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第89話 ない布は、臨時棚に名前を変えていた

 リーヴェ商会からの一次回答は、約束通り翌日に届いた。


 約束を守った。


 そこだけを見れば、商会は誠実だったと言える。


 だが、王宮筆頭実務顧問室の机に広げられた書類を見た瞬間、クラリスは小さく息を吐いた。


「……増えましたね」


 オスカーが言った。


「ええ」


「分かったことが、ですか」


「分からないことが、です」


 リーヴェ商会の一次回答には、同日搬入・搬出の棚記録が添付されていた。


 商会倉庫内の棚番号。

 搬入時刻。

 搬出時刻。

 商会内管理番号。

 品目名。

 備考欄。


 昨日確認した通常外套用毛織物八梱の記録もある。


 L-204からL-211。


 その隣に、同じ日に入った別の毛織物群が記されていた。


 北方厚織保温布 一梱 臨時棚C-3


 クラリスは、その一行に目を止めた。


 臨時棚。


 また便利な言葉が出てきた。


 オスカーも同じ場所を見ている。


「これが、正しい布でしょうか」


「可能性はあります」


 クラリスは答えた。


「ただし、もう搬出済みです」


 行の右端には、搬出記録がある。


 搬出時刻は、NVT-S-007が仕立て場で開封される前日の午後。


 搬出先は――。


 王宮指定先急送


 クラリスは、無言でその文字を見つめた。


 王宮指定先。


 急送。


 どちらも、最近見飽きるほど見た便利な言葉だった。


 ミレーヌが横から覗き込み、顔を曇らせる。


「また、王宮指定先ですか」


「はい」


「具体名は?」


「ありません」


「急送の理由は?」


「ありません」


「搬出確認者は?」


「商会内担当印だけです。氏名はありません」


 ミレーヌは少しだけ唇を結んだ。


 その表情には、以前のような混乱だけではなく、明確な違和感が浮かんでいた。


「それでは、届いたか分かりません」


「そうです」


 クラリスは頷いた。


「それに、どこへ行くべきだったかも分かりません」


 イリスが茶を置きながら、静かに言った。


「ない布は、名前を変えていたのでございますね」


 クラリスは、その言葉に少し目を細めた。


「ええ。臨時棚、王宮指定先、急送。名前を変えながら、足跡が薄くなっています」


 オスカーが記録する。


 北方厚織保温布一梱、臨時棚C-3へ一時保管後、“王宮指定先急送”として搬出。搬出先具体名・理由・確認者名なし。


 エリオットは、財務院側の控えと照合していた。


 顔色がいつもより悪い。


「財務院の港湾記録には、この臨時棚C-3の記載はありません」


「商会倉庫内の移動だからですか」


「はい。港湾を出た後の商会内部移動です」


「財務院の減免記録には?」


「NVT-S-007と同じ試験経路対象の施療院保温布として登録された一梱は、港湾到着までは確認されています。そこからリーヴェ商会経由で指定仕立て場へ向かう予定でした」


