第3話 隣国大使は甘い菓子がお嫌いです
王宮の茶会は、戦場である。
ただし、剣は抜かれない。
血も流れない。
代わりに、微笑みが交わされる。
扇の角度、椅子の位置、菓子皿の並び、紅茶を注ぐ順番、相手のドレスの色を褒めるか褒めないか。
それら一つ一つが、時に剣より深く人を傷つける。
クラリス・フォン・エルディアは、それを知っていた。
だから茶会の前には、必ず三種類の表を作っていた。
一つ目は、招待客の席次表。
二つ目は、食べ物や花、色に関する禁忌一覧。
三つ目は、絶対に隣席にしてはならない人物の組み合わせ。
その三つがあれば、茶会はまず大きく崩れない。
逆に言えば、その三つがなければ、王宮の茶会など花と砂糖で飾った罠の庭に等しい。
「まあ、綺麗なお部屋ですこと」
ミレーヌ・フォン・エルディアは、王宮西棟の陽光の間に入るなり、明るい声を上げた。
高い窓から午後の光が差し込み、白い卓布の上で銀器が輝いている。壁際には淡い桃色の薔薇が飾られ、菓子台には焼き菓子、砂糖菓子、果実のコンポートが宝石のように並んでいた。
見た目だけなら、完璧な茶会である。
ミレーヌは少しだけ胸を撫で下ろした。
朝会は大変だった。
難しい言葉が多く、誰も彼もが険しい顔をして、何を決めたいのか分かりづらかった。
けれど、茶会なら違う。
笑顔で挨拶をする。
美しい花を褒める。
菓子を勧める。
楽しい話をする。
それなら、自分にもできる。
姉のように、難しい顔で書類を見つめなくてもいい。
「ミレーヌ様」
背後から声がした。
振り返ると、女官長マルタ・リードが立っている。
いつものように背筋が伸び、表情に無駄がない。
「招待客の最終確認をお願いいたします」
「ええ」
ミレーヌは笑顔で頷いた。
マルタが差し出した紙には、招待客の名が並んでいる。
ローゼン侯爵夫人。
ヴェルナー伯爵夫人。
ノルヴァルト公国大使セルゲイ・ラザフォード。
同国大使夫人エリナ。
王都大神殿代理司祭フィオナ。
数名の侯爵家、伯爵家の夫人たち。
ミレーヌは名前を眺めたが、正直なところ、半分ほどしか顔が浮かばなかった。
けれど、分からないとは言えない。
王太子妃になるのだ。
クラリスの代わりに。
ならば、ここで女官長に頼ってばかりでは、また姉と比べられてしまう。
「大丈夫ですわ」
ミレーヌは、できるだけ自信のある声で言った。
「皆様に楽しんでいただけるよう、心を込めます」
マルタは数秒、ミレーヌを見た。
その目は、決して意地悪ではなかった。
ただ、現実を見ている目だった。
「席次について、変更はございませんか」
「ええ。お年の近い方同士、親しみやすそうな方同士を近くにしましたの」
「……ローゼン侯爵夫人とヴェルナー伯爵夫人を、お隣に?」
「はい。どちらも社交界で名高い方でしょう? きっとお話が弾みますわ」
マルタの沈黙が落ちた。
長い沈黙だった。
「ミレーヌ様」
「はい」
「そのお二方は、十二年前の領地境界訴訟以来、同じ馬車寄せに並ぶことすら避けておられます」
ミレーヌの笑顔が固まった。
「え……?」
「加えて、ローゼン侯爵夫人の次男と、ヴェルナー伯爵夫人の姪君の縁談が破談になった件もございます」
「そ、それは……」
「昨年の王妃主催秋茶会では、クラリス様が間に三名を置き、話題も刺繍と聖歌に限るよう手配なさいました」
ミレーヌは紙を見つめた。
名前はただの名前だった。
そこに訴訟があり、破談があり、十二年分の怨みがあるなど、どうして分かるのだろう。
「では、今から変えれば」
「すでに席札は置かれております。直前の変更は、誰かが誰かを避けたと受け取られます」
「そんな……」
ミレーヌの声が小さくなる。
だが、マルタは容赦なく続けた。
「茶会はまもなく始まります」
「で、でも、少しくらいなら」
「少しくらいで済むよう、クラリス様は前日までに整えておられました」
クラリス。
また、その名前。
朝会でも、何度も聞いた。
クラリス様なら。
クラリス様が。
