表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/8

第2話 王宮の朝会が始まりません

 アルヴィア王宮の朝は、鐘の音から始まる。


 一の鐘で侍従が廊下を開け、二の鐘で女官たちが各室の燭台を消し、三の鐘で政務院の文官が東棟へ集まる。


 そして四の鐘が鳴る頃、王族と重臣たちは朝会の間へ入る。


 その流れは、十年近く乱れたことがなかった。


 少なくとも、表向きは。


「……進行表がない?」


 朝会の間の端で、王宮書記官オスカー・ベルンは、眼鏡の奥の目を細めた。


 目の前には、文官補佐の青年がいる。


 顔色が悪い。


「はい。いつもの机にも、控えの棚にも、書記官室にもございません」


「昨日の夜、クラリス様が残された正式文書は?」


「ございます。こちらに」


 差し出された書類を受け取り、オスカーは一枚目に視線を走らせた。


 招集者一覧。


 出席予定者。


 議題候補。


 それだけだった。


「……候補」


 オスカーは、思わず呟いた。


「候補、か」


 文官補佐が不安そうに尋ねる。


「あの、何か問題が?」


「問題しかありません」


 正式文書としては、これで正しい。


 誰が来るか。

 何を話すか。

 どの案件が本日扱われる可能性があるか。


 それは書いてある。


 だが、朝会に必要なのは、それだけではない。


 どの議題を先に出すか。

 誰の発言を先に拾うか。

 どの案件は国王の前で決め、どの案件は後日協議に回すか。

 誰と誰を同時に発言させてはいけないか。

 どの言葉を使うと財務卿が反発し、どの表現なら軍部が引くか。


 そういう、正式文書に残らないものが必要だった。


 クラリス・フォン・エルディアは、それを毎朝作っていた。


 しかも、誰にも命じられずに。


 オスカーは書類を閉じた。


「胃薬を」


「はい?」


「いえ、何でもありません。財務卿は?」


「すでにお着きです」


「軍務局長は?」


「お着きです」


「大神殿の代理司祭は」


「……お着きです」


 終わった。


 オスカーは心の中で、静かにそう思った。


 今日の議題には、慈善事業の寄付金配分、北方街道の補修費、軍部の冬季備蓄、ノルヴァルト公国使節団への返礼品、王妃主催園遊会の人員配置が入っている。


 財務卿は出費を嫌う。

 軍務局長は冬支度を急いでいる。

 神殿は孤児院への寄付を待っている。

 ノルヴァルト公国は礼を欠けばすぐに冷える。

 王妃執務院は人手が足りない。


 本来なら、最初に軽い外交案件を置いて空気を整え、次に神殿への内示を済ませ、軍部と財務の衝突は国王が入室する直前に短く処理するはずだった。


 いや、はずだった、というのもおかしい。


 それを考えていたのはクラリスであって、オスカーではない。


「オスカー殿」


 低い声に振り返ると、王妃執務院の古参女官長マルタ・リードが立っていた。


 灰色の髪をきっちり結い上げた、王宮で最も背筋の伸びた女性である。


「クラリス様は?」


 質問は短かった。


 答えもまた短くなるしかない。


「いらっしゃいません」


「でしょうね」


 マルタは一度だけ目を閉じた。


 その表情に驚きはない。


 あるのは、覚悟に近い諦めだった。


「昨夜、白薔薇の控えの間から出ていかれるのを見ました」


「では、事情は」


「全部ではありません。ただ、王太子殿下とミレーヌ様がご一緒だったことは存じております」


 マルタの声は冷えていた。


 王宮で長く仕えてきた者は、怒り方を知っている。


 大声を出すのは三流。


 本当に怒った時ほど、声を小さくする。


「本日の進行は?」


「正式な議題候補はあります」


「候補だけですか」


「候補だけです」


「……そうですか」


 マルタは扇も持っていないのに、扇を閉じるような目をした。


「では、始まりませんね」


「はい。始まりません」


 正確には、始めることはできる。


 ただし、始めた瞬間に揉める。


 それは始まったとは言わない。


 そこへ、朝会の間の大扉が開いた。


 王太子ジュリアス・ヴァレンティアが入ってくる。


 金髪は整えられ、白と金の礼服もいつもどおり美しい。


 ただ、顔色はよくなかった。


 昨夜の夜会で、何かあったのだろう。


 いや、何もなかったはずがない。


 クラリスが夜会の途中で王宮を去ったのだ。


 それでも夜会が大きく崩れなかったのは、最後に挨拶文だけは修正していたからだろう。オスカーはそう推測した。


 ジュリアスの後ろには、ミレーヌがいた。


 淡い黄色の朝用ドレスをまとい、髪には小さな真珠の飾りが光っている。


 夜会の華やかさとは違う、清楚で可愛らしい装いだった。


 彼女は朝会の間を見回し、少し緊張したように微笑んだ。


「皆様、おはようございます」


 返礼はあった。


 だが、温度は低い。


 この場にいるのは、夜会で甘い笑顔を返してくれる貴族ばかりではない。


 数字を持つ者。

 軍を動かす者。

 神殿の名で人心を支える者。

 王宮の失敗を、家門の利益に変える者。


 笑顔一つで動く相手ではなかった。


「オスカー」


 ジュリアスが声をかけた。


「始めろ」


 オスカーは、深く一礼した。


「殿下。本日の議題順につきまして、確認が必要でございます」


「議題順?」


「はい」


「書類に書いてあるだろう」


