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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第5話 王弟殿下は、私の仕事を知っていた

「君が王宮で何をしていたか、知っているからだ」


 レオンハルト・ヴァレンティアは、そう言った。


 応接室の空気が、ほんの少し変わった。


 風が入ったわけではない。

 茶器が鳴ったわけでもない。

 ただ、クラリスの胸の奥で、長く閉じていた扉が不意に叩かれたような気がした。


 知っている。


 その言葉は、軽く使えるものではない。


 王宮には、クラリスを褒める者ならいた。


 優秀だ。

 頼りになる。

 さすが未来の王太子妃だ。

 君に任せておけば安心だ。


 けれど、そのほとんどは、彼女が何をしているのかを知らないまま発せられていた。


 結果だけを見て、便利だと言っていたにすぎない。


 失敗しなかった。

 揉めなかった。

 予定どおり終わった。

 だから、クラリスは優秀。


 それは評価のようで、評価ではなかった。


 なぜ失敗しなかったのか。

 誰が揉める前に止めたのか。

 予定どおりに終わるため、いくつの予定外を潰したのか。


 そこまで見ていた者は、ほとんどいない。


「殿下は」


 クラリスは、慎重に言葉を選んだ。


「わたくしの何をご存じなのでしょうか」


 レオンハルトは、茶にはまだ手をつけていない。


 王族らしい優雅な姿勢で座っているが、その目だけは政務室の机に向かう時のように真剣だった。


「では、具体的に話そう」


 彼は、提案書の端に指を置いた。


「三年前、ノルヴァルト公国の先代大使が初めて王宮晩餐会に出席した時、厨房は鹿肉を主菜にする予定だった」


 クラリスの指先が、わずかに動いた。


「その時、君は直前で主菜を鴨に変えさせた。理由は、先代大使の長男が狩猟事故で亡くなっていたからだ。公式記録には残っていなかった。だが、夫人の私信には一行だけ触れられていた」


 レオンハルトは続ける。


「二年前、ローゼン侯爵夫人とヴェルナー伯爵夫人が同じ慈善委員会に名を連ねた時、君は委員会を二部制に分けた。表向きは参加人数が多いから。実際には、両家が同じ決裁卓に座れば、境界訴訟の話が再燃すると読んだからだ」


 クラリスは、何も言えなかった。


「昨年の建国祭。兄上は演説で、北方街道の補修を“急を要しない事業”と呼ぶ予定だった。君はその一語を削った。あの場には北方諸侯が三家いた。もし残していれば、軍部と北方諸侯は王太子が国境防衛を軽んじていると受け取っただろう」


 イリスが、部屋の隅で静かに息を止めた気配がした。


 クラリス自身でさえ、一つひとつを鮮明には覚えていない。


 覚えていないわけではない。


 けれど、それらは彼女にとって日常の一部だった。


 毎朝、靴紐を結ぶように。

 落ちた紙を拾うように。

 机の端を拭くように。


 誰かが転ぶ前に、小石をどけていた。


 その小石の数を、数えていた者がいるとは思わなかった。


「……なぜ」


 クラリスの声は、思ったより小さかった。


「なぜ、そのようなことまで」


「見ていたからだ」


 レオンハルトは、簡潔に答えた。


「王宮には、表の政務と裏の政務がある。国王陛下が印を押すもの。政務院が文書に残すもの。軍部が記録するもの。それが表だ」


 彼は、窓の外に一度だけ目を向けた。


「だが、国はそれだけでは回らない。夫人同士の席が一つ離れていること。誰かの喪に触れないよう話題を避けること。神殿への寄付が遅れないよう、財務卿が反発する前に別の名目を用意すること。そういうものが、実際には国の空気を決める」


