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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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8/8

第8話 奪われたのは婚約者ではなく、私を縛っていた鎖でした

 任命式の朝、王宮の空はよく晴れていた。


 雲一つない青空。


 王宮の尖塔は朝日に照らされ、白い壁はいつもより眩しく見える。


 以前のクラリスなら、その天気を見て最初に考えたのは、庭園を使う式典の動線だった。


 日差しが強いなら、大使夫人の席を少し内側へ移すべきか。

 風があるなら、書類を押さえる文鎮を増やすべきか。

 招待客の馬車が詰まらないよう、北門を開けるべきか。


 けれど今朝、彼女が最初に思ったのは違った。


 晴れてよかった。


 ただ、それだけだった。


「お嬢様」


 背後でイリスが声をかける。


「本日は、いえ、本日からは“クラリス顧問”とお呼びした方がよろしいでしょうか」


「やめて」


「では、王宮臨時顧問閣下」


「イリス」


「失礼いたしました。少し浮かれております」


 顔はまったく浮かれていない。


 だが、付き合いの長いクラリスには分かる。


 イリスは、かなり機嫌がいい。


 濃紺のドレスに、銀糸で控えめな刺繍が施されている。派手さはないが、王宮の大理石の床を歩いても沈まないだけの格がある。


 髪はきっちり結い上げ、首元には小さな菫色の石。


 婚約を失った令嬢の装いではない。


 王宮と交渉し、条件を勝ち取った者の装いだった。


「お嬢様。お顔色は?」


「悪くないと思うわ」


「では、そのように見えるよう、少しだけ頬紅を」


「必要?」


「必要です。昨日まで王宮が胃痛と混乱で崩れかけていたことを思えば、お嬢様だけでも健康そうに見えていただかねば」


「私だけでも?」


「はい。書記官室はおそらく全滅しております」


 クラリスは思わず笑いかけた。


 そこへ、扉が叩かれる。


「クラリス様。王弟殿下がお迎えに」


 イリスが、すぐに背筋を伸ばした。


「早いですね」


「時間どおりよ」


「王族が時間どおりに来ると、逆に緊張いたします」


「レオンハルト殿下に聞こえるわ」


「聞こえるように申し上げました」


 扉の向こうで、低い笑い声がした。


「では、私の耳は正常らしい」


 レオンハルトが入ってくる。


 黒を基調にした正装に、王家の金糸飾り。


 派手さは抑えられているのに、部屋の空気が少し変わる。


 クラリスは礼をした。


「お迎えいただき、恐れ入ります」


「君がまた先に行って、任命式前に三件ほど仕事を片付けてしまわないよう監視に来た」


「いたしません」


 少し間があいた。


 イリスが言う。


「お嬢様、本当に?」


「……一件も?」


 レオンハルトまで聞いてきた。


 クラリスは二人を見比べる。


「信用がないのですね」


「これまでの実績がある」


「同感でございます」


 クラリスは小さく息を吐いた。


 だが、不快ではなかった。


 以前は、仕事をすることを当然とされていた。


 今は、仕事をしすぎるなと止められている。


 それだけで、ずいぶん違う。


「では、参りましょう」


 レオンハルトが手を差し出す。


 クラリスは一瞬だけ迷い、それからそっと手を重ねた。


 婚約者の手ではない。


 主従の手でもない。


 今はまだ、同じ場所へ向かう相手の手だった。


 任命式は、王宮中央棟の謁見の間で行われた。


 本来ならもっと小規模に済ませることもできたはずだ。


 だが国王アレクシスは、あえて重臣や王妃執務院、政務院、神殿関係者、主要貴族の前で式を開いた。


 隠さないためだ。


 クラリスが王宮に戻ること。


 それが王太子の婚約者としてではないこと。


 王家が、彼女の実務能力を正式に必要としていること。


 すべてを見せるために。


 謁見の間へ入った瞬間、ざわめきが広がった。


 かつて、ここでクラリスは王太子の半歩後ろに立っていた。


 今日、彼女は一人で歩いている。


 右にはレオンハルト。


 左にはイリスが少し後ろに控えている。


 奥には国王アレクシスが座し、その隣には病み上がりの王妃エレオノーラの姿もあった。


 王妃は痩せていたが、目は鋭い。


 かつて社交界を支配した名王妃の目だった。


 クラリスが礼をすると、王妃はほんのわずかに頷いた。


 その頷きには、謝罪とも、期待ともつかない深さがあった。


 そして少し離れた場所に、ジュリアスがいた。


 王太子としての礼服は身につけている。


 だが、以前のような眩しさはない。


 顔色は悪く、唇は固い。


