第9話 王宮臨時顧問、初出勤いたします
王宮西棟の一室に、新しい札が置かれていた。
白木に金の縁取り。
文字は黒。
余計な装飾はない。
そこには、こう刻まれている。
王宮臨時顧問 クラリス・フォン・エルディア
クラリスは、その札の前でしばらく立ち止まった。
王宮の机に、自分の名が置かれている。
そんなことは初めてではない。
王太子妃候補として使っていた控えの机にも、彼女の名を示す小さな札はあった。
だが、あれは名札に近かった。
誰の席かを示すだけのもの。
今、目の前にある札は違う。
これは、役職を示している。
この机に座る者が、何の権限を持ち、何を担い、どこまで責任を負うのか。
それを王宮が認めた証だった。
「お嬢様」
背後でイリスが声をかける。
「はい」
「触ってみますか」
「子どもではないわ」
「では、私が触っても?」
「なぜあなたが?」
「記念に」
クラリスは振り返った。
イリスはいつもどおり無表情だが、目だけが少し楽しそうだった。
「浮かれているの?」
「はい」
「正直ね」
「お嬢様が、ようやく王宮の備品から人間になられましたので」
「その表現、昨日も似たようなことを言っていたわ」
「何度でも申し上げます。大事なことですので」
クラリスは、小さく息を吐いた。
叱る気にはならなかった。
イリスはこの札を、自分以上に喜んでいるのかもしれない。
この十年、隣で見ていたのだ。
クラリスが正式な席もなく、権限もなく、ただ責任だけを背負ってきた姿を。
クラリスは、そっと札に指先を触れた。
木の感触はなめらかだった。
「……軽いのね」
「札でございますから」
「そうね」
けれど、胸の奥には重く響く。
この札を置かれた以上、もう以前のようには働けない。
いや、働いてはいけない。
それは自由であると同時に、少し怖いことでもあった。
部屋は広すぎず、狭すぎない。
窓際には執務机。
壁際には書棚。
中央に打ち合わせ用の丸卓。
隣室には補佐官用の小部屋もある。
以前、クラリスが王太子妃候補として使っていた控えの間より、ずっと実務向きだった。
机の上には、まだ何も置かれていない。
何も。
それを見て、クラリスはわずかに落ち着かなくなった。
「書類がないわ」
「よろしいことです」
「初日なのに」
「初日だからでございます」
イリスは窓を開けながら言う。
「まずは部屋の空気を入れ替え、お茶を飲み、椅子の座り心地を確認する。それで十分です」
「十分かしら」
「十分でございます」
その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
少し速い。
けれど走ってはいない。
走りたいのを我慢している足音だった。
イリスが扉の方を見た。
「来ましたね」
「誰が?」
「書類が」
扉が叩かれた。
「クラリス顧問。オスカーです。入室してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
扉が開く。
王宮書記官オスカー・ベルンが入ってきた。
両腕に書類を抱えて。
その後ろにも、文官補佐が二人。
やはり書類を抱えている。
クラリスは、机の空白が埋まっていくのを見た。
一束。
二束。
三束。
イリスの目が、冷たく細くなる。
「オスカー様」
「はい」
「初日から山でございますか」
オスカーは慌てて首を振った。
「いえ、これは山ではありません」
「では?」
「選別済みの丘です」
沈黙が落ちた。
イリスは表情を変えないまま言った。
「丘にしては、標高が高いようですが」
「未選別の山脈は書記官室に残してきました」
「持ってこなかった点だけは評価いたします」
「ありがとうございます」
なぜかオスカーは真面目に礼をした。
クラリスは思わず口元を押さえそうになった。
笑っている場合ではない。
しかし、以前ならこんな軽口を聞く余裕もなかっただろう。
「オスカー様」
「はい」
「優先順位は?」
オスカーの表情が、すぐに実務のものへ戻る。
「最優先は、ノルヴァルト公国への謝罪文草案です。大使館からは、正式晩餐会の延期は取り下げないが、王宮側の説明を待つとの返答が来ております」
「期限は?」
「本日夕刻までに第一草案。明朝、王弟殿下の確認を経て、明後日までに大使館へ」
