第6話 戻ってこいと言われましても
「それは、少しではありません」
クラリスの声は、静かだった。
怒鳴ったわけではない。
責め立てたわけでもない。
ただ、事実を机の上へ置いた。
それだけで、ミレーヌは言葉を失った。
応接室に沈黙が落ちる。
窓の外では、庭の噴水が涼しげな音を立てていた。
けれど室内の空気は、まるで冬の朝のように張りつめている。
ジュリアス・ヴァレンティアは、不機嫌そうに眉を寄せた。
「クラリス。今は言葉遊びをしている場合ではない」
「言葉遊びではございません」
クラリスは、まっすぐ王太子を見た。
「ミレーヌが“少し”とおっしゃったものは、すべて王宮の実務でございます」
「だから、それを教えろと言っている」
「殿下」
クラリスは一呼吸置いた。
「わたくしは、すでに王太子妃候補ではございません」
ジュリアスの顔が強張る。
昨日、自分が告げたことだ。
けれど彼は、その意味をまだ理解していない。
婚約を白紙に戻す。
王太子妃候補ではなくなる。
王宮の役目から外れる。
それは、都合の悪い責任だけを残せる言葉ではない。
「王太子妃候補ではなくとも、君はエルディア公爵家の令嬢だ。王家に仕える義務がある」
「エルディア公爵家は王家に忠誠を誓っております。ですが、令嬢個人の無償労働まで含まれるとは存じませんでした」
「無償労働だと?」
ジュリアスの声が低くなる。
「君は、そのように考えていたのか。王太子妃になるための務めを」
「王太子妃になる未来が消えましたので」
クラリスは微笑んだ。
「今なら、そう呼べます」
隣でレオンハルトが黙っている。
彼は口を挟まなかった。
クラリスが自分で線を引くのを、静かに見ている。
その視線が、不思議と支えになった。
ジュリアスは苛立ちを隠さず、卓を軽く叩いた。
「王宮が混乱している」
「それは大変でございますね」
「君がいなくなったからだ」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「わたくしがいなくても問題ないと判断なさったのは、殿下でございます」
その言葉に、ジュリアスの唇が歪む。
「揚げ足を取るな」
「事実を申し上げております」
「君は昔からそうだ。正しさで人を追い詰める」
懐かしい言葉だった。
正しい。
冷たい。
完璧すぎる。
人の心が分からない。
昨日も聞いた。
王宮でも、家でも、似たような言葉は何度も聞いてきた。
けれど今日は、その言葉が胸に刺さらなかった。
少し痛む。
だが、倒れるほどではない。
たぶん、自分の足元に初めて線を引いたからだ。
「殿下」
クラリスは言った。
「正しさで人を追い詰めているのではございません。これまで、正しさで殿下を守ってきたのです」
ジュリアスが黙る。
「失礼な言葉を削り、誤解される表現を直し、怒らせてはならない方の情報をお伝えし、会わせてはならない方々の席を離し、支払われるべき寄付金の時期を整えてまいりました」
声は淡々としていた。
けれど、一つ一つの言葉は重い。
「それを殿下は、冷たいとおっしゃいました」
ミレーヌが震える声で割り込む。
「お姉様、私は……私は、そんなつもりでは」
クラリスは妹を見る。
涙で潤んだ青い瞳。
昨日までは、その目を見れば、自然と手を差し伸べていた。
泣かせてはいけない。
困らせてはいけない。
姉なのだから。
けれど、今は違う。
「ミレーヌ」
「はい……」
「あなたは昨日、わたくしの仕事くらいできると言いました」
ミレーヌの肩が跳ねる。
「だって、あの時は……」
「今は違うの?」
「違うというか、私は、こんなにたくさんあるなんて知らなくて」
「知らなかった仕事を、軽いと言ったのですね」
ミレーヌの顔が歪んだ。
涙が一粒こぼれる。
「そんな言い方、ひどいですわ」
「そうね」
クラリスは静かに頷いた。
「ひどいことを言っているのかもしれない」
ミレーヌが、希望を見たように顔を上げる。
だが、クラリスは続けた。
「けれど、できない仕事を軽いと言ったことも、十分にひどいことです」
妹は息を呑んだ。
その言葉は、初めて彼女の胸に届いたようだった。
ジュリアスが苛立ったように声を上げる。
「ミレーヌを責めるな。彼女はまだ学び始めたばかりだ」
「学び始める前に、王太子妃候補になったのですか」
「クラリス」
「殿下がそうお選びになりました」
応接室の空気が、さらに冷える。
イリスが背後で茶を注いでいる。
その手つきは優雅だが、目はまったく笑っていない。
