表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/8

第7話 無償で働く令嬢は、もうおりません

 国王からの召喚状は、重かった。


 紙の厚みではない。


 封蝋に押された王家の紋章でもない。


 その文面が、あまりにも整っていたからだ。


 クラリス・フォン・エルディア殿。


 王宮執務に関する協議のため、明日午前、王宮西棟小会議室へ出席を求める。


 同席者は、国王アレクシス・ヴァレンティア、王弟レオンハルト・ヴァレンティア、王宮書記官オスカー・ベルン、王妃執務院女官長マルタ・リード。


 王太子ジュリアス・ヴァレンティアは、協議の公平性を保つため同席させない。


 最後の一文を読んだ時、クラリスは思わず指を止めた。


 王太子殿下を同席させない。


 つまり、国王は分かっている。


 ジュリアスがいれば、これは協議ではなく、命令と感情のぶつかり合いになると。


「陛下は、ずいぶん早くご判断なさいましたね」


 クラリスがそう言うと、向かいに座っていたレオンハルトは小さく肩をすくめた。


「王宮が三日で止まったからな。父上も、さすがに悠長にはしていられない」


「殿下は、厳しい言い方をなさいますね」


「兄上に似て甘い言葉を選ぶよりはましだろう」


 その言い方があまりに淡々としていたので、クラリスは少しだけ笑いそうになった。


 笑わなかった。


 今笑えば、緊張が解けてしまいそうだったから。


 イリスは、国王の召喚状を横から見ていた。


「お嬢様」


「何?」


「明日の服装は、戦装束でよろしいですね」


「交渉に行くだけよ」


「交渉は戦でございます」


 レオンハルトが、そこで初めて小さく笑った。


「良い侍女だ」


「恐れ入ります、王弟殿下」


 イリスは何事もなかったように礼をする。


 クラリスは召喚状を畳み、机に置いた。


「戦ではなく、協議です」


「お嬢様」


 イリスの声は、静かだった。


「これまでのお嬢様は、協議の席でご自分を最後に置いておられました。明日は、それをなさらないでくださいませ」


 クラリスは、すぐに返事をできなかった。


 イリスの言葉は、いつも刃のようにまっすぐだった。


 そして、だいたい正しい。


「……分かっているわ」


 そう答えると、イリスは深く頭を下げた。


「では、戦装束にいたします」


「だから戦では」


「濃紺のドレスにいたします。飾りは控えめに。ただし、安く見えないものを。お嬢様が“便利に戻ってきた令嬢”ではなく、“正式な交渉相手”であると一目で分かるように」


 クラリスは言い返そうとして、やめた。


 それは確かに必要だった。


 王宮では、見た目も言葉である。


 華やかすぎれば、婚約破棄された令嬢が強がっているように見える。


 控えめすぎれば、下手に出たように見える。


 明日のクラリスは、泣いて戻る娘ではない。


 仕事の条件を示す者として行く。


「お願い」


 クラリスが言うと、イリスはわずかに満足そうな顔をした。


 その夜、クラリスはなかなか眠れなかった。


 寝台に横になっても、頭の中に条項が浮かぶ。


 正式任命。


 報酬。


 職務範囲。


 決裁権。


 王太子からの私的命令の拒否。


 休暇。


 補佐人員。


 過去十年分の実務記録。


 どれも必要なものだ。


 必要なものなのに、胸の奥に小さな罪悪感があった。


 本当に、そこまで求めていいのか。


 公爵令嬢なのに。


 元王太子妃候補なのに。


 国のためなのに。


 何度も聞いてきた言葉が、夜の静けさの中で顔を出す。


 けれど、そのたびにレオンハルトの声が重なった。


 国を動かす仕事に、報酬を払わないことの方が異常だ。


 そしてイリスの声も。


 協議の席で、ご自分を最後に置かないでくださいませ。


 クラリスは目を閉じた。


 明日は、最後にしない。


 自分の価値を、自分で下げない。


 そう決めて、ようやく眠りについた。


 翌朝、王宮西棟の小会議室は、かつて何度も訪れた場所だった。


 ただし、今日の席はいつもと違う。


 以前なら、クラリスは壁際の補佐席に座った。


 必要な書類を用意し、王太子の発言を支え、時折、誰にも気づかれないよう小さく助言する。


