第13話 王弟殿下、花ではなく書類箱を贈る
王宮臨時顧問室の机は、戦場に似ていた。
ただし、剣も槍もない。
あるのは書類である。
ノルヴァルト公国への謝罪文の修正稿。
神殿慈善事業の配分確認表。
ハイム商会の納入記録。
王妃執務院の未処理案件一覧。
下級令嬢の見習い業務調査票。
ローゼン侯爵夫人の午後茶会への返答案。
ついでに、王太子ジュリアス殿下の政務再教育用資料の確認依頼。
どれも一枚では終わらない。
紙は重なると、山になる。
山になると、人は登りたくなる。
少なくとも、クラリス・フォン・エルディアはそうだった。
「お嬢様」
イリスの声が、机の向こうから聞こえた。
「はい」
「その書類は、先ほど“明日でよい”に分類されたはずでございます」
「確認だけ」
「お嬢様の確認だけ、は信用できません」
「本当に少しだけよ」
「その少しだけで、昨年は王妃主催茶会の席次表を一晩で三案作られました」
クラリスは羽根ペンを持ったまま、少し黙った。
「よく覚えているわね」
「忘れたいことほど覚えております」
イリスは淡々と言い、机の上の書類を一枚抜き取った。
クラリスの指先が、つい追いかける。
その瞬間、イリスがじっと見る。
「お嬢様」
「……取らないわ」
「よろしいです」
王宮に正式な役職を得た。
報酬もある。
職務範囲もある。
休暇もある。
けれど、長年染みついた癖は一朝一夕には消えない。
クラリスは今も、机の上に残った書類を見ると、片付けずにはいられなかった。
問題が見える。
原因が浮かぶ。
解決の手順が頭の中で組み上がる。
そこまで分かってしまうと、手を止める方が難しい。
しかも今の王宮は、止まっていた歯車が再び動き出したばかりだ。
少し油断すれば、またどこかが軋む。
そう思うと、どうしても手が伸びる。
「お嬢様は、仕事を減らす訓練が必要です」
「分かっているわ」
「分かっておられる方の机ではありません」
イリスは容赦なく言った。
その通りなので、クラリスは反論できなかった。
机の上には、四つの木札が置かれている。
緊急。
明日でよい。
誰かに任せる。
断る。
レオンハルトが初日に用意した分類札だ。
あれ以来、クラリスは一応それを使っている。
一応。
「お嬢様」
「何?」
「なぜ“明日でよい”の札の下に、緊急の書類が紛れているのでしょう」
クラリスは、視線を逸らした。
「……風で」
「窓は閉まっております」
「では、紙の意思で」
「お嬢様の意思でございます」
イリスは、その書類も抜き取った。
クラリスは、今度こそ何も言わなかった。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのは、王弟レオンハルトだった。
いつものように身支度は整っているが、今日は珍しく従者を二人連れている。
従者たちは、長方形の大きな木箱を抱えていた。
「クラリス」
「レオンハルト殿下。ご用件でしょうか」
「贈り物を持ってきた」
クラリスは瞬きをした。
贈り物。
その言葉を聞いた瞬間、なぜかイリスの目が鋭くなった。
侍女としてではなく、主を守る番犬のような目だった。
「贈り物、ですか」
クラリスは少し警戒する。
王族からの贈り物は、意味を持つ。
花束なら好意。
宝石なら求婚の示唆。
書物なら知的な敬意。
衣装なら保護や庇護の意味にもなる。
この時期にレオンハルトから贈り物を受け取れば、社交界は騒ぐだろう。
すでにローゼン侯爵夫人が目を光らせている。
だからクラリスは、慎重にならざるを得なかった。
「殿下。お気持ちはありがたいのですが」
「まず見てから断れ」
レオンハルトはそう言い、従者に合図した。
木箱が机の横へ置かれる。
蓋が開く。
中から出てきたのは、花でも宝石でもなかった。
書類箱だった。
ただの箱ではない。
濃い木目の美しい、引き出し付きの分類箱である。
横幅は机の半分ほど。
上段には細い棚。
下段には四つの引き出し。
それぞれに札が差し込めるようになっている。
従者が丁寧に机の横へ設置した。
レオンハルトは、あらかじめ用意していた札を一枚ずつ差していく。
緊急。
明日でよい。
誰かに任せる。
断る。
クラリスは、最後の札で固まった。
「殿下」
「何だ」
「これは……」
「書類箱だ」
「それは分かります」
「なら話が早い」
レオンハルトは真面目な顔で言った。
「君に必要なものを考えた」