 その隣には、ミレーヌはいなかった。


 彼女は王太子の隣ではなく、王妃執務院の末席、マルタ女官長の後ろに控えていた。


 ドレスも華やかなものではない。


 淡い灰色の実務用の装い。


 髪飾りも小さい。


 昨日までなら、彼女はその場に立つことを屈辱だと感じたかもしれない。


 だが今日のミレーヌは、俯いてはいなかった。


 緊張した顔で、こちらを見ている。


 クラリスと目が合うと、彼女はぎこちなく頭を下げた。


 クラリスも、小さく頷き返す。


 それだけだった。


 今は、それでいい。


 国王アレクシスが立ち上がった。


 謁見の間のざわめきが止まる。


「クラリス・フォン・エルディア」


「はい」


 クラリスは一歩前へ出た。


「そなたを、本日付でアルヴィア王国王宮臨時顧問に任ずる」


 書記官オスカーが任命書を読み上げる。


 声は少し疲れていたが、最後まで乱れなかった。


 役職。


 任期。


 報酬。


 職務範囲。


 決裁権。


 休暇。


 命令系統。


 すべてが、公式の場で読み上げられる。


 その一つ一つが、クラリスの中に静かに沈んでいく。


 ただの善意ではない。

 ただの務めではない。

 ただの婚約者の献身ではない。


 仕事だ。


 存在したものだ。


 記録されるものだ。


 オスカーが読み終えると、国王は任命書をクラリスへ渡した。


「王家は、そなたのこれまでの働きを当然のものとして扱ってきた」


 謁見の間に、緊張が走る。


 国王の声は、よく通った。


「この場で、その非を認める。今後、そなたに限らず、王宮を支える者の仕事を見えないものとして扱わぬよう、仕組みを改める」


 誰かが息を呑んだ。


 国王の謝罪。


 それも、公の場で。


 ジュリアスの顔がわずかに歪んだ。


 けれど、何も言わない。


 いや、言えない。


 これは王の言葉であり、王宮の決定だ。


 クラリスは、任命書を受け取った。


「謹んで、お受けいたします」


 頭を下げる。


 以前より少しだけ浅く。


 誰かの影としてではなく、自分の名で。


 式は粛々と進んだ。


 続いて、ジュリアスへの処分が発表された。


 王太子としての権限の一部停止。


 外交儀礼案件からの一時除外。


 政務再教育。


 ミレーヌとの婚約話は凍結。


 ミレーヌは王宮儀礼局で基礎から学ぶこと。


 追放でも、断罪でもない。


 だが、王太子と妹にとっては十分に重い。


 ジュリアスは拳を握りしめていた。


 ミレーヌは小さく震えたが、泣かなかった。


 マルタ女官長が横目で彼女を見る。


 少しだけ、評価するような目だった。


 式の後、クラリスは謁見の間の脇にある回廊へ出た。


 任命式は終わったが、挨拶に来る者は多い。


 神殿のフィオナ司祭が最初に来た。


「クラリス様」


「フィオナ司祭。先日の書簡、失礼いたしました」


「いいえ。おかげで孤児院の薪契約を先に押さえられました」


 フィオナは柔らかく微笑んだ。


「子どもたちも、今年は寒い思いをせずに済みそうです」


「それなら、よかった」


「ですが、無理はなさらないでください」


 その言葉に、クラリスは少し驚いた。


 フィオナは続ける。


「困った者を助けることと、すべて背負うことは違います。神殿でも、よく間違える者がおります」


「……肝に銘じます」


「ええ。ぜひ」


 フィオナは穏やかに礼をして去った。


 次に来たのは、オスカーだった。


 彼は任命書の控えを抱え、疲れた顔で、それでも少しだけ晴れやかな表情をしていた。


「クラリス様。いえ、クラリス顧問」


「その呼び方、慣れるまで時間がかかりそうです」


「私もです。ですが、正式名称ですので」


「胃は?」


「任命式の間は無事でした」


「それは何よりです」


「ただ、午後から早速、王太子殿下の過去の発言文整理と、ノルヴァルト公国への謝罪文の再構成が」


 そこまで言って、オスカーははっとした。


「あ、いえ。本日はまだ」


 クラリスは思わず笑った。


「提出期限は?」


「本日夕刻までに草案を作り、明朝クラリス顧問へ確認依頼を正式提出します」


「では、明朝確認します」


 オスカーは、心底ほっとした顔をした。


「ありがとうございます。正式な手順があるだけで、胃の痛みが三割ほど減ります」


「七割は残るのですね」


「王宮勤務ですので」


 そう言って、彼は苦笑した。


 マルタ女官長も近づいてくる。


 その後ろにミレーヌが控えていた。


 クラリスは一瞬だけ息を整える。


 マルタは深く礼をした。


「クラリス顧問。改めて、王妃執務院としてお迎えいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「早速ですが、明日からミレーヌ様の基礎教育を始めます」


