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第90話 休暇中の倉庫係は、休暇願を出していなかった

リーヴェ商会から届いた補足回答には、丁寧な言葉が並んでいた。


 だが、最後の一行だけが、どうにも丁寧すぎた。


 当該搬出確認者ハンス・ベルトにつきましては、現在休暇中であり、所在確認中でございます。


 休暇中。


 所在確認中。


 クラリスは、その二つの言葉を何度も見た。


 どちらも、便利な言葉だった。


 休暇中なら、いま職場にいない理由になる。


 所在確認中なら、すぐ答えられない理由になる。


 だが、その二つが並ぶと、少しおかしい。


 休暇とは、本来、所在を見失うことではない。


 休暇申請があり、承認者があり、期間があり、緊急時の連絡先があるはずだ。


 少なくとも、王宮筆頭実務顧問室ではそう扱う。


 イリスが、机の横にそっと札を置いた。


 休暇にも記録


 クラリスはそれを見て、少しだけ苦笑した。


「それは顧問室にも刺さりますね」


「お嬢様には特に」


「否定しません」


 オスカーが、リーヴェ商会からの回答を横で確認している。


「休暇申請日、休暇承認者、現在の連絡先。すべて未回答です」


「はい」


「休暇中という説明があるのに、休暇の記録が添付されていない」


「そこを確認します」


 ミレーヌも資料を覗き込んでいた。


 彼女は昨日から、名前の変化を追う図を何度も書き直している。


 施療院病床用。

 北方厚織保温布。

 臨時棚C-3。

 王宮指定先急送。

 そして、ハンス・ベルト休暇中。


 線はつながっている。


 だが、途中で何度も名前を変え、そのたびに目的と責任が薄くなっている。


「お姉様」


「何?」


「休暇中というのも、名前が変わっているのでしょうか」


「どういう意味ですか」


「倉庫係だった人が、“休暇中の人”になると、仕事の責任から少し遠くなる気がします」


 クラリスは、しばらく妹を見た。


 それは良い視点だった。


 人もまた、名前を変える。


 担当者。

 確認者。

 休暇中の者。

 所在確認中の者。


 名前が変わるたび、責任の場所が見えにくくなる。


「記録しましょう」


 クラリスは言った。


「担当者を“休暇中”という状態名だけで扱わない。職務上の担当、確認した行為、現在の所在を分ける」


 ミレーヌは頷き、自分の紙に書いた。


 人も、状態名だけにしない。何をした人かを書く。


 その日の午後、王弟府からカレル調査官が来た。


 表情はいつも通り薄い。


 だが、手にした資料は薄くなかった。


「ハンス・ベルトの件です」


 クラリスは席を勧めた。


 出席者は、クラリス、オスカー、ミレーヌ、エリオット、そしてカレル。


 イリスは茶を置いた後、壁際に下がる。


「リーヴェ商会からは休暇中との回答でしたが、休暇申請書は確認できませんでした」


 カレルは最初から核心を出した。


 ミレーヌが息を飲む。


 クラリスは静かに確認した。


「商会側に休暇記録がない、ということですか」


「少なくとも、正式な休暇願は未提出です」


「口頭申請の可能性は?」


「商会主サムエル・リーヴェは“倉庫長から体調不良と聞いた”と説明しています。倉庫長は“ハンス本人が二、三日休むと言っていた”と説明しています」


「本人の署名は?」


「なし」


「休暇開始日は?」


「現物不一致発覚の翌朝」


 部屋が静かになった。


 現物不一致が見つかった翌朝。


 それだけで断定はできない。


 だが、見過ごすには重い。


 エリオットが低く言った。


「偶然にしては、時期が近すぎます」


「はい。ただし、まだ偶然の可能性はあります」


 クラリスは慎重に言った。


 カレルも頷く。


「王弟府としても、現時点では“所在不明に近い無届休暇”として扱っています」


「無届休暇」


 オスカーが記録する。


 カレルは続けた。


「ハンス・ベルトの住居も確認しました。本人は戻っていません」


 ミレーヌが思わず尋ねた。


「ご家族は?」


「妻と幼い子がいます。妻は、商会から“しばらく港の仕事で泊まりになる”と聞いたと思っていたようです」


 クラリスの眉が動いた。


「妻には休暇中と説明されていない?」


「はい」


「商会には休暇中。家族には港の仕事」


「説明が割れています」


 オスカーの筆が止まらない。


 クラリスは資料を見つめた。


 休暇中。


 港の仕事。


 所在確認中。


 また、名前が変わっている。


 同じ人物の状態が、相手によって違う名で呼ばれている。


「ハンス本人の意思で姿を隠したのか、誰かに隠されたのか、まだ分かりませんね」


「分かりません」


 カレルは短く答えた。


「ただ、彼の作業机から、興味深いものが出ました」


 そう言って、彼は一枚の写しを机に置いた。


 古い搬出控えだった。


 日付は、南施療院未着事件の直前。


 品目は、北方系保温布。


 搬出先は、またしても。


 王宮指定先急送


 クラリスは、紙を見つめた。


 息が浅くなる。


 南施療院の未着事件と同じ時期。

 同じような品目。

 同じ便利な搬出先表記。

 そして、今回のハンスの机から出てきた控え。


「これは正式帳簿にありますか」


 エリオットがすぐに財務院控えを確認した。


「……少なくとも、私が持っている南施療院関連一覧にはありません」


「では、商会内部控え?」


 カレルが頷く。


「その可能性が高いです。正式に提出されたものではなく、ハンス個人の作業控えと思われます」


「なぜ机に残っていたのでしょう」


 ミレーヌが言った。


 誰もすぐには答えなかった。


 残したのか。


 残ってしまったのか。


 隠そうとして忘れたのか。


 あるいは、いざという時のために持っていたのか。


 まだ分からない。


「ギデオン・マースとの関係は?」


 クラリスが尋ねる。


 カレルは二枚目の資料を出した。


「ハンスの机から、ギデオン・マースの古い連絡先と思われる紙片も出ています。ただし、古い港湾仲介人の連絡先を商会倉庫係が持っていること自体は、不自然とは言い切れません」