イリスが、箱へ近づいてじっと見る。
引き出しを開ける。
閉める。
札の差し込み口を確認する。
さらに、下段の奥に余分な空間がないかまで見た。
「殿下」
「何だ、イリス嬢」
「満点でございます」
「そうか」
レオンハルトは、当然のように頷いた。
クラリスは二人を見る。
「満点なの?」
「はい」
イリスはきっぱり言った。
「花束より実用的。宝石よりお嬢様向き。しかも“断る”の引き出しが最下段ではなく右上にあります。目に入りやすい。素晴らしい配慮です」
「そこまで見ているのか」
レオンハルトが感心したように言う。
「侍女ですので」
「頼もしい」
「恐れ入ります」
なぜか二人の間で評価が終わっていた。
クラリスは、書類箱に目を戻す。
確かに美しい。
職人の腕がよい。
引き出しの滑りもなめらか。
机の高さにも合っている。
分類札も見やすい。
そして何より、実用的だった。
「殿下」
「何だ」
「これは、王弟府の備品として扱うべきでしょうか」
「君への贈り物だ」
「受け取ると、社交界が騒ぎます」
「花束なら騒ぐだろうな」
「書類箱でも騒ぐ方は騒ぎます」
「では、騒がせておけ。王弟が王宮臨時顧問の業務効率化のために備品を贈った。何か問題が?」
問題がないとは言い切れない。
だが、ありすぎるとも言いづらい。
花束ではない。
宝石でもない。
恋文でもない。
書類箱。
しかも、分類用。
噂好きの夫人たちも、一瞬どう扱えばいいか迷うだろう。
イリスが静かに補足する。
「口説き文句より効果的です」
「イリス」
「事実でございます」
レオンハルトが少しだけ笑う。
「では、受け取ってくれるか」
クラリスは書類箱を見た。
右上の引き出し。
断る。
そこに目が行く。
断ることを、忘れないための箱。
自分の弱点を分かったうえで贈られたもの。
普通なら、少し腹を立ててもよかったのかもしれない。
けれどクラリスは、不思議と嫌ではなかった。
この人は、彼女の仕事を増やそうとしていない。
減らそうとしている。
そのために、花ではなく箱を持ってきた。
「ありがたく、頂戴いたします」
クラリスがそう言うと、レオンハルトは満足そうに頷いた。
「では、さっそく使おう」
「今からですか」
「今からだ」
レオンハルトは机の上の書類を見た。
そして、何のためらいもなく一束を取る。
「これは?」
「ノルヴァルト公国への謝罪文の最終確認です。緊急です」
クラリスが答えると、レオンハルトは緊急の引き出しに入れた。
「これは?」
「神殿配分の正式額確認です。今日中に財務院へ」
「緊急だな」
次の束。
「これは?」
「王太子殿下の政務再教育用、過去演説文の比較資料です」
「誰かに任せる」
レオンハルトは即座に判断した。
「オスカーと私で見る」
「ですが、王太子殿下の発言文は」
「君の確認は最後でいい。最初から君が見る必要はない」
書類は「誰かに任せる」の引き出しへ入った。
クラリスは少し落ち着かない。
自分の手から離れていく。
その感覚が、まだ慣れない。
次の書類。
「ローゼン侯爵夫人の午後茶会の飾り花候補」
「断る」
「殿下、さすがに花材は」
「私的茶会だ」
「けれど、王宮関係者も出席します」
「なおさらだ。彼女は君を試している。ここで手を出せば、次から菓子、席次、招待文、話題案まで来る」
イリスが頷いた。
「目に見えます」
「クラリス」
レオンハルトは、書類を持ったまま彼女を見た。
「君がやらなければ茶会が失敗するのか」
「……いいえ」
「では断る」
書類は、断るの引き出しへ入った。
ぱたり、と音がした。
その音が、妙に大きく感じられた。
断った。
たった一枚の書類なのに、まるで重い扉を閉めたようだった。
「次」
レオンハルトは容赦なく続ける。
「ミレーヌ嬢の封筒書き進捗報告」
クラリスの手が、ぴくりと動いた。
「それは」
「誰かに任せる」
「進捗確認だけなら」
「マルタ女官長に任せる」
「でも、妹の」
「クラリス」
レオンハルトの声は、強くはない。
けれど、逃げ場がなかった。
「君は姉として心配しているのか、顧問として手を出そうとしているのか」
クラリスは、すぐに答えられなかった。
イリスも何も言わない。
問われているのは、クラリス自身だ。
「……両方です」
正直に答えると、レオンハルトは頷いた。
「なら、姉として心配するのは後でいい。顧問としては任せる」
そう言って、書類を「誰かに任せる」へ入れた。
