第11話 封筒一枚で、妹は三度叱られる
封筒など、名前を書くだけだと思っていた。
昨日までのミレーヌ・フォン・エルディアなら、きっとそう言った。
白く上質な紙。
王宮の紋章。
美しい筆跡で書かれた宛名。
蝋で封じれば、それで招待状は完成する。
それくらい、自分にもできる。
そう思っていた。
けれど、王宮儀礼局の長机に座らされて一刻もしないうちに、ミレーヌは自分が何も分かっていなかったことを思い知らされた。
「ミレーヌ様」
マルタ女官長の声は、低くも高くもない。
叱るために声を荒げる人ではなかった。
だから余計に怖い。
「はい」
「こちらの宛名を、もう一度お読みください」
ミレーヌは、目の前の封筒を見た。
自分では丁寧に書いたつもりだった。
ローゼン侯爵夫人宛ての招待状。
筆跡も乱れていない。
インクのにじみもない。
封筒の中央に、きちんと名前を書いた。
「ローゼン侯爵夫人、でございます」
「敬称が足りません」
「え?」
「ローゼン侯爵夫人は、王妃主催茶会の筆頭招待客です。この場合、家名と爵位だけでは不十分です。夫君の宮廷職、夫人本人の慈善委員会名誉職も踏まえた敬称が必要です」
ミレーヌは、目を瞬かせた。
「でも、長すぎませんか?」
「長くても必要です」
「封筒に入りませんわ」
「入るように書くのが仕事です」
隣で、若い女官が肩を震わせた。
笑ったわけではない。
たぶん、笑いそうになったのを堪えたのだ。
ミレーヌは頬が熱くなるのを感じた。
今まで、周りはそんなふうに自分を見なかった。
可愛い。
明るい。
素直。
少し失敗しても、仕方ないわね。
そういう目だった。
ここには、それがない。
失敗は失敗。
間違いは間違い。
泣きそうな顔をしても、封筒の文字は直らない。
「書き直します」
「はい。次」
マルタは別の封筒を差し出した。
今度は、ヴェルナー伯爵家宛てだった。
ミレーヌは慎重に筆を取る。
家名。
爵位。
夫人の名。
招待文。
今度こそ間違えないように。
そう思って書き上げると、マルタがすぐに言った。
「こちらも違います」
「どこがですか?」
つい、声が尖った。
マルタは気にしない。
「ヴェルナー伯爵家は現在、喪中です。祝いの文言は使えません」
ミレーヌは息を呑んだ。
書いたばかりの文面を見る。
王妃陛下のご快復を祝し、春の喜びを分かち合う茶会に――。
自分では綺麗な文だと思った。
だが、喪中の相手に「喜びを分かち合う」はない。
「……存じませんでした」
「存じないまま出せば、無礼になります」
マルタの返答は淡々としていた。
責めているのではない。
事実を示しているだけ。
それが、ミレーヌにはひどく痛かった。
「どうして、皆様はそんなことまで覚えていらっしゃるのですか」
「覚えているのではありません。記録し、確認するのです」
「記録……」
「クラリス顧問は、各家の慶弔、婚姻、病、領地問題、過去の茶会での失言まで、すべて表にしておられました」
また、姉の名。
ミレーヌは筆を握る手に力を入れた。
ここでも、やっぱりお姉様。
そう思いかけた瞬間、昨日の言葉が胸に刺さった。
知らなかった仕事を、軽いと言ったのですね。
そうだ。
自分は知らなかった。
知らないまま、軽いと言った。
「……書き直します」
マルタは頷いた。
「次」
三通目。
今度は、同じ家名の本家と分家の取り違えだった。
「こちらのエルヴァン伯爵家は本家ではなく、東領分家です」
「同じ家名ではありませんか」
「同じ家名だからこそ、間違えてはなりません。本家宛ての敬称で分家に送れば、分家は喜ぶでしょうが、本家が怒ります。分家宛ての敬称で本家に送れば、本家が激怒します」
「……どちらにしても怒るのですね」
「はい」
ミレーヌは、封筒を見つめた。
白い紙が、急に恐ろしいものに見えてきた。
封筒一枚。
それだけで、家門同士の不和が生まれる。
茶会へ招く前に、相手を怒らせることができてしまう。
