第7話 無償で働く令嬢は、もうおりません
国王からの召喚状は、重かった。
紙の厚みではない。
封蝋に押された王家の紋章でもない。
その文面が、あまりにも整っていたからだ。
クラリス・フォン・エルディア殿。
王宮執務に関する協議のため、明日午前、王宮西棟小会議室へ出席を求める。
同席者は、国王アレクシス・ヴァレンティア、王弟レオンハルト・ヴァレンティア、王宮書記官オスカー・ベルン、王妃執務院女官長マルタ・リード。
王太子ジュリアス・ヴァレンティアは、協議の公平性を保つため同席させない。
最後の一文を読んだ時、クラリスは思わず指を止めた。
王太子殿下を同席させない。
つまり、国王は分かっている。
ジュリアスがいれば、これは協議ではなく、命令と感情のぶつかり合いになると。
「陛下は、ずいぶん早くご判断なさいましたね」
クラリスがそう言うと、向かいに座っていたレオンハルトは小さく肩をすくめた。
「王宮が三日で止まったからな。父上も、さすがに悠長にはしていられない」
「殿下は、厳しい言い方をなさいますね」
「兄上に似て甘い言葉を選ぶよりはましだろう」
その言い方があまりに淡々としていたので、クラリスは少しだけ笑いそうになった。
笑わなかった。
今笑えば、緊張が解けてしまいそうだったから。
イリスは、国王の召喚状を横から見ていた。
「お嬢様」
「何?」
「明日の服装は、戦装束でよろしいですね」
「交渉に行くだけよ」
「交渉は戦でございます」
レオンハルトが、そこで初めて小さく笑った。
「良い侍女だ」
「恐れ入ります、王弟殿下」
イリスは何事もなかったように礼をする。
クラリスは召喚状を畳み、机に置いた。
「戦ではなく、協議です」
「お嬢様」
イリスの声は、静かだった。
「これまでのお嬢様は、協議の席でご自分を最後に置いておられました。明日は、それをなさらないでくださいませ」
クラリスは、すぐに返事をできなかった。
イリスの言葉は、いつも刃のようにまっすぐだった。
そして、だいたい正しい。
「……分かっているわ」
そう答えると、イリスは深く頭を下げた。
「では、戦装束にいたします」
「だから戦では」
「濃紺のドレスにいたします。飾りは控えめに。ただし、安く見えないものを。お嬢様が“便利に戻ってきた令嬢”ではなく、“正式な交渉相手”であると一目で分かるように」
クラリスは言い返そうとして、やめた。
それは確かに必要だった。
王宮では、見た目も言葉である。
華やかすぎれば、婚約破棄された令嬢が強がっているように見える。
控えめすぎれば、下手に出たように見える。
明日のクラリスは、泣いて戻る娘ではない。
仕事の条件を示す者として行く。
「お願い」
クラリスが言うと、イリスはわずかに満足そうな顔をした。
その夜、クラリスはなかなか眠れなかった。
寝台に横になっても、頭の中に条項が浮かぶ。
正式任命。
報酬。
職務範囲。
決裁権。
王太子からの私的命令の拒否。
休暇。
補佐人員。
過去十年分の実務記録。
どれも必要なものだ。
必要なものなのに、胸の奥に小さな罪悪感があった。
本当に、そこまで求めていいのか。
公爵令嬢なのに。
元王太子妃候補なのに。
国のためなのに。
何度も聞いてきた言葉が、夜の静けさの中で顔を出す。
けれど、そのたびにレオンハルトの声が重なった。
国を動かす仕事に、報酬を払わないことの方が異常だ。
そしてイリスの声も。
協議の席で、ご自分を最後に置かないでくださいませ。
クラリスは目を閉じた。
明日は、最後にしない。
自分の価値を、自分で下げない。
そう決めて、ようやく眠りについた。
翌朝、王宮西棟の小会議室は、かつて何度も訪れた場所だった。
ただし、今日の席はいつもと違う。
以前なら、クラリスは壁際の補佐席に座った。
必要な書類を用意し、王太子の発言を支え、時折、誰にも気づかれないよう小さく助言する。
だが今日、彼女の席は中央の卓に用意されていた。
