく仕事として認識。

 八、商会説明と家族証言が相違。

 九、家族証言は感情・伝聞・本人発言を分けて扱う。


 クラリスは、最後に一文を加えた。


 家庭の言葉も、時系列になる。


 ミレーヌが、それを見て小さく目を見開いた。


「私の言葉ですか」


「はい」


「また」


「大事な言葉です」


 ミレーヌは少しだけ俯いた。


 そして、自分の札に書いた。


 休暇ではなく、港の夜勤。言葉が違えば、足跡も違う。


 イリスが、その札を見て静かに頷いた。


「今日は、それは写しません」


「本当ですか」


「はい。ご家族の言葉ですので、まず報告書に置くべきかと」


 ミレーヌは、ほっとしたように笑った。


 その夜、クラリスは国際案件の箱へ新しい報告書を入れた。


 ハンス・ベルトは、休暇願を出していなかった。


 妻には、港の夜勤だと告げていた。


 そして、家に紙片を残していた。


 C-3は俺じゃない。

 王宮指定先は、ギデオンに聞け。

 ハーゲンの古い帳簿。


 名前がまた増えた。


 だが、今回はただ増えたのではない。


 消えかけていた倉庫係が、自分の言葉を残していた。


 それは、まだ証拠のすべてではない。


 けれど、確かな足跡だった。


 イリスが終業の札を置いた。


 今日は帰る


 クラリスは、箱を見た。


 ハンスの妻の顔。

 子どもの「紙で?」という声。

 小さな木馬の下に隠された紙片。


 今日の記録は、いつもより重い。


 でも、だからこそ、ここで止める必要がある。


「帰ります」


 クラリスは言った。


 ミレーヌも静かに頷く。


 休暇中の倉庫係は、休暇願を出していなかった。


 彼は家族に、港の夜勤だと告げていた。


 そして、自分が消える前に、三つの名前を残していた。


 C-3。

 ギデオン。

 ハーゲン。


 次に開くべき箱は、もう決まっていた。

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