第10話 帳簿は、誰よりも正直です
帳簿は、嘘をつかない。
クラリスはそう思っている。
もちろん、帳簿に嘘を書く人間はいる。数字をずらす者もいるし、名目を変える者もいる。必要な支出に見せかけて、別の場所へ金を流す者もいる。
けれど、帳簿そのものは正直だ。
嘘をつかされた帳簿ほど、どこかに歪みが出る。
行間。
日付。
署名。
印の角度。
毎年少しずつ変わる単価。
不自然に繰り返される商会名。
そういうものを、帳簿は黙って差し出してくる。
読める者が読むかどうかは、別として。
「……クラリス顧問」
向かいの席で、オスカーが帳簿をめくりながら言った。
「はい」
「これは、朝から見る量ではありませんね」
「では、昼からならよろしいですか」
「昼からでも重いです」
「夜よりはましでしょう」
「夜に見るつもりだったのですか」
オスカーの目が真剣になった。
クラリスは視線を逸らした。
「仮定の話です」
「イリス嬢に報告します」
「それはやめてください」
王宮臨時顧問室の丸卓には、慈善事業関連の帳簿が並んでいた。
王宮分。
神殿経由分。
貴族家からの寄付分。
商会の見積もり控え。
納入記録。
支払い承認書。
以前なら、クラリスはこれらを一人で黙々と読んでいた。
だが今日は違う。
オスカーが隣にいる。
イリスが少し離れた場所で茶を管理している。
さらに、王弟府から派遣された若い補佐官が、年度別に資料を並べ替えている。
一人ではない。
そのことにまだ慣れない。
「まず、ハイム商会の記録だけを抜き出します」
クラリスは、紙に線を引いた。
「品目別に。布地、毛布、寝台布、施療院用の包帯布、孤児院の冬服。この五つです」
「薬草は?」
「薬草は別商会名で出ていますが、後で照合します。最初から全部混ぜると、見えなくなるので」
オスカーが感心したように頷く。
「なるほど。私は逆に、関連しそうなものを全部まとめてしまっていました」
「それをすると、相手の作った迷路に入ることになります」
「相手の作った迷路」
「ええ。複雑に見えるものは、まず単純な束に分けます」
クラリスは帳簿をめくった。
指先が、ある行で止まる。
「この年。毛布の単価が前年より二割上がっています」
「その年は羊毛が不作だったと記録があります」
「ええ。ですから、上がること自体は不自然ではありません」
「では」
「翌年、羊毛相場は戻っています。なのに、単価は下がっていない」
オスカーが別の資料を引く。
「確かに」
「さらに、その翌年は別名義の商会から購入していますが、単価がほぼ同じ。見積もり書の書式も似ています」
「同系列の可能性があると」
「まだ可能性です」
クラリスは、別の紙に商会名を書き出した。
ハイム商会。
ルグラン織物商。
北門生活用品組合。
エルザック納入所。
名前は違う。
だが、請求書の余白が似ている。
数字の書き方も似ている。
そして、納入承認の仲介役に同じ家名が出てくる。
「オスカー様。この“ヴァルト家”について、家系記録を確認できますか」
「財務卿の遠縁ですね」
「やはり」
「ただ、遠縁というだけでは弱いです」
「分かっています」
クラリスは、羽根ペンの先で帳簿の端を示した。
「ですから、関係ではなく流れを見ます。誰が、いつ、どの名目で、いくら支払い、誰が承認し、どの商会が受け取ったか」
「金の流れですか」
「はい。人間は言い訳をしますが、金は移動した通りにしか残りません」
オスカーは、しばらくクラリスを見ていた。
「クラリス顧問」
「何でしょう」
「敵に回したくありませんね」
クラリスは瞬きをした。
「敵ではないでしょう」
「今のところは」
「オスカー様」
「冗談です。半分」
半分。
クラリスは少しだけ笑った。
その時、イリスが茶を置いた。
「お嬢様。お茶でございます」
「ありがとう」
「今のうちにお飲みください。帳簿は逃げません」
「証拠は逃げるかもしれないわ」
「では証拠保全はオスカー様に」
オスカーが即座に背筋を伸ばす。
「承ります」
イリスが満足そうに頷いた。
クラリスは、少し困ったようにカップを取る。
温かい茶を飲む。
その間にも、目は帳簿へ向かってしまう。
「お嬢様」
「見ていません」
「目が見ています」
「……見ないようにします」