クラリス様は。
ミレーヌの胸の奥が、ちくりと痛んだ。
それは罪悪感ではない。
少なくとも、まだ罪悪感とは呼べないものだった。
なぜ、どこへ行っても姉なのだろう。
自分だって頑張ろうとしているのに。
自分だって、殿下のお役に立ちたいだけなのに。
「分かりましたわ」
ミレーヌは、無理に笑った。
「私が間に入って、場を和ませます」
マルタは何か言いかけた。
だが、その時、侍女が来客の到着を告げた。
もう、茶会は始まる。
最初に入ってきたのは、ローゼン侯爵夫人だった。
年齢は四十代半ば。濃紺のドレスに、真珠を一連だけ。派手さはないが、立っているだけで周囲の空気を自分のものにする女だった。
微笑みは優雅。
目は笑っていない。
「ミレーヌ様。本日はお招きいただき、光栄に存じます」
「ようこそお越しくださいました、ローゼン侯爵夫人」
ミレーヌは丁寧に礼をした。
ここまでは悪くない。
続いて、ヴェルナー伯爵夫人が入ってきた。
柔らかな薄緑のドレスをまとった、穏やかそうな女性である。
だが、ローゼン侯爵夫人の姿を見た瞬間、まぶたが一度だけ震えた。
ミレーヌはそれを見逃した。
マルタは見逃さなかった。
「まあ、ローゼン侯爵夫人」
ヴェルナー伯爵夫人は微笑んだ。
「本日はお元気そうで何よりですわ」
「ええ、ヴェルナー伯爵夫人も。相変わらずお若いお色をお選びになるのね」
「ありがとうございます。若い色を着られるうちに、と思いまして」
「まあ、ご自分でそうおっしゃるのは立派ですこと」
二人は笑っている。
ミレーヌは、ほっとした。
会話が弾んでいる。
そう思った。
しかし、横に立つマルタの表情は石のようだった。
毒が飛んでいる。
それも、かなり濃いものが。
ミレーヌが気づかないまま招待客は揃い、席へ案内された。
そして、最大の問題が起きた。
ローゼン侯爵夫人とヴェルナー伯爵夫人が、隣同士に座った。
会場の空気が、目に見えないほど薄くひび割れる。
「まあ」
ローゼン侯爵夫人が席札を見た。
「本日は、ずいぶんと思い切ったお席ですのね」
ヴェルナー伯爵夫人も、にこりと笑う。
「ええ。新しい風を感じますわ」
ミレーヌは褒められたと思い、嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます。皆様に親しくお話しいただきたくて」
「親しく」
ローゼン侯爵夫人の声が、絹糸のように細くなる。
「それは素晴らしいお考えですわ」
「若い方ならではですわね」
ヴェルナー伯爵夫人が続けた。
「ええ。経験に縛られないというのは、時に美徳ですもの」
マルタの眉間に、ほんのわずかな影が落ちた。
経験に縛られない。
それは、経験を知らないと言っているのと同じだった。
ミレーヌは、まだ気づかない。
茶が注がれた。
最初の菓子皿が運ばれる。
その時、会場の入口で侍従が名を告げた。
「ノルヴァルト公国大使、セルゲイ・ラザフォード閣下。ならびにエリナ夫人にございます」
長身の男が入ってきた。
灰色に近い銀髪。
氷を思わせる薄青の瞳。
礼儀正しいが、近寄りがたい。
隣に立つ大使夫人エリナは、深い緑のドレスをまとい、静かな微笑みを浮かべている。
ミレーヌは立ち上がり、覚えたばかりの礼をした。
「ようこそお越しくださいました、ラザフォード大使、エリナ夫人」
「お招きに感謝いたします」
セルゲイは、低く整った声で答えた。
挨拶は無事に終わった。
ミレーヌは内心で胸を撫で下ろす。
大丈夫。
できている。
自分にも、できる。
だが、茶会の地雷は挨拶ではなかった。
侍女たちが菓子を運ぶ。
銀の皿に乗せられていたのは、蜂蜜をたっぷり使った黄金色の焼き菓子だった。
表面には薄く砂糖がかかり、香ばしい匂いが立っている。王都では祝いの席によく出される、華やかな菓子である。
ミレーヌは笑顔で言った。
「本日は、王都で人気の蜂蜜菓子をご用意いたしましたの。どうぞお召し上がりくださいませ」
セルゲイ大使の手が、皿の前で止まった。
