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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第4話 私は初めて、何もしない朝を迎えました

朝になっても、誰もクラリスを起こしに来なかった。


 それが、まずおかしかった。


 クラリス・フォン・エルディアは、寝台の上で目を開けたまま、天蓋の刺繍をしばらく見つめていた。


 白い絹地に、銀糸で月桂樹の葉が縫い取られている。幼い頃から見慣れた、自分の部屋の天蓋だった。


 エルディア公爵家の別邸。


 王宮ではない。


 王太子の控え室でも、王妃執務院の仮眠室でも、慈善園遊会の準備部屋でもない。


 だから当然、朝の報告は来ない。


 王太子殿下の挨拶文を直してください、という書記官も来ない。


 財務卿がまた寄付金配分を渋っています、という文官も来ない。


 ローゼン侯爵夫人が本日の席次に不満を持っています、という女官も来ない。


 大使夫人へ贈る花の色を確認してください、という侍従も来ない。


 それなのに、クラリスは起き上がろうとしていた。


 寝台から足を下ろし、反射的に卓上へ視線を向ける。


 そこには、何も置かれていなかった。


 書類もない。


 封蝋もない。


 緊急印の押された王宮封筒もない。


 ただ、昨夜イリスが置いてくれた水差しと、まだ半分ほど水の残ったグラスがあるだけだった。


「……何もないのね」


 呟いた声は、自分でも少し間が抜けて聞こえた。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「お嬢様。お目覚めでございますか」