 だが今日、彼女の席は中央の卓に用意されていた。


 国王アレクシスの正面。


 右手にレオンハルト。


 左手にオスカー書記官。


 少し離れて、マルタ女官長。


 その配置を見ただけで、クラリスは国王の意図を理解した。


 これは、形式だけの呼び戻しではない。


 少なくとも、そう見せようとしている。


 扉の前でイリスが小さく囁いた。


「背筋はいつもどおりで」


「ええ」


「遠慮は少なめに」


「努力するわ」


「努力ではなく実行でございます」


 クラリスは小さく息を吐いた。


「分かっているわ」


 扉が開く。


 室内の視線が集まった。


 国王アレクシスは、立ち上がらなかった。


 だが、わずかに身を正した。


 それだけで十分だった。


「クラリス・フォン・エルディア。急な召喚に応じてくれたこと、感謝する」


「恐れ入ります、陛下」


 クラリスは礼をした。


 王宮で身につけた、完璧な礼。


 ただし今日は、以前のように深く下げすぎなかった。


 国王はそのわずかな違いに気づいたようだった。


 目が一瞬だけ細くなる。


「座りなさい」


「失礼いたします」


 クラリスが席につくと、オスカーが小さく頭を下げた。


 目元に疲労が濃い。


 たった数日で、少し痩せたように見える。


「オスカー様。お加減は?」


「胃以外は無事です」


 思わず、クラリスは返答に詰まった。


 マルタが静かに言う。


「胃が無事でない時点で、無事とは申せません」


「女官長、その通りです」


 オスカーは真面目に頷く。


 そのやり取りで、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。


 国王も、わずかに息を吐いた。


「まず、王家として謝罪する」


 唐突だった。


 クラリスは、顔を上げる。


 国王アレクシスは、まっすぐ彼女を見ていた。


「そなたの働きを、王家は当然のものとして扱ってきた。王太子妃候補という曖昧な立場のまま、王妃執務院の実務を担わせた。報酬も権限も、責任範囲すら明確にしなかった」


 クラリスは、言葉を返せなかった。


 謝罪されるとは思っていた。


 だが、ここまで具体的に非を認められるとは思っていなかった。


 国王は続ける。


「王太子の婚約解消についても、事前に王家として整理すべきであった。そなた個人に責任を押しつける形になったこと、詫びる」


 深々と頭を下げることはない。


 国王だからだ。


 けれど、その声には逃げがなかった。


 クラリスは静かに答えた。


「お言葉、確かに承りました」


 許します、とは言わなかった。


 国王も、それを求めてはいないようだった。


「本題に入ろう」


 アレクシスは、卓上に置かれた書類へ視線を落とす。


「王弟レオンハルトより、そなたを王宮臨時顧問として迎える提案が出ている。また、そなた自身からも条件が示されていると聞いた」


「はい」


「ここで確認する。そなたは、王宮へ戻る意思があるか」


 クラリスは、すぐには答えなかった。


 その問いは単純ではない。


 王宮へ戻りたいのか。


 戻りたくないのか。


 どちらでもなかった。


 戻れば、また問題の中心に入る。


 戻らなければ、神殿や王妃執務院、現場の文官や女官が苦しむ。


 けれど、以前のようには戻れない。


 それだけは決まっている。


「条件が整うのであれば」


 クラリスは言った。


「王宮の実務に協力する意思はございます」


 国王は、ゆっくり頷いた。


「婚約者としてではなく」


「はい」


「王太子の補佐役としてでもなく」


「はい」


「王宮臨時顧問として」


「その形であれば」


 国王は、オスカーへ視線を向けた。


「書記官。記録を」


「はい」


 オスカーの羽根ペンが走る。


 その音を聞きながら、クラリスは不思議な感覚を覚えていた。


 自分の言葉が、記録されている。


 これまでは、誰かの言葉を整え、誰かの決定を文書に残し、誰かの責任を曖昧にしないための文章を書いてきた。


 今日は違う。


 自分の条件が、王宮の記録に残る。


 それだけで、足元が少し固くなる気がした。


「では、条件を確認しよう」


 レオンハルトが口を開いた。


 国王ではなく、王弟が進行する。