オスカーが小さく笑った。
以前なら、この程度のやり取りすら無駄だと思っていたかもしれない。
けれど今は、この少しの隙間が必要なのだと分かり始めている。
息をしないまま書類を読むと、いつか判断を間違える。
午前の終わり頃、最初の一覧表ができた。
年度。
品目。
購入商会。
単価。
相場平均との差。
承認者。
仲介者。
並べてみると、見えなかったものが見えてくる。
「……思ったより広いですね」
オスカーが低く言った。
「はい」
クラリスも頷く。
ハイム商会だけではない。
別名義の商会を含めると、慈善関連物資のかなりの割合に同じ系列が入り込んでいる。
一件一件は小さい。
だが、年数を重ねれば大きい。
孤児院の毛布が一枚減る。
施療院の包帯が少し質の悪いものになる。
冬服の納入が一週間遅れる。
帳簿上は、ささいな差に見える。
けれど、そのささいな差は、誰かの寒さや痛みに変わる。
クラリスは、一覧表を見つめた。
胸の奥が冷える。
「これは、ただの数字ではありませんね」
オスカーが言った。
クラリスは頷いた。
「ええ。人の冬です」
その言葉に、オスカーは黙った。
少しして、彼は羽根ペンを取り直す。
「では、丁寧に進めましょう」
「はい」
そこへ、扉が叩かれた。
補佐官が入ってくる。
「クラリス顧問。バルツァー財務卿がお見えです」
室内の空気が、一瞬で変わった。
イリスの表情が完全に消える。
オスカーは書類をさりげなく重ねた。
クラリスは、一覧表を裏返さなかった。
隠すような仕草は、かえって相手に確信を与える。
「お通ししてください」
ほどなくして、バルツァー財務卿が入室した。
五十代半ば。
広い額と、整えられた白髪。
濃い茶の上着は質がよく、無駄な装飾はない。
倹約家を装う者の服だった。
「クラリス顧問」
バルツァーは、穏やかに礼をした。
「ご就任、誠におめでとうございます」
「ありがとうございます、財務卿」
「さっそく熱心にお仕事をされているとか。さすがでございますな」
褒め言葉の形をしている。
だが、温度は低い。
「王宮に戻られたばかりで、財務の細部にまで踏み込まれるのはお疲れでしょう」
「お気遣いありがとうございます」
クラリスは微笑んだ。
「ですが、疲れていても数字は読めます」
オスカーがほんの少し下を向いた。
笑ったのかもしれない。
バルツァーの表情は変わらない。
さすがに古い政治家だ。
「頼もしいお言葉です。とはいえ、財務は複雑です。若い方が一見して不自然に思われる数字にも、相応の事情があるものです」
「ええ。ですから、事情を確認しております」
「ならば、私に直接お尋ねくださればよろしい」
「ありがとうございます。では、伺います」
クラリスは、帳簿を一冊開いた。
「ハイム商会からの毛布購入単価についてです。羊毛相場が戻った年にも、単価が下がっておりません。理由をご説明いただけますか」
バルツァーは、少しだけ目を細めた。
すぐに穏やかな顔に戻る。
「品質の向上ですな。孤児院や施療院に粗悪な品を届けるわけにはまいりません」
「品質検査の記録がありません」
「現場の判断でしょう」
「現場責任者の署名もありません」
「古い記録です。抜けもございましょう」
「では、こちらの別商会名義の納入品も同じ品質向上でしょうか」
クラリスは次の帳簿を開く。
「ルグラン織物商、北門生活用品組合、エルザック納入所。商会名は違いますが、請求書式が酷似しています。単価も近い。仲介者も同じヴァルト家です」
バルツァーの笑みが、ほんの少し深くなった。
「クラリス顧問。商会同士が同じ書式を使うことなど、よくあることです。王都では専門の代書屋もおりますからな」
「代書屋の名は?」
「そこまでは」
「確認していただけますか」
柔らかく、しかし逃がさない声だった。
バルツァーは一拍置く。
「もちろんです。ただ、財務院にも通常業務がございます。すぐにとは」
「急ぎません」
クラリスは言った。
「ただし、記録に残します」
オスカーの羽根ペンが走る。
バルツァーの視線が、一瞬だけその手元へ動いた。
記録に残る。
それを嫌がった。
クラリスは見逃さない。
「クラリス顧問」
バルツァーは声を少し低くした。
「王宮には、長年の慣例があります。すべてを紙の上で疑えば、回るものも回らなくなる」