「ええ」


 入ってきたのは、侍女のイリスだった。


 淡い灰色の侍女服に身を包み、いつものように表情は薄い。けれど、手にしている盆の上には書類ではなく、温かい茶と焼きたての小さなパンが乗っていた。


 クラリスはそれを見て、少しだけ目を瞬かせる。


「朝食?」


「はい」


「ここで?」


「はい」


「先に執務室へ行かなくても?」


「行かなくて結構でございます」


 イリスは盆を置き、カーテンを開けた。


 朝の光が、部屋の中へ柔らかく広がる。


 王宮の朝日はいつも、硝子窓を通して硬く差し込んでいた。誰かの足音と鐘の音と、急ぎの用件が一緒に流れ込んでくる光だった。


 けれど今朝の光は違う。


 庭の葉を透かし、白い壁にゆっくりと揺れている。


 まるで、急ぐ必要などないと言っているようだった。


「本日のご予定をお伝えいたします」


 イリスが言った。


 クラリスは反射的に姿勢を正した。


「お願い」


「朝食を召し上がる」


「ええ」


「庭を散歩なさる」


「ええ」


「お茶を飲む」


「ええ」


「以上でございます」


 クラリスは、しばらく黙った。


「……以上?」


「以上でございます」


「午後は?」


「お茶を飲みます」


「午前もお茶を飲むと言ったわ」


「お茶は一日に複数回飲めます」


「それは、そうだけれど」


「夕方は、何もなさらない予定でございます」


 クラリスは真面目に考え込んだ。


「何もしない予定、という予定があるの?」


「はい。最重要予定でございます」


 イリスは、まったく冗談を言っていない顔でそう言った。


 クラリスは思わず目を伏せる。


 笑うべきなのだろうか。


 けれど、笑い方が少し分からない。


 王宮で笑う時は、いつも理由があった。


 相手を安心させるため。

 険悪な場を和らげるため。

 こちらの不利を悟らせないため。

 王太子殿下の失言を目立たせないため。


 理由のない笑みは、ひどく不安定なものに思えた。


「お嬢様」


 イリスは茶を注ぎながら言う。


「本日は王宮のことをお考えにならないでくださいませ」


「考えていないわ」


「では、なぜ先ほどから指先が、存在しない書類をめくっておられるのでしょう」


 クラリスは自分の右手を見た。


 確かに、膝の上で指が紙をめくるように動いていた。


 無意識だった。


 指を止める。


「癖ね」


「悪癖でございます」


「厳しいわね」


「十年分の鬱憤がございますので」


 イリスは涼しい顔で言った。


 クラリスは茶を一口飲む。


 温かい。


 ただ、それだけのことに気づいた。


 王宮では、茶は温かいうちに飲めないことが多かった。淹れてもらっても、書類を一枚処理し、使者へ返事を書き、王太子の予定を確認しているうちに冷める。


 冷めた茶を飲むことに、いつの間にか慣れていた。


 今朝の茶は、まだ湯気を立てている。


 それが妙に贅沢だった。


「……美味しいわ」


 イリスの手が、ほんのわずかに止まった。


 すぐにいつもの無表情に戻ったが、クラリスは見逃さなかった。


「何?」


「いいえ」


「今、少し驚いたでしょう」


「お嬢様が茶の温度を覚えておいでだったことに」


「私を何だと思っているの」


「王宮の備品ではなく、人間だと思っております。ようやく」


 言い方は淡々としていた。


 だが、その言葉の底には怒りがあった。


 クラリスはカップを置く。


「あなたは、ずっと怒っていたのね」


「はい」


「私に?」


「いいえ」


 イリスは即答した。


「お嬢様を便利に使っていた方々に。お嬢様の働きを当然のものとしていた王宮に。そして、たまに、お嬢様ご自身にも」


「私にも?」


「はい。ご自分を差し出すのが上手すぎました」


 クラリスは返事に困った。


 差し出す。


 そう言われると、少し違う気もする。


 自分はただ、目の前のことを片付けていただけだ。


 困っている人がいた。

 失敗しそうな式典があった。

 衝突しそうな家門があった。

 届かなければ冬を越せない寄付金があった。

 王太子が不用意な一言を口にしようとしていた。


 それを直した。


 それだけ。


 ただ、その「それだけ」が十年続いた。


「私は……」


 言いかけて、クラリスは言葉を止めた。


 言い訳に聞こえそうだった。


 自分でも、自分の気持ちがまだ整理できていない。


 イリスは、それ以上追及しなかった。


「まずは朝食を」


「ええ」


 クラリスはパンを一口食べた。


 焼きたての香りがした。


 王宮の朝は、いつも食事より用件が先だった。


 食べるために座っているのに、気づけば皿の横に書類が積まれている。ナイフより先に羽根ペンを持つ。スープが冷める。パンが乾く。