クラリスは、小さく息を吐いた。
嫌ではない。
だが、胸が落ち着かない。
何かを手放すたびに、昔の自分がそれを拾いに行こうとする。
レオンハルトは、それを見逃さなかった。
「気になるか」
「はい」
「だろうな」
「殿下は、気にならないのですか」
「なる」
意外な答えだった。
クラリスは彼を見る。
「なるのですか」
「ああ。兄上の政務再教育も、財務院の動きも、ローゼン侯爵夫人の茶会も、全部気になる」
「では、なぜ」
「全部自分で見たら、全部中途半端になるからだ」
レオンハルトは次の書類を持ち上げる。
「だから、見るものを選ぶ。任せる相手を選ぶ。失敗した時に責任を取る範囲を決める」
クラリスは黙って聞いた。
「王族は、本来そうすべきだ。兄上は、それを君に預けすぎた」
静かな言葉だった。
ジュリアスを責めるだけではない。
王族としての責任を、自分にも向けている。
「殿下も、任せるのが苦手なのですか」
クラリスが尋ねると、レオンハルトは少しだけ考えた。
「苦手ではない。ただ、任せた相手が潰れないかを見る必要はあると思っている」
「それで、書類箱を?」
「そうだ」
「わたくしは、潰れそうに見えましたか」
レオンハルトは、まっすぐ答えた。
「潰れても笑って仕事を続けるように見えた」
クラリスは、言葉を失った。
その言い方は、優しくない。
けれど、ひどく正確だった。
自分でも、そうしていたと思う。
疲れても、笑う。
苦しくても、礼をする。
限界でも、もう一枚だけと手を伸ばす。
そういう人間だった。
今も完全には変わっていない。
「……気をつけます」
「気をつけるだけでは足りない。仕組みにする」
レオンハルトは、書類箱を指した。
「だから箱だ」
イリスが小さく頷く。
「殿下、やはり満点です」
「加点はあるか」
「お嬢様が実際に“断る”を使えたら、加点でございます」
「では、クラリス次第だな」
「なぜ私が試験を受けているような話に」
クラリスが思わず言うと、二人はそろって涼しい顔をした。
分類は半刻ほど続いた。
緊急の引き出しには、本当に必要な書類だけが残った。
ノルヴァルト公国への謝罪文。
ハイム商会に関する証拠保全指示。
施療院の薬草仕入れ確認。
明日でよいには、王妃執務院の細かな報告や、茶会予定の下確認。
任せるには、ミレーヌの教育報告、王太子の再教育資料、封筒書きの家格表更新。
断るには、ローゼン侯爵夫人の私的茶会関連、王太子の夕食会用話題案、そして王宮庭園の新しい花壇案についての意見依頼。
最後の花壇案を見て、クラリスはまた迷った。
「これは、王宮全体の景観に関わります」
「庭師長の仕事だ」
レオンハルトが言う。
「でも、来賓導線に」
「導線に関わるなら、庭師長から正式に相談が来る。これは“クラリス様なら気づいてくださると思って”という書き方だ」
イリスが冷たく言う。
「危険文でございます」
「危険文?」
「はい。お嬢様を無償労働へ誘導する常套句でございます」
クラリスは、依頼文を見た。
確かに書いてある。
クラリス様ならお気づきくださると思い――。
以前なら、気づいたからにはと手を出していた。
今は。
クラリスは書類を持ち、少しだけ深呼吸した。
そして、自分の手で「断る」の引き出しに入れた。
引き出しが閉まる音がした。
イリスが、静かに拍手した。
「本日最大の歴史的快挙でございます」
「毎回それを言うつもり?」
「必要がなくなるまで」
レオンハルトは満足そうに頷いた。
「加点だな」
「はい。百二十点でございます」
「よかったな、クラリス」
「……ありがとうございます」
褒められているのに、なぜか少し悔しい。
だが、悪い気分ではなかった。
分類が終わると、机の上は驚くほど広くなった。
木目が見える。
以前なら、書類で埋まっていた場所だ。
クラリスは、その広い机を見つめた。
「机とは、こんなに広かったのですね」
思わず呟く。
オスカーがいたら、きっと深く頷いただろう。
イリスは少しだけ寂しそうに笑った。
「お嬢様が、ようやくお気づきになりました」
レオンハルトは、緊急の引き出しから謝罪文を取り出す。
「これだけ確認しよう。半刻で終わらせる」
「はい」
クラリスは席に着いた。
今度は、手当たり次第ではない。
決めた時間で、決めた書類だけを確認する。
ノルヴァルト公国への謝罪文は、すでにオスカーがよく整えていた。
クラリスは数箇所だけ直す。