「しかし、実際には」


「一梱は低等級布でした」


 エリオットは書類を押さえた。


「そして、正しい可能性のある保温布一梱は、商会倉庫内で臨時棚へ置かれ、“王宮指定先急送”として搬出されています」


 言葉にすると、流れが見えた。


 ただし、それはまだ推測だ。


 断定してはいけない。


 クラリスは白紙を出した。


 見出し。


 臨時棚C-3搬出記録に関する追加確認事項


 一、臨時棚C-3へ移した理由。

 二、北方厚織保温布一梱の商会内管理番号。

 三、NVT-S-007との対応関係の有無。

 四、“王宮指定先急送”の具体的搬出先。

 五、急送指示者名。

 六、搬出確認者名。

 七、搬出時の現物確認有無。

 八、搬出時の端印・等級確認記録。

 九、受領書の有無。

 十、急送後の追跡記録。


 ミレーヌがその一覧を見て、小さく言った。


「十個」


「多いです」


「でも、減らせませんね」


「はい」


 イリスが珍しく、何も札を出さなかった。


 増やす前に減らす、と言わない。


 今は、減らす段階ではないと判断したのだろう。


 その日の午後、リーヴェ商会の代理人マルティン・ケイルが呼ばれた。


 場所は王宮中央棟の小会議室。


 出席者は、クラリス、オスカー、エリオット、王弟府調査官カレル。


 リーヴェ商会側は、マルティンのみ。


 商会主サムエル・リーヴェは来なかった。


 代わりに、丁寧な書簡が添えられている。


 本件については代理人マルティン・ケイルに説明権限を委任しております。


 それもまた、少し引っかかった。


 商会主が出てこない。


 代理人に任せる。


 責任署名と現物確認の問題に似ている。


 上は署名する。


 実際に説明するのは下。


 そして、どこまで下が知っているのかは分からない。


 マルティンは、昨日よりさらに顔色が悪かった。


 だが、まだ商会代理人としての姿勢は崩していない。


「クラリス顧問。本日は、一次回答の補足ということで」


「はい」


 クラリスは、臨時棚C-3の記録を机の上に置いた。


「この一梱について確認します」


 マルティンの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「北方厚織保温布ですね」


「はい。臨時棚C-3へ置かれ、その後“王宮指定先急送”として搬出されています」


「そのようです」


「そのようです、ではなく、あなたが昨日提出した一次回答の添付記録です」


「はい」


 マルティンは口元を引き締めた。


「確認します。臨時棚C-3へ移した理由は?」


「一時的な棚整理です」


「棚整理」


「通常外套用毛織物と、施療院保温布を分けるためだったと聞いております」


「誰から?」


「倉庫係から」


「倉庫係名は?」


 マルティンは答えに詰まった。


「確認中です」


 カレル調査官が静かに記録した。


 クラリスは次へ進む。


「“王宮指定先急送”の具体的搬出先は?」


「王宮指定の仕立て関係先と聞いております」


「名称は?」


「確認中です」


「急送指示者名は?」


「確認中です」


「搬出確認者名は?」


「商会担当印があります」


「氏名は?」


「確認中です」


 同じ言葉が続く。


 確認中。


 確認中。


 確認中。


 クラリスは、声を荒げなかった。


 ただ、机の上に一枚の紙を置いた。


 確認中一覧


 マルティンの顔が少し強張る。


「顧問、それは」


「確認中の項目を一覧化します」


「弊商会が何も答えていないように見えます」


「実際に、まだ答えがありません」


 クラリスは静かに言った。


「確認中は、回答ではありません。回答期限をつけて、未回答として扱います」


 マルティンは、唇を噛みそうになった。


 エリオットが補足する。


「財務院側でも同じ扱いになります。減免対象物資に関する搬出先が確認中のままでは、処理を閉じられません」


「商会としても急ぎ確認しております」


「では、いつまでに」


 クラリスが尋ねた。


「三日以内に」


「明日中に一次回答を」


「またですか」


「現物不一致が出ています」


 クラリスは、彼の目を見た。


「正しい布かもしれない一梱が、王宮指定先急送として消えています。三日は長すぎます」


 マルティンは沈黙した。


 カレルが静かに言った。


「王弟府としても、保全が必要と判断する可能性があります」


 その一言で、マルティンは明らかに肩を硬くした。


「……本日中に、分かる範囲を提出します」


「分かる範囲と、分からない範囲を分けてください」


 クラリスは言った。


「分からない場合は、なぜ分からないのかも記してください」


 マルティンは頷いた。


 弱く、しかし確かに。


 会議の後、エリオットは小さく息を吐いた。


「確認中が多すぎます」


「はい」


「これでは積み間違いの説明が成り立ちません」


