第4話 私は初めて、何もしない朝を迎えました
朝になっても、誰もクラリスを起こしに来なかった。
それが、まずおかしかった。
クラリス・フォン・エルディアは、寝台の上で目を開けたまま、天蓋の刺繍をしばらく見つめていた。
白い絹地に、銀糸で月桂樹の葉が縫い取られている。幼い頃から見慣れた、自分の部屋の天蓋だった。
エルディア公爵家の別邸。
王宮ではない。
王太子の控え室でも、王妃執務院の仮眠室でも、慈善園遊会の準備部屋でもない。
だから当然、朝の報告は来ない。
王太子殿下の挨拶文を直してください、という書記官も来ない。
財務卿がまた寄付金配分を渋っています、という文官も来ない。
ローゼン侯爵夫人が本日の席次に不満を持っています、という女官も来ない。
大使夫人へ贈る花の色を確認してください、という侍従も来ない。
それなのに、クラリスは起き上がろうとしていた。
寝台から足を下ろし、反射的に卓上へ視線を向ける。
そこには、何も置かれていなかった。
書類もない。
封蝋もない。
緊急印の押された王宮封筒もない。
ただ、昨夜イリスが置いてくれた水差しと、まだ半分ほど水の残ったグラスがあるだけだった。
「……何もないのね」
呟いた声は、自分でも少し間が抜けて聞こえた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様。お目覚めでございますか」
「ええ」
入ってきたのは、侍女のイリスだった。
淡い灰色の侍女服に身を包み、いつものように表情は薄い。けれど、手にしている盆の上には書類ではなく、温かい茶と焼きたての小さなパンが乗っていた。
クラリスはそれを見て、少しだけ目を瞬かせる。
「朝食?」
「はい」
「ここで?」
「はい」
「先に執務室へ行かなくても?」
「行かなくて結構でございます」
イリスは盆を置き、カーテンを開けた。
朝の光が、部屋の中へ柔らかく広がる。
王宮の朝日はいつも、硝子窓を通して硬く差し込んでいた。誰かの足音と鐘の音と、急ぎの用件が一緒に流れ込んでくる光だった。
けれど今朝の光は違う。
庭の葉を透かし、白い壁にゆっくりと揺れている。
まるで、急ぐ必要などないと言っているようだった。
「本日のご予定をお伝えいたします」
イリスが言った。
クラリスは反射的に姿勢を正した。
「お願い」
「朝食を召し上がる」
「ええ」
「庭を散歩なさる」
「ええ」
「お茶を飲む」
「ええ」
「以上でございます」
クラリスは、しばらく黙った。
「……以上?」
「以上でございます」
「午後は?」
「お茶を飲みます」
「午前もお茶を飲むと言ったわ」
「お茶は一日に複数回飲めます」
「それは、そうだけれど」
「夕方は、何もなさらない予定でございます」
クラリスは真面目に考え込んだ。
「何もしない予定、という予定があるの?」
「はい。最重要予定でございます」
イリスは、まったく冗談を言っていない顔でそう言った。
クラリスは思わず目を伏せる。
笑うべきなのだろうか。
けれど、笑い方が少し分からない。
王宮で笑う時は、いつも理由があった。
相手を安心させるため。
険悪な場を和らげるため。
こちらの不利を悟らせないため。
王太子殿下の失言を目立たせないため。
理由のない笑みは、ひどく不安定なものに思えた。
「お嬢様」
イリスは茶を注ぎながら言う。
「本日は王宮のことをお考えにならないでくださいませ」
「考えていないわ」
「では、なぜ先ほどから指先が、存在しない書類をめくっておられるのでしょう」
クラリスは自分の右手を見た。
確かに、膝の上で指が紙をめくるように動いていた。
無意識だった。
指を止める。
「癖ね」
「悪癖でございます」
「厳しいわね」
「十年分の鬱憤がございますので」
イリスは涼しい顔で言った。
クラリスは茶を一口飲む。
温かい。
ただ、それだけのことに気づいた。
王宮では、茶は温かいうちに飲めないことが多かった。淹れてもらっても、書類を一枚処理し、使者へ返事を書き、王太子の予定を確認しているうちに冷める。