 ミレーヌの肩がぴくりと動く。


 マルタは淡々と続ける。


「最初は、招待状の封筒書きから」


「封筒……ですか」


 ミレーヌが小さく呟く。


 マルタは容赦ない。


「はい。貴族家の正式名称、敬称、家格順、喪中の家への文面差し替え。封筒一つで、だいたい三回は失敗できます」


 ミレーヌの顔が青くなる。


 クラリスは、つい口を挟みそうになった。


 でも、止めた。


 マルタは分かっている。


 封筒書きは雑用ではない。


 王宮儀礼の入口だ。


 そこを知らずに、茶会の主催などできない。


 ミレーヌはしばらく俯いていたが、やがて小さく言った。


「……教えていただきます」


 マルタの眉が少しだけ動いた。


「“いただきます”ではなく、“お願いいたします”です。教わる側が、受け身で済ませてよい場ではございません」


 ミレーヌは唇を噛んだ。


 泣くかと思った。


 けれど、泣かなかった。


「お願いいたします」


 小さな声だった。


 だが、昨日よりはましだった。


 クラリスは妹を見る。


 ミレーヌも、おそるおそる顔を上げた。


「お姉様」


「何?」


「私……まだ、謝っていいほど分かっていないと思います」


 クラリスは黙って聞いた。


「でも、分からないまま軽く言ったことは……たぶん、いけなかったのだと思います」


 たぶん。


 その曖昧さが、今のミレーヌらしかった。


 完全に理解したわけではない。


 でも、最初の一歩としては嘘がない。


「そうね」


 クラリスは答えた。


「まずは、そこからでいいと思うわ」


 ミレーヌの目が潤んだ。


 だが、彼女は涙をこぼさなかった。


 代わりに、ぎこちなく頭を下げる。


「行ってまいります」


「ええ。行ってらっしゃい」


 その言葉を聞いた瞬間、ミレーヌの表情が少しだけ崩れた。


 泣きそうになったのを、必死にこらえた顔だった。


 マルタに促され、彼女は歩いていく。


 クラリスはその背中を見送った。


 許したわけではない。


 傷が消えたわけでもない。


 けれど、妹が初めて自分の足で学びに行く背中を見た。


 それだけで、少し胸が軽くなった。


「甘いな」


 横から声がした。


 ジュリアスだった。


 クラリスは振り向く。


 彼は式の時より近くに立っていた。


 周囲に人はいるが、皆、距離を取っている。


 王太子と元婚約者。


 この二人の会話に、誰も不用意に近づきたくないのだろう。


「ミレーヌには優しいのだな」


 ジュリアスの声には、皮肉が混じっていた。


 クラリスは、かつてならその皮肉を和らげる返事を探した。


 今日は探さない。


「妹ですので」


「私には冷たい」


「殿下は、妹ではございませんので」


 近くにいたオスカーが、遠くを見た。


 聞かなかったことにしたい顔だった。


 ジュリアスは顔を強張らせる。


「君は、本当に変わった」


「昨日もそうおっしゃいました」


「以前の君なら、私をここまで恥をかかせなかった」


 クラリスは、しばらく彼を見つめた。


 美しい王子。


 多くの民が憧れた人。


 自分もかつて、この人を支えるのが務めだと思っていた。


 でも、今なら分かる。


 彼は、クラリスを見ていなかった。


 自分を支える便利な影としてしか。


「殿下」


「何だ」


「恥をかかせたのは、わたくしではございません」


 ジュリアスの目が細くなる。


 クラリスは、静かに続けた。