 今は違う。


 目の前にあるのは食事だけ。


 食事を食事として味わうのは、いつ以来だろう。


 分からなかった。


 朝食の後、クラリスは庭へ出た。


 別邸の庭は、王宮の庭ほど広くはない。


 けれど、手入れは行き届いている。


 白い小道の両脇に季節の花が咲き、低い噴水から水音が聞こえる。奥には古い林檎の木があり、まだ青い実が枝にいくつもついていた。


 クラリスはゆっくり歩いた。


 イリスは少し後ろをついてくる。


 庭師が遠くで礼をしたが、急ぎの報告を持って駆け寄ってくる者はいない。


 花を見る。


 ただ花として。


 色の意味を考えない。

 誰に贈るべきかを考えない。

 どの国で弔意を示すかを考えない。

 どの夫人が嫌う香りかを考えない。


 花は、ただ咲いている。


 その当たり前のことが、クラリスには少し眩しかった。


「お嬢様」


 イリスが声をかけた。


「何?」


「今、あの白い花を見て、何をお考えになりましたか」


「……ノルヴァルトではなく、南方諸島なら祝福の花として使えるわね、と」


「失格でございます」


「何の?」


「何もしない訓練の」


 クラリスは立ち止まり、白い花を見た。


 花弁の縁に、朝露が残っている。


「綺麗ね」


「はい」


「これで合格?」


「一歩前進でございます」


 イリスの声が、少しだけ柔らかくなった。


 庭を半周したところで、屋敷の方から使用人がやってきた。


 若い男で、顔に困惑が浮かんでいる。


「お嬢様。旦那様が、朝食後に小広間へお越しくださいとのことです」


 父。


 グラント・フォン・エルディア公爵。


 クラリスは少しだけ目を伏せた。


「分かりました」


 イリスの視線が鋭くなる。


「お嬢様、本日のご予定にはございません」


「父の呼び出しは、予定に入るでしょう」


「何もしない予定を妨害するものは、すべて敵でございます」


「イリス」


「失礼いたしました。少し本音が」


「少し?」


「多めに」


 クラリスは小さく息を吐いた。


 父が何を言うかは、だいたい想像できた。


 王宮で起きたことは、すでにエルディア家にも届いているはずだ。


 王太子との婚約解消。

 妹ミレーヌの新たな立場。

 そして王宮の混乱。


 父は家門を重んじる人だ。


 クラリス個人の心より、エルディア公爵家と王家の関係を優先するだろう。


 分かっていた。


 分かっていても、胸の奥が少しだけ硬くなる。


 小広間へ入ると、父グラントが窓際に立っていた。


 四十代後半。


 濃い栗色の髪に、整えられた口髭。厳格な顔立ちの中に、名門公爵家当主としての自負が染みついている。


 母セレスティアは、長椅子に腰かけていた。


 美しい人だった。


 年を重ねても華やかで、社交界で今なお羨望を集める女性である。


 その隣の卓には、まだ開封されたばかりの書簡が数通置かれていた。


「クラリス」


 父が振り返る。


「座りなさい」


「はい、お父様」


 クラリスは一礼し、椅子に腰かけた。


 イリスは扉の近くに控える。


 父はしばらく黙っていた。


 沈黙で相手に圧をかけるのは、彼の癖だった。


 クラリスは慣れている。


 王宮で、もっと厄介な沈黙を何度も処理してきた。


「王宮で何があった」


 父は、単刀直入に聞いた。


「王太子殿下より、婚約を白紙に戻したいとのお申し出がございました」


「それで、お前は戻ってきたのか」


「はい」


「なぜ、その場で私に知らせなかった」


「夜会前でございましたので」


 父の眉が動く。


「夜会前だからこそ、知らせるべきだった」


「知らせた場合、お父様はどうなさいましたか」


「当然、王太子殿下と協議した」


「婚約解消を撤回させるために?」


「家門のために、最善を尽くす」


 クラリスは静かに父を見た。


 家門。


 やはり、その言葉だった。


 父は娘を心配していないわけではない。


 けれど、最初に出るのは家門なのだ。


「お父様。殿下は、ミレーヌを新たな婚約者に望まれました」


「それは聞いている」


「では、エルディア家と王家の関係は保たれます」


「単純な話ではない」


 父は険しい顔をする。


「長女から次女へ婚約者が移ったのだ。社交界がどう見ると思う」


「おそらく、長女であるわたくしに何か欠けていたのだと見るでしょう」


 母セレスティアが、小さく息を呑んだ。


「クラリス、そのような言い方は」


「事実ですわ、お母様」


 クラリスは穏やかに答えた。


「すでにそう見る方もいらっしゃいます」


 母は困ったように眉を下げた。


 その表情は、ミレーヌによく似ていた。