自分は、そんなものを簡単だと思っていた。
「マルタ女官長」
「何でしょう」
「お姉様は……クラリス顧問は、これを毎回なさっていたのですか」
「はい」
「全部?」
「全部ではありません」
ミレーヌは、少しだけ顔を上げた。
違ったのか。
そう思った。
だが、マルタはすぐに続けた。
「封筒の前に、招待客の選定、家格順、席次、食事禁忌、花の意味、当日の会話誘導、帰りの馬車順まで確認しておられました。封筒は、その一部です」
ミレーヌは黙った。
もう、何も言えなかった。
自分がいま三度叱られたものは、姉がしていた仕事のほんの一部。
その一部すら、満足にできない。
「続けますか」
マルタが尋ねた。
声は冷たいわけではなかった。
ただ、逃げるなら今だと言われているように聞こえた。
ミレーヌは、喉の奥が熱くなるのを感じた。
泣きたい。
泣いてしまえば、誰かが優しくしてくれるかもしれない。
昔なら、そうだった。
お父様も、お母様も、侍女たちも、そしてお姉様も。
けれど、ここで泣けば。
自分はまた、封筒一枚から逃げたことになる。
「……続けます」
マルタは、一瞬だけ目を細めた。
「では、四通目です」
その頃、クラリスは王宮臨時顧問室で、ハイム商会に関する商業台帳の写しを確認していた。
机の上には、商会名を記した紙が何枚も並んでいる。
ハイム商会。
ルグラン織物商。
北門生活用品組合。
エルザック納入所。
それぞれ別の商会として登録されている。
だが、創業時期が近い。
保証人が似ている。
納入先が重なっている。
そして、どれも慈善関連物資に強い。
「偶然にしては整いすぎていますね」
オスカーが言った。
「ええ」
クラリスは頷く。
「ただ、整いすぎていること自体は証拠になりません」
「また証拠ですか」
「はい。言い逃れできる余地を残すと、財務卿は必ずそこへ逃げます」
「確かに」
オスカーは別の紙を差し出した。
「商業台帳では、ハイム商会の保証人がヴァルト家。ルグラン織物商の出資人がヴァルト家の姻族。北門生活用品組合は、一見無関係ですが、組合長の妻の実家が同じくヴァルト家につながります」
「広いですね」
「広いです。胃が痛いです」
「お茶を飲みますか」
「いただきます」
クラリスが茶器に手を伸ばそうとすると、イリスがすでに注いでいた。
「オスカー様、どうぞ」
「ありがとうございます」
「お嬢様も」
「ありがとう」
イリスはカップを置きながら、ちらりと時計を見る。
「お嬢様。あと半刻で昼食です」
「分かっているわ」
「本当に?」
「本当に」
「では、半刻後に帳簿を閉じていただきます」
クラリスは何か言いかけた。
だが、オスカーが先に言う。
「私もその方が助かります。クラリス顧問が閉じれば、私も閉じられます」
言われて、クラリスは口を閉じた。
そうだった。
自分が残れば、周りも残る。
まだ身についていない。
「半刻後に閉じます」
イリスは満足そうに頷いた。
そこへ、廊下の方から小さな声が聞こえた。
ミレーヌの声だ。
クラリスは無意識に顔を上げた。
扉は閉まっている。
だが、王宮の古い扉は音を完全には遮らない。
「……申し訳ございません。書き直します」
その声は、昨日よりずっと小さく、硬かった。
続いて、マルタの声。
「謝罪は必要ありません。直してください」
「はい」
クラリスの指先が止まった。
イリスが、それに気づく。
「お嬢様」
「何?」
「助けに行ってはいけません」
「行かないわ」
「本当に?」
「本当に」
クラリスは、帳簿へ視線を戻した。
でも、数字が一瞬ぼやけた。
妹が叱られている。
これまでなら、自然に体が動いただろう。
ミレーヌの隣へ行き、何が分からないのか尋ね、代わりに書いてやり、失敗しないよう手順を整える。
そうして、彼女が笑顔に戻るのを見て安心する。
けれど、それでは何も変わらない。
ミレーヌは自分で失敗しない。
自分で直さない。
自分で覚えない。
クラリスは、手元の商業台帳に意識を戻した。