国王アレクシスの正面。
右手にレオンハルト。
左手にオスカー書記官。
少し離れて、マルタ女官長。
その配置を見ただけで、クラリスは国王の意図を理解した。
これは、形式だけの呼び戻しではない。
少なくとも、そう見せようとしている。
扉の前でイリスが小さく囁いた。
「背筋はいつもどおりで」
「ええ」
「遠慮は少なめに」
「努力するわ」
「努力ではなく実行でございます」
クラリスは小さく息を吐いた。
「分かっているわ」
扉が開く。
室内の視線が集まった。
国王アレクシスは、立ち上がらなかった。
だが、わずかに身を正した。
それだけで十分だった。
「クラリス・フォン・エルディア。急な召喚に応じてくれたこと、感謝する」
「恐れ入ります、陛下」
クラリスは礼をした。
王宮で身につけた、完璧な礼。
ただし今日は、以前のように深く下げすぎなかった。
国王はそのわずかな違いに気づいたようだった。
目が一瞬だけ細くなる。
「座りなさい」
「失礼いたします」
クラリスが席につくと、オスカーが小さく頭を下げた。
目元に疲労が濃い。
たった数日で、少し痩せたように見える。
「オスカー様。お加減は?」
「胃以外は無事です」
思わず、クラリスは返答に詰まった。
マルタが静かに言う。
「胃が無事でない時点で、無事とは申せません」
「女官長、その通りです」
オスカーは真面目に頷く。
そのやり取りで、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
国王も、わずかに息を吐いた。
「まず、王家として謝罪する」
唐突だった。
クラリスは、顔を上げる。
国王アレクシスは、まっすぐ彼女を見ていた。
「そなたの働きを、王家は当然のものとして扱ってきた。王太子妃候補という曖昧な立場のまま、王妃執務院の実務を担わせた。報酬も権限も、責任範囲すら明確にしなかった」
クラリスは、言葉を返せなかった。
謝罪されるとは思っていた。
だが、ここまで具体的に非を認められるとは思っていなかった。
国王は続ける。
「王太子の婚約解消についても、事前に王家として整理すべきであった。そなた個人に責任を押しつける形になったこと、詫びる」
深々と頭を下げることはない。
国王だからだ。
けれど、その声には逃げがなかった。
クラリスは静かに答えた。
「お言葉、確かに承りました」
許します、とは言わなかった。
国王も、それを求めてはいないようだった。
「本題に入ろう」
アレクシスは、卓上に置かれた書類へ視線を落とす。
「王弟レオンハルトより、そなたを王宮臨時顧問として迎える提案が出ている。また、そなた自身からも条件が示されていると聞いた」
「はい」
「ここで確認する。そなたは、王宮へ戻る意思があるか」
クラリスは、すぐには答えなかった。
その問いは単純ではない。
王宮へ戻りたいのか。
戻りたくないのか。
どちらでもなかった。
戻れば、また問題の中心に入る。
戻らなければ、神殿や王妃執務院、現場の文官や女官が苦しむ。
けれど、以前のようには戻れない。
それだけは決まっている。
「条件が整うのであれば」
クラリスは言った。
「王宮の実務に協力する意思はございます」
国王は、ゆっくり頷いた。
「婚約者としてではなく」
「はい」
「王太子の補佐役としてでもなく」
「はい」
「王宮臨時顧問として」
「その形であれば」
国王は、オスカーへ視線を向けた。
「書記官。記録を」
「はい」
オスカーの羽根ペンが走る。
その音を聞きながら、クラリスは不思議な感覚を覚えていた。
自分の言葉が、記録されている。
これまでは、誰かの言葉を整え、誰かの決定を文書に残し、誰かの責任を曖昧にしないための文章を書いてきた。
今日は違う。
自分の条件が、王宮の記録に残る。
それだけで、足元が少し固くなる気がした。
「では、条件を確認しよう」
レオンハルトが口を開いた。
国王ではなく、王弟が進行する。