 おそらく、事前に決めていたのだろう。


 アレクシス王が話すと、命令に聞こえる。


 レオンハルトが進めれば、協議に近くなる。


「第一に、王宮臨時顧問としての正式任命」


「認める」


 国王はすぐに答えた。


「任期はまず半年。以後、双方協議のうえ延長とする」


 クラリスは頷く。


「妥当かと存じます」


「第二に、報酬」


 レオンハルトが言うと、部屋の空気が少しだけ固くなった。


 オスカーは筆を止めない。


 マルタは表情を変えない。


 国王も黙っている。


 クラリスは、自分から口を開いた。


「王宮臨時顧問としての報酬は、同等の実務権限を持つ政務院上級官と同額を希望いたします」


 国王の眉がわずかに上がった。


 レオンハルトは口元だけで笑った。


 オスカーの筆が一瞬止まる。


 マルタは、ごく小さく頷いた。


「上級官と同額か」


 国王が言う。


「はい」


「公爵令嬢としては、かなり踏み込んだ要求だ」


「公爵令嬢としてではなく、王宮臨時顧問として協議に臨んでおります」


 クラリスは、声を乱さなかった。


「業務が政務院上級官と同等、あるいはそれ以上であるなら、基準は身分ではなく職務で測るべきかと存じます」


 国王は黙った。


 怒ったのではない。


 考えている顔だった。


 レオンハルトが口を挟む。


「父上。兄上の失言を事前に三つ減らすだけで、外交費用はかなり浮きます」


 オスカーが咳き込んだ。


 マルタが視線だけで「余計なことを」と言う。


 国王は、こめかみを軽く押さえた。


「レオンハルト」


「失礼。事実を申し上げました」


「事実だから困るのだ」


 そのやり取りに、クラリスは少しだけ肩の力が抜けた。


 アレクシス王は、改めてクラリスを見る。


「認めよう。ただし、正式な金額は財務院と照合する。上級官相当を基準とすることは記録せよ」


「はい」


 オスカーが記録する。


 報酬。


 その二文字が王宮の記録に残った。


 クラリスの胸の奥で、何かが小さく震えた。


 金が欲しいのか。


 昨日、ジュリアスはそう言った。


 今なら答えられる。


 欲しいのは金だけではない。


 けれど、対価を求めることは恥ではない。


「第三に、職務範囲の文書化」


 レオンハルトが続ける。


「これは当然だ。むしろ、これまでなかったことがおかしい」


 国王が言う。


「王妃執務院の儀礼調整、神殿慈善事業の配分調整、外交儀礼補佐、社交界席次管理。ここまでが主な範囲か」


 クラリスは少し考えた。


「加えて、王太子殿下の公的発言文の確認が含まれるのであれば、必ず事前提出期限を設けてくださいませ」


 オスカーが小さく頷く。


「それは必要です。前夜に全文差し替えは、書記官室が死にます」


 マルタが静かに言う。


「死んでは困ります」


「はい。生きます」


 国王は苦笑しかけて、すぐ真顔に戻った。


「発言文の確認は含める。ただし、提出期限を過ぎたものは原則対応外とする」


 クラリスは、思わず国王を見た。


 対応外。


 王太子の原稿に対して、その言葉が使われる日が来るとは思わなかった。


 レオンハルトが淡々と補足する。


「兄上が締切を守ればよいだけです」


「守らぬ場合は?」


 国王が聞く。


「自分で恥をかく」


 あまりに簡潔だった。


 オスカーがまた咳き込む。


 今度は完全に笑いを堪えている。


 クラリスは、視線を落として口元を隠した。


 この王弟は、ときどき容赦がない。


 だが、それが必要なのだろう。


 誰かが恥をかく前に、すべてクラリスが防ぐ。


 その仕組みそのものを変えなければ、また同じことになる。


「第四に、王太子からの私的命令を拒否できる権利」


 レオンハルトが読み上げた瞬間、国王の表情が重くなった。


 室内の空気も変わる。


 これは、王太子の権威に関わる。


 クラリスは、ここが最も揉めると分かっていた。


 だから、自分から説明する。


「陛下。これは王太子殿下の公的権限を否定するものではございません」


「分かっている」


「ただ、これまでわたくしは、婚約者という立場で多くの私的依頼を受けてまいりました。夜会前の急な原稿修正、茶会直前の謝罪文、ミレーヌへの個人的な指導、その他、本来の業務範囲外のことです」