 いや、ミレーヌが母に似ているのだろう。


「ミレーヌは悪い子ではないのよ」


 母は言った。


「ただ、少し世間を知らないだけで」


「存じております」


「あなたは昔から何でもできたでしょう。だから、ミレーヌは焦っていたのかもしれないわ。お姉様ばかり評価されると」


 評価。


 クラリスは、その言葉を胸の中で転がした。


 自分は評価されていたのだろうか。


 少なくとも、母の目にはそう見えていたのだろう。


 できて当然。


 任せて当然。


 失敗しなくて当然。


 それを評価と呼ぶなら、確かにクラリスは評価されていたのかもしれない。


「お母様」


「何かしら」


「わたくしは、王宮でどのような仕事をしていたか、ご存じですか」


 母は一瞬、言葉を詰まらせた。


「王太子妃教育でしょう?」


「それだけではございません」


「でも、将来必要なことでしょう?」


 クラリスは、父を見た。


 父も、似たような顔をしている。


 お前ならできる。


 そう言ってきた顔だ。


「クラリス」


 父が言う。


「王家に嫁ぐとは、そういうことだ。責任が伴う」


「嫁ぐ前から、でございますか」


「未来の王太子妃ならば当然だ」


「では、未来でなくなった今、その責任はどなたのものになりますか」


 父は沈黙した。


 母も黙った。


 答えは分かっているのだろう。


 分かっていて、言いたくない。


 クラリスは責めるつもりはなかった。


 ただ、胸の奥にあった冷えが、少しずつ形を持っていく。


 王宮だけではない。


 家でも同じだった。


 クラリスならできる。


 クラリスなら耐えられる。


 クラリスなら分かってくれる。


 その言葉に包まれて、少しずつ、彼女の労働は見えないものになっていった。


「お前も少し、柔らかく振る舞えばよかったのではないか」


 父が言った。


 その一言で、小広間の空気が止まった。


 イリスが扉のそばで、完全に無表情になる。


 クラリスは、父をまっすぐ見た。


「柔らかく」


「ああ。王太子殿下も男だ。完璧な正しさだけを突きつけられれば、息が詰まることもある」


 母が小さく頷く。


「そうね。クラリス、あなたは立派だけれど、少し近寄りがたいところがあるわ。ミレーヌのように、もう少し甘えることを覚えてもよかったのではないかしら」


 甘える。


 クラリスは、その言葉の意味をしばらく考えた。


 王太子殿下の挨拶文に失礼な表現があっても、甘えればよかったのだろうか。


 隣国大使に葬送菓子を出しそうになっても、可愛らしく笑えばよかったのだろうか。


 孤児院への寄付金が遅れても、分かりませんと涙ぐめばよかったのだろうか。


 それをしなかったから、自分は冷たいのだろうか。


「お父様。お母様」


 クラリスは静かに言った。


「わたくしは、ミレーヌにはなれません」


 母の顔が曇る。


「そんなつもりで言ったのでは」


「分かっております」


 分かっている。


 二人に悪意がないことは。


 悪意がないからこそ、根が深い。


「ただ、わたくしはこれまで、わたくしのやり方で王宮に仕えてまいりました。殿下がそれを不要と判断なさった以上、わたくしが戻る理由はございません」


 父は厳しい声で言う。


「王宮から正式に求められたらどうする」


「正式な役職、職務範囲、報酬、権限が示されるのであれば、検討いたします」


「報酬?」


 父がわずかに目を見開く。


 母も驚いたようだった。


 クラリスは、その反応に小さく納得した。


 やはり、そこなのだ。


 彼らにとって、クラリスが王宮で働くことは、家門の名誉であり、未来の王太子妃としての務めであり、娘として当然の献身だった。


 労働ではなかった。


「はい。報酬でございます」


「クラリス、お前は公爵令嬢だ。金のために働くような言い方は」


「金のためだけではございません」


 クラリスは、父の言葉を静かに遮った。


「ですが、対価のない労働は、いつか存在しないものとして扱われます」


 小広間に、沈黙が落ちた。


 クラリス自身、その言葉を口にして初めて、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


 そうだ。


 存在しないものとして扱われていた。


 自分の仕事は。


 自分の時間は。


 自分の疲労は。


 自分の感情は。


 父は、何か言おうとして言葉を飲み込んだ。


 母は目を伏せる。


 クラリスは立ち上がった。


「失礼いたします。少し休みます」


 父は止めなかった。


 小広間を出ると、イリスが黙って後に続いた。


 廊下をしばらく歩いてから、イリスが言う。


「お嬢様」


「何?」


「先ほどのお言葉は、たいへん結構でございました」


