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第14話 財務卿は、数字の迷路で笑う

 財務院から届いた資料は、馬車で来た。


 比喩ではない。


 本当に、馬車一台分だった。


 王宮西棟の裏口に横づけされた財務院の馬車から、木箱が一つ、二つ、三つと降ろされる。箱には丁寧に封がされ、財務院の印まで押されていた。


 王宮臨時顧問室の前に運ばれてきたそれを見て、オスカーは眼鏡を押し上げたまま黙った。


 イリスは、無表情のまま言った。


「これは、書類ではなく攻城兵器でございますね」


 クラリスは、木箱を見つめる。


 昨日、バルツァー財務卿に依頼したのは、慈善関連支出資料を年度別、品目別、商会別に分類して提出することだった。


 その返答が、これである。


 箱は六つ。


 多すぎる。


 明らかに多すぎる。


「分類されているのでしょうか」


 若い補佐官が不安そうに尋ねた。


 オスカーが一箱目の封を確認する。


「分類は……されていますね」


 彼は蓋を開け、しばらく中を見た。


 そして、深いため息をついた。


「ただし、分類の意味が違います」


「どういうこと?」


 クラリスが尋ねると、オスカーは一枚目の束を持ち上げた。


「年度別ではあります。ですが、慈善関連だけではなく、同年度の王宮備品全般が混ざっています」


 二箱目。


「品目別です。布地の資料はあります。ただし、王宮用カーテン、式典用旗布、騎士団の儀礼外套、劇場幕まで一緒です」


 三箱目。


「商会別です。ハイム商会の資料もあります。ただし、ハイム商会と同じ通りに店を構える無関係の商会まで入っています」


 イリスが冷たく言う。


「分類したふりでございますね」


「はい。たいへん丁寧な嫌がらせです」


 オスカーは真面目に答えた。


 クラリスは木箱を一つずつ見た。


 乱雑ではない。


 むしろ、整っている。


 表題もある。

 索引もある。

 束ごとに紐もかけられている。


 だからこそ厄介だった。


 見る者が見れば、財務院は協力しているように見える。


 必要な資料を隠してはいない。


 ただ、必要でないものを大量に混ぜている。


 時間を奪うために。


 相手を疲れさせるために。


 判断を鈍らせるために。


「書類で溺れさせる気ですね」


 オスカーが呟いた。


「ええ」


 クラリスは、木箱の中の資料を一枚取り上げた。


 式典用旗布の購入記録。

 慈善事業とは関係ない。


 だが、紙質も書式もよく似ている。

 うっかり流し読みすれば、必要な資料と混ざる。


「なら、泳ぎましょう」


「クラリス顧問」


 オスカーが少しだけ困った顔をする。


「その発想が、すでに危険です」


 イリスも頷いた。


「溺れない方法を考えるべきでございます」


「泳ぎ切るつもりではありません」


 クラリスは言った。


「流れを変えます」


 彼女は机の横に置かれた書類箱へ視線を向けた。


 レオンハルトから贈られた分類箱。


 緊急。

 明日でよい。

 誰かに任せる。

 断る。


 その四つだけでは、今回の資料には足りない。


「イリス、白紙の札を」


「はい」


 イリスがすぐに準備する。


 クラリスは札に新しい分類を書いた。


 慈善関連。

 慈善外。

 商会照合。

 保留。

 不要。


 最後の「不要」を書いた時、イリスが満足そうに頷いた。


「よろしいです」


「褒められるの?」


「不要を不要と書けるようになられたのは成長です」


「また成長扱い」


 オスカーが少し笑う。


「では、手分けしますか」


「はい」


 クラリスはすぐに指示を出した。


「オスカー様は、各箱の索引を写してください。索引だけでも財務院が何を混ぜたか見えます」


「承知しました」


「補佐官の方々は、品目名に“孤児院”“施療院”“神殿”“慈善”が入るものだけを抜き出してください。中身はまだ読まなくて構いません」


「はい」


「イリスは、不要資料の山がわたくしの机に戻らないよう見張って」


「最重要任務として承ります」


 最後に、クラリスは自分の前に一箱だけ置いた。


 ハイム商会関連と題された箱。


 ただし、中には関係の薄い商会資料も混ざっている。


 それでも、ここが入口だ。


「クラリス顧問」


 オスカーが念を押すように言った。


「本日中に全部は無理です」


「分かっています」


「本当に?」


「本当に」


 イリスが横から見る。


 クラリスは少しだけ唇を引き結んだ。


「……日没までに、第一分類だけ」


「よろしいです」


 イリスがようやく頷いた。


 作業は地味だった。


 華やかな王宮恋愛譚には、まるで似合わない。


 だが、王宮を動かしているのは、こういう地味な作業である。