「また、足跡ですね」


「はい」


 クラリスは、紙片の写しを見た。


 ギデオン・マース。


 その名は、すでに何度も出てきている。


 リーヴェ商会の倉庫変更。

 南施療院未着事件。

 旧バルツァー派に近い港湾記録補助官ハーゲン。

 そしてハンス・ベルトの机。


 まだ線は細い。


 だが、一本ではなくなっている。


 エリオットが静かに言った。


「ハーゲンの件ですが」


 全員が彼を見る。


「財務院内で確認しました。ハーゲン補助官は現在、古い港湾帳簿の整理部署にいます。昨日から病欠です」


 また、部屋の空気が重くなった。


「病欠」


 クラリスが繰り返す。


「正式な病欠届は?」


「医師の診断書は未提出。上司への口頭連絡のみです」


 イリスが壁際で小さく言った。


「皆様、体調を崩される時期が重なりますね」


 皮肉というより、冷静な観察だった。


 オスカーが記録する。


 ハンス・ベルト:無届休暇に近い所在不明。ハーゲン補助官:診断書未提出の病欠。いずれも現物不一致発覚後。


 クラリスは、少しだけ目を閉じた。


 怒りをそのまま紙に落としてはいけない。


 疑いを断定にしてはいけない。


 けれど、重なる事実は重なる事実として書かなければならない。


「この二件は、状態名で記録しないようにしましょう」


 クラリスは言った。


「休暇中、病欠、所在確認中。それだけでは足りません。申請書の有無、連絡者、連絡日時、承認者、現在所在を分けます」


 カレルが頷いた。


「王弟府でも同じ形式で整理します」


 ミレーヌが自分の紙に書く。


 休暇中・病欠で終わらせない。誰が、いつ、誰に言ったか。


 それを見て、クラリスは少し頷いた。


 仕事の仕方が、妹の中に染み込み始めている。


 怖がりながらも、分ける。


 その日の夕方、リーヴェ商会へ再照会が出された。


 文面はさらに絞られた。


 ハンス・ベルトの正式休暇申請書の有無。

 口頭休暇の申告を受けた者。

 申告日時。

 休暇承認者。

 ハンス本人の現在連絡先。

 妻への説明と商会への説明が異なる理由。

 ハンスの机から発見された南施療院関連搬出控えの由来。

 ギデオン・マースとの関係。


 あわせて、財務院へはハーゲン補助官の病欠に関する確認が送られた。


 診断書の有無。

 連絡日時。

 直属上司。

 担当帳簿。

 現物不一致関連資料へのアクセス権限。


 どちらも、まだ処罰ではない。


 まだ不正断定でもない。


 だが、便利な状態名の下に隠れたものを、一つずつ引き出す照会だった。


 夜、王宮筆頭実務顧問室では、今日の報告書がまとめられた。


 表題。


 ハンス・ベルト所在確認および関連記録報告


 主な内容。


 一、リーヴェ商会はハンス・ベルトを休暇中と回答。

 二、正式休暇願は未確認。

 三、商会側説明と家族側説明が相違。

 四、ハンス机上から南施療院未着事件時期に近い“王宮指定先急送”搬出控えを確認。

 五、ギデオン・マース連絡先と思われる紙片を確認。

 六、財務院ハーゲン補助官も現物不一致発覚後に病欠。診断書未提出。

 七、休暇中・病欠・所在確認中等の状態名だけでは不十分。申請者、承認者、日時、所在を分けて記録する必要あり。


 クラリスは、最後に一文を加えた。


 休暇は、所在不明の別名ではない。


 オスカーがその一文を見て、少しだけ目を上げた。


「強いですね」


「強いですか」


「はい」


「弱めますか」


「いいえ。必要だと思います」


 イリスも頷いた。


「休暇は休むためのもので、消えるためのものではございません」


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「それも強いわね」


「必要かと」


 ミレーヌは、自分の札に新しい一文を書いていた。


 人が消えた時も、名前を分ける。


 倉庫係。

 搬出確認者。

 休暇中の者。

 所在確認中の者。

 父親。

 夫。

 証言者候補。


 どれも同じハンス・ベルトだ。


 だが、どの名前で呼ぶかによって、見えるものが変わる。


 イリスが終業の札を置いた。


 今日は帰る


 クラリスは、国際案件の箱を見た。


 そこに今日の報告書を入れる。


 箱はさらに重くなった。


 だが、今日の重さは布ではない。


 人の所在の重さだった。


 休暇中の倉庫係は、休暇願を出していなかった。


 正しい布がないだけではない。


 その布を動かしたかもしれない人もまた、名前を変えて見えなくなっていた。


 次は、その人の足跡を追う番だった。

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