おそらく、事前に決めていたのだろう。
アレクシス王が話すと、命令に聞こえる。
レオンハルトが進めれば、協議に近くなる。
「第一に、王宮臨時顧問としての正式任命」
「認める」
国王はすぐに答えた。
「任期はまず半年。以後、双方協議のうえ延長とする」
クラリスは頷く。
「妥当かと存じます」
「第二に、報酬」
レオンハルトが言うと、部屋の空気が少しだけ固くなった。
オスカーは筆を止めない。
マルタは表情を変えない。
国王も黙っている。
クラリスは、自分から口を開いた。
「王宮臨時顧問としての報酬は、同等の実務権限を持つ政務院上級官と同額を希望いたします」
国王の眉がわずかに上がった。
レオンハルトは口元だけで笑った。
オスカーの筆が一瞬止まる。
マルタは、ごく小さく頷いた。
「上級官と同額か」
国王が言う。
「はい」
「公爵令嬢としては、かなり踏み込んだ要求だ」
「公爵令嬢としてではなく、王宮臨時顧問として協議に臨んでおります」
クラリスは、声を乱さなかった。
「業務が政務院上級官と同等、あるいはそれ以上であるなら、基準は身分ではなく職務で測るべきかと存じます」
国王は黙った。
怒ったのではない。
考えている顔だった。
レオンハルトが口を挟む。
「父上。兄上の失言を事前に三つ減らすだけで、外交費用はかなり浮きます」
オスカーが咳き込んだ。
マルタが視線だけで「余計なことを」と言う。
国王は、こめかみを軽く押さえた。
「レオンハルト」
「失礼。事実を申し上げました」
「事実だから困るのだ」
そのやり取りに、クラリスは少しだけ肩の力が抜けた。
アレクシス王は、改めてクラリスを見る。
「認めよう。ただし、正式な金額は財務院と照合する。上級官相当を基準とすることは記録せよ」
「はい」
オスカーが記録する。
報酬。
その二文字が王宮の記録に残った。
クラリスの胸の奥で、何かが小さく震えた。
金が欲しいのか。
昨日、ジュリアスはそう言った。
今なら答えられる。
欲しいのは金だけではない。
けれど、対価を求めることは恥ではない。
「第三に、職務範囲の文書化」
レオンハルトが続ける。
「これは当然だ。むしろ、これまでなかったことがおかしい」
国王が言う。
「王妃執務院の儀礼調整、神殿慈善事業の配分調整、外交儀礼補佐、社交界席次管理。ここまでが主な範囲か」
クラリスは少し考えた。
「加えて、王太子殿下の公的発言文の確認が含まれるのであれば、必ず事前提出期限を設けてくださいませ」
オスカーが小さく頷く。
「それは必要です。前夜に全文差し替えは、書記官室が死にます」
マルタが静かに言う。
「死んでは困ります」
「はい。生きます」
国王は苦笑しかけて、すぐ真顔に戻った。
「発言文の確認は含める。ただし、提出期限を過ぎたものは原則対応外とする」
クラリスは、思わず国王を見た。
対応外。
王太子の原稿に対して、その言葉が使われる日が来るとは思わなかった。
レオンハルトが淡々と補足する。
「兄上が締切を守ればよいだけです」
「守らぬ場合は?」
国王が聞く。
「自分で恥をかく」
あまりに簡潔だった。
オスカーがまた咳き込む。
今度は完全に笑いを堪えている。
クラリスは、視線を落として口元を隠した。
この王弟は、ときどき容赦がない。
だが、それが必要なのだろう。
誰かが恥をかく前に、すべてクラリスが防ぐ。
その仕組みそのものを変えなければ、また同じことになる。
「第四に、王太子からの私的命令を拒否できる権利」
レオンハルトが読み上げた瞬間、国王の表情が重くなった。
室内の空気も変わる。
これは、王太子の権威に関わる。
クラリスは、ここが最も揉めると分かっていた。
だから、自分から説明する。
「陛下。これは王太子殿下の公的権限を否定するものではございません」
「分かっている」
「ただ、これまでわたくしは、婚約者という立場で多くの私的依頼を受けてまいりました。夜会前の急な原稿修正、茶会直前の謝罪文、ミレーヌへの個人的な指導、その他、本来の業務範囲外のことです」