 国王は黙って聞いている。


「今後、王宮臨時顧問として働くのであれば、命令系統を明確にしていただきたいのです。誰の責任で、何の職務として行うのか。それが曖昧なままでは、同じことが繰り返されます」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 やがて、国王が頷いた。


「認める」


 オスカーの筆が動く。


 クラリスは、少しだけ息を吐いた。


 だが、国王は続けた。


「ただし、緊急時の対応窓口は必要だ。王太子から直接ではなく、王妃執務院女官長、あるいは王弟府を通す形とする」


「妥当かと存じます」


 マルタが頷く。


「王妃執務院で受ける場合も、記録を残します」


 レオンハルトも言う。


「王弟府を通すものは、私の責任で判断する」


 責任。


 その言葉が、自然に出る。


 それだけで、以前とは違った。


「第五。王妃執務院における一部決裁権」


 この条件には、マルタが最初に反応した。


「クラリス様」


「はい」


「どの範囲をお望みですか」


 マルタの声は硬い。


 敵意ではない。


 王妃執務院を預かる者として、権限の線引きを確認している。


 クラリスは、まっすぐ答えた。


「席次、招待状、軽微な贈答、神殿慈善事業に関する内示案までです。予算そのものの最終決裁は陛下、王妃陛下、財務院の権限と理解しております」


「妥当です」


 マルタは即答した。


 国王が少し驚いたように見る。


「マルタ、よいのか」


「はい。むしろ、これまでクラリス様が実質的に担っていたにもかかわらず、決裁印を持たなかったため、現場で二度手間が生じておりました」


 マルタは淡々と言う。


「権限のない方に責任だけ集まる状態は、不健全です」


 クラリスは、マルタを見た。


 厳格な女官長。


 若い令嬢を甘やかす人ではない。


 その彼女が、はっきり不健全と言った。


 胸の奥が、また少しだけ揺れた。


「認める」


 国王が言う。


「ただし、王妃と協議のうえ、正式範囲を確定する」


「承知いたしました」


「第六。休暇の保障」


 レオンハルトが読み上げると、イリスが扉のそばで姿勢を正した。


 クラリスは気づいていたが、見ないふりをした。


 国王は、少しだけ気まずそうな顔をする。


「これは……当然だな」


「当然ではありませんでした」


 思わず、クラリスは口にしていた。


 部屋が静かになる。


 クラリスは、一瞬だけしまったと思った。


 けれど、もう言葉は戻らない。


 国王は責めなかった。


「そうだな」


 低い声だった。


「当然ではなかった。すまなかった」


 クラリスは目を伏せる。


「……恐れ入ります」


 レオンハルトが言う。


「週に一日、完全休養日。緊急対応不可。ただし、国難級の事案を除く」


 オスカーが筆を止める。


「国難級の定義は?」


「戦争、王族の急病、大規模災害、外交断絶寸前」


「王太子殿下の原稿遅延は?」


「含まない」


「承知しました」


 オスカーが真顔で記録する。


 クラリスは、少しだけ笑ってしまった。


 笑いはすぐに消したが、レオンハルトには見られた。


 彼の口元が、わずかに緩む。


「第七。補佐人員」


 国王が言った。


「これは必要だ。クラリス嬢一人に戻しても意味がない」


「はい」


 クラリスは頷く。


「王宮書記官室より一名、王妃執務院より二名、神殿慈善担当との連絡係一名を希望いたします。可能であれば、オスカー様に書記官室との調整をお願いしたく存じます」


 オスカーが眼鏡を押し上げた。


「私ですか」


「はい。ご迷惑でしょうか」


「いえ。胃は痛いですが、納得はしています」


 マルタがすかさず言う。


「では、引き受けるのですね」


「はい。胃は痛いですが」


「二度言わなくて結構です」


 小会議室に、少しだけ人間らしい空気が戻った。


 こういう何気ないやり取りが、以前のクラリスにはなかった。


 いや、あったのかもしれない。


 ただ、気づく余裕がなかった。


「第八。過去十年分の実務貢献を記録に残すこと」


 この条件を読み上げた時、国王の表情が最も深く沈んだ。


 報酬よりも。

 拒否権よりも。

 決裁権よりも。


 この条件が、一番重いのかもしれない。


 過去の記録を残すとは、王家がこれまで記録せずに使っていたことを認めるという意味だ。


 国王は、しばらく黙っていた。


 クラリスも待った。


 ここで譲ってはいけない。


 自分のためだけではない。


 これから同じ立場に置かれる誰かのためにも。


「クラリス嬢」


 国王が言う。


「それを記録すれば、王家の不手際も残る」


「はい」


「社交界にも、いずれ伝わるだろう」


「すでに伝わり始めているかと存じます」


 国王は、苦い笑みを浮かべた。


「違いない」


 クラリスは続ける。


「陛下。わたくしは、王家を貶める記録を求めているのではございません」


「では、何を求める」


「仕事を、存在したものとして扱っていただきたいのです」


 声が、少しだけ震えた。


 クラリスは自分でも気づいた。


 けれど、止めなかった。


「誰かが書類を整えたこと。誰かが謝罪文を書いたこと。誰かが席を離したこと。誰かが支払いを間に合わせたこと。それらは、何もなかったのではありません」


 オスカーの筆が止まっている。


 マルタは、目を伏せている。


 レオンハルトは、クラリスを見ていた。


「わたくしだけではなく、王宮にはそのような仕事をしている者が多くおります。女官、侍従、書記官、厨房、馬車係。誰かが何も起こらないように動いたから、何も起こらないのです」