「続けましょう」
オスカーが、少しだけ優しい声で言った。
「よろしいのですか」
「ええ。あの子の担当は、マルタ女官長です」
イリスが静かに頷く。
「その通りでございます」
その言葉を聞いて、クラリスは少しだけ胸の痛みを飲み込んだ。
昼前。
王宮儀礼局では、ミレーヌの前に失敗した封筒が積み上がっていた。
十通。
いや、十二通。
途中から数えるのをやめた。
インクのにじみ。
敬称違い。
家格順の間違い。
季節の挨拶の不適切さ。
喪中の家への文言。
本家と分家の取り違え。
自分の手で書いたものが、これほど赤く直されるとは思わなかった。
「休憩にします」
マルタが言った。
ミレーヌは、ほっとした。
だが、マルタは続ける。
「休憩の前に、間違えた理由を三つ選び、こちらの紙に書いてください」
「休憩では」
「それを書いてから休憩です」
「……はい」
ミレーヌは泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
泣いても封筒の宛名は直らない。
その言葉が、頭の中に残っていた。
彼女は紙を見つめる。
一つ目。
敬称を覚えていなかった。
二つ目。
相手の家の事情を確認しなかった。
三つ目。
同じ家名なら同じだと思った。
書いていて、だんだん恥ずかしくなる。
どれも、知らなかったからだ。
でも、知らなかっただけでは済まない。
知らないまま出せば、相手は傷つく。怒る。王宮の信用が落ちる。
昨日の蜂蜜菓子と同じだ。
知らなかった。
誰も教えてくれなかった。
そう言えば、許されると思っていた。
いや、許されると思っていたわけではない。
ただ、誰かが何とかしてくれると思っていた。
その誰かが、ずっと姉だった。
「できました」
ミレーヌは紙を差し出した。
マルタは目を通す。
「よろしい」
たった一言。
それだけだった。
でも、ミレーヌは少しだけ息が楽になった。
褒められたわけではない。
許されたわけでもない。
ただ、やったことを認められた。
それは、今までの「可愛いから大丈夫」とは違う重さだった。
「マルタ女官長」
「何でしょう」
「お姉様は……クラリス顧問は、最初からできたのですか」
マルタは、少しだけ考えた。
「最初から、あなたよりはできました」
容赦がない。
ミレーヌは小さく肩を落とした。
しかしマルタは続ける。
「ただし、最初から全てできたわけではありません」
「そうなのですか」
「十歳の頃のクラリス様も、封筒の敬称を間違えたことがあります」
ミレーヌは驚いて顔を上げた。
「お姉様が?」
「ええ。ですが、その日のうちに家格表を写し、翌日には同じ間違いをしませんでした」
ミレーヌは黙った。
姉は最初から完璧だったのではない。
間違えた後に、覚えた。
自分は、間違える前に助けてもらっていた。
だから覚えなかった。
「ミレーヌ様」
マルタの声が少しだけ柔らかくなった。
「あなたに必要なのは、今すぐクラリス顧問になることではありません」
「……はい」
「今日間違えたことを、明日一つ減らすことです」
ミレーヌは、手元の赤だらけの封筒を見た。
明日、一つ減らす。
それなら、できるだろうか。
分からない。
でも、やらなければならない。
「はい」
今度の返事は、先ほどより少しだけ強かった。
午後。
クラリスは、王妃執務院へ向かう途中でミレーヌとすれ違った。
妹は紙束を抱えていた。
目元は赤い。
でも、泣き崩れてはいない。
クラリスは足を止める。
ミレーヌも止まった。
「お姉様……いえ、クラリス顧問」
ぎこちない呼び方だった。
クラリスは少しだけ眉を下げる。
「今は二人だけだから、お姉様でいいわ」
ミレーヌの顔が、ほんの少し緩んだ。
けれど、すぐにまた緊張する。
「封筒を、十二通間違えました」
「そう」
「マルタ女官長に、たくさん叱られました」
「ええ」
「……笑わないのですか」
クラリスは首を傾げた。
「笑うこと?」