ミレーヌは両手を握りしめた。
「お姉様、お願いです。全部じゃなくていいのです。本当に少しだけ。席次と、大使様のことと、謝罪文と、神殿への配分と……あと、ローゼン侯爵夫人とヴェルナー伯爵夫人のことだけでも」
イリスの手が止まった。
全部である。
クラリスは心の中で、少しだけ息を吐いた。
「ミレーヌ」
「はい」
「それは、全部です」
妹は泣きそうな顔で首を振る。
「でも、お姉様ならすぐにできますでしょう?」
その一言で、クラリスの胸の奥に、鈍い痛みが走った。
お姉様ならすぐにできる。
幼い頃から聞いてきた言葉だった。
刺繍の図案も。
舞踏の手順も。
茶会の挨拶も。
王宮儀礼も。
失敗の後始末も。
お姉様ならすぐにできる。
だから、助けて。
だから、代わって。
だから、私の失敗をなかったことにして。
クラリスは、膝の上で手を重ねた。
その手を、強く握りしめることはしなかった。
乱れない。
今ここで乱れれば、また「冷たい」「怖い」「責めている」と言われるだけだ。
静かに、線を引く。
「すぐにできるからといって、無償で差し出す理由にはなりません」
ミレーヌは、信じられないものを見るような顔をした。
「お姉様……家族なのに」
「家族だから無償で尽くすべきだと、誰が決めたのですか」
部屋の空気が止まった。
ミレーヌだけではない。
ジュリアスも、扉のそばの使用人も、イリスでさえ一瞬沈黙した。
クラリス自身も、その言葉が自分の中から出てきたことに驚いていた。
けれど、言ってしまえば当然のことだった。
家族だから。
姉だから。
婚約者だから。
未来の王太子妃だから。
そうやって、自分は何度も仕事を渡されてきた。
では、クラリス自身は何だったのか。
役目の名前ばかり与えられて、人としての名前を呼ばれることはどれほどあったのか。
「わたくしは、あなたの姉です」
クラリスは言った。
「けれど、あなたの失敗を永遠に片付けるために生まれたわけではありません」
ミレーヌが泣いた。
今度は、声を殺せなかった。
「ひどい……」
その言葉に、ジュリアスが反応する。
「クラリス、もういい。君がそこまで意固地になるなら、条件を言え」
クラリスは、王太子を見る。
「条件?」
「そうだ。何が望みだ。謝罪か。金か。地位か」
言い方が悪い。
決定的に悪い。
レオンハルトの目が細くなった。
しかし、まだ口は挟まない。
クラリスは、むしろ落ち着いた。
相手がそう言うなら、こちらも話しやすい。
「殿下は、どうしてわたくしが戻ることを前提にお話しになるのでしょう」
「王宮が困っているからだ」
「それは、わたくしの理由ではございません」
「王国のためだ」
「王国のために必要なら、正式な手続きが必要です」
ジュリアスは苛立つ。
「だから条件を言えと言っている」
「承知いたしました」
クラリスは、机の端に置いていた紙を一枚取った。
もともとレオンハルトが持参した提案書とは別に、彼女が先ほど短く書き留めていたものだった。
王宮へ戻るなら、最低限何が必要か。
戻るつもりはなかった。
けれど、考えてはいた。
自分が二度と同じ場所へ落ちないために。
紙を卓上へ置く。
ジュリアスが怪訝そうに見る。
ミレーヌは涙を拭きながら、それを覗き込んだ。
レオンハルトは、何も言わずに目を伏せた。
その口元に、ほんのわずかな笑みがある。
クラリスが自分の条件を、自分の言葉で出したことを喜んでいるようだった。
「こちらが、わたくしが王宮の実務に関わる場合の最低条件でございます」
ジュリアスは紙を取った。
読み進めるうちに、顔色が変わる。
「王宮臨時顧問としての正式任命……?」
「はい」
「報酬の支払い」
「はい」
「職務範囲の文書化」
「必要でございます」
「王太子からの私的命令を拒否できること」
ジュリアスの声が低くなった。
「これは何だ」
「そのままの意味でございます」
「私の命令を拒むというのか」
「王太子殿下としての正式な命令であれば、文書と責任者を明確にしてくださいませ。私的な呼び出しや、婚約者としての曖昧な依頼はお受けいたしません」
「君は……」
ジュリアスは言葉を失った。
クラリスは続ける。
「王妃執務院における一部決裁権。休暇の保障。直属の補佐人員。過去十年分の実務貢献を記録に残すこと。そして、ミレーヌへの教育は別担当を置くこと」
ミレーヌが顔を上げた。
「お姉様が教えてくださらないのですか」
「教える必要があるなら、正式な教育係を任命すべきです」