国王は黙って聞いている。
「今後、王宮臨時顧問として働くのであれば、命令系統を明確にしていただきたいのです。誰の責任で、何の職務として行うのか。それが曖昧なままでは、同じことが繰り返されます」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、国王が頷いた。
「認める」
オスカーの筆が動く。
クラリスは、少しだけ息を吐いた。
だが、国王は続けた。
「ただし、緊急時の対応窓口は必要だ。王太子から直接ではなく、王妃執務院女官長、あるいは王弟府を通す形とする」
「妥当かと存じます」
マルタが頷く。
「王妃執務院で受ける場合も、記録を残します」
レオンハルトも言う。
「王弟府を通すものは、私の責任で判断する」
責任。
その言葉が、自然に出る。
それだけで、以前とは違った。
「第五。王妃執務院における一部決裁権」
この条件には、マルタが最初に反応した。
「クラリス様」
「はい」
「どの範囲をお望みですか」
マルタの声は硬い。
敵意ではない。
王妃執務院を預かる者として、権限の線引きを確認している。
クラリスは、まっすぐ答えた。
「席次、招待状、軽微な贈答、神殿慈善事業に関する内示案までです。予算そのものの最終決裁は陛下、王妃陛下、財務院の権限と理解しております」
「妥当です」
マルタは即答した。
国王が少し驚いたように見る。
「マルタ、よいのか」
「はい。むしろ、これまでクラリス様が実質的に担っていたにもかかわらず、決裁印を持たなかったため、現場で二度手間が生じておりました」
マルタは淡々と言う。
「権限のない方に責任だけ集まる状態は、不健全です」
クラリスは、マルタを見た。
厳格な女官長。
若い令嬢を甘やかす人ではない。
その彼女が、はっきり不健全と言った。
胸の奥が、また少しだけ揺れた。
「認める」
国王が言う。
「ただし、王妃と協議のうえ、正式範囲を確定する」
「承知いたしました」
「第六。休暇の保障」
レオンハルトが読み上げると、イリスが扉のそばで姿勢を正した。
クラリスは気づいていたが、見ないふりをした。
国王は、少しだけ気まずそうな顔をする。
「これは……当然だな」
「当然ではありませんでした」
思わず、クラリスは口にしていた。
部屋が静かになる。
クラリスは、一瞬だけしまったと思った。
けれど、もう言葉は戻らない。
国王は責めなかった。
「そうだな」
低い声だった。
「当然ではなかった。すまなかった」
クラリスは目を伏せる。
「……恐れ入ります」
レオンハルトが言う。
「週に一日、完全休養日。緊急対応不可。ただし、国難級の事案を除く」
オスカーが筆を止める。
「国難級の定義は?」
「戦争、王族の急病、大規模災害、外交断絶寸前」
「王太子殿下の原稿遅延は?」
「含まない」
「承知しました」
オスカーが真顔で記録する。
クラリスは、少しだけ笑ってしまった。
笑いはすぐに消したが、レオンハルトには見られた。
彼の口元が、わずかに緩む。
「第七。補佐人員」
国王が言った。
「これは必要だ。クラリス嬢一人に戻しても意味がない」
「はい」
クラリスは頷く。
「王宮書記官室より一名、王妃執務院より二名、神殿慈善担当との連絡係一名を希望いたします。可能であれば、オスカー様に書記官室との調整をお願いしたく存じます」
オスカーが眼鏡を押し上げた。
「私ですか」
「はい。ご迷惑でしょうか」
「いえ。胃は痛いですが、納得はしています」
マルタがすかさず言う。
「では、引き受けるのですね」
「はい。胃は痛いですが」
「二度言わなくて結構です」
小会議室に、少しだけ人間らしい空気が戻った。
こういう何気ないやり取りが、以前のクラリスにはなかった。
いや、あったのかもしれない。
ただ、気づく余裕がなかった。
「第八。過去十年分の実務貢献を記録に残すこと」