大使夫人エリナの微笑みも、わずかに薄くなる。
ミレーヌは気づかない。
「とても甘くて、幸せな味がいたしますのよ」
セルゲイは、ゆっくりとミレーヌを見た。
「これは、どなたのご指示で?」
「私ですわ」
ミレーヌは少し誇らしげに言った。
「皆様に喜んでいただけるよう、華やかなものを選びましたの」
セルゲイは菓子皿を見下ろした。
会場の空気が変わる。
今度は、ミレーヌにも分かった。
けれど、なぜなのかは分からない。
「……大使?」
ジュリアスは、王太子席から声をかけた。
彼も何かおかしいと気づいたらしい。
ただし、気づくのが遅い。
「ラザフォード大使。菓子がお口に合いませんか」
セルゲイは、ジュリアスへ顔を向けた。
「アルヴィア王国では、我が国との友好を弔う意味で、この菓子を出されたのでしょうか」
誰かが息を呑んだ。
ミレーヌは、意味が分からず瞬きをした。
「弔う……?」
マルタ女官長が目を閉じる。
オスカーがこの場にいれば、きっと胃を押さえていたに違いない。
セルゲイは静かに続けた。
「ノルヴァルトでは、冬蜜を用いた焼き菓子は葬送の席に出されるものです。特に、この形は死者の旅路を示すもの」
ミレーヌの顔が青くなる。
「そ、そんな……私は、知らなくて」
「知らなかった」
セルゲイは、その言葉を繰り返した。
「それは、王太子妃候補が外交茶会を主催する理由として、十分な説明になるのでしょうか」
ミレーヌの目に涙が浮かんだ。
だが、ここは朝会よりもさらに涙が通じない場所だった。
茶会の微笑みは、涙より強い。
ジュリアスが立ち上がる。
「大使。菓子一つでそこまで深刻に受け取られるのは、少々大げさではないか」
その瞬間、マルタの顔から血の気が引いた。
セルゲイ大使の表情は変わらない。
変わらないことが、恐ろしかった。
「菓子一つ」
低い声だった。
「我が国の葬送文化を、菓子一つと」
ジュリアスは失言に気づいた。
だが、言葉は戻らない。
クラリスがいれば、今の言葉は口に出る前に止められていた。
あるいは、ジュリアスの袖を軽く引いて、別の表現に誘導していただろう。
しかし、ここにクラリスはいない。
ミレーヌは泣きそうに震えるだけ。
マルタは主催者ではないため、王太子の言葉を直接覆せない。
周囲の夫人たちは、扇の陰でこの失態を記憶している。
セルゲイは席を立った。
大使夫人エリナも、静かに立ち上がる。
「本日は、アルヴィア王宮のお考えをよく理解いたしました」
「待て、大使」
ジュリアスの声に、セルゲイは振り返った。
「条約文に敬意を払う国は、菓子にも花にも席にも敬意を払います」
その言葉は、静かに落ちた。
「菓子一つに敬意を込められぬ国が、条約文に敬意を込めるとは思えませんな」
セルゲイ大使夫妻は退席した。
誰もすぐには動けなかった。
会場に残ったのは、蜂蜜の甘い匂いと、取り返しのつかない沈黙だった。
ミレーヌは唇を震わせた。
「そんなの……」
涙が一粒、頬を落ちる。
「そんなの、誰も教えてくれませんでしたわ……」
その声に、マルタが静かに答えた。
「クラリス様は、毎回教えておられました」
ミレーヌが顔を上げる。
「え……」
「厨房へ。侍女へ。席次担当へ。王太子殿下へ。誰も失敗なさらないように」
マルタの声には、怒鳴るより重いものがあった。
「皆様が失敗しなかったのは、失敗しない方々だったからではございません。失敗する前に、クラリス様が止めておられたからです」
ミレーヌは何も言えなかった。
ローゼン侯爵夫人が、扇を口元に当てて微笑んだ。
「まあ……大変なお茶会ですこと」
ヴェルナー伯爵夫人も続ける。
「ええ。新しい風とは、時に寒いものですわね」
二人は敵同士である。
だが、この瞬間だけは同じ方向を見ていた。
王太子と、新しい王太子妃候補を。
茶会は続行不能となった。
夫人たちは礼儀正しく、しかし驚くほど早く退席した。
誰も大声で批判しなかった。
だからこそ、噂はより早く広まる。