「ここは“誤解を招いた”ではなく、“配慮を欠いた”に」
「それは昨日も言っていたな」
レオンハルトが横から言う。
「はい。誤解、という言葉は便利ですが、相手にも責任を少し渡してしまいます」
「今回は完全にこちらの非だ」
「ええ。だからこそ、言葉は慎重に」
レオンハルトは、彼女の筆先を見ていた。
じっと、しかし邪魔しない距離で。
以前、ジュリアスは原稿の修正を退屈そうに待っていた。
時には、まだかと急かした。
何を直しているかに興味を持たなかった。
レオンハルトは違う。
彼は、直された言葉を見ている。
なぜその語を選ぶのかまで考えている。
それだけで、作業は少し軽くなった。
「クラリス」
「はい」
「君は、言葉にも帳簿にも同じように向き合うのだな」
「同じ?」
「嘘をつかせないようにしている」
クラリスは、羽根ペンを止めた。
「……そうかもしれません」
言葉も帳簿も、人が扱う。
だから嘘を混ぜられる。
でも、正しく整えれば、誰かを守ることもできる。
「殿下は、言葉をどう扱われますか」
「私は?」
「はい」
レオンハルトは少し考えた。
「余計なものを削る」
「それは、らしいですね」
「君は?」
「わたくしは、相手が逃げないように整えるかもしれません」
「なるほど。だから怖い」
「怖いですか」
「味方でよかったと思っている」
さらりと言われた。
クラリスは、返答に少し詰まった。
味方。
その言葉が、思ったより胸に残った。
レオンハルトは気づいたのか、少しだけ口元を緩めた。
「今のは口説き文句ではない」
「そうなのですか」
「仕事上の評価だ」
「では、受け取ります」
「口説き文句だったら?」
クラリスの筆先が、紙の上で止まった。
イリスが部屋の隅で、明らかに聞き耳を立てている。
「殿下」
「何だ」
「今は謝罪文の確認中です」
「そうだった」
レオンハルトは楽しそうに目を伏せた。
「君は強いな」
「話題を戻しただけです」
「戻せるところが強い」
クラリスは、それ以上答えずに文面へ視線を落とした。
頬が熱い。
困る。
こういう時の対処表は、まだ作っていない。
半刻で謝罪文の確認は終わった。
予定どおり。
本当に、予定どおり終わった。
クラリスは少し驚いた。
「終わりましたね」
「終わるように範囲を決めたからだ」
レオンハルトは当たり前のように言った。
その当たり前が、クラリスにはまだ新鮮だった。
夕刻前。
レオンハルトは従者を連れて戻ることになった。
書類箱は顧問室に残る。
クラリスは、扉の前で礼をした。
「本日は、ありがとうございました」
「使えそうか」
「はい」
「特に“断る”を」
「……努力します」
「実行で」
イリスがすかさず言う。
クラリスは二人を見た。
「その言い方、流行っているのですか」
「必要なだけだ」
「必要でございます」
また揃った。
クラリスは小さく笑った。
レオンハルトは、その笑みを少しだけ見つめる。
「では、また明日」
「はい。また明日」
扉が閉まる。
顧問室に静けさが戻った。
クラリスは、机の横の書類箱を見る。
緊急。
明日でよい。
誰かに任せる。
断る。
四つの引き出し。
それは、ただの備品ではなかった。
彼女が自分を使い潰さないための、小さな仕組み。
そして、レオンハルトが彼女をどう見ているかの答えでもあった。
花ではなく、書類箱。
甘い言葉ではなく、仕事を減らす道具。
クラリスは、そっと「断る」の引き出しに触れた。
「……まずは、ここからね」
イリスが茶器を片付けながら言う。
「お嬢様」
「何?」
「殿下からの贈り物、かなりお気に召しましたね」
「実用的だから」
「それだけですか」
「……それだけよ」
イリスは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
クラリスは見なかったことにした。
その夜、王宮の侍女たちの間で、妙な噂が流れた。
王弟殿下がクラリス顧問へ贈り物をしたらしい。
花か。
宝石か。
手紙か。
誰もがそう思った。
しかし届いたのは、書類箱だった。
しかも「断る」という札付きの。
その話を聞いた若い女官の一人が、小さく呟いた。
「……それ、少し素敵ですね」
別の女官が頷いた。
「分かる気がします」
王宮の恋は、時に花より書類箱で進む。
少なくとも、クラリス・フォン・エルディアにとっては、その方がずっと胸に残る贈り物だった。