この条件を読み上げた時、国王の表情が最も深く沈んだ。
報酬よりも。
拒否権よりも。
決裁権よりも。
この条件が、一番重いのかもしれない。
過去の記録を残すとは、王家がこれまで記録せずに使っていたことを認めるという意味だ。
国王は、しばらく黙っていた。
クラリスも待った。
ここで譲ってはいけない。
自分のためだけではない。
これから同じ立場に置かれる誰かのためにも。
「クラリス嬢」
国王が言う。
「それを記録すれば、王家の不手際も残る」
「はい」
「社交界にも、いずれ伝わるだろう」
「すでに伝わり始めているかと存じます」
国王は、苦い笑みを浮かべた。
「違いない」
クラリスは続ける。
「陛下。わたくしは、王家を貶める記録を求めているのではございません」
「では、何を求める」
「仕事を、存在したものとして扱っていただきたいのです」
声が、少しだけ震えた。
クラリスは自分でも気づいた。
けれど、止めなかった。
「誰かが書類を整えたこと。誰かが謝罪文を書いたこと。誰かが席を離したこと。誰かが支払いを間に合わせたこと。それらは、何もなかったのではありません」
オスカーの筆が止まっている。
マルタは、目を伏せている。
レオンハルトは、クラリスを見ていた。
「わたくしだけではなく、王宮にはそのような仕事をしている者が多くおります。女官、侍従、書記官、厨房、馬車係。誰かが何も起こらないように動いたから、何も起こらないのです」
クラリスは、国王を見た。
「何も起こらなかったことを、何もしていないことと同じにしないでいただきたいのです」
長い沈黙が落ちた。
誰もすぐには話さなかった。
やがて、国王アレクシスは深く息を吐いた。
「認める」
短い言葉だった。
けれど、重かった。
「十年分の実務貢献を調査し、王宮記録に残す。そなた一人だけではなく、同様に非公式実務を担っていた者についても、範囲を確認する」
オスカーの筆が再び動き始めた。
マルタが静かに頭を下げる。
「陛下。その記録作成、王妃執務院も協力いたします」
「頼む」
クラリスは、膝の上で手を重ねた。
指先は震えていない。
大丈夫。
言えた。
言っても、世界は壊れなかった。
「最後に」
レオンハルトが言う。
「ミレーヌ嬢への教育は、クラリス嬢に無償で負わせないこと」
国王の顔に、父親としての疲れが浮かんだ。
王としてではなく、息子の失敗に向き合う者の顔だった。
「ミレーヌ嬢は、王宮儀礼局で基礎から学ばせる」
マルタが補足する。
「私の下でお預かりします。ただし、特別扱いはいたしません」
「それでよい」
国王は頷いた。
「王太子妃候補としての扱いは、一時凍結する」
クラリスは目を上げた。
ミレーヌの立場が凍結される。
当然かもしれない。
だが、実際に聞くと胸がざわめいた。
妹が可哀想、という単純な感情ではない。
当然だと思う自分と、やはり心配してしまう自分がいる。
レオンハルトが、ほんの少しこちらを見た。
その視線だけで、クラリスは自分の揺れに気づかれたと分かった。
彼は何も言わない。
それがありがたかった。
「以上の条件をもって」
国王が言った。
「クラリス・フォン・エルディアを、王宮臨時顧問として迎える。正式な任命式は明日行う。契約文書は本日中に整える」
クラリスは立ち上がった。
深く、けれど深すぎない礼をする。
「謹んで、お受けいたします」
その瞬間、クラリスは王宮へ戻ることになった。
ただし、以前とは違う。
王太子の婚約者ではない。
曖昧な未来の名で使われる令嬢でもない。
正式な役職と対価と権限を持つ、王宮臨時顧問として。
協議が終わった後、国王はオスカーとマルタを先に退室させた。
レオンハルトも立ち上がりかけたが、国王が止める。
「レオンハルトは残れ。クラリス嬢、そなたにも少しだけ話がある」
「はい」
イリスは扉の外で待つことになった。
少し不満げだったが、クラリスが頷くと静かに下がった。
室内には、国王とレオンハルトとクラリスだけが残る。