 クラリスは黙って聞いていた。


「兄上は、それを見なかった。王宮の多くの者も見なかった。だが私は、見ていた」


「なぜ、殿下が」


「私は王太子ではない」


 レオンハルトは淡く笑った。


「だから、兄上のように中央に立つ必要がない。端にいられる。端にいると、中央にいる者には見えないものが見える」


 それは、皮肉のようでいて、自分の立場を冷静に受け入れた言葉だった。


 ジュリアスは、常に光の当たる場所にいた。


 人々は彼を見上げ、彼の言葉を待ち、彼の笑顔に拍手した。


 一方で、レオンハルトはその少し後ろにいた。


 式典の端。

 政務院の控え。

 舞踏会の壁際。

 国王の執務室の隅。


 そこから、王宮を見ていた。


 クラリスの見えない仕事を。


「君は、兄上の婚約者として扱われていた」


 レオンハルトの声が少し低くなる。


「だが実際には、病がちな王妃陛下の代わりに王妃執務院の穴を埋め、兄上の政務上の失点を防ぎ、社交界の火種を消し、神殿と財務と貴族家門の間を調整していた」


「……そこまで、大げさなものでは」


「大げさに言っているつもりはない」


 レオンハルトは、すぐに言った。


「むしろ控えめに言っている」


 クラリスは、返す言葉を失った。


 控えめ。


 自分の仕事を、そこまでのものとして語られることに慣れていない。


 王宮では、彼女の仕事はいつも「ついで」だった。


 王太子妃教育のついで。

 婚約者としての務めのついで。

 公爵令嬢なら当然のついで。


 けれど、レオンハルトはそれを「実務」と呼ぶ。


 しかも、国を動かす仕事として。


「クラリス嬢」


 レオンハルトは、初めて少しだけ身を乗り出した。


「君が王宮を去ったことで、朝会が止まった。茶会で外交失態が起きた。神殿への配分も滞りかけた」


「それは、わたくしがいなくなったからではなく、仕組みが整っていなかったからです」


「その通りだ」


 レオンハルトの返事は、また早かった。


「だからこそ、私は君に戻ってほしい。ただし、前と同じ形ではない」


 クラリスは提案書を見る。


 王宮臨時顧問。


 正式任命。


 報酬。


 決裁権。


 職務範囲。


 休暇。


 王太子からの私的命令を受けない権利。


 そこには、彼女が口に出す前から欲しかったものが書かれていた。


 いや。


 欲しかったと認めることすら、これまで許してこなかったものだ。


「殿下」


「何だ」


「これは、陛下のご承認を得ているのですか」


「現時点では、私の提案だ。ただし、陛下には今夜にも進言する」


「国王陛下が認めなければ」


「その時は、私は王宮の無能を公式に認めることになる」


 クラリスは目を瞬かせた。


 あまりに平然と言うので、聞き間違えたかと思った。


「殿下」


「何だ」


「今、かなり危険なことをおっしゃいませんでしたか」


「そうか?」


「王族としては」


「王族として言っている」


 レオンハルトは、涼しい顔だった。


「国を支える実務者に権限も報酬も与えず、婚約という曖昧な名で使い続けた。挙げ句、その婚約を一方的に解消したら三日で王宮が止まった。これを無能と言わず、何と言う?」