王宮の茶会で、ノルヴァルト大使に葬送菓子が出された。
王太子はそれを「菓子一つ」と言った。
クラリス嬢が去った途端に、王宮儀礼が崩れた。
その日の夕方までに、王都の主要なサロンには届くだろう。
夜には侯爵家の晩餐の話題になる。
明朝には、各家の侍女たちが市場で囁く。
ミレーヌは、空になった席を見つめていた。
菓子皿には、誰も手をつけていない蜂蜜菓子が残っている。
あれほど美味しそうだったのに、今は光まで失って見えた。
「殿下……」
ミレーヌはジュリアスを見た。
助けてほしかった。
大丈夫だと言ってほしかった。
君は悪くない、と。
けれど、ジュリアスの顔には苛立ちしかなかった。
「なぜ確認しなかった」
ミレーヌは息を呑む。
「え……」
「大使の禁忌くらい、確認しておくべきだろう」
「だ、だって、私は……」
「君が主催する茶会だ」
その言葉は、朝まで彼女を支えていたものを砕いた。
殿下もいてくださいますもの。
昨日、自分はそう言った。
けれど、殿下は一緒に背負ってはくれなかった。
失敗した瞬間、それはミレーヌの責任になった。
「私、知りませんでしたわ……」
「知らないで済む立場ではない」
ジュリアスの声は冷たい。
しかし、その冷たさは自分にも向くべきものだと、彼は分かっていない。
彼も知らなかった。
蜂蜜菓子の意味も。
白薔薇の意味も。
席次の危うさも。
けれど、彼は王太子である。
知らなかった責任を、誰かに渡すことに慣れていた。
その誰かが、これまではクラリスだった。
今、その役目をミレーヌが背負っただけのことだった。
マルタは深く一礼する。
「殿下。まずはノルヴァルト公国大使館へ、正式な謝罪文を」
「書けばよい」
「どなたが」
ジュリアスは口を開きかけた。
そして、言葉を失った。
いつもなら、クラリスが草案を書いた。
王太子の威厳を損なわず、相手の文化への敬意を示し、過失を認めすぎず、しかし誠意は伝わるように。
そういう厄介な文章を、彼女は一晩で整えていた。
今はいない。
「オスカーに」
「書記官に謝罪文の草案は書けます。ですが、ノルヴァルトの葬送文化に触れる表現は、クラリス様の確認なしには危険です」
また、クラリス。
ジュリアスは拳を握った。
「ならば、誰か詳しい者を探せ」
「探します」
マルタは答えた。
「ただし、クラリス様以上に両国の儀礼に通じた者は、王宮内にはおそらくおりません」
それは、嫌味ではなく事実だった。
事実だから、痛い。
その頃、クラリスはエルディア公爵家の別邸にいた。
王都から少し離れた丘の上にある、静かな屋敷である。
王宮の尖塔は、晴れた日なら遠くに見える。
だが、ここには王宮の喧騒は届かない。
クラリスは客間ではなく、小さな書斎にいた。
本来なら、休むつもりだった。
少なくともイリスは、そのつもりだった。
「お嬢様」
イリスの声は硬い。
「本日は何もしない予定だったはずでございます」
「ええ」
「では、その帳簿は何でございましょう」
「帳簿ね」
「存じております。私が伺っているのは、なぜお嬢様の手元にあるのかということです」
クラリスは机の上の古い帳簿を見下ろした。
エルディア家が支援している孤児院への布地購入記録である。
王宮から解放されたはずなのに、結局、数字を見ている。
自分でもおかしいと思う。
「暇だったから」
「お嬢様の暇は、世間一般では労働と申します」
「そうかしら」
「そうでございます」
イリスは容赦がない。
けれど、その容赦のなさが今はありがたかった。
王宮では、誰もクラリスに休めとは言わなかった。
よくやっているとも、もうやめていいとも。
イリスだけが、いつも怒っていた。
クラリスが自分のために怒れない分まで。
「少し気になる数字があったの」
「気にならなくて結構でございます」
「布地の購入費が三割ほど高いわ」
「聞こえません」
「しかも納入業者が毎回同じ。王都の相場より明らかに高い」
「お嬢様」
「この業者、どこかで見た名前なのよ」