「これまで、その恥を見えないように整えていた者がいなくなっただけでございます」


 ジュリアスは何も言わなかった。


 言えなかった。


 怒ることはできたかもしれない。


 だが、この場には国王も王妃もいる。重臣も、神殿関係者も、王妃執務院の者たちもいる。


 そして何より、彼自身が分かっている。


 朝会が止まったこと。

 茶会で失態を犯したこと。

 大使を怒らせたこと。


 それはクラリスのせいではない。


 ジュリアスは視線を逸らした。


「政務再教育など、すぐに終わらせる」


「それがよろしいかと存じます」


「君は……私が失敗すれば満足か」


「いいえ」


 クラリスは首を横に振った。


「殿下が失敗すれば、王国が困ります」


 その答えに、ジュリアスは少し驚いた顔をした。


「では、まだ私を心配しているのか」


「王国を心配しております」


 はっきり言った。


 ジュリアスの顔に、かすかな痛みが走る。


 それは、少し残酷だったかもしれない。


 けれど、嘘をつく必要はなかった。


 彼がクラリスを手放したように、クラリスもまた彼の婚約者である自分を手放したのだ。


「失礼いたします、殿下」


 クラリスは礼をし、歩き出す。


 背後から、ジュリアスの声がした。


「クラリス」


 足を止める。


「私は……」


 言葉が続かない。


 謝罪ではない。


 言い訳でもない。


 たぶん、彼自身にも分からない何か。


 クラリスは、少しだけ待った。


 けれど、ジュリアスは結局何も言えなかった。


 クラリスは振り返らずに言う。


「殿下。謝罪も政務も、言葉にする訓練が必要でございます」


 それだけ告げて、彼女は歩き出した。


 回廊へ出ると、レオンハルトが待っていた。


 壁にもたれず、きちんと立っている。


 こういうところが彼らしい。


「終わったか」


「ええ」


「泣かせたか?」


「泣いてはいません」


「兄上が?」


「殿下」


「冗談だ」


「冗談に聞こえません」


「半分本気だからな」


 クラリスは呆れたように彼を見る。


 レオンハルトは涼しい顔をしていた。


 二人でしばらく歩く。


 王宮の回廊は、いつもと同じだった。


 白い柱。

 磨かれた床。

 壁に飾られた歴代王妃の肖像画。

 窓の外に広がる庭園。


 だが、クラリスの足取りは以前と違う。


 どこかへ急がなくていい。


 誰かの失敗を未然に防ぐために走らなくていい。


 もちろん、仕事は山ほどある。


 明日からは、ノルヴァルト公国への謝罪文、神殿配分、財務卿バルツァーの帳簿、王妃執務院の人員整理。


 考えれば、きりがない。


 それでも、違う。


 今度は役職がある。

 範囲がある。

 報酬がある。

 休暇がある。

 断る権利がある。


 その違いは、大きかった。


「少し、外へ出るか」


 レオンハルトが言った。


「外?」


「バルコニーだ。任命式後すぐに仕事を始めると、イリス嬢に睨まれそうだ」


「すでに睨んでいると思います」


「では、なおさらだ」


 案内されたのは、王宮西棟のバルコニーだった。


 庭園が一望できる場所で、遠くには王都の街並みも見える。


 風が柔らかい。


 クラリスは手すりに触れ、空を見上げた。


 ここへ来たことは何度もある。


 けれど、景色を見た記憶はほとんどなかった。


 いつも、誰をどこへ案内するか、次の茶会でどの席を使うか、雨が降った場合の代替動線はどうするかを考えていた。