国王アレクシスは、先ほどよりも疲れた顔をしていた。
「ジュリアスの処分について、そなたに伝えておく」
クラリスは表情を整える。
「わたくしが伺ってよろしいのでしょうか」
「関係者だ」
国王は言った。
「王太子としての権限を一部停止する。政務再教育を命じ、当面は外交儀礼と王妃執務院関連の案件から外す」
重い処分だった。
廃嫡ではない。
だが、王太子としては大きな傷になる。
「ミレーヌ嬢との婚約は、正式決定前だったことにする。王太子妃候補としての扱いも凍結だ」
クラリスは、静かに聞いた。
胸が痛まないわけではない。
けれど、自分がそれを背負う必要はない。
「クラリス嬢」
「はい」
「そなたに、王家を代表してもう一度言う。すまなかった」
国王の声は低かった。
「私も、見て見ぬふりをした一人だ。そなたができるからと、任せ続けた」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「陛下。謝罪は承りました」
「許せとは言わぬ」
「はい」
「ただ、今後は王宮の仕組みとして改める。それが王としての責任だ」
クラリスは、もう一度礼をした。
「そのお言葉、記録に残していただけますか」
国王が一瞬、目を丸くした。
レオンハルトが横で小さく笑う。
国王も、やがて苦笑した。
「そなたは、本当に変わったな」
「変わらなければ、同じことになりますので」
「その通りだ」
国王は頷いた。
「記録に残そう」
小会議室を出ると、イリスがすぐに近づいてきた。
「お嬢様」
「決まりました」
「勝ちましたか」
「交渉が成立したのよ」
「つまり勝ちましたね」
クラリスは少し考えた。
「……そうかもしれないわ」
イリスの目が、ほんの少し輝いた。
「では、本日は祝杯でございます」
「お茶で?」
「もちろんでございます。お嬢様に酒を飲ませたら、疲労で眠ってしまわれます」
「否定できないわね」
そのやり取りの途中で、廊下の向こうから声がした。
「お姉様」
クラリスは足を止めた。
ミレーヌが立っていた。
昨日よりずっと地味なドレスだった。
髪飾りも小さい。
目元は赤いが、泣き崩れてはいない。
彼女の隣には、マルタ女官長がいる。
おそらく、これから王宮儀礼局へ連れていかれるのだろう。
ミレーヌは、クラリスを見て唇を震わせた。
「私……」
言葉が続かない。
謝りたいのか。
助けてほしいのか。
何を言えばいいのか、自分でも分からないのだろう。
クラリスは妹を見た。
幼い頃、何か失敗するたびに泣いていた妹。
そのたびに、自分は答えを渡してきた。
けれど今日は渡さない。
「ミレーヌ」
「はい」
「マルタ女官長のお話を、よく聞きなさい」
妹の目が揺れる。
「それだけ、ですか」
「ええ」
ミレーヌは俯いた。
少し前の彼女なら、ここで泣いていただろう。
でも今日は、涙をこらえた。
「……はい」
小さな返事だった。
それだけ言って、ミレーヌはマルタと共に歩いていった。
クラリスは、その背中を見送った。
胸の奥が、少し痛い。
だが、駆け寄らなかった。
イリスも何も言わなかった。
代わりに、レオンハルトが隣へ来た。
「気になるか」
「妹ですので」
「助けに行くか」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「今のあの子に必要なのは、わたくしではありません」
レオンハルトは頷いた。
「良い判断だ」
「冷たい姉でしょうか」
「いや」
彼は、少しだけ声を柔らかくした。
「ようやく、姉以外の自分も守っただけだ」
クラリスは返事をしなかった。
廊下の窓から、王宮の庭が見える。
以前と同じ庭。
同じ白い石畳。
同じ薔薇。
けれど、クラリスの立つ場所は少し違っていた。
無償で働く令嬢は、もういない。
戻ってきたのは、王宮臨時顧問クラリス・フォン・エルディア。
自分の価値を、ようやく自分で記録に残した女だった。