「そう?」


「はい。私の中の拍手喝采が、現在も鳴り止んでおりません」


「顔に出ていないわ」


「出すと旦那様に叱られますので」


 クラリスは、少しだけ笑った。


 だが、その笑みはすぐに消える。


 自室へ戻る途中、廊下の窓から遠くの王都が見えた。


 王宮の尖塔は、朝靄の向こうに霞んでいる。


 あそこでは今、何が起きているのだろう。


 朝会はどうなっただろう。


 ノルヴァルト公国への返礼は、無事に整っただろうか。


 神殿への内示は。


 ミレーヌは。


 ジュリアスは。


 考えてはいけない。


 もう、自分の仕事ではない。


 そう思った瞬間、胸の中で別の声がした。


 では、困る人たちはどうなるのか。


 クラリスは目を閉じた。


 王宮のために戻る気はない。


 王太子のために動くつもりもない。


 けれど、神殿の孤児院や施療院にしわ寄せが行くのは、違う。


 彼女は自室へ戻ると、机の上に置いたままだった帳簿を手に取った。


 イリスが背後で低く言う。


「お嬢様」


「見るだけよ」


「その言葉を信用できたことは一度もございません」


「本当に見るだけ」


「お嬢様の“見る”は、分析、照合、改善案作成、関係者への書簡送付まで含みます」


 クラリスは反論できなかった。


 帳簿を開く。


 別邸の管理帳簿の中に、父が支援している慈善用の布地購入記録があった。


 最初は、ただ目に入っただけだった。


 だが、数字が気になった。


 毛織物の単価が高い。


 王都相場より三割近い。


 購入時期も不自然だ。値が上がる直前ではなく、すでに高騰した後にまとめて買っている。


 さらに納入業者名。


 ハイム商会。


 クラリスは、記憶の棚を探る。


 どこかで見た。


 王宮の慈善事業関連か。


 財務卿の提出資料か。


 いや、確か――。


「イリス」


「はい」


「昨年の王宮慈善園遊会で、施療院用の寝具を納入した商会名を覚えている?」


「お嬢様は私を何だと思っておいでですか」


「覚えていない?」


「覚えております。ハイム商会でございます」


 クラリスは帳簿に視線を落とした。


「やっぱり」


「何か?」


「エルディア家の慈善用布地も、ハイム商会から買っているわ」


「偶然では」


「価格が高い。王都相場より三割。納入時期も遅い。それに、ハイム商会は確かバルツァー財務卿の遠縁の家と婚姻関係があったはず」


 イリスは、深く息を吐いた。


「お嬢様」


「何?」


「何もしない予定が、帳簿不正疑惑の発見に変更されました」


「まだ疑惑よ」


「お嬢様が疑惑とおっしゃる時は、八割事実でございます」


 クラリスは羽根ペンを取った。


 イリスがすかさずインク壺を遠ざける。


「イリス」


「本日は休養日でございます」


「メモだけ」


「そのメモが、明日には告発書の下書きになるのです」


「ならないわ」


「なります」


「……簡単な覚書だけ」


「覚書、という名の証拠整理でございますね」


 クラリスは黙った。


 イリスはしばらく主人を見つめ、それから諦めたようにインク壺を戻した。


「一枚だけでございます」


「ええ」


「お茶が冷める前に終えてくださいませ」


「努力するわ」


「努力ではなく実行してください」


 クラリスは、羽根ペンを走らせた。


 紙の上に、数字と商会名と時期が並ぶ。


 手が自然に動く。


 何もしない朝。


 何もしない予定。


 そのはずだった。


 けれど、筆を持つ指先は、王宮にいた時と同じように迷いがない。


 クラリスはそのことに、少しだけ苦笑した。


 自由になったからといって、自分が急に別人になるわけではないらしい。


 ただ、違うこともある。


 今この覚書は、王太子のためではない。

 誰かの失言を隠すためでもない。

 自分の価値を証明するためでもない。


 おかしな数字を、おかしいと記録しているだけだ。


 それだけなのに、どこか息がしやすかった。


 昼前。


 屋敷に大神殿からの書簡が届いた。


 差出人はフィオナ司祭。


 内容は、孤児院への冬季配分確認だった。


 王宮の混乱には触れすぎないよう、丁寧に書かれている。けれど、文面の端々から切迫が伝わってくる。


 薪の契約。

 冬服の採寸。

 施療院の薬草仕入れ。


 どれも、遅れれば高くなる。


 最終的に困るのは、予算表の数字ではなく子どもたちだ。


 クラリスは、手紙を閉じた。


 イリスが腕を組む。


「お嬢様」


「分かっているわ」


「王宮へ戻ってはいけません」


「戻らないわ」


「本当に?」


「本当に」


 クラリスは、新しい紙を取った。