「でも、お姉様なら私のことを分かって」
「分かっているからこそです」
クラリスは妹を見る。
「あなたは、わたくしが教えれば甘えます。わたくしも、あなたが泣けば手を貸してしまう。だから、別の方がよろしいわ」
ミレーヌは何も言えなくなった。
それは拒絶だった。
だが、同時に正確でもあった。
ジュリアスは紙を握りしめる。
「こんなもの、認められると思っているのか」
「認められないのであれば、戻りません」
「クラリス!」
王太子の声が大きくなる。
その瞬間、レオンハルトが初めて口を開いた。
「兄上」
声は静かだった。
だが、部屋の温度が一段下がった。
「ここはエルディア公爵家の別邸です。兄上の執務室ではありません」
ジュリアスは弟を睨む。
「お前には関係ない」
「関係あります」
「なぜだ」
「私も、クラリス嬢に正式な提案をしに来ていますので」
ジュリアスの視線が、机の上のもう一通の書類へ向かう。
「正式な提案?」
「王宮臨時顧問として、王弟府の後ろ盾をつけたうえで王妃執務院の立て直しに協力してもらう提案です」
「勝手なことを」
「勝手なことをなさったのは兄上です」
レオンハルトの声に、初めて鋭さが宿った。
「王太子の婚約は、個人の好みで替えられる飾りではありません。まして、王妃執務院の実務を担っていた人物を、引き継ぎもなく切り離すなど」
「私は、ミレーヌの方が王太子妃にふさわしいと判断した」
「では、ミレーヌ嬢にお任せになればよろしい」
ジュリアスは詰まった。
ミレーヌがまた涙を浮かべる。
レオンハルトは彼女を責める口調ではなかった。
ただ、逃げ道を塞いだだけだ。
「兄上が選び、ミレーヌ嬢ができるとおっしゃった。クラリス嬢はそれを受け入れ、王宮を去った。どこに問題が?」
「王宮が混乱している」
「つまり、兄上の判断が間違っていたということですか」
ジュリアスの顔が赤くなる。
「レオンハルト!」
「声を荒らげても、朝会は進みません。大使の怒りも収まりません。神殿への配分も決まりません」
レオンハルトは、静かに兄を見据えた。
「そして、クラリス嬢の価値を下げることもできません」
応接室が静まり返る。
クラリスは、横に座る王弟の横顔を見た。
守られている。
けれど、庇われているだけではない。
彼は、クラリスを弱い者として扱っていない。
彼女が自分で立つ場所を、言葉で囲っている。
ジュリアスは立ち上がりかけたが、すぐには動けなかった。
ここで怒って帰れば、王宮はさらに詰まる。
かといって、条件を認めれば、自分がクラリスの仕事を正式に認めることになる。
どちらも、彼の自尊心を傷つける。
ミレーヌが、小さな声で言った。
「お姉様……私、本当に困っているのです」
クラリスは妹を見た。
「ええ」
「怖いのです。朝会でも、茶会でも、皆様が私を見る目が……昨日までと違って」
「そう」
「私、殿下のお役に立ちたかっただけなのです。お姉様を傷つけたいわけではなかったの」
ミレーヌの声は震えていた。
それは、おそらく本音だった。
姉を傷つけたいだけの悪女ではない。
ただ、姉の仕事の重さを知らず、自分が愛されることに慣れ、誰かが支えてくれるのを当然と思っていただけ。
その“だけ”が、人を傷つける。
「ミレーヌ」
クラリスは穏やかに言った。
「あなたが今、怖いと思っているものを、わたくしは十年近く見てきました」
ミレーヌの涙が止まる。
「朝会で重臣たちに見られることも。茶会で夫人たちの一言を受けることも。大使の沈黙の意味を読むことも。王太子殿下の言葉が誰かを傷つけないよう考えることも」
クラリスの声は、静かに続く。
「それを、簡単だと言われました」
「……」
「あなたに」
ミレーヌは俯いた。
「そして殿下にも」
ジュリアスの表情が硬くなる。
「だから、今すぐ助けてほしいと言われても、わたくしは頷けません」
ミレーヌは、小さく頷いた。
泣きながら。
それが完全な理解かどうかは分からない。
ただ、初めて彼女は、姉の言葉から逃げずに聞いていた。
ジュリアスは、苦々しい顔で紙を卓へ戻した。
「この条件を、陛下が認めると思うか」
「認めるかどうかは、陛下がお決めになることです」
「王太子である私を飛ばして、父上と交渉するつもりか」
クラリスは、はっきり答えた。
「はい」
ジュリアスの目が見開かれる。
「なぜなら、殿下は当事者であり、わたくしを軽んじた側でもあるからです。公平な交渉相手ではございません」