冷めた茶を飲むことに、いつの間にか慣れていた。
今朝の茶は、まだ湯気を立てている。
それが妙に贅沢だった。
「……美味しいわ」
イリスの手が、ほんのわずかに止まった。
すぐにいつもの無表情に戻ったが、クラリスは見逃さなかった。
「何?」
「いいえ」
「今、少し驚いたでしょう」
「お嬢様が茶の温度を覚えておいでだったことに」
「私を何だと思っているの」
「王宮の備品ではなく、人間だと思っております。ようやく」
言い方は淡々としていた。
だが、その言葉の底には怒りがあった。
クラリスはカップを置く。
「あなたは、ずっと怒っていたのね」
「はい」
「私に?」
「いいえ」
イリスは即答した。
「お嬢様を便利に使っていた方々に。お嬢様の働きを当然のものとしていた王宮に。そして、たまに、お嬢様ご自身にも」
「私にも?」
「はい。ご自分を差し出すのが上手すぎました」
クラリスは返事に困った。
差し出す。
そう言われると、少し違う気もする。
自分はただ、目の前のことを片付けていただけだ。
困っている人がいた。
失敗しそうな式典があった。
衝突しそうな家門があった。
届かなければ冬を越せない寄付金があった。
王太子が不用意な一言を口にしようとしていた。
それを直した。
それだけ。
ただ、その「それだけ」が十年続いた。
「私は……」
言いかけて、クラリスは言葉を止めた。
言い訳に聞こえそうだった。
自分でも、自分の気持ちがまだ整理できていない。
イリスは、それ以上追及しなかった。
「まずは朝食を」
「ええ」
クラリスはパンを一口食べた。
焼きたての香りがした。
王宮の朝は、いつも食事より用件が先だった。
食べるために座っているのに、気づけば皿の横に書類が積まれている。ナイフより先に羽根ペンを持つ。スープが冷める。パンが乾く。
今は違う。
目の前にあるのは食事だけ。
食事を食事として味わうのは、いつ以来だろう。
分からなかった。
朝食の後、クラリスは庭へ出た。
別邸の庭は、王宮の庭ほど広くはない。
けれど、手入れは行き届いている。
白い小道の両脇に季節の花が咲き、低い噴水から水音が聞こえる。奥には古い林檎の木があり、まだ青い実が枝にいくつもついていた。
クラリスはゆっくり歩いた。
イリスは少し後ろをついてくる。
庭師が遠くで礼をしたが、急ぎの報告を持って駆け寄ってくる者はいない。
花を見る。
ただ花として。
色の意味を考えない。
誰に贈るべきかを考えない。
どの国で弔意を示すかを考えない。
どの夫人が嫌う香りかを考えない。
花は、ただ咲いている。
その当たり前のことが、クラリスには少し眩しかった。
「お嬢様」
イリスが声をかけた。
「何?」
「今、あの白い花を見て、何をお考えになりましたか」
「……ノルヴァルトではなく、南方諸島なら祝福の花として使えるわね、と」
「失格でございます」
「何の?」
「何もしない訓練の」
クラリスは立ち止まり、白い花を見た。
花弁の縁に、朝露が残っている。
「綺麗ね」
「はい」
「これで合格?」
「一歩前進でございます」
イリスの声が、少しだけ柔らかくなった。
庭を半周したところで、屋敷の方から使用人がやってきた。
若い男で、顔に困惑が浮かんでいる。
「お嬢様。旦那様が、朝食後に小広間へお越しくださいとのことです」
父。
グラント・フォン・エルディア公爵。
クラリスは少しだけ目を伏せた。
「分かりました」
イリスの視線が鋭くなる。
「お嬢様、本日のご予定にはございません」
「父の呼び出しは、予定に入るでしょう」
「何もしない予定を妨害するものは、すべて敵でございます」
「イリス」
「失礼いたしました。少し本音が」
「少し?」
「多めに」
クラリスは小さく息を吐いた。
父が何を言うかは、だいたい想像できた。
王宮で起きたことは、すでにエルディア家にも届いているはずだ。
王太子との婚約解消。