「紙の上で回っているように見えるものが、現場では回っていないこともございます」
「現場とは?」
「孤児院の毛布が一枚減る場所です」
バルツァーは黙った。
オスカーも、イリスも、何も言わない。
「施療院の包帯が粗くなる場所。冬服が遅れる場所。そういう場所では、単価の一割も、遅延の一週間も、ただの数字ではありません」
「ご立派ですな」
バルツァーの声に、初めて棘が混じった。
「しかし、王宮財務は理想だけでは動きません。限られた予算の中で、現実的な判断をする必要がある」
「ええ。ですから、現実的に確認しています」
クラリスは、一覧表の一部を差し出した。
「誰が、どの商会から、いくらで買い、どの相場からどれだけ離れているか。理想ではなく、数字です」
バルツァーは一覧表を見た。
すぐには手に取らなかった。
取れば、そこに書かれたものを認めたことになる。
「……若い方は、熱意があってよろしい」
彼は穏やかに言った。
「ただ、熱意は時に人を急がせます。焦って結論を出されませぬよう」
「ご忠告、感謝いたします」
「必要であれば、財務院から追加資料を出しましょう。すべてをご覧になれば、単純な疑念は晴れるはずです」
オスカーの眉がわずかに動く。
追加資料。
おそらく、関係の薄い資料まで大量に出してくるつもりだ。
書類で溺れさせる。
クラリスは微笑んだ。
「ありがとうございます。では、年度別、品目別、商会別に分けてご提出ください」
バルツァーの笑みが止まった。
「……細かい分類ですな」
「財務院の資料でしたら、すでに整っているかと」
オスカーが、静かに視線を伏せた。
今度は完全に笑いをこらえている。
バルツァーは、わずかに顎を引いた。
「もちろんです」
「提出予定日は?」
「三日後に」
「記録を」
オスカーが書く。
「三日後、財務院より、慈善関連支出資料を年度別、品目別、商会別に分類のうえ提出」
バルツァーは、もう笑っていなかった。
いや、笑ってはいる。
だが目は笑っていない。
「では、失礼いたします。クラリス顧問」
「お忙しい中、ありがとうございました」
彼が退室すると、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
オスカーが深く息を吐く。
「……強いですね」
「財務卿が?」
「クラリス顧問が」
クラリスは首を傾げた。
「普通に確認しただけです」
「それが一番怖いのです」
イリスが頷く。
「お嬢様は、刃物を花瓶に挿してお渡しになるようなところがあります」
「そんなつもりは」
「ないから怖いのでございます」
クラリスは少し困った。
だが、バルツァー財務卿が警戒を強めたことは分かる。
彼は古い。
財務院に根がある。
おそらく王妃執務院にも、社交界にもつながりがある。
正面から急ぎすぎれば、証拠を消される。
あるいは、クラリス自身を「若い令嬢の思い込み」として孤立させる。
「オスカー様」
「はい」
「追加資料が出る前に、こちらでも商会登記と保証人記録を確認できますか」
「できます。王都商業台帳の写しを取ります」
「お願いします。あと、神殿経由の支出記録もフィオナ司祭へ確認を」
「それは正式依頼として?」
「はい。臨時顧問名で」
言ってから、クラリスは少しだけ背筋が伸びるのを感じた。
臨時顧問名で。
以前なら、私信や非公式の頼みで進めていた。
今回は違う。
手続きに乗せる。
記録に残す。
自分を守るためでもあり、相手に逃げ道を与えないためでもある。
「承知しました」
オスカーは立ち上がった。
「今日中に依頼書を整えます」
「無理のない範囲で」
オスカーが目を瞬かせた。
「今、何と?」
「無理のない範囲で、と」
「クラリス顧問が……私に……」
イリスが静かに言う。
「オスカー様、記録しておきますか」
「できれば」
「しないでください」
クラリスは思わず止めた。
その時、扉の外で別の足音が止まった。
今度は軽い。
侍女ではない。
文官でもない。
もっと柔らかく、迷いがちな足音。
扉が控えめに叩かれる。
「……お姉様」
ミレーヌの声だった。
イリスの表情がすっと消える。
オスカーは気配を薄くした。
クラリスは、少しだけ息を整える。
「どうぞ」
扉が開く。