「現時点では」


 クラリスは慎重に言った。


「現時点では、成り立ちません」


「商会内部で、誰かが意図的に足跡を薄くしている可能性があります」


「可能性です」


「はい。可能性です」


 エリオットは言い直した。


 以前より、彼も断定を急がなくなっている。


 王弟府調査官カレルが資料を閉じた。


「臨時棚C-3の搬出記録は、王弟府で写しを保全します」


「お願いします」


「また、“王宮指定先急送”という表記は、過去のリーヴェ商会記録にも出ています」


 クラリスは顔を上げた。


「何件?」


「確認中の範囲で、少なくとも五件」


 また、確認中。


 だが今度は、王弟府側の確認中だった。


「南施療院未着事件との重なりは?」


「一件、時期が近いものがあります」


 クラリスは、ゆっくり息を吸った。


「足跡が増えましたね」


「はい」


 カレルは淡々と答えた。


「ただし、まだ足跡です」


「分かっています」


 その夕方、ミレーヌは自分の小さな作業机で、臨時棚C-3の流れを図にしていた。


 NVT-S-007。

 低等級布。

 通常外套用八梱。

 正規保温布の可能性がある一梱。

 臨時棚C-3。

 王宮指定先急送。

 搬出先不明。


 線を引くと、途中で急に途切れる。


 その途切れた場所に、彼女は小さく丸をつけた。


 クラリスが覗き込む。


「そこが気になりますか」


「はい」


「なぜ?」


「名前が変わっています」


 ミレーヌは言った。


「港では施療院保温布。商会では北方厚織保温布。棚では臨時棚C-3。搬出では王宮指定先急送。名前が変わるたびに、何のための布だったか薄くなっています」


 クラリスは黙った。


 とても重要な指摘だった。


 名前が変わる。


 それは、ただの表記揺れではない。


 目的が薄くなる過程だ。


 施療院病床用。


 それが、保温布になり、臨時棚になり、急送になり、王宮指定先になる。


 最後には、誰のためだったか見えなくなる。


「記録しましょう」


 クラリスは言った。


「名称変化による目的希薄化」


 オスカーが、すぐに筆を取った。


 ミレーヌは少し驚く。


「私の言葉が、また」


「大事な観察です」


 クラリスは答えた。


「布の名前が変わるたびに、目的が薄くなる。それを防ぐには、最初の目的欄を最後までつなげる必要があります」


 ミレーヌは頷いた。


 そして、自分の札に書いた。


 名前が変わっても、目的は消さない。


 イリスが背後から見て、少し微笑んだ。


「よい札ですね」


「これは私用です」


「承知しております」


 今回は、本当にそれ以上は言わなかった。


 夜になって、リーヴェ商会から本日中の一次補足が届いた。


 内容は短い。


 臨時棚C-3の北方厚織保温布一梱は、商会内で「王宮急送品」として扱われた。


 急送指示は、商会内部の口頭連絡による。


 指示者は確認中。


 搬出先は、王宮指定先と伝達されていたが、具体記録なし。


 搬出確認者は商会倉庫係ハンス・ベルト。


 ただし、ハンスは現在休暇中で所在確認中。


 クラリスは最後の行を読み、目を閉じた。


「所在確認中」


 オスカーが言った。


「また確認中です」


「ええ」


 ハンス・ベルト。


 新しい名前が出た。


 そして、その人物は今、所在確認中。


 偶然かもしれない。


 だが、偶然という言葉もまた便利だ。


 クラリスは新しい紙を出した。


 ハンス・ベルト確認事項


 一、商会倉庫係としての担当範囲。

 二、臨時棚C-3搬出時の立会有無。

 三、王宮急送品の指示を受けた相手。

 四、休暇申請日。

 五、休暇承認者。

 六、現在の連絡先。

 七、過去のリーヴェ商会・ギデオン・マース関連記録との関係。


 レオンハルトへ速報が送られた。


 返答は短かった。


 王弟府で確認する。商会側には、任意協力を継続させよ。


 クラリスは、その文面を読み、国際案件の箱を開いた。


 今日は、入れる紙が多い。


 臨時棚C-3記録。

 確認中一覧。

 名称変化による目的希薄化。

 ハンス・ベルト確認事項。


 箱は、また重くなる。


 イリスが終業の札を置いた。


 今日は帰る


 クラリスは、箱を見た。


「今日は、帰りにくいですね」


「帰りにくい日ほど、帰る練習が必要でございます」


「正論ね」


「はい」


 ミレーヌも、自分の札を鞄にしまった。


 名前が変わっても、目的は消さない。


 ない布は、臨時棚に名前を変えていた。


 そして、王宮指定先急送という言葉の中で、また見えなくなっていた。


 正しい布は、まだ見つからない。


 だが、名前が変わる場所は見えてきた。


 次は、その名前を変えた人を探すことになる。

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