クラリスは頷いた。
「次は?」
「神殿への冬季配分内示。フィオナ司祭より、薪契約は仮押さえ済みとの連絡がありました。ただ、正式な金額がまだです」
「財務院は?」
「渋っています」
「いつもどおりね」
そう言ってから、クラリスは少しだけ目を伏せた。
いつもどおり。
その言葉を、また自分の中に戻してはいけない。
今は、いつもどおり一人で処理する立場ではない。
「三つ目は?」
「慈善用布地の購入記録です。ハイム商会の件を含みます」
クラリスの視線が、書類の一束へ向いた。
厚い。
予想以上に厚い。
「王宮分だけで?」
「いえ。王宮分、神殿経由分、貴族家寄付分の一部照合資料です」
「エルディア家の分は?」
「イリス嬢から写しをいただいております」
クラリスは、イリスを見た。
「いつの間に」
「昨日のうちに」
「私に言わずに?」
「言えば、お嬢様が夜中に照合を始めると思いましたので」
否定できなかった。
オスカーも何も言わない。
ただ、そっと視線を逸らした。
「他には?」
クラリスが尋ねると、オスカーは一瞬だけ迷った。
迷った時点で、他にもある。
「王妃執務院の未処理案件が十二件。王太子殿下の政務再教育資料が五件。ミレーヌ様の教育計画に関する確認が三件。王宮補佐官制度案について、マルタ女官長より意見照会が二件」
イリスが無言でオスカーを見た。
オスカーは、少しだけ後退した。
「選別済みです」
「山脈を残してきたという言葉だけは、嘘ではなさそうですね」
「はい」
クラリスは、机の上の書類を見た。
頭の中で、勝手に順番が組み上がっていく。
謝罪文は最優先。
神殿配分は遅らせられない。
ハイム商会は証拠保全が先。
王妃執務院の未処理案件はマルタと分担。
王太子の再教育はレオンハルトに一部任せる。
ミレーヌの教育計画は、手を出しすぎない。
考えながら、彼女は自然に羽根ペンへ手を伸ばした。
その手を、イリスが止めた。
「お嬢様」
「何?」
「まだ、お茶を飲んでおりません」
「今は」
「初出勤の最初の仕事は、お茶です」
「それは仕事ではないでしょう」
「違います。お嬢様にとっては訓練でございます」
オスカーが小さく頷いた。
「賛成です」
クラリスは、少しだけ困ったように二人を見た。
すると、扉の外から声がした。
「私も賛成だ」
レオンハルトだった。
黒い上着に王弟府の徽章。
いつもどおり静かな足取りで入ってくる。
オスカーと文官補佐が礼をした。
「殿下」
「続けてくれ。私は監視に来ただけだ」
「監視?」
クラリスが聞き返すと、レオンハルトは机の上の書類を見た。
「初日から全部片付けようとしていないかどうか」
「まだ何もしておりません」
「羽根ペンを取ろうとした」
「見ていらしたのですか」
「廊下からでも気配で分かる」
イリスが淡々と頷く。
「殿下、お見事でございます」
「褒められるほどのことではない。クラリスは分かりやすい」
「わたくしが?」
クラリスは思わず聞き返した。
王宮で十年、表情を整え続けてきた自分が、分かりやすい。
そんなことを言われたのは初めてだった。
レオンハルトは、当然のように答える。
「仕事を見つけた時だけ、少し目が鋭くなる」
「……そうでしょうか」
「そうだな。獲物を見つけた鷹に近い」
イリスが頷く。
「近いですね」
「イリスまで」
「私は常に事実を申し上げます」
オスカーが、少しだけ肩を震わせた。
笑いを堪えている。
クラリスは咳払いした。
「それで、殿下。本日の進め方ですが」
「優先順位を決めるだけだ」
即答だった。
クラリスは瞬きをした。
「処理は」
「明日から」
「ですが、ノルヴァルト公国への謝罪文は」
「第一草案はオスカーが作る。君は確認する。今日、君が全文を書き直す必要はない」
オスカーが救われたような顔をした後、すぐに真顔に戻る。
「もちろん、草案は私が責任を持って作成いたします」
「神殿配分は」
クラリスが続ける。
「フィオナ司祭への仮内示は、昨日の君の私信で間に合っている。正式額は財務院との協議後でいい」
「ハイム商会は」
「証拠の保全が先だ。今すぐ君が全帳簿を読む必要はない」
「ですが」
反射的に言いかけて、クラリスは自分で口を閉じた。
ですが。
その言葉が、これまでどれだけ自分を机に縛りつけてきたか。