 イリスが背後で咳払いした。


 おそらく、笑いを堪えたのだ。


 クラリスは振り返らなかった。


 振り返れば、自分も笑ってしまいそうだったから。


「兄上には、表に立つ才がある」


 レオンハルトは言った。


「民衆へ語りかける力。場を華やかにする力。王族として人に夢を見せる力。それは私にはない」


 意外な言葉だった。


 ジュリアスをただ否定するのではない。


 彼の持つものを、きちんと認めている。


「だが、兄上はその舞台を誰が整えているかを知らなかった。いや、知ろうとしなかった」


 その声に、初めて明確な怒りが混じった。


「私は、それが許せない」


 クラリスは、レオンハルトの横顔を見た。


 彼は兄を憎んでいるわけではない。


 王位を奪いたいわけでもない。


 けれど、人の仕事を軽んじることには、静かな怒りを持っている。


 その怒りは、クラリスにとって不思議なものだった。


 自分の代わりに怒ってくれる人がいる。


 それが、少し怖く、少し温かい。


「この提案を受ければ」


 クラリスは言った。


「わたくしは、再び王宮の問題に関わることになります」


「ああ」


「王太子殿下とも、ミレーヌとも顔を合わせることになるでしょう」


「避けられない」


「わたくしは、以前のようには動けません」


「動く必要はない」


 レオンハルトは即答した。


「君が戻るなら、王宮が君に合わせるべきだ。少なくとも、君だけが全員に合わせて潰れる形にはさせない」


 クラリスは沈黙した。


 そんなことが可能なのだろうか。


 王宮は、巨大な古い機械のような場所だ。


 一人の令嬢が戻ったところで、変わるものではない。


 いや。


 これまでは、その一人の令嬢が無理をすることで動いていた。


 ならば、変えられないと決めつけるのも違うのかもしれない。


「殿下は、わたくしを信頼してくださっているのですか」


 問いながら、クラリスは自分で少し驚いた。


 信頼。


 その言葉を使った。


 レオンハルトは、まっすぐ答える。


「仕事については、すでに」


「仕事については?」


「人としては、これから知りたい」


 クラリスは、返事を失った。


 イリスがまた咳払いした。


 今度は、明らかにわざとだった。


「イリス」


 クラリスは振り返らずに言う。


「お茶のおかわりを」


「かしこまりました」


 声が平坦すぎる。


 絶対に何か思っている。


 レオンハルトは少しだけ口元を緩めた。


 クラリスは視線を提案書へ戻す。


「わたくしは、殿下に救われたいわけではございません」


「救うつもりで来たわけではない」


 彼は言った。


「君が自分で立てる人間だということは知っている。ただ、立っている地面が崩れかけているなら、そこに板を渡すくらいはしたい」


「それを救うと言うのでは?」


「違うな」


「違いますか」


「ああ。救うというのは、相手を抱えて運ぶことだ。私は君を抱えるつもりはない。君の歩く道を、王宮が勝手に崩さないようにするだけだ」


 クラリスは、その言葉をゆっくり受け止めた。


 抱えて運ぶのではない。


 道を崩さないようにする。


 それは、奇妙に彼女の胸に馴染んだ。


 庇護ではなく、尊重。


 甘い言葉ではなく、制度。


 花束ではなく、契約書。


 王弟レオンハルトという人間が、少しだけ見えた気がした。


「殿下らしいお言葉ですね」


「私らしいか」


「はい」


「君は、私をそれほど知らないだろう」


「少し知りました」


 クラリスは、提案書に指を置いた。


「この書類で」


 レオンハルトは、一瞬だけ目を丸くした。


 それから、低く笑った。


「なるほど。君も相当だな」


「何がでしょう」


「人を見るのに、花束ではなく契約書を見る」


「花束より、契約書のほうが長く残ります」


「その通りだ」


 応接室の空気が、わずかに柔らかくなった。


 けれど、それは長く続かなかった。


 廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。


 エルディア家の使用人ではない。


 もっと重い。


 訓練された護衛の足音。


 イリスがすぐに扉の方を見る。


 レオンハルトは表情を戻した。


 扉の外で、使用人が戸惑った声を上げる。


「お待ちください、ただいまお取次ぎを――」


 それを遮るように、聞き慣れた声が響いた。


「クラリスはいるか」


 ジュリアス。


 クラリスの指先が、提案書の上で止まった。


 レオンハルトの目が細くなる。


「早いな」


「殿下は、予想されていたのですか」


「兄上は、自分が困れば相手が動くと思っている」


 レオンハルトの声は冷静だった。


「そして今、王宮は困っている」


 扉が叩かれた。


 乱暴ではない。


 だが、礼儀正しくもない。


 使用人が困惑した様子で告げる。


「お嬢様。王太子ジュリアス殿下と、ミレーヌ様がお越しでございます」


 イリスの目が完全に冷えた。


 クラリスは静かに息を吸う。


 来るとは思っていた。


 けれど、こんなに早く来るとは思わなかった。


 彼らは何を言うだろう。