 クラリスは、国王を見た。


「何も起こらなかったことを、何もしていないことと同じにしないでいただきたいのです」


 長い沈黙が落ちた。


 誰もすぐには話さなかった。


 やがて、国王アレクシスは深く息を吐いた。


「認める」


 短い言葉だった。


 けれど、重かった。


「十年分の実務貢献を調査し、王宮記録に残す。そなた一人だけではなく、同様に非公式実務を担っていた者についても、範囲を確認する」


 オスカーの筆が再び動き始めた。


 マルタが静かに頭を下げる。


「陛下。その記録作成、王妃執務院も協力いたします」


「頼む」


 クラリスは、膝の上で手を重ねた。


 指先は震えていない。


 大丈夫。


 言えた。


 言っても、世界は壊れなかった。


「最後に」


 レオンハルトが言う。


「ミレーヌ嬢への教育は、クラリス嬢に無償で負わせないこと」


 国王の顔に、父親としての疲れが浮かんだ。


 王としてではなく、息子の失敗に向き合う者の顔だった。


「ミレーヌ嬢は、王宮儀礼局で基礎から学ばせる」


 マルタが補足する。


「私の下でお預かりします。ただし、特別扱いはいたしません」


「それでよい」


 国王は頷いた。


「王太子妃候補としての扱いは、一時凍結する」


 クラリスは目を上げた。


 ミレーヌの立場が凍結される。


 当然かもしれない。


 だが、実際に聞くと胸がざわめいた。


 妹が可哀想、という単純な感情ではない。


 当然だと思う自分と、やはり心配してしまう自分がいる。


 レオンハルトが、ほんの少しこちらを見た。


 その視線だけで、クラリスは自分の揺れに気づかれたと分かった。


 彼は何も言わない。


 それがありがたかった。


「以上の条件をもって」


 国王が言った。


「クラリス・フォン・エルディアを、王宮臨時顧問として迎える。正式な任命式は明日行う。契約文書は本日中に整える」


 クラリスは立ち上がった。


 深く、けれど深すぎない礼をする。


「謹んで、お受けいたします」


 その瞬間、クラリスは王宮へ戻ることになった。


 ただし、以前とは違う。


 王太子の婚約者ではない。


 曖昧な未来の名で使われる令嬢でもない。


 正式な役職と対価と権限を持つ、王宮臨時顧問として。


 協議が終わった後、国王はオスカーとマルタを先に退室させた。


 レオンハルトも立ち上がりかけたが、国王が止める。


「レオンハルトは残れ。クラリス嬢、そなたにも少しだけ話がある」


「はい」


 イリスは扉の外で待つことになった。


 少し不満げだったが、クラリスが頷くと静かに下がった。


 室内には、国王とレオンハルトとクラリスだけが残る。


 国王アレクシスは、先ほどよりも疲れた顔をしていた。


「ジュリアスの処分について、そなたに伝えておく」


 クラリスは表情を整える。


「わたくしが伺ってよろしいのでしょうか」


「関係者だ」


 国王は言った。


「王太子としての権限を一部停止する。政務再教育を命じ、当面は外交儀礼と王妃執務院関連の案件から外す」


 重い処分だった。


 廃嫡ではない。


 だが、王太子としては大きな傷になる。


「ミレーヌ嬢との婚約は、正式決定前だったことにする。王太子妃候補としての扱いも凍結だ」


 クラリスは、静かに聞いた。


 胸が痛まないわけではない。


 けれど、自分がそれを背負う必要はない。


「クラリス嬢」


「はい」


