第12話 社交界の古狸たちが動き出す
王宮で一番よく切れる刃物は、剣ではない。
茶会の席で交わされる、笑顔の一言である。
「まあ、クラリス顧問。改めまして、ご就任おめでとうございます」
ローゼン侯爵夫人は、そう言って優雅に微笑んだ。
王妃執務院の応接室には、春の花が飾られている。窓から差し込む光は柔らかく、卓上の茶器も磨き上げられていた。
穏やかな午後。
表向きは、祝辞の訪問。
けれど、クラリスは相手の目を見た瞬間に理解した。
これは祝辞ではない。
牽制だ。
「ありがとうございます、ローゼン侯爵夫人」
クラリスは、静かに礼を返した。
向かいに座るローゼン侯爵夫人は、濃紫のドレスをまとっていた。年齢を重ねたからこそ似合う、深く品のある色。
首元の真珠は一連だけ。
扇も派手ではない。
だが、すべてが高価で、すべてが計算されている。
この人は、身につけるものでも言葉を話す。
長年、社交界の中心にいた女性だ。
簡単に崩れる相手ではない。
「それにしても、若い方が正式なお役目をいただくなんて、本当に頼もしいことですわ」
「身に余るお役目と存じております」
「ご謙遜を。王宮を三日で止めた令嬢、と今や社交界でも評判ですもの」
イリスが背後で紅茶を注ぐ手を止めかけた。
クラリスは動かない。
王宮を三日で止めた。
その言い方は巧妙だった。
クラリスがいなくなったために王宮が止まった、という事実を、クラリスが止めたように響かせている。
「わたくしは、止めておりません」
クラリスは穏やかに言った。
「止まらないようにしていた手を離しただけでございます」
ローゼンの笑みが、ほんの少し深くなった。
「まあ。お上手ですこと」
「事実を申し上げただけです」
「その事実というものも、扱い方が難しいものですわね。強く言いすぎれば、角が立ちますもの」
クラリスは茶を一口飲んだ。
香りがよい。
イリスが選んだ茶だ。
気持ちを落ち着けるには、ちょうどいい。
「確かに、角が立つことはございます」
「でしょう?」
「けれど、角を丸めすぎると、どこが危険だったのか分からなくなります」
ローゼンの扇が、ゆっくり開いた。
白い指先が美しい。
「本当に、はっきりものをおっしゃるのね」
「顧問としての職務ですので」
「職務」
ローゼンは、その言葉をゆっくり繰り返した。
「最近の若い方は、ご自分のなさることに名前をつけるのがお好きね。職務、権限、報酬……私たちの頃は、家と国のために尽くすことこそ令嬢の誇りでしたのに」
来た。
クラリスは、心の中でそう思った。
この話をしに来たのだ。
ローゼン侯爵夫人が恐れているのは、クラリス一人の出世ではない。
前例である。
令嬢の働きに名がつき、報酬がつき、権限がつくこと。
それは、これまで「見習い」「お手伝い」「家の名誉」という言葉で便利に使われていた娘たちに、別の選択肢を与える。
「夫人のお若い頃は、さぞご苦労も多かったことでしょう」
クラリスは言った。
ローゼンの目が一瞬だけ細くなる。
「苦労など。皆、当然の務めでしたわ」
「では、その務めを次の世代にも当然として残すべきでしょうか」
応接室の空気が、少し冷えた。
イリスが静かに目を伏せる。
ローゼンは微笑んだまま、クラリスを見ている。
「クラリス顧問。あなたは、お若い」
「はい」
「若い方は、古いものをすぐ悪しき慣習と呼びたがる。けれど王宮は、そう簡単な場所ではありませんのよ」
「存じております」
「本当に?」
ローゼンの声は柔らかい。
それでいて、毒を含んでいる。
「王宮は、正しさだけでは回りません。誰かが黙って引き受けるから、場が丸く収まることもある。誰かが笑って損をするから、家門同士の衝突を避けられることもある」
「はい」
「その黙って引き受ける美徳まで、あなたは値段をつけるおつもり?」
クラリスは、カップを置いた。
小さな音が鳴る。
「美徳に値段をつけるつもりはございません」
「では?」
「労働に、名前をつけるつもりです」
ローゼンの扇が止まった。
クラリスは続ける。
「黙って引き受けた方がいたなら、その方が何を引き受けたのか。どれほどの時間を使い、どれほどの責任を負ったのか。まず記録します」
「記録、記録と」
ローゼンが小さく笑う。
「あなたは本当に、紙がお好きね」
「紙は残りますので」
「人の心は、紙には収まりませんわ」
「収まりません。ですが、紙に残らないものは、都合よく忘れられます」
ローゼンの笑顔が、薄くなった。
今の言葉は、少し刺さったらしい。
クラリスは相手を責めたいわけではない。
だが、引くつもりもなかった。