 戻れ。


 助けろ。


 少しだけ教えろ。


 君にも責任がある。


 頭の中で、いくつもの言葉が浮かぶ。


 だが、今のクラリスは昨日までのクラリスではない。


 机の上には、レオンハルトの提案書がある。


 正式な役職。

 報酬。

 権限。

 拒否権。


 自分の仕事を仕事として扱う紙。


 クラリスは、そっとその書類を閉じた。


「お通しして」


 使用人が扉の向こうで息を呑む。


「よろしいのですか」


「ええ」


 レオンハルトが立ち上がる。


「私は隣室に控えようか」


 クラリスは彼を見た。


 少し考える。


 王太子と妹に対して、王弟が最初から同席すれば、話は王族同士のものになる。


 それでは、クラリス自身の言葉が弱くなるかもしれない。


 彼女は首を横に振った。


「いいえ。殿下には、ここにいていただきとうございます」


 レオンハルトの金の瞳が、わずかに揺れた。


「私がいれば、兄上は反発する」


「存じております」


「では、なぜ」


「わたくしが、王太子殿下の所有物ではないと示すためです」


 レオンハルトは、少しだけ笑った。


 満足げに。


「承知した」


 クラリスは背筋を伸ばした。


 イリスが新しい茶器を用意する。


 その手つきは完璧だが、表情には「塩でも入れましょうか」と書いてあるように見えた。


「イリス」


「はい」


「普通のお茶を」


「かしこまりました。普通の」


 わざわざ繰り返す必要はなかった。


 扉が開く。


 ジュリアス・ヴァレンティアが入ってきた。


 昨日より疲れた顔をしている。


 その後ろに、ミレーヌがいた。


 彼女の目元は赤い。

 けれど、ドレスは整えられている。

 いかにも、泣いた後に必死で身支度を整えた姿だった。


 ジュリアスは部屋に入り、クラリスを見た。


 次に、レオンハルトを見た。


 顔色が変わる。


「レオンハルト。なぜ、お前がここにいる」


「兄上より先に、正式な用件で来ていたからです」


「正式な用件?」


 ジュリアスの視線が、机の上の提案書へ落ちる。


 クラリスは、その書類を隠さなかった。


 むしろ、見える位置に置いた。


 ジュリアスの眉間に皺が寄る。


「クラリス」


 彼は、椅子に座る前から言った。


「王宮に戻れ」


 命令だった。


 挨拶でも、謝罪でも、依頼でもない。


 いつもの口調。


 クラリスは、昨日なら胸の奥が冷えていたかもしれない。


 しかし今は、不思議と静かだった。


 彼の言葉の重みが、以前ほど自分に届かない。


 婚約者ではないから。


 そして、自分の仕事を仕事として扱う紙が、目の前にあるから。


 クラリスは、丁寧に微笑んだ。


「殿下」


「何だ」


「まずは、お掛けくださいませ。立ったまま命令なさるには、ここは王宮ではございません」


 ジュリアスの顔が強張る。


 レオンハルトは、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ口元を押さえた。


 ミレーヌは不安そうにクラリスを見つめている。


「お姉様……」


 その声は、昨日よりずっと弱かった。


 クラリスは妹を見る。


 甘えた顔。


 泣きそうな目。


 助けてほしいと全身で訴える姿。


 かつての自分なら、その表情だけで折れていたかもしれない。


 でも今は違う。


 折れる前に、考えることがある。


 それは本当に、自分が背負うべきものなのか。


 クラリスは、静かに席を示した。


「お話を伺います」


 ジュリアスは、渋々椅子に座った。


 ミレーヌも隣に腰を下ろす。


 応接室の卓を挟んで、クラリスは二人と向かい合った。


 そして、レオンハルトはクラリスの斜め横に座った。


 守る位置ではない。


 証人の位置だった。


 クラリスは、その配置に気づいた。


 レオンハルトは、彼女の代わりに話すつもりはない。


 けれど、彼女の言葉が消されないように、そこにいる。


「それで」


 クラリスは言った。


「どのようなご用件でしょうか」


 ジュリアスは苛立たしげに答える。


「言っただろう。王宮に戻れ」


 ミレーヌが、涙をこらえながら続けた。


「お姉様……私、少しだけ教えていただきたいのです。本当に、少しだけでいいのですわ」


 クラリスは、妹の震える手を見た。


 その手は、昨日まで白い花を持つように柔らかかった。


 今は、自分のドレスを握りしめている。


 王宮の重さを、初めて感じた手だった。


 けれど。


 クラリスは、ゆっくりと口を開いた。


「少し、とはどこまででしょう」


 ミレーヌは、顔を上げた。


「え?」


「席次でしょうか。大使夫妻の禁忌でしょうか。神殿寄付金の内示でしょうか。王太子殿下の謝罪文でしょうか。財務卿との交渉でしょうか。ローゼン侯爵夫人とヴェルナー伯爵夫人の和解不能な確執でしょうか」


 ミレーヌの顔から、さらに血の気が引いていく。


 クラリスは、声を荒らげなかった。


「それは、少しではありません」


 部屋が静まり返った。

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