「ただ、フィオナ司祭には私信で返します。昨年の配分基準と、今年予想される不足分だけ」


「一通だけでございますね」


「ええ。一通だけ」


 イリスは疑いの目を向ける。


「お嬢様の一通は、時折、五通に分裂いたします」


「今日はしないわ」


「では、私が数えます」


 クラリスは小さく頷き、筆を取った。


 フィオナ司祭へ。


 王宮の正式決裁には関われないこと。

 ただし昨年の内示基準は記憶していること。

 薪と毛布だけは先行契約した方がよいこと。

 ハイム商会の見積もりは相場より高い可能性があるため、別商会にも確認すべきこと。


 最後に、こう書き添えた。


 王宮の混乱に、孤児たちの冬が巻き込まれないことを願っております。


 書き終えてから、クラリスはしばらくその一文を見た。


 願っているだけでいいのか。


 そう思った。


 だが、すぐに首を振る。


 願うことと、すべてを背負うことは違う。


 それを覚えなければならない。


「一通です」


 イリスが厳かに宣言した。


「確かに一通で終わられました」


「それほど珍しいこと?」


「歴史的快挙でございます」


「大げさね」


「王宮にいた頃のお嬢様でしたら、ここから王宮、神殿、財務卿、商会、孤児院、場合によっては薪問屋まで六通書いておられました」


 クラリスは反論しかけて、やめた。


 たぶん、その通りだった。


 午後。


 ようやく本当に何もすることがなくなった。


 庭に面した小さな居間で、クラリスは本を開いていた。


 物語の本だった。


 実務書でも、王国法令集でも、諸外国儀礼便覧でもない。


 幼い頃に途中まで読んだきりの、旅をする少女の物語。


 けれど、数頁読んでも頭に入ってこない。


 どうしても、王宮のことを考えてしまう。


 朝会は止まっただろうか。

 茶会は無事に済んだだろうか。

 ミレーヌは席次を間違えなかっただろうか。

 ジュリアスは、また余計なことを言わなかっただろうか。


 考えたくないのに、考えてしまう。


 十年も王宮を中心にしてきた心は、一日や二日で別の向きを覚えない。


 その時、屋敷の外が少し騒がしくなった。


 馬車の音。


 それも、ただの客ではない。


 車輪の音が重く、従者の動きに緊張がある。


 イリスが窓へ向かった。


「お客様です」


「お父様の?」


「いえ」


 イリスの声が変わった。


 わずかに警戒を含んでいる。


「王家の紋章です」


 クラリスは本を閉じた。


 王家。


 ジュリアスだろうか。


 それとも、王宮からの使者か。


 戻れと言われるのか。


 謝罪ではないだろう。


 少なくともジュリアスが、すぐに謝るとは思えない。


 使用人が扉の前で名を告げた。


「お嬢様。王弟レオンハルト殿下がお越しでございます」


 クラリスは、思わず顔を上げた。


 王弟。


 レオンハルト・ヴァレンティア。


 ジュリアスの弟。


 王位に興味のない変わり者と噂される、黒髪金眼の第二王子。


 何度か式典で言葉を交わしたことはある。


 けれど、私的に訪ねてくるような関係ではなかった。


「王太子殿下ではなく?」


「はい。王弟殿下にございます」


 イリスがクラリスを見る。


「お断りになりますか」


「王弟殿下を?」


「お嬢様の休養予定を破る方は、王族であっても敵でございます」


「それは不敬よ」


「心の中だけでございます」


「口に出ているわ」


 クラリスは立ち上がった。


 胸の奥に、警戒が生まれる。


 王家の人間が来た。


 王太子ではなく、王弟が。


 それは、ただの謝罪や呼び戻しとは違う意味を持つ。


「応接室へお通しして」


「かしこまりました」


 廊下を歩きながら、クラリスは自分の表情を整えた。


 王宮で身につけた顔。


 感情を見せず、相手の目的を測り、最初の一言を聞くまで判断しない顔。


 応接室の扉の前で、イリスが小さく言った。


「お嬢様」


「何?」


「ご無理はなさらないでくださいませ」


 クラリスは少しだけ振り返る。


 イリスの表情はいつもどおりだった。


 だが、目だけが真剣だった。


「ええ」


 クラリスは頷いた。


 扉が開く。


 応接室には、黒髪の青年が立っていた。


 レオンハルト・ヴァレンティア。


 王太子ジュリアスとは似ていない。


 華やかさで人目を奪う兄とは違い、彼は静かに場を支配する。


 黒い髪。

 金の瞳。

 端正な顔立ちに浮かぶ穏やかな表情。


 けれど、その目は柔らかくない。


 何かを見逃さない者の目だった。


「突然の訪問を詫びる、クラリス嬢」


 彼は丁寧に頭を下げた。


 王族が、公爵令嬢に対して。


 クラリスは一瞬だけ驚いたが、すぐに礼を返す。