 紙を開く。

 日付を見る。

 品目を見る。

 承認印を見る。

 必要なものだけ抜き出す。

 不要なものを戻す。


 その繰り返し。


 最初の一刻で、補佐官の一人が疲れた顔になった。


「似たような書類ばかりで、目が滑ります……」


 クラリスは手を止めた。


「一度、休みましょう」


 自分で言って、自分で少し驚いた。


 以前なら、もう一束だけ、と言ったかもしれない。


 イリスが、すぐに茶を用意する。


「たいへんよろしい判断でございます」


「毎回評価しなくていいわ」


「必要がなくなるまで」


 最近、その言葉をよく聞く。


 茶を飲みながら、オスカーが索引の写しを見せてくれた。


「財務院は、かなり巧妙です。関係ない資料だけを混ぜているのではなく、関係ありそうで薄いものを大量に入れています」


「例えば?」


「王宮用寝台布。施療院用寝台布と品目が似ています。式典用旗布。慈善園遊会の天幕布と紛らわしい。騎士団の外套布。孤児院の冬服と同じ毛織物分類です」


「わざとですね」


「おそらく」


 オスカーは眉間を押さえた。


「これを全部読んだら、三日は潰れます」


「読まなくていいものは読まない」


 クラリスは言った。


 言ってから、また少しだけ不思議な気分になる。


 イリスが感慨深そうにこちらを見た。


「何?」


「いいえ。今のお言葉を額に入れたいと思っただけでございます」


「やめて」


 休憩の後、作業は少し早くなった。


 分類基準を揃えると、迷いが減る。


 そして午後の半ば、クラリスは一枚の書類で手を止めた。


「……オスカー様」


「はい」


「この商会名を見てください」


 差し出したのは、エルザック納入所の請求書だった。


 品目は施療院用寝台布。

 年度は三年前。

 金額は相場より二割ほど高い。


 それだけなら、すでに見た構造と同じ。


 だが、問題はそこではなかった。


「この請求書の控え番号」


 オスカーが目を凝らす。


「七三二」


「こちらのハイム商会の請求書が七三一です」


「連番……?」


「別商会のはずなのに、控え番号が続いています」


 オスカーの顔が変わった。


「同じ帳簿元で作成された可能性が高いですね」


「はい」


「ただ、代書屋が同じという言い訳はできます」


「できます。ですが、その代書屋を確認する理由になります」


 クラリスは、さらにもう一枚を抜き出した。


「こちら、北門生活用品組合の請求書。番号は七三四」


「七三三は?」


「まだありません」


 クラリスは木箱を見る。


「どこかにあるはずです」


 探し始めようとした瞬間、イリスが咳払いした。


「お嬢様」


「分かっているわ。探すのは全員で」


「いいえ。探す前に時刻です」


 時計を見る。


 すでに終業時刻の少し前だった。


「あと一枚だけ」


 クラリスが言うと、イリスは目を細めた。


 オスカーも、申し訳なさそうに首を横に振る。


「クラリス顧問。ここで止めた方がいいです」


「でも、七三三が」


「見つけても、その後さらに続きが気になります」


 正しい。


 あまりに正しい。


 クラリスは、手にした書類を見た。


 七三一。

 七三二。

 七三四。


 七三三がない。


 気になる。


 どうしようもなく気になる。


 だが、ここで始めれば夜になる。


 夜になれば、周りも残る。


 それは、また以前の形に戻るということだ。


 クラリスは深く息を吸った。


「分かりました」


 イリスの表情が、少しだけ和らぐ。


「明朝、七三三を探します」


「明朝でございます」


 オスカーは、紛失しないよう三枚を保管袋に入れた。


「証拠候補として保管します」


「お願いします」


 そこで終わるはずだった。


 だが、扉が叩かれた。


 入ってきたのは、財務院の使者だった。


「クラリス顧問。バルツァー財務卿より、追加資料に不足があればいつでもお申しつけくださいとのことです」


 丁寧な言葉。


 だが、つまりは様子見だ。


 溺れているか確認しに来たのだろう。


 クラリスは、表情を変えずに答えた。


「財務卿に感謝を。ただ、資料は十分にございます。むしろ、十分すぎるほど」


 使者は曖昧に笑った。


「お役に立てたなら何よりです」


「ええ。大変役に立ちました。特に、請求書番号の連なりが」


 使者の笑みが、ほんの少し固まった。


 その一瞬で、クラリスは確信した。


 財務院は、番号のことを知られたくなかった。


 あるいは、使者は知らないが、何かまずい反応をするよう訓練されている。


「財務卿にもお伝えください」


 クラリスは微笑んだ。


「明日、代書屋の記録についても確認させていただきます、と」


「……承知いたしました」