レオンハルトは、責めずに言う。
「契約書に、労働時間と休暇の項目がある」
「はい」
「君自身が守らなければ、王宮はまた守らなくなる」
静かな声だった。
けれど、その一言は強かった。
クラリスは机の上を見る。
書類の束は、確かに急ぎに見える。
全部、今日中に手をつけた方が安心できる。
けれど、それをすればどうなるか。
周囲はまた思う。
クラリスに渡せば、何とかなる。
期限がなくても、命令系統が曖昧でも、多少無茶でも、彼女は処理する。
そう思わせてしまえば、任命書も契約書も意味を失う。
「……分かりました」
クラリスは、ゆっくり言った。
「本日は、優先順位を決めるだけにいたします」
イリスが満足そうに茶を注いだ。
「歴史的快挙でございます」
「昨日も似たようなことを言っていたわ」
「毎日が歴史的快挙でございます」
レオンハルトが丸卓へ書類を移す。
「では、分類しよう」
「分類?」
クラリスが尋ねると、レオンハルトは持参していた小さな木札を並べた。
緊急。
明日でよい。
誰かに任せる。
断る。
クラリスは、最後の札で固まった。
「断る」
「一番重要だ」
「王宮の仕事を断るのですか」
「王宮の仕事ではなく、王宮が仕事の形をして押しつけてくる雑多なものを断る」
レオンハルトは、淡々と言った。
「例えば、兄上が今夜の夕食会で使う気の利いた冗談を考えてほしい、と言ってきた場合」
オスカーが遠くを見た。
「あり得ますね」
「断る」
イリスが即答した。
「完全に断ります」
クラリスは少し困った顔をする。
「殿下の公的な場であれば」
「気の利いた冗談は公務ではない」
レオンハルトの声は揺るがない。
「では、ミレーヌが封筒書きで泣きついてきた場合」
イリスが見る。
オスカーも見る。
レオンハルトも見る。
クラリスは沈黙した。
「……内容によります」
「断るに近い“任せる”だな」
レオンハルトが木札を示す。
「マルタ女官長に任せる」
「そうですね」
クラリスは小さく頷いた。
任せる。
その言葉にも、まだ慣れない。
自分がやるのではなく、適切な担当者に渡す。
それは怠慢ではない。
組織として当然のこと。
なのに、なぜか胸が落ち着かない。
オスカーが謝罪文の束を「緊急」に置く。
神殿配分を「緊急」に置きかけて、レオンハルトが「明日でよい」へ動かす。
「殿下」
クラリスが声をかける。
「薪契約が」
「仮押さえ済みだ。正式額は一日遅れても問題ない」
「ですが、施療院の薬草は」
「それは別件として緊急にする。まとめて抱えるな」
レオンハルトは書類を二つに分けた。
クラリスは、それを見つめる。
自分なら、一つの大きな問題として抱えていただろう。
神殿配分。
けれど、その中にも急ぐものと明日でよいものがある。
分ければ、少し軽くなる。
「なるほど」
クラリスは呟いた。
「何だ」
「仕事は、分けると軽くなるのですね」
オスカーが深く頷いた。
「名言です」
イリスがすかさず言う。
「お嬢様がそれをおっしゃる日が来るとは」
「そんなに?」
「はい」
クラリスは少し恥ずかしくなった。
レオンハルトは、ハイム商会の帳簿を手に取る。
「これは?」
「緊急です」
クラリスが即答した。
「理由は?」
「証拠を消される可能性があります」
「それは正しい」
レオンハルトは頷き、緊急に置いた。
クラリスは少し驚いた。
「そこは止めないのですね」
「止める理由がない。君が何でも緊急にするのは困るが、本当に緊急のものまで遅らせるのは無能だ」
その切り分け方が、クラリスには少し新鮮だった。
休めと言うから、すべて止めるのではない。
必要なものは進める。
不要なものは断る。
その判断を、一緒にしてくれる。
机の上の書類は、少しずつ山から形へ変わっていった。
緊急は三束。
明日でよいものは四束。
任せるものは六束。
断るものは一束。
断る束には、王太子の私的夕食会用の話題案、ミレーヌの私室模様替え相談、ローゼン侯爵夫人主催茶会の飾り花選定依頼が入った。
クラリスは最後の書類を見て、少しだけ迷う。
「飾り花は、茶会の空気に関わります」
「ローゼン侯爵夫人の私的茶会だ」
レオンハルトが言う。
「王宮主催ではない。断る」
「ですが、後々の関係が」
「彼女は、君が断れるか試している」