「ようこそお越しくださいました、レオンハルト殿下」


「王宮の用件として来たわけではない」


 第一声が、それだった。


 クラリスは目を細める。


「では、どのようなご用件でしょうか」


「私個人の用件だ」


 レオンハルトは、まっすぐに彼女を見た。


「君に会う必要があった」


 応接室の空気が静まる。


 外では、庭の噴水の音が小さく聞こえていた。


 クラリスは席を勧め、向かいに座る。


 イリスが茶を出す。


 レオンハルトはその所作にも一度視線を向けた。


 見る人だ。


 クラリスはそう思った。


 ただ眺めるのではない。


 誰がどう動いているか、何が整っているかを見ている。


「王宮は」


 レオンハルトが口を開いた。


「君が去って、三日で綻びを表に出した」


 クラリスはカップに触れたまま、静かに答える。


「わたくしのせいではございません」


「もちろんだ」


 返答は早かった。


 クラリスは、思わず彼を見る。


 レオンハルトの表情は変わらない。


「君のせいではない。君に押しつけていた者たちの罪だ」


 その言葉は、クラリスの予想していたどの言葉とも違っていた。


 戻ってほしい。


 王宮が困っている。


 兄を許してやってほしい。


 ミレーヌを助けてやってほしい。


 そう言われると思っていた。


 責められる可能性すら、少しは考えていた。


 だが、彼は最初に責任の所在を示した。


 クラリスではない、と。


 イリスが静かに目を伏せる。


 その姿勢は侍女のものだったが、耳は確実にこちらを向いている。


 レオンハルトは続けた。


「朝会は決裁不能。ノルヴァルト公国大使からは正式抗議。神殿への冬季配分も止まりかけている」


 クラリスは指先をわずかに動かした。


「孤児院の件は、フィオナ司祭へ私信を送りました」


「知っている」


「ご存じなのですか」


「神殿から報告が来た。君は王宮を離れても、子どもたちの冬を見捨てなかったと」


 クラリスは視線を落とした。


「王宮のためではありません」


「ああ。だから来た」


 レオンハルトは、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。


「王宮のためだけなら、私は君に頭を下げに来なかった。王宮は、自分が失ったものの重さを知るべきだと思ったからな」


「では、なぜ」


「君が、自分の責任ではないものまで背負おうとする人間だからだ」


 クラリスは、言葉を失った。


 初対面に近い相手に、そこまで見抜かれている。


 不快ではなかった。


 怖かった。


 レオンハルトは、彼女の沈黙を急かさない。


 茶にも手をつけず、ただ待っている。


 その待ち方に、クラリスは少し戸惑った。


 王宮では、常に急かされていた。


 返事を。

 判断を。

 修正を。

 手配を。


 待たれることに慣れていない。


「殿下は」


 ようやく、クラリスは口を開いた。


「わたくしに何をお求めですか」


 レオンハルトの金の瞳が、まっすぐに彼女を見る。


「君に、王宮へ戻ってほしい」


 やはり。


 クラリスの表情が硬くなる。


「お断りいたします」


 即答だった。


 イリスが背後で微かに頷いた気配がした。


 レオンハルトは、驚かなかった。


 むしろ、少しだけ笑った。


「早いな」


「便利な道具として戻されるつもりはございません」


「それでいい」


 クラリスは、再び彼を見た。


 レオンハルトは懐から一通の書類を取り出し、卓上に置いた。


「私が持ってきたのは、命令ではない。提案だ」


 クラリスは書類へ視線を落とす。


 表題には、こう書かれていた。


 王宮臨時顧問任命に関する提案書。


 クラリスの指先が止まる。


 レオンハルトは静かに言った。


「正式な役職。報酬。職務範囲の明文化。王妃執務院における一部決裁権。王太子からの私的命令を受けない権利。そして、休暇」


 休暇。


 その単語が最後に来たことに、クラリスは奇妙な衝撃を受けた。


「殿下」


「読むだけ読んでくれ。返事は今でなくていい」


 クラリスは、提案書を見つめた。


 王族から差し出された書類にしては、あまりに実務的だった。


 美辞麗句は少ない。

 条件が明確。

 責任の範囲が線引きされている。


 少なくとも、彼は分かっている。


 無償で戻せば、同じことが繰り返されると。


 クラリスは顔を上げた。


「なぜ、ここまで」


 レオンハルトは答えた。


「君が王宮で何をしていたか、知っているからだ」


 その言葉は、第5話へ続く扉のように、静かに落ちた。

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