妹ミレーヌの新たな立場。
そして王宮の混乱。
父は家門を重んじる人だ。
クラリス個人の心より、エルディア公爵家と王家の関係を優先するだろう。
分かっていた。
分かっていても、胸の奥が少しだけ硬くなる。
小広間へ入ると、父グラントが窓際に立っていた。
四十代後半。
濃い栗色の髪に、整えられた口髭。厳格な顔立ちの中に、名門公爵家当主としての自負が染みついている。
母セレスティアは、長椅子に腰かけていた。
美しい人だった。
年を重ねても華やかで、社交界で今なお羨望を集める女性である。
その隣の卓には、まだ開封されたばかりの書簡が数通置かれていた。
「クラリス」
父が振り返る。
「座りなさい」
「はい、お父様」
クラリスは一礼し、椅子に腰かけた。
イリスは扉の近くに控える。
父はしばらく黙っていた。
沈黙で相手に圧をかけるのは、彼の癖だった。
クラリスは慣れている。
王宮で、もっと厄介な沈黙を何度も処理してきた。
「王宮で何があった」
父は、単刀直入に聞いた。
「王太子殿下より、婚約を白紙に戻したいとのお申し出がございました」
「それで、お前は戻ってきたのか」
「はい」
「なぜ、その場で私に知らせなかった」
「夜会前でございましたので」
父の眉が動く。
「夜会前だからこそ、知らせるべきだった」
「知らせた場合、お父様はどうなさいましたか」
「当然、王太子殿下と協議した」
「婚約解消を撤回させるために?」
「家門のために、最善を尽くす」
クラリスは静かに父を見た。
家門。
やはり、その言葉だった。
父は娘を心配していないわけではない。
けれど、最初に出るのは家門なのだ。
「お父様。殿下は、ミレーヌを新たな婚約者に望まれました」
「それは聞いている」
「では、エルディア家と王家の関係は保たれます」
「単純な話ではない」
父は険しい顔をする。
「長女から次女へ婚約者が移ったのだ。社交界がどう見ると思う」
「おそらく、長女であるわたくしに何か欠けていたのだと見るでしょう」
母セレスティアが、小さく息を呑んだ。
「クラリス、そのような言い方は」
「事実ですわ、お母様」
クラリスは穏やかに答えた。
「すでにそう見る方もいらっしゃいます」
母は困ったように眉を下げた。
その表情は、ミレーヌによく似ていた。
いや、ミレーヌが母に似ているのだろう。
「ミレーヌは悪い子ではないのよ」
母は言った。
「ただ、少し世間を知らないだけで」
「存じております」
「あなたは昔から何でもできたでしょう。だから、ミレーヌは焦っていたのかもしれないわ。お姉様ばかり評価されると」
評価。
クラリスは、その言葉を胸の中で転がした。
自分は評価されていたのだろうか。
少なくとも、母の目にはそう見えていたのだろう。
できて当然。
任せて当然。
失敗しなくて当然。
それを評価と呼ぶなら、確かにクラリスは評価されていたのかもしれない。
「お母様」
「何かしら」
「わたくしは、王宮でどのような仕事をしていたか、ご存じですか」
母は一瞬、言葉を詰まらせた。
「王太子妃教育でしょう?」
「それだけではございません」
「でも、将来必要なことでしょう?」
クラリスは、父を見た。
父も、似たような顔をしている。
お前ならできる。
そう言ってきた顔だ。
「クラリス」
父が言う。
「王家に嫁ぐとは、そういうことだ。責任が伴う」
「嫁ぐ前から、でございますか」
「未来の王太子妃ならば当然だ」
「では、未来でなくなった今、その責任はどなたのものになりますか」
父は沈黙した。
母も黙った。
答えは分かっているのだろう。
分かっていて、言いたくない。
クラリスは責めるつもりはなかった。
ただ、胸の奥にあった冷えが、少しずつ形を持っていく。
王宮だけではない。
家でも同じだった。
クラリスならできる。
クラリスなら耐えられる。
クラリスなら分かってくれる。
その言葉に包まれて、少しずつ、彼女の労働は見えないものになっていった。