「そなたに、王家を代表してもう一度言う。すまなかった」


 国王の声は低かった。


「私も、見て見ぬふりをした一人だ。そなたができるからと、任せ続けた」


 クラリスは、少しだけ目を伏せた。


「陛下。謝罪は承りました」


「許せとは言わぬ」


「はい」


「ただ、今後は王宮の仕組みとして改める。それが王としての責任だ」


 クラリスは、もう一度礼をした。


「そのお言葉、記録に残していただけますか」


 国王が一瞬、目を丸くした。


 レオンハルトが横で小さく笑う。


 国王も、やがて苦笑した。


「そなたは、本当に変わったな」


「変わらなければ、同じことになりますので」


「その通りだ」


 国王は頷いた。


「記録に残そう」


 小会議室を出ると、イリスがすぐに近づいてきた。


「お嬢様」


「決まりました」


「勝ちましたか」


「交渉が成立したのよ」


「つまり勝ちましたね」


 クラリスは少し考えた。


「……そうかもしれないわ」


 イリスの目が、ほんの少し輝いた。


「では、本日は祝杯でございます」


「お茶で?」


「もちろんでございます。お嬢様に酒を飲ませたら、疲労で眠ってしまわれます」


「否定できないわね」


 そのやり取りの途中で、廊下の向こうから声がした。


「お姉様」


 クラリスは足を止めた。


 ミレーヌが立っていた。


 昨日よりずっと地味なドレスだった。


 髪飾りも小さい。


 目元は赤いが、泣き崩れてはいない。


 彼女の隣には、マルタ女官長がいる。


 おそらく、これから王宮儀礼局へ連れていかれるのだろう。


 ミレーヌは、クラリスを見て唇を震わせた。


「私……」


 言葉が続かない。


 謝りたいのか。


 助けてほしいのか。


 何を言えばいいのか、自分でも分からないのだろう。


 クラリスは妹を見た。


 幼い頃、何か失敗するたびに泣いていた妹。


 そのたびに、自分は答えを渡してきた。


 けれど今日は渡さない。


「ミレーヌ」


「はい」


「マルタ女官長のお話を、よく聞きなさい」


 妹の目が揺れる。


「それだけ、ですか」


「ええ」


 ミレーヌは俯いた。


 少し前の彼女なら、ここで泣いていただろう。


 でも今日は、涙をこらえた。


「……はい」


 小さな返事だった。


 それだけ言って、ミレーヌはマルタと共に歩いていった。


 クラリスは、その背中を見送った。


 胸の奥が、少し痛い。


 だが、駆け寄らなかった。


 イリスも何も言わなかった。


 代わりに、レオンハルトが隣へ来た。


「気になるか」


「妹ですので」


「助けに行くか」


「いいえ」


 クラリスは首を横に振った。


「今のあの子に必要なのは、わたくしではありません」


 レオンハルトは頷いた。


「良い判断だ」


「冷たい姉でしょうか」


「いや」


 彼は、少しだけ声を柔らかくした。


「ようやく、姉以外の自分も守っただけだ」


 クラリスは返事をしなかった。


 廊下の窓から、王宮の庭が見える。


 以前と同じ庭。


 同じ白い石畳。


 同じ薔薇。


 けれど、クラリスの立つ場所は少し違っていた。


 無償で働く令嬢は、もういない。


 戻ってきたのは、王宮臨時顧問クラリス・フォン・エルディア。


 自分の価値を、ようやく自分で記録に残した女だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