イリスは深くため息をついた。
「お嬢様は、王宮を出ても王宮から逃げられないのですね」
クラリスは返事をしなかった。
逃げたいのか、自分でも分からなかった。
ただ、数字の歪みを見ると放っておけない。
誰かが困る前に整えたくなる。
それが、自分を縛っていた鎖だと分かっていても。
その時、屋敷の外で馬の嘶きが聞こえた。
イリスが窓へ向かう。
「早馬です」
「王宮から?」
「紋章は……王宮のものではございません。大神殿です」
クラリスは顔を上げた。
大神殿。
嫌な予感がした。
しばらくして、使用人が書簡を持ってくる。
差出人は、フィオナ司祭。
封を切ると、簡潔な文があった。
今月の孤児院への配分について確認したい。
王宮で混乱が起きている。
貴女が離れたことを責めるものではない。
ただ、子どもたちの冬支度だけは遅らせたくない。
クラリスは、手紙を静かに閉じた。
イリスが眉をひそめる。
「お嬢様」
「分かっているわ」
「王宮へ戻ってはいけません」
「戻らないわ」
「本当に?」
「本当に」
クラリスは、フィオナの手紙を机に置いた。
「ただ、神殿へ送るべき内示案は、わたくしの記憶にある」
「お嬢様」
「王宮のためではないわ。孤児院の子どもたちのためよ」
イリスは何か言おうとした。
だが、言わなかった。
クラリスがこういう時に止まらないことを知っているからだ。
代わりに、羽根ペンを差し出す。
「では、一通だけでございます」
「ええ。一通だけ」
「その“一通だけ”で夜が明けたことが何度あるか、私は記録しております」
「記録しなくていいわ」
「お嬢様が忘れるので」
クラリスは、少しだけ笑った。
その笑みはすぐに消える。
ペン先をインクに浸し、神殿宛ての私信を書き始める。
王宮へ戻る気はない。
けれど、困る者がいる。
それは、クラリスにとって最も弱い場所だった。
王宮では、その弱さを使われ続けた。
彼女自身も、それを分かっている。
それでも、子どもたちの冬支度を人質に、自分の意地を張ることはできなかった。
一方、王宮では夕暮れ前に正式抗議文が届いた。
ノルヴァルト公国大使館からである。
文面は丁寧だった。
丁寧すぎるほど丁寧だった。
つまり、怒っている。
オスカーはその文を読んだ瞬間、胃ではなく頭を押さえた。
「……これは」
隣でマルタが問う。
「どの程度ですか」
「まだ断交ではありません」
「当然です」
「ですが、次の外交晩餐会は延期を求められています」
「十分に重いですね」
「加えて、昨夜の王太子殿下の発言について、文化的軽視と受け取られかねない表現がございます」
「受け取られかねない?」
「いえ。受け取られています」
オスカーは紙を置いた。
部屋の空気が重い。
そこへ、別の使者が駆け込んでくる。
「大神殿より至急の確認が」
マルタが目を閉じる。
「今度は神殿ですか」
使者は息を整えながら言った。
「今月の孤児院への配分が、まだ届いていないとのことです」
オスカーは天井を仰いだ。
大使館から抗議文。
神殿から配分確認。
朝会は決裁不能。
茶会は外交失態。
王太子は不機嫌。
ミレーヌは部屋に籠もって泣いている。
そしてクラリスはいない。
たった一日。
まだ、たった一日である。
マルタは低く言った。
「三日目ですね」
オスカーは頷いた。
「はい」
「もう、隠せません」
「隠すには、火元が多すぎます」
王宮の中で、目に見えなかった綻びが次々に口を開けている。
それは今日、急に生まれたものではない。
もともとあった。
ただ、クラリスが毎日、縫っていただけだ。
糸が切れた今、布は裂け始めている。
夕暮れの王宮で、オスカーは抗議文と神殿の書簡を抱え、国王の執務室へ向かった。
廊下の窓から、沈む日が見える。
その赤い光は、美しい王宮を金色に染めていた。
けれど今のオスカーには、それが燃え始めた紙の色に見えた。
王宮は、止まりかけている。
いや。
もう、止まっている。
ただ、誰もまだ正式にそう認めていないだけだった。