イリスの目が、ほんの少しだけ輝いた。
レオンハルトは、静かに茶を飲んだ。
まるで、その答えを待っていたかのように。
ジュリアスは、拳を握る。
「君は変わったな」
「そうかもしれません」
「以前の君なら、このようなことは言わなかった」
「以前のわたくしは、婚約者でしたので」
クラリスは微笑む。
「今は違います」
その一言は、王太子との関係を完全に切り分けた。
ジュリアスは返す言葉を失った。
彼は初めて、自分が婚約を解消した意味を実感したのかもしれない。
もう、クラリスに命じられない。
もう、彼女の時間を当然のように使えない。
もう、彼女の忠誠を婚約者という名で縛れない。
ミレーヌが立ち上がる。
「お姉様……」
クラリスも立ち上がった。
妹は何かを言いたそうだった。
謝罪か。
お願いか。
それとも、ただ泣くための言葉か。
だがクラリスは、先に言った。
「ミレーヌ。謝るなら、あなたが何を軽んじたのか理解してからにしなさい」
ミレーヌの唇が震える。
「今は、まだ分かっていないわ」
その言葉は厳しかった。
けれど、突き放すだけのものではなかった。
ミレーヌにもそれが分かったのか、彼女は泣きながらも小さく頷いた。
ジュリアスは何も言わず、背を向けた。
去り際、レオンハルトへ鋭い視線を向ける。
「お前は、何を企んでいる」
「国が止まらないようにしているだけです」
「私の婚約者だった女に近づいてか」
レオンハルトの目が冷える。
「兄上が手放した方です」
短い沈黙。
ジュリアスは、言い返さずに部屋を出た。
ミレーヌもその後を追う。
扉が閉まる。
応接室に、ようやく静けさが戻った。
クラリスは、ゆっくり息を吐いた。
思っていたより、体に力が入っていたらしい。
イリスがすぐに近づく。
「お嬢様、お茶を」
「ありがとう」
カップを受け取る手が、少しだけ震えていた。
レオンハルトはそれを見ても、何も言わなかった。
ただ、少し間を置いてから口を開く。
「見事だった」
「そうでしょうか」
「ああ。私が口を挟む必要は、ほとんどなかった」
「殿下がいらしたから、言えたのかもしれません」
「それなら、ここにいた甲斐があった」
クラリスは、卓上の条件書を見る。
自分で書いた紙。
今までなら、こんなものは書けなかった。
望みを条件として示す。
それは、わがままではない。
仕事に必要な境界線だ。
そう思えるようになったのは、目の前の王弟が提案書を持ってきたからでもある。
「殿下」
「何だ」
「国王陛下は、この条件をお認めになるでしょうか」
「認めさせる」
さらりと言った。
クラリスは目を瞬かせる。
「殿下」
「何だ」
「その言い方は、少し物騒です」
「政治とはそういうものだ」
「そうでした」
クラリスは、ほんの少し笑った。
それは王宮で作っていた笑みではなく、疲れた後にこぼれた自然なものだった。
レオンハルトは、その笑みに一瞬だけ目を留める。
すぐに視線を逸らしたが、クラリスは気づいた。
何も言わない。
言えば、きっと空気が変わってしまう。
その時、廊下から別の足音が聞こえた。
今度は急ぎではない。
エルディア家の使用人が扉を叩く。
「お嬢様。王宮より、国王陛下の使者がお越しでございます」
クラリスは顔を上げた。
レオンハルトの表情が、わずかに引き締まる。
「早いな」
「殿下のご手配ですか?」
「いや。父上が自分で動いたのだろう」
使用人が続ける。
「クラリス様へ、正式な召喚状とのことでございます」
正式な召喚状。
ジュリアスの命令ではない。
王宮からの曖昧な呼び出しでもない。
国王アレクシスの名による、正式な文書。
クラリスは、静かに立ち上がった。
卓上には、二枚の紙がある。
レオンハルトの提案書。
クラリス自身の条件書。
そして今、国王からの召喚状が届く。
王宮はようやく、彼女を婚約者ではなく、一人の実務者として呼ぼうとしている。
それが遅すぎたとしても。
まずは、ここからだ。
クラリスはイリスへ目を向けた。
「召喚状を受け取ります」
「かしこまりました」
イリスは深く礼をした。
その顔には、かすかな誇らしさがあった。
レオンハルトは、静かに言う。
「ここからが本当の交渉だ」
クラリスは頷いた。
「ええ」
もう、戻ってこいと言われて戻るクラリスではない。
呼ばれるなら、正式に。
働くなら、対価と権限を持って。
そして、二度と自分を見えない鎖で縛らせない。
クラリスは、国王の召喚状を受け取るため、応接室の扉へ向かった。