クラリスは顔を上げた。
「試している?」
「ああ。正式な顧問になった君が、今までのように社交界の雑務まで拾うかどうか」
イリスが低く言う。
「嫌な方ですね」
「嫌なだけなら扱いやすい。賢いから厄介だ」
レオンハルトは書類を断る束へ入れた。
「これは断る。文面は丁寧に、だが明確に」
クラリスは少し考え、頷いた。
「分かりました」
その時、廊下で小さな騒ぎが起きた。
扉が叩かれる。
マルタ女官長の部下である若い女官が入ってきた。
「クラリス顧問。失礼いたします」
「どうしました」
「儀礼局より確認です。ミレーヌ様の教育計画について、初回は封筒書きでよろしいかと」
クラリスは一瞬、答えかけた。
封筒書きなら、まず家格順。
それから敬称。
次に喪中と祝い事の文例。
頭の中に、自然と計画が浮かぶ。
だが、レオンハルトの視線を感じた。
イリスの視線も。
オスカーまで、なぜか見ている。
クラリスは、ゆっくり息を吸った。
「その件は、マルタ女官長の判断にお任せします」
若い女官は少し驚いた顔をした。
以前のクラリスなら、その場で細かな指示を出していただろう。
「よろしいのですか?」
「ええ。ミレーヌの教育担当はマルタ女官長です。わたくしが口を出すべきではありません」
「承知いたしました」
女官が出ていく。
扉が閉まった後、イリスが小さく拍手した。
音が出ない程度に。
「お嬢様、素晴らしいです」
「子ども扱いしないで」
「成長を祝っております」
レオンハルトも頷く。
「今のは良かった」
「殿下まで」
クラリスは少し頬が熱くなるのを感じた。
たった一つ、任せただけだ。
それだけなのに、まるで大きな山を越えたような気がする。
午前の終わりまでに、すべての書類は分類された。
クラリスは、緊急の束だけを机の右側に置く。
それ以外は、それぞれ担当者へ回す準備をする。
以前なら、すべて自分の机に残した。
今日は違う。
残さない。
そう決めるたびに、少し胸がざわつく。
けれど、同時に呼吸がしやすくなる。
「これで、本日の仕事は」
イリスが言う。
「終了ではございませんが、午前の区切りです」
「まだ昼前よ」
「昼前ですので、昼食でございます」
「謝罪文の草案だけ確認してから」
「お嬢様」
「一枚だけ」
イリスが無言でレオンハルトを見る。
レオンハルトは、緊急の束から謝罪文草案を一枚取り、クラリスに渡す。
クラリスは少し勝った気になった。
だが、レオンハルトは言った。
「昼食後、二刻だけ確認する。今は読まない」
そして、草案を取り上げた。
「殿下」
「契約書」
「……はい」
クラリスは椅子から立ち上がった。
負けた気がする。
けれど、悪い負けではなかった。
昼食のために部屋を出る前、彼女は机の上を振り返った。
王宮臨時顧問 クラリス・フォン・エルディア。
その札の横には、分類された書類が並んでいる。
緊急。
明日でよい。
任せる。
断る。
たった四つの札。
けれど、それはクラリスにとって新しい地図だった。
どこまで行くか。
どこで止まるか。
誰に渡すか。
何を背負わないか。
その地図を、これから覚えていくのだ。
昼食後、クラリスは約束どおり謝罪文の確認に入った。
オスカーの草案は丁寧だった。
だが、ノルヴァルト公国の葬送菓子に関する表現が少し直接的すぎる。
「ここは、“貴国の大切な儀礼を十分に理解せず”ではなく、“貴国の大切な儀礼への配慮を欠き”にしましょう」
オスカーが書き留める。
「理解せず、では軽すぎますか」
「ええ。知らなかったから許してほしい、という響きになるわ。今回は、知るべき立場の者が配慮を欠いた、という形の方が誠実です」
「なるほど」
「ただし、王太子殿下個人の発言については、謝罪を深くしすぎると外交上の負債になります。王宮として再発防止を約束する形に」
「では、この一文を」
オスカーが素早く修正する。
以前と違う。
クラリスが一人で全文を書き直すのではない。
オスカーが草案を作り、クラリスが要点を直す。
文官としての彼の仕事があり、顧問としての彼女の仕事がある。
それでいい。
作業は思ったより早く終わった。
クラリスは、少し驚いた。
「早いですね」
オスカーも驚いた顔をした。
「早いですね」
二人で顔を見合わせる。