 空を見る暇など、なかった。


「疲れたか」


 レオンハルトが隣で尋ねる。


「少し」


「では、今日はもう働くな」


 クラリスは思わず彼を見た。


「王宮に戻った初日に、そのようなことをおっしゃる王族は初めてです」


「君を連れ戻したのは、使い潰すためではない」


 レオンハルトの声は、静かだった。


「それに、今日君がするべき一番大事な仕事は、もう終わっている」


「任命式ですか」


「違う」


「では?」


「自分の価値を、王宮に認めさせたことだ」


 クラリスは黙った。


 風が髪を揺らす。


 その言葉は、褒め言葉に近かった。


 けれど甘すぎない。


 だから、素直に受け取れた。


「わたくし一人では、難しかったと思います」


「そうか」


「殿下の提案書がありました。イリスが怒ってくれました。オスカー様やマルタ女官長も、現場の事実を話してくださいました」


「それでも、条件を出したのは君だ」


 レオンハルトは、手すりに肘をつかず、きちんと立ったまま遠くを見る。


「君が自分で言わなければ、誰がどれだけ怒っても、王宮はまた都合よく君を使った」


「……そうでしょうか」


「そうだ。王宮は、便利な人間を見つけるのが得意だからな」


「殿下も王族です」


「だから知っている」


 短い答えだった。


 クラリスは、少しだけ笑った。


 この人は王宮を愛しているのだろうか。


 たぶん、愛している。


 けれど、盲目的ではない。


 王宮の汚れも、怠慢も、古い歪みも見ている。


 見たうえで、壊れないように直そうとしている。


「殿下」


「何だ」


「なぜ、王位に興味がないのですか」


 聞いてから、踏み込みすぎたと思った。


 だが、レオンハルトは怒らなかった。


 少し考えてから答える。


「興味がないというより、向いていないと思っている」


「殿下が?」


「王は、光の中に立つ必要がある。民に顔を見せ、言葉を届け、時には夢を見せる。兄上には、その力がある」


「殿下にはないと?」


「私は、光の当たる場所より、影の長さを見る方が性に合う」


 クラリスは、彼の横顔を見た。


「それは、王に向いていない理由になるのでしょうか」


 レオンハルトが、少しだけこちらを見る。


「危ないことを言うな」


「失礼いたしました」


「いや」


 彼は小さく笑った。


「君らしい」


 少しの沈黙。


 庭園では、女官たちが花の手入れをしている。


 その中に、ミレーヌの姿はない。


 今頃、封筒書きの練習をしているのだろうか。


 クラリスがそう考えていると、レオンハルトが言った。


「気になるか」


「少し」


「助けたいか」


「今は、助けません」


「今は?」


「いつか、自分で助けを求める意味を分かったら。その時は、姉として話を聞くかもしれません」


「十分だ」


 レオンハルトは頷いた。


 そして少し間を置いてから、声を落とす。


「クラリス」


 名前だけで呼ばれた。


 クラリスは、ほんのわずかに動揺した。


「はい」


「今日のことは、仕事の話だ」


「はい」


「だが、それとは別に一つ言っておきたい」


 レオンハルトは、まっすぐ彼女を見た。


「いつか君が、自分の価値を誰かの役に立つことだけで測らなくなった時。その時は、私の隣に立つことも考えてほしい」


 風が止まったような気がした。


 告白、というには静かだった。