 使者は礼をして去っていった。


 扉が閉まると、オスカーが低く言った。


「今の反応」


「ええ」


「当たりですね」


「まだ当たりかどうかは分かりません」


「クラリス顧問がそう言う時は、だいたい当たりです」


 イリスが頷く。


「同感でございます」


 クラリスは少し困ったように二人を見た。


「決めつけは危険です」


「その慎重さ込みで、当たりです」


 オスカーは疲れた顔で言った。


 夕方、クラリスが顧問室を出る時には、資料の第一分類がほぼ終わっていた。


 全部ではない。


 けれど、十分だった。


 今日やるべきところまでやった。


 それ以上は、明日。


 そう決められたことに、クラリスは少しだけ達成感を覚えていた。


 廊下へ出ると、レオンハルトが待っていた。


「終わったか」


「第一分類だけですが」


「十分だ」


「七三三番の請求書が見つかっていません」


「明日探せ」


「……はい」


 即答された。


 クラリスは少しだけ不満そうな顔をしたのかもしれない。


 レオンハルトが笑った。


「気になる顔をしている」


「気になります」


「だろうな」


「殿下は気になりませんか」


「なる」


「では」


「だからこそ、今日は帰る」


 クラリスは首を傾げた。


「なぜですか」


「疲れた頭で探すと、見つけたいものばかり見える」


 その言葉に、クラリスは黙った。


 確かに。


 七三三を探したい。


 そう思えば、見えるものを都合よく解釈してしまうかもしれない。


 帳簿を読む時に一番危険なのは、答えを先に決めることだ。


「明日、探します」


「ああ」


 レオンハルトは頷いた。


「それと、明日は王太子の再教育資料も見る」


「わたくしが?」


「いや、兄上が」


 レオンハルトの声が少し冷えた。


「自分の原稿がどう直されていたかを、そろそろ本人に見せる」


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


「殿下は、受け入れられるでしょうか」


「兄上が?」


「はい」


「最初は怒るだろう」


「でしょうね」


「次に言い訳をする」


「想像できます」


「最後に、少し黙る」


 クラリスは、レオンハルトを見た。


「そこまで?」


「黙れば、まだ望みはある」


 厳しい言い方だった。


 けれど、突き放してはいない。


 ジュリアスはまだ変われるかもしれない。


 レオンハルトは、そう考えているのだろう。


「クラリス」


「はい」


「君は同席しなくていい」


「でも、発言文の修正はわたくしが」


「だからだ」


 レオンハルトは言った。


「君がいれば、兄上は君に反発する。君の前で認めるのが悔しくなる。まずは、君がいない場所で自分の原稿を見るべきだ」


「……なるほど」


 正しい。


 クラリスがいると、ジュリアスは素直になれない。


 それは彼の欠点であり、同時に人間らしさでもある。


「分かりました。お任せします」


 レオンハルトが、少しだけ目を細めた。


「今、自然に任せたな」


「そうでしょうか」


「ああ」


「……少し慣れてきたのかもしれません」


 そう言うと、レオンハルトは小さく笑った。


「良い傾向だ」


 顧問室の扉が閉まる。


 中には、分類された資料が残っている。


 未発見の七三三番も、どこかに眠っている。


 クラリスは振り返らなかった。


 明日でいい。


 そう自分に言い聞かせた。


 その夜、バルツァー財務卿の執務室には、昼間の使者が戻っていた。


「請求書番号に気づかれました」


 その報告に、バルツァーは黙った。


 机の上には、酒ではなく濃い茶がある。


 彼はゆっくりカップを置いた。


「どの番号だ」


「七三一、七三二、七三四です」


「七三三は」


「まだ見つけていないようです」


 バルツァーは、わずかに息を吐いた。


「ならば、まだ時間はある」


「処分しますか」


「今動けば、見つけてくださいと言っているようなものだ」


 彼は指先で机を叩いた。


「クラリス顧問は、思ったより数字を見る」


「いかがいたしますか」


「数字を見る者には、数字以外を見せればよい」


「と申しますと」


 バルツァーは、冷たい笑みを浮かべた。


「社交界だ。ローゼン侯爵夫人へ伝えよ。次の茶会で、クラリス顧問には少し忙しくなっていただく」


 使者は頭を下げた。


 財務卿は窓の外を見る。


 王宮の灯りは、今日も美しい。


 その灯りの下で、数字の迷路はまだ続いている。


 そして迷路の奥には、クラリスがまだ知らない扉があった。

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