「今後、王妃執務院では、見習い令嬢や女官補佐が担っている非公式業務を一覧化します」
「一覧化?」
「はい。茶会前の家格確認、招待状の下書き、贈答品の分類、控え室の調整、夫人方の近況記録、花材の禁忌確認。これまで“何となく誰かがやっていた仕事”を、正式に把握します」
「まあ」
ローゼンは楽しげに笑った。
「それは大変な作業ですこと」
「ええ。大変です」
「協力者はおりますの?」
「おります」
「どなたが?」
試している。
クラリスは分かった。
彼女は、クラリスが孤立しているか確認しているのだ。
若い令嬢が一人、王弟の後ろ盾を得て張り切っているだけなら、社交界で潰せる。
だが、王宮の実務者や神殿が味方なら話は変わる。
「マルタ女官長。オスカー書記官。フィオナ司祭。そして、王弟殿下にもご承認いただいております」
ローゼンは、ゆっくり瞬きをした。
「王弟殿下は、ずいぶんあなたをお買いなのね」
「職務上、必要なご支援をいただいております」
「職務上」
ローゼンは扇で口元を隠す。
「便利な言葉ですわね」
「はい。便利です。曖昧な関係より、ずっと」
イリスが背後でわずかに肩を震わせた。
クラリスは気づかないふりをした。
ローゼンは、少しだけ目を細める。
「クラリス顧問。あなたは、ご自分が多くの方の反感を買うとは思いませんの?」
「思います」
即答すると、ローゼンはわずかに眉を動かした。
「分かっていて?」
「はい」
「恐ろしくはないの?」
クラリスは少し考えた。
恐ろしくないわけではない。
社交界は、王宮の廊下より広く、帳簿より曖昧だ。
噂、茶会、紹介状、婚姻、贈答、視線。
それらで人を締め上げることができる。
ローゼン侯爵夫人は、それを長年操ってきた人だ。
敵に回せば厄介だろう。
「恐ろしくはあります」
クラリスは正直に答えた。
「けれど、恐ろしいから見なかったことにするなら、わたくしが王宮に戻った意味がありません」
ローゼンは黙った。
少しだけ長い沈黙だった。
その沈黙の中で、クラリスは相手を見つめる。
この人は単純な悪人ではない。
古い王宮で生き残ってきた人だ。
おそらく若い頃、彼女もまた何かを黙って引き受けてきた。
その苦労を誇りに変えて生きてきた。
だからこそ、次の世代がそれを「無償奉仕」と呼ぶことを許せないのかもしれない。
自分の痛みまで否定されるように感じるから。
だが、その痛みを理由に、同じことを下へ押しつけていいわけではない。
「面白い方ね」
ローゼンは、やがてそう言った。
「ありがとうございます」
「褒めたつもりではありませんわ」
「分かっております」
ローゼンの目が、ほんの少し笑った。
初めて、作り物ではない笑みに見えた。
しかし次の瞬間には、また優雅な仮面に戻っている。
「ところで、クラリス顧問。来週、私の午後茶会がございますの」
イリスの気配が鋭くなる。
昨日、断る束に入れた茶会だ。
「招待状はいただいております」
「嬉しいわ。ぜひお越しいただきたくて」
「恐れ入りますが、職務予定を確認のうえ、お返事いたします」
「まあ、つれないこと。以前のあなたなら、すぐお返事くださったのに」
「以前のわたくしは、王太子妃候補でしたので」
「今は違う、と?」
「はい」
同じ言葉を、何度も使っている気がした。
けれど、それでいい。
境界線は、何度でも引かなければならない。
ローゼンは茶を飲み干し、立ち上がった。
「では、本日はこのあたりで失礼いたしますわ」
クラリスも立つ。
「お越しいただき、ありがとうございました」
「クラリス顧問」
「はい」
ローゼンは扉の前で振り返った。
「王宮は、正しさだけでは回りませんのよ」
予想していた言葉だった。
だから、クラリスは落ち着いて返せた。
「存じております。だから、記録が必要なのです」
ローゼンは何も言わなかった。
ただ、扇を閉じる。
ぱちん、と乾いた音が応接室に響いた。
「またお会いしましょう」
そう言い残して、彼女は去っていった。
扉が閉まると、イリスが静かに息を吐いた。
「お嬢様」
「何?」
「お茶に毒は入っておりませんでしたが、会話にはかなり入っておりました」
「そうね」
「お疲れでは?」
「少し」
「少し、でございますか」
「かなり」
「正直でよろしいです」
イリスはすぐに新しい茶を用意した。
今度は、クラリスが好む薄めの茶だった。
クラリスはカップを受け取り、窓の外を見る。
ローゼン侯爵夫人の馬車が、王宮の門へ向かっている。
あの人は敵だ。
少なくとも、今は。
だが、ただ倒せば済む相手ではない。
社交界の奥に根を張った古い価値観そのものを背負っている。
そこへ、扉が軽く叩かれた。