「だって、私はお姉様の仕事くらいできると言ったのに、封筒もまともに書けませんでした」
ミレーヌの声が震える。
「笑われても仕方ないと思います」
クラリスは、妹を見つめた。
今ここで「そんなことないわ」と言えば、たぶんミレーヌは少し救われる。
でも、それは違う。
彼女は今、初めて自分の言葉の重さに触れている。
それを軽くしてはいけない。
「笑わないわ」
クラリスは言った。
「でも、なかったことにもしません」
ミレーヌは唇を噛んだ。
「はい」
「封筒を十二通間違えたなら、明日は十一通にしなさい」
ミレーヌが顔を上げる。
「十一通も間違えていいのですか」
「いいとは言っていないわ」
「あ……」
「でも、一つ減れば前進です」
クラリスは、少しだけ柔らかく言った。
「続けなさい」
ミレーヌの目が潤む。
けれど、また泣かなかった。
「はい。続けます」
それだけ言って、彼女は深く頭を下げた。
以前のような可愛らしい礼ではない。
まだ不格好で、少し硬い。
でも、自分の足で立とうとする礼だった。
ミレーヌが去った後、イリスが背後から近づいてきた。
「お嬢様」
「何?」
「たいへんよろしい距離感でございました」
「評価されるの?」
「はい。姉としては八十点、顧問としては九十点です」
「残りは?」
「少し甘いです」
「厳しいわね」
「お嬢様にも、ミレーヌ様にも」
クラリスは小さく笑った。
その笑みは、少しだけ苦かった。
妹を助けないことは、簡単ではない。
突き放すことでも、見捨てることでもない。
見守るというのは、思ったより難しい。
その日の夕方、ミレーヌは儀礼局の机に一人残っていた。
今日間違えた封筒の写しを前に、家格表を開いている。
マルタ女官長は帰ってよいと言った。
でも、もう一つだけ確認したかった。
ローゼン侯爵夫人の正式敬称。
ヴェルナー伯爵夫人の喪中文例。
エルヴァン伯爵本家と東領分家の違い。
頭が痛い。
手も疲れた。
それでも、紙から目を離さなかった。
「明日は、十一通……」
小さく呟く。
その目の前に、誰かがそっと茶を置いた。
顔を上げると、若い女官がいた。
今日、ミレーヌの失敗を見て笑いそうになっていた子だ。
「冷めないうちにどうぞ」
「あ……ありがとう」
女官は少し迷い、それから言った。
「私も最初、封筒を十通間違えました」
「え?」
「でも、マルタ女官長には八通だと申告しました」
ミレーヌは思わず目を丸くした。
女官は、少しだけ笑った。
「すぐばれました」
「そう、なのですね」
「はい。女官長には全部ばれます」
それだけ言って、女官は去っていく。
ミレーヌは、置かれた茶を見る。
温かい。
慰めではない。
甘やかしでもない。
でも、少しだけ励まされた気がした。
彼女は茶を一口飲み、また家格表へ目を戻した。
その夜。
クラリスの机には、ミレーヌが持ってきた封筒練習用紙の写しが残っていた。
赤だらけの紙。
クラリスは、それを見つめる。
イリスが部屋の片付けをしながら言った。
「捨てますか」
「いいえ」
「保存なさるのですか」
「ええ」
「なぜ?」
クラリスは、少し考えた。
「いつか、あの子が自分で笑える日が来たら、見せるかもしれないわ」
「意地悪ですね」
「そう?」
「少し」
イリスは淡々と言った。
クラリスは紙を引き出しにしまう。
「でも、今はまだ見せない」
「はい」
「今は、あの子が自分で覚える時だから」
窓の外では、王宮の灯りが夜に浮かんでいた。
その灯りの下で、誰かが封筒を書き、誰かが帳簿を読み、誰かが謝罪文を直し、誰かが茶を淹れている。
見えない仕事が、今日も王宮を支えている。
ただ、昨日までと少しだけ違う。
それを見ている者がいる。
記録しようとしている者がいる。
そして、知らなかった者が、初めてその重さを手にしている。
封筒一枚で、妹は三度どころではなく叱られた。
けれどそれは、彼女がようやく王宮の入口に立ったということでもあった。