「お前も少し、柔らかく振る舞えばよかったのではないか」
父が言った。
その一言で、小広間の空気が止まった。
イリスが扉のそばで、完全に無表情になる。
クラリスは、父をまっすぐ見た。
「柔らかく」
「ああ。王太子殿下も男だ。完璧な正しさだけを突きつけられれば、息が詰まることもある」
母が小さく頷く。
「そうね。クラリス、あなたは立派だけれど、少し近寄りがたいところがあるわ。ミレーヌのように、もう少し甘えることを覚えてもよかったのではないかしら」
甘える。
クラリスは、その言葉の意味をしばらく考えた。
王太子殿下の挨拶文に失礼な表現があっても、甘えればよかったのだろうか。
隣国大使に葬送菓子を出しそうになっても、可愛らしく笑えばよかったのだろうか。
孤児院への寄付金が遅れても、分かりませんと涙ぐめばよかったのだろうか。
それをしなかったから、自分は冷たいのだろうか。
「お父様。お母様」
クラリスは静かに言った。
「わたくしは、ミレーヌにはなれません」
母の顔が曇る。
「そんなつもりで言ったのでは」
「分かっております」
分かっている。
二人に悪意がないことは。
悪意がないからこそ、根が深い。
「ただ、わたくしはこれまで、わたくしのやり方で王宮に仕えてまいりました。殿下がそれを不要と判断なさった以上、わたくしが戻る理由はございません」
父は厳しい声で言う。
「王宮から正式に求められたらどうする」
「正式な役職、職務範囲、報酬、権限が示されるのであれば、検討いたします」
「報酬?」
父がわずかに目を見開く。
母も驚いたようだった。
クラリスは、その反応に小さく納得した。
やはり、そこなのだ。
彼らにとって、クラリスが王宮で働くことは、家門の名誉であり、未来の王太子妃としての務めであり、娘として当然の献身だった。
労働ではなかった。
「はい。報酬でございます」
「クラリス、お前は公爵令嬢だ。金のために働くような言い方は」
「金のためだけではございません」
クラリスは、父の言葉を静かに遮った。
「ですが、対価のない労働は、いつか存在しないものとして扱われます」
小広間に、沈黙が落ちた。
クラリス自身、その言葉を口にして初めて、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
そうだ。
存在しないものとして扱われていた。
自分の仕事は。
自分の時間は。
自分の疲労は。
自分の感情は。
父は、何か言おうとして言葉を飲み込んだ。
母は目を伏せる。
クラリスは立ち上がった。
「失礼いたします。少し休みます」
父は止めなかった。
小広間を出ると、イリスが黙って後に続いた。
廊下をしばらく歩いてから、イリスが言う。
「お嬢様」
「何?」
「先ほどのお言葉は、たいへん結構でございました」
「そう?」
「はい。私の中の拍手喝采が、現在も鳴り止んでおりません」
「顔に出ていないわ」
「出すと旦那様に叱られますので」
クラリスは、少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
自室へ戻る途中、廊下の窓から遠くの王都が見えた。
王宮の尖塔は、朝靄の向こうに霞んでいる。
あそこでは今、何が起きているのだろう。
朝会はどうなっただろう。
ノルヴァルト公国への返礼は、無事に整っただろうか。
神殿への内示は。
ミレーヌは。
ジュリアスは。
考えてはいけない。
もう、自分の仕事ではない。
そう思った瞬間、胸の中で別の声がした。
では、困る人たちはどうなるのか。
クラリスは目を閉じた。
王宮のために戻る気はない。
王太子のために動くつもりもない。
けれど、神殿の孤児院や施療院にしわ寄せが行くのは、違う。
彼女は自室へ戻ると、机の上に置いたままだった帳簿を手に取った。
イリスが背後で低く言う。
「お嬢様」
「見るだけよ」
「その言葉を信用できたことは一度もございません」
「本当に見るだけ」