ミレーヌは、王宮儀礼局の実務用ドレスを着ていた。
髪飾りはなく、手には紙束を抱えている。
華やかな王太子妃候補の姿ではない。
少し疲れた、見習いの顔だった。
「お忙しいところ、失礼いたします」
その挨拶に、クラリスは少し驚いた。
以前のミレーヌなら、まず「お姉様」と甘えるように入ってきただろう。
今は違う。
教えられたばかりの礼儀を、ぎこちなく守っている。
「どうしたの」
クラリスが尋ねると、ミレーヌは紙束を胸元で握った。
「マルタ女官長から、こちらを……クラリス顧問へお届けするようにと」
顧問。
妹の口からその肩書きが出る。
不思議な感覚だった。
ミレーヌは紙束を差し出す。
封筒書きの練習用紙だった。
赤で大量に直されている。
ほとんど赤い。
「これは、マルタ女官長から?」
「はい。王妃主催茶会の招待状案について、確認が必要な家名一覧だそうです」
「分かりました。受け取ります」
クラリスは手を伸ばした。
ミレーヌはすぐに引っ込めず、少し迷ったように立っている。
「何か?」
「あの……」
ミレーヌの目が揺れる。
泣きそう、というほどではない。
ただ、言葉の置き場所が分からない顔だった。
「封筒って」
「ええ」
「難しいのですね」
小さな声だった。
クラリスは、すぐには答えなかった。
簡単だと言えば嘘になる。
難しいでしょうと慰めれば、また甘えになる。
だから、事実を言った。
「間違えると、相手に届く前に失礼になるものだから」
「はい」
ミレーヌは俯く。
「私、三回どころではなく叱られました」
「そう」
「泣いたら、女官長に言われました。泣いても封筒の宛名は直りません、と」
オスカーが横で小さく咳をした。
イリスは目だけで「当然です」と言っている。
クラリスは、妹を見た。
「その通りね」
「……はい」
ミレーヌは、悔しそうだった。
でも、逃げてはいなかった。
「お姉様は、これをずっと?」
クラリスは少し考えた。
「封筒書きだけではないけれど」
「そう、ですよね」
ミレーヌは唇を噛んだ。
「まだ、よく分かりません。でも、私が知らなかったことが多すぎたのは、分かってきました」
クラリスは何も言わなかった。
今ここで褒めれば、ミレーヌはそこに寄りかかるかもしれない。
叱れば、潰れるかもしれない。
だから、短く言う。
「続けなさい」
ミレーヌが顔を上げる。
「え?」
「分かってきたなら、続けることです」
それだけ。
ミレーヌの目が少し潤んだ。
だが、涙はこぼさなかった。
「はい」
彼女は小さく礼をする。
「失礼いたしました、クラリス顧問」
扉が閉まる。
部屋に、少しだけ静けさが戻った。
イリスが言う。
「少しは進歩されたようですね」
「ええ」
クラリスは、ミレーヌが持ってきた紙束を見る。
赤い直しだらけの封筒練習。
かつてなら、クラリスが先に直していた。
ミレーヌが恥をかく前に。
今は違う。
彼女は叱られた。
失敗した。
自分で赤を見た。
それでいい。
それが学ぶということだ。
オスカーが静かに言った。
「クラリス顧問」
「はい」
「妹君の件も、帳簿の件も……今日は、いろいろなものが動きましたね」
「そうですね」
「王宮は、少しずつ形を変えるかもしれません」
クラリスは窓の外を見る。
西日が庭の石畳を染めていた。
王宮は古い。
重く、複雑で、簡単には変わらない。
けれど、今日一日だけでも変わったものはある。
仕事を分けた。
記録に残した。
断るものを断った。
帳簿の歪みを見つけた。
ミレーヌが封筒一枚の重さを知った。
小さなことばかりだ。
でも、王宮を変えるのは、きっとそういう小さなことからなのだろう。
その夜。
バルツァー財務卿の執務室には、一通の書簡が置かれていた。
宛先は、ローゼン侯爵夫人。
文面は短い。
例の令嬢が、帳簿を見始めました。
バルツァーは封蝋を押し、側近へ渡す。
「急ぎで届けよ」
「かしこまりました」
側近が去った後、彼は窓の外を見た。
王宮の灯りは美しい。
だが、美しい建物ほど、古い埃は奥に溜まる。
「若い娘が、数字を少し読めるからと」
バルツァーは低く呟いた。
「王宮の金の流れが、そう簡単に変わるものか」
その声は、誰にも届かなかった。
だが、静かな敵意だけは、確かに王宮の奥で動き始めていた。