イリスが横から言う。
「お嬢様が全部なさらなければ、早いのでございます」
レオンハルトが頷く。
「その通りだ」
「皆で同じ結論を言わないでください」
クラリスは少し困ったように言った。
けれど、胸の奥は軽かった。
夕刻前。
緊急の三束のうち、謝罪文草案と神殿配分の仮整理が終わった。
ハイム商会の帳簿だけが残る。
クラリスは、その書類を手に取った。
今度は、レオンハルトも止めなかった。
「これは読むべきだ」
彼は言った。
「はい」
帳簿は数年分。
王宮慈善事業、神殿経由、貴族家寄付分。
ハイム商会の名は、思ったより何度も出てきた。
布地。
毛布。
施療院の寝台布。
孤児院の冬服。
どれも必要なものばかり。
そして、どれも少しずつ高い。
露骨ではない。
だからこそ厄介だった。
「三割高い年と、一割五分高い年があるわ」
クラリスは呟く。
「毎年同じではないのか」
レオンハルトが問う。
「同じなら見つけやすいからです。相場上昇に紛れさせている。けれど、納入時期が妙だわ。価格が上がった後に契約している」
オスカーが別の紙を出す。
「こちらが他商会の見積もりです」
「ありがとう」
クラリスは二枚を並べる。
数字は、やはり合わない。
ハイム商会だけではない。
別名の商会もある。
だが、筆跡や納入印の癖が似ている。
「この商会、実質的には同じ系列かもしれません」
「根拠は?」
レオンハルトの声は仕事のものになっている。
「納入印の枠飾りが同じです。商会印そのものは違いますが、同じ職人に作らせた可能性が高い。あと、請求書の余白の取り方も似ています」
オスカーが感心したように言う。
「そこまで見ますか」
「帳簿は、数字以外も話します」
クラリスは、さらに数枚をめくった。
そして、手を止めた。
「……これは」
「何だ」
「ハイム商会の保証人欄に、バルツァー財務卿の遠縁にあたる家の名があります」
室内の空気が変わった。
オスカーが身を乗り出す。
「本当ですか」
「ただし、これだけでは弱いわ。親族関係そのものは違法ではありません」
レオンハルトが言う。
「利益還流の証拠が必要だな」
「はい」
クラリスは帳簿を閉じた。
初日から、見つけてしまった。
いや、最初からそこにあったのだ。
ただ、誰も並べて見なかっただけ。
「殿下」
「何だ」
「この件は、慎重に進めた方がよろしいかと」
「ああ。バルツァーは古い。財務院にも社交界にも根がある」
レオンハルトの目が細くなる。
「正面から斬れば、周囲が騒ぐ」
「では」
「証拠を集める。君は帳簿を見る。オスカーは記録を洗う。私は財務院の人の流れを見る」
イリスが静かに言う。
「私はお嬢様が深夜まで帳簿を見ないよう監視いたします」
「そこも重要だ」
レオンハルトが即答した。
クラリスは、何か言おうとしてやめた。
どうやら本当に重要らしい。
その日の終業時刻。
イリスは容赦なくインク壺の蓋を閉めた。
「終了でございます」
「あと一枚」
「終了でございます」
「本当に一枚だけ」
「お嬢様。契約書」
クラリスは、手を止めた。
レオンハルトが扉のところで待っている。
オスカーは書類を抱えながら、心なしか安心した顔をしていた。
「クラリス顧問が帰られるなら、書記官室も帰りやすくなります」
その一言で、クラリスは完全に手を離した。
自分が残れば、周りも残る。
以前は考えなかったことだ。
いや、考える余裕がなかった。
「分かりました。帰ります」
イリスが満足げに頷いた。
「素晴らしいです」
レオンハルトが言う。
「初出勤にしては上出来だ」
「褒められているのでしょうか」
「かなり」
クラリスは立ち上がり、机の札を一度だけ見た。
王宮臨時顧問。
今日、彼女はすべてを片付けなかった。
断った。
任せた。
明日に回した。
そして本当に必要なものだけを見た。
それでも、王宮は崩れなかった。
その事実が、少しだけ嬉しかった。
部屋を出る直前、クラリスはハイム商会の書類に視線を戻す。
帳簿の奥に、何かがある。
王宮が見ないふりをしてきたもの。
慈善の名を借りて、誰かが少しずつ抜き取ってきたもの。
クラリスは静かに扉を閉めた。
明日から、そこに手を入れる。
ただし、一人ではない。
そのことが、以前とは決定的に違っていた。