「お嬢様の“見る”は、分析、照合、改善案作成、関係者への書簡送付まで含みます」
クラリスは反論できなかった。
帳簿を開く。
別邸の管理帳簿の中に、父が支援している慈善用の布地購入記録があった。
最初は、ただ目に入っただけだった。
だが、数字が気になった。
毛織物の単価が高い。
王都相場より三割近い。
購入時期も不自然だ。値が上がる直前ではなく、すでに高騰した後にまとめて買っている。
さらに納入業者名。
ハイム商会。
クラリスは、記憶の棚を探る。
どこかで見た。
王宮の慈善事業関連か。
財務卿の提出資料か。
いや、確か――。
「イリス」
「はい」
「昨年の王宮慈善園遊会で、施療院用の寝具を納入した商会名を覚えている?」
「お嬢様は私を何だと思っておいでですか」
「覚えていない?」
「覚えております。ハイム商会でございます」
クラリスは帳簿に視線を落とした。
「やっぱり」
「何か?」
「エルディア家の慈善用布地も、ハイム商会から買っているわ」
「偶然では」
「価格が高い。王都相場より三割。納入時期も遅い。それに、ハイム商会は確かバルツァー財務卿の遠縁の家と婚姻関係があったはず」
イリスは、深く息を吐いた。
「お嬢様」
「何?」
「何もしない予定が、帳簿不正疑惑の発見に変更されました」
「まだ疑惑よ」
「お嬢様が疑惑とおっしゃる時は、八割事実でございます」
クラリスは羽根ペンを取った。
イリスがすかさずインク壺を遠ざける。
「イリス」
「本日は休養日でございます」
「メモだけ」
「そのメモが、明日には告発書の下書きになるのです」
「ならないわ」
「なります」
「……簡単な覚書だけ」
「覚書、という名の証拠整理でございますね」
クラリスは黙った。
イリスはしばらく主人を見つめ、それから諦めたようにインク壺を戻した。
「一枚だけでございます」
「ええ」
「お茶が冷める前に終えてくださいませ」
「努力するわ」
「努力ではなく実行してください」
クラリスは、羽根ペンを走らせた。
紙の上に、数字と商会名と時期が並ぶ。
手が自然に動く。
何もしない朝。
何もしない予定。
そのはずだった。
けれど、筆を持つ指先は、王宮にいた時と同じように迷いがない。
クラリスはそのことに、少しだけ苦笑した。
自由になったからといって、自分が急に別人になるわけではないらしい。
ただ、違うこともある。
今この覚書は、王太子のためではない。
誰かの失言を隠すためでもない。
自分の価値を証明するためでもない。
おかしな数字を、おかしいと記録しているだけだ。
それだけなのに、どこか息がしやすかった。
昼前。
屋敷に大神殿からの書簡が届いた。
差出人はフィオナ司祭。
内容は、孤児院への冬季配分確認だった。
王宮の混乱には触れすぎないよう、丁寧に書かれている。けれど、文面の端々から切迫が伝わってくる。
薪の契約。
冬服の採寸。
施療院の薬草仕入れ。
どれも、遅れれば高くなる。
最終的に困るのは、予算表の数字ではなく子どもたちだ。
クラリスは、手紙を閉じた。
イリスが腕を組む。
「お嬢様」
「分かっているわ」
「王宮へ戻ってはいけません」
「戻らないわ」
「本当に?」
「本当に」
クラリスは、新しい紙を取った。
「ただ、フィオナ司祭には私信で返します。昨年の配分基準と、今年予想される不足分だけ」
「一通だけでございますね」
「ええ。一通だけ」
イリスは疑いの目を向ける。
「お嬢様の一通は、時折、五通に分裂いたします」
「今日はしないわ」
「では、私が数えます」
クラリスは小さく頷き、筆を取った。
フィオナ司祭へ。
王宮の正式決裁には関われないこと。
ただし昨年の内示基準は記憶していること。
薪と毛布だけは先行契約した方がよいこと。
ハイム商会の見積もりは相場より高い可能性があるため、別商会にも確認すべきこと。
最後に、こう書き添えた。
王宮の混乱に、孤児たちの冬が巻き込まれないことを願っております。
書き終えてから、クラリスはしばらくその一文を見た。