 求婚、というには慎重だった。


 だが、冗談ではない。


 クラリスは、すぐには答えなかった。


 心臓が、少し遅れて鳴る。


 王太子の婚約者だった頃、愛の言葉はあまり受け取らなかった。


 必要な言葉は多かった。


 頼む。

 直しておけ。

 準備しておけ。

 任せた。


 けれど、隣に立ってほしいと言われたことはなかった。


 便利だからではなく。


 役に立つからだけではなく。


 いつか、自分自身として。


 クラリスは、ようやく口を開いた。


「殿下」


「何だ」


「まずは、正式な雇用契約からお願いいたします」


 一瞬。


 レオンハルトは、驚いた顔をした。


 それから、声を立てて笑った。


 王宮のバルコニーに、低く心地よい笑い声が響く。


「そう来るか」


「大事なことですので」


「ああ。実に君らしい」


「お気を悪くされましたか」


「まさか」


 レオンハルトは、笑みを残したまま言った。


「むしろ安心した。君が甘い言葉だけで頷くようなら、私は自分の見る目を疑うところだった」


「では、見る目は?」


「今のところ、正しい」


 クラリスは、少しだけ目を伏せた。


 頬が熱い。


 これは、たぶん日差しのせいではない。


 バルコニーから戻ると、王宮の空気は少しだけ日常に戻り始めていた。


 文官たちは走り、女官たちは囁き、侍従は来客の案内をする。


 止まっていた王宮が、ぎこちなく動き出している。


 もちろん、すべてが解決したわけではない。


 むしろ、これからだ。


 その夜。


 王宮東棟の奥にある、ローゼン侯爵夫人の私室では、銀の燭台に火が灯っていた。


 夫人は茶を飲みながら、報告を聞いている。


「クラリス嬢が、王宮臨時顧問に?」


「はい。国王陛下の正式任命にございます」


 報告役の女官が頭を下げる。


 ローゼン侯爵夫人は、扇を閉じた。


 ぱちん、と小さな音がする。


「若い令嬢が、王妃執務院に権限を持つなど」


 その声は、甘い。


 甘いが、毒がある。


「面白くありませんわね」


 同じ頃、財務卿バルツァーの執務机には、一枚の写しが置かれていた。


 エルディア家の慈善用布地購入記録。


 ハイム商会。


 王都相場より三割高い単価。


 納入時期の不自然な遅れ。


 その紙の隅には、クラリスの筆跡で小さく記されている。


 要確認。


 バルツァー財務卿は、その文字を見て眉をひそめた。


「余計なものを見つける令嬢だ」


 そう呟き、紙を燭火へ近づける。


 だが、燃やす直前で手を止めた。


 今燃やせば、かえって怪しまれる。


 彼は紙を引き戻し、鍵のかかる引き出しへしまった。


 王宮は動き出した。


 だが、その奥にある古い埃までは、まだ払われていない。


 クラリス・フォン・エルディアが取り戻したのは、役職だけではない。


 自分の価値を、自分で決める権利だった。


 奪われたのは、婚約者ではなかった。


 あの王太子の隣で、黙って立ち続ける未来でもなかった。


 奪われたと思っていた場所は、彼女が自分を安売りしていた場所だった。


 だから今度は、自分の価値を知る人の隣で、自分の足で歩いていく。


 誰かの影ではなく。


 誰かの後始末でもなく。


 クラリス・フォン・エルディアとして。


 その一歩目を、彼女はようやく踏み出した。

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