「クラリス顧問。少しよろしいか」
レオンハルトだった。
イリスが扉を開ける。
「殿下。少し遅かったようでございます」
「ローゼン侯爵夫人が来ていたか」
「はい。毒味は不要でしたが、精神的毒性は高めでございました」
「だろうな」
レオンハルトは、まるで最初から分かっていたように言った。
クラリスは少しだけ目を細める。
「殿下。ご存じだったのですか」
「彼女が動くだろうとは思っていた」
「先に教えてくだされば」
「教えれば、君は準備しすぎる」
反論できなかった。
確かに、準備しすぎただろう。
ローゼン侯爵夫人の過去の発言、親しい夫人、嫌う令嬢、影響下にある茶会、すべて調べていたかもしれない。
「どうだった」
レオンハルトが尋ねる。
「強い方です」
「そうだな」
「敵に回すと厄介です」
「もう半分は回っている」
「残り半分は?」
「君を見極めている」
クラリスは、カップを置いた。
「見極める?」
「君が一時の勢いだけか、本当に王宮の仕組みに手を入れるのか。ローゼン夫人はそれを見ている」
「なぜ」
「彼女は古い王宮の住人だ。だが、愚かではない。負ける側には立ちたくない」
「味方になる可能性があると?」
レオンハルトは少し考えた。
「敵のまま利用できる可能性はある」
「味方より難しそうですね」
「政治ではよくある」
クラリスは小さくため息をついた。
王宮改革は帳簿だけではない。
数字はまだいい。
間違いがあれば、比較できる。
だが、人の誇りや恨みや古い慣習は、数字のようには並ばない。
「クラリス」
「はい」
「疲れたなら、今日はここまでにしていい」
「まだ午後です」
「ローゼン侯爵夫人一人分の会話は、帳簿三冊に相当する」
イリスが即座に頷いた。
「的確でございます」
クラリスは二人を見る。
「また結託していませんか」
「している」
「しております」
そろって答えられた。
クラリスは呆れたが、少し笑った。
その時、オスカーが書類を持って入ってきた。
「失礼します。商業台帳の追加写しが届きました」
「オスカー様、今ですか」
イリスの声が冷える。
オスカーは慌てて首を振った。
「読むのは明日で構いません。ただ、保管だけ」
クラリスは手を伸ばしかけた。
レオンハルトとイリスが同時に見る。
クラリスは手を止めた。
「……保管だけ、お願いします」
オスカーが目を見開いた。
「本当に?」
「本当に」
「すごいですね」
「皆で成長を確認しないでください」
クラリスは少し頬を赤くした。
オスカーは笑いを堪えながら、書類を棚へ入れる。
「それと、王妃執務院の非公式業務一覧の件ですが」
クラリスの表情が変わる。
イリスがすかさず言う。
「明日でございます」
「一言だけ」
「お嬢様」
「一言だけよ」
レオンハルトが苦笑する。
「聞くだけなら許可しよう。書き始めたら止める」
クラリスは頷いた。
オスカーは書類を一枚だけ出す。
「下級令嬢の見習い業務について、複数の家から“名誉な奉仕なので記録不要”という返答が来ています」
「どの家ですか」
「ローゼン侯爵夫人と近い家が多いです」
やはり。
クラリスは目を伏せた。
名誉な奉仕。
便利な言葉だ。
名誉と言えば、報酬は不要になる。
奉仕と言えば、労働ではなくなる。
そして記録しなければ、責任も残らない。
「明日、一覧にしましょう」
「承知しました」
「今日は、そこまで」
自分で言った。
イリスが感動したように胸に手を当てる。
「お嬢様」
「何?」
「今日二度目の歴史的快挙でございます」
「もういいわ」
レオンハルトも少し笑っていた。
その夜、ローゼン侯爵夫人の屋敷では、数名の貴婦人が集まっていた。
香り高い茶。
薄い磁器。
銀の菓子皿。
昼の王宮とは違い、ここはローゼンの領域だった。
「いかがでしたの、クラリス顧問は」
ヴェルナー伯爵夫人が尋ねる。
ローゼンは、ゆっくり扇を開く。
「思ったより、芯がございますわ」
「まあ。お認めになるの?」
「認めるのと、許すのは別です」
貴婦人たちが小さく笑う。
ローゼンは茶を一口飲み、続けた。
「若い令嬢が報酬を求め、権限を持ち、見習いの仕事を記録する。これを許せば、王宮の空気は変わります」
「困りますわね」
「ええ。困る方は多いでしょう」
ローゼンの目が、燭火に照らされて光る。
「だからこそ、次の茶会で見せていただきましょう。クラリス顧問が、どこまで王宮を変えられるのか」
「お招きになるの?」
「もちろん」
ローゼンは微笑む。
「祝うために」
誰も、その言葉を額面どおりには受け取らなかった。
社交界の古狸たちは、静かに動き出していた。