願っているだけでいいのか。
そう思った。
だが、すぐに首を振る。
願うことと、すべてを背負うことは違う。
それを覚えなければならない。
「一通です」
イリスが厳かに宣言した。
「確かに一通で終わられました」
「それほど珍しいこと?」
「歴史的快挙でございます」
「大げさね」
「王宮にいた頃のお嬢様でしたら、ここから王宮、神殿、財務卿、商会、孤児院、場合によっては薪問屋まで六通書いておられました」
クラリスは反論しかけて、やめた。
たぶん、その通りだった。
午後。
ようやく本当に何もすることがなくなった。
庭に面した小さな居間で、クラリスは本を開いていた。
物語の本だった。
実務書でも、王国法令集でも、諸外国儀礼便覧でもない。
幼い頃に途中まで読んだきりの、旅をする少女の物語。
けれど、数頁読んでも頭に入ってこない。
どうしても、王宮のことを考えてしまう。
朝会は止まっただろうか。
茶会は無事に済んだだろうか。
ミレーヌは席次を間違えなかっただろうか。
ジュリアスは、また余計なことを言わなかっただろうか。
考えたくないのに、考えてしまう。
十年も王宮を中心にしてきた心は、一日や二日で別の向きを覚えない。
その時、屋敷の外が少し騒がしくなった。
馬車の音。
それも、ただの客ではない。
車輪の音が重く、従者の動きに緊張がある。
イリスが窓へ向かった。
「お客様です」
「お父様の?」
「いえ」
イリスの声が変わった。
わずかに警戒を含んでいる。
「王家の紋章です」
クラリスは本を閉じた。
王家。
ジュリアスだろうか。
それとも、王宮からの使者か。
戻れと言われるのか。
謝罪ではないだろう。
少なくともジュリアスが、すぐに謝るとは思えない。
使用人が扉の前で名を告げた。
「お嬢様。王弟レオンハルト殿下がお越しでございます」
クラリスは、思わず顔を上げた。
王弟。
レオンハルト・ヴァレンティア。
ジュリアスの弟。
王位に興味のない変わり者と噂される、黒髪金眼の第二王子。
何度か式典で言葉を交わしたことはある。
けれど、私的に訪ねてくるような関係ではなかった。
「王太子殿下ではなく?」
「はい。王弟殿下にございます」
イリスがクラリスを見る。
「お断りになりますか」
「王弟殿下を?」
「お嬢様の休養予定を破る方は、王族であっても敵でございます」
「それは不敬よ」
「心の中だけでございます」
「口に出ているわ」
クラリスは立ち上がった。
胸の奥に、警戒が生まれる。
王家の人間が来た。
王太子ではなく、王弟が。
それは、ただの謝罪や呼び戻しとは違う意味を持つ。
「応接室へお通しして」
「かしこまりました」
廊下を歩きながら、クラリスは自分の表情を整えた。
王宮で身につけた顔。
感情を見せず、相手の目的を測り、最初の一言を聞くまで判断しない顔。
応接室の扉の前で、イリスが小さく言った。
「お嬢様」
「何?」
「ご無理はなさらないでくださいませ」
クラリスは少しだけ振り返る。
イリスの表情はいつもどおりだった。
だが、目だけが真剣だった。
「ええ」
クラリスは頷いた。
扉が開く。
応接室には、黒髪の青年が立っていた。
レオンハルト・ヴァレンティア。
王太子ジュリアスとは似ていない。
華やかさで人目を奪う兄とは違い、彼は静かに場を支配する。
黒い髪。
金の瞳。
端正な顔立ちに浮かぶ穏やかな表情。
けれど、その目は柔らかくない。
何かを見逃さない者の目だった。
「突然の訪問を詫びる、クラリス嬢」
彼は丁寧に頭を下げた。
王族が、公爵令嬢に対して。
クラリスは一瞬だけ驚いたが、すぐに礼を返す。
「ようこそお越しくださいました、レオンハルト殿下」
「王宮の用件として来たわけではない」
第一声が、それだった。
クラリスは目を細める。
「では、どのようなご用件でしょうか」
「私個人の用件だ」
レオンハルトは、まっすぐに彼女を見た。
「君に会う必要があった」
応接室の空気が静まる。
外では、庭の噴水の音が小さく聞こえていた。
クラリスは席を勧め、向かいに座る。
イリスが茶を出す。
レオンハルトはその所作にも一度視線を向けた。
見る人だ。
クラリスはそう思った。
ただ眺めるのではない。
誰がどう動いているか、何が整っているかを見ている。
「王宮は」
レオンハルトが口を開いた。
「君が去って、三日で綻びを表に出した」
クラリスはカップに触れたまま、静かに答える。
「わたくしのせいではございません」
「もちろんだ」
返答は早かった。
クラリスは、思わず彼を見る。
レオンハルトの表情は変わらない。
「君のせいではない。君に押しつけていた者たちの罪だ」
その言葉は、クラリスの予想していたどの言葉とも違っていた。
戻ってほしい。
王宮が困っている。
兄を許してやってほしい。
ミレーヌを助けてやってほしい。
そう言われると思っていた。
責められる可能性すら、少しは考えていた。
だが、彼は最初に責任の所在を示した。
クラリスではない、と。
イリスが静かに目を伏せる。
その姿勢は侍女のものだったが、耳は確実にこちらを向いている。
レオンハルトは続けた。
「朝会は決裁不能。ノルヴァルト公国大使からは正式抗議。神殿への冬季配分も止まりかけている」
クラリスは指先をわずかに動かした。
「孤児院の件は、フィオナ司祭へ私信を送りました」
「知っている」
「ご存じなのですか」
「神殿から報告が来た。君は王宮を離れても、子どもたちの冬を見捨てなかったと」
クラリスは視線を落とした。
「王宮のためではありません」
「ああ。だから来た」
レオンハルトは、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
「王宮のためだけなら、私は君に頭を下げに来なかった。王宮は、自分が失ったものの重さを知るべきだと思ったからな」
「では、なぜ」
「君が、自分の責任ではないものまで背負おうとする人間だからだ」
クラリスは、言葉を失った。
初対面に近い相手に、そこまで見抜かれている。
不快ではなかった。
怖かった。
レオンハルトは、彼女の沈黙を急かさない。
茶にも手をつけず、ただ待っている。
その待ち方に、クラリスは少し戸惑った。
王宮では、常に急かされていた。
返事を。
判断を。
修正を。
手配を。
待たれることに慣れていない。
「殿下は」
ようやく、クラリスは口を開いた。
「わたくしに何をお求めですか」
レオンハルトの金の瞳が、まっすぐに彼女を見る。
「君に、王宮へ戻ってほしい」
やはり。
クラリスの表情が硬くなる。
「お断りいたします」
即答だった。
イリスが背後で微かに頷いた気配がした。
レオンハルトは、驚かなかった。
むしろ、少しだけ笑った。
「早いな」
「便利な道具として戻されるつもりはございません」
「それでいい」
クラリスは、再び彼を見た。
レオンハルトは懐から一通の書類を取り出し、卓上に置いた。
「私が持ってきたのは、命令ではない。提案だ」
クラリスは書類へ視線を落とす。
表題には、こう書かれていた。
王宮臨時顧問任命に関する提案書。
クラリスの指先が止まる。
レオンハルトは静かに言った。
「正式な役職。報酬。職務範囲の明文化。王妃執務院における一部決裁権。王太子からの私的命令を受けない権利。そして、休暇」
休暇。
その単語が最後に来たことに、クラリスは奇妙な衝撃を受けた。
「殿下」
「読むだけ読んでくれ。返事は今でなくていい」
クラリスは、提案書を見つめた。
王族から差し出された書類にしては、あまりに実務的だった。
美辞麗句は少ない。
条件が明確。
責任の範囲が線引きされている。
少なくとも、彼は分かっている。
無償で戻せば、同じことが繰り返されると。
クラリスは顔を上げた。
「なぜ、ここまで」
レオンハルトは答えた。
「君が王宮で何をしていたか、知っているからだ」
その言葉は、第5話へ続く扉のように、静かに落ちた。