「候補はございます」


「ならば、上から始めればいい」


 朝会の間の空気が、薄く軋んだ。


 財務卿バルツァーが、わずかに眉を上げる。


 軍務局長が腕を組む。


 大神殿代理のフィオナ司祭は、表情を変えなかった。


 だが、彼女の隣にいた若い司祭補佐が、不安そうに目を伏せた。


 オスカーは、胃の辺りに痛みを覚えた。


「殿下。議題の順番は、単なる並びではございません」


「では、何だ」


「発言権の優先、予算配分の重み、王家がどの案件を重視しているかの表示でもございます」


 ジュリアスは不機嫌そうに唇を結んだ。


「朝から細かいな」


 細かい。


 その一言で、オスカーは昨夜のクラリスの背中を思い出した。


 あの方は、この“細かい”ものを十年近く積み上げていたのだ。


 そして、それを細かいと呼ばれた。


 ミレーヌが一歩前へ出た。


「あの、殿下。でしたら、皆様に順番にお話しいただけばよろしいのではありませんか?」


 彼女は善意で言った。


 本当に、そう思っている顔だった。


 だからこそ、場は凍った。


 順番に話せばいい。


 それは、王宮の朝会を知らぬ者の言葉である。


 この場で誰が先に話すかは、ただの順番ではない。


 王家が誰の訴えを重く見ているかを示す。


 王太子妃候補がそれを知らない。


 その事実が、重臣たちの目の中に冷たく沈んだ。


 ジュリアスはそれに気づかず、むしろ安心したように頷いた。


「そうだな。ミレーヌの言うとおりだ。難しく考えすぎるから滞る」


 マルタが、ほんのわずかに目を伏せた。


 オスカーは、心の中で三倍の胃薬を四倍に増やした。


「では、最初の議題を」


「はい」


 オスカーは、候補一覧の一番上を見た。


 慈善事業寄付金配分。


 なぜ一番上にあるのか。


 おそらく正式文書を作った時点では、神殿から届いた順に記録しただけだ。


 クラリスなら、これを朝会の冒頭には置かなかった。


 財務卿がいる前で、神殿寄付金を最初に出せばどうなるか分かっていたからだ。


 だが、王太子が上からと言った。


 オスカーは逃げられない。


「第一議題。王都大神殿管轄、孤児院ならびに施療院への冬季寄付金配分について」


 フィオナ司祭が静かに顔を上げた。


 バルツァー財務卿の片眉が、はっきり動いた。


「冬季寄付金ですと?」


 低く、重い声だった。


「まだ北方街道の補修費も、軍部の備蓄費も確定しておりません。それより先に神殿への配分を決めるおつもりか」


 軍務局長が鼻を鳴らした。


「補修費を後回しにすれば、雪が来る。街道が止まれば物資も兵も動かん」


 フィオナ司祭は穏やかに言った。


「孤児院の冬支度も、雪を待ってはくれません。毛布と薪は、今月中に手配が必要です」


「それは理解している」


 バルツァーは理解していない顔で言った。


「しかし財源は一つです。神殿は毎年、要求ばかりが早い」


「要求ではございません。昨年、王妃執務院より今年の冬季支援を前倒しで内示すると伺っておりました」


 フィオナの一言で、オスカーは目を閉じたくなった。


 それは確かにあった。


 クラリスが手配していた。


 孤児院の冬支度は、薪商人との契約が早いほど安くなる。だから秋の終わりでは遅い。夏の終わりに見込みを出し、初秋に内示、冬前に支給。


 その流れを、クラリスは昨年作っていた。


 今年も同じにする予定だった。


 だが、それを知っている資料は、正式文書ではない。


 クラリスの私的な覚書の中だ。


「そのような内示は、正式決定ではありませんな」


 バルツァー財務卿が切った。


 フィオナ司祭の目が、少しだけ細くなる。


「では、王妃執務院からの言葉は、正式ではなかったと?」


「決裁印のないものは、あくまで相談です」


「その相談を信じて、孤児院では今年、先に冬服の採寸を始めております」


「神殿の判断でしょう」


 空気がさらに冷えた。


 ジュリアスは苛立ったように言った。


「その程度のことで揉めるな。寄付金くらい、例年どおり出せばいい」


 バルツァー財務卿は、今度こそはっきりと眉を寄せた。


「殿下。例年どおりと申されましても、今年は北方街道の橋梁修繕がございます。加えて軍部の冬季備蓄増額要求も来ております」


 軍務局長が即座に言う。


「要求ではない。必要だ」


「財源には限りがあります」


「兵に凍えろと言うか」


「数字は温情では増えません」


 ジュリアスの顔が曇った。


 ミレーヌは、おろおろと二人を見比べる。


「あの、皆様、落ち着いて……」


 その声は、誰にも届かなかった。


 朝会の間に、低い言葉が飛び交う。


 財務卿。

 軍務局長。

 神殿代理。

 王妃執務院。

 政務院。


 それぞれが、自分の正しさを持っている。


 だから、衝突する。


 クラリスは、衝突しないように順番を組んでいた。


 最初にノルヴァルト公国への返礼品を決め、王家の面目を整える。

 次に神殿への内示だけを先に認め、支出額の正式決定は財務協議へ回す。

 軍部には街道補修と備蓄を一括ではなく、優先順位をつけて認める。

 最後に財務卿へ「支出削減案作成」の名目を与え、顔を立てる。


 そういう逃げ道を作っていた。


 今日、その逃げ道はどこにもない。


「オスカー!」


 ジュリアスの声が飛ぶ。


「クラリスなら、どうしていた」


 言ってから、王太子自身が気づいた。


 朝会の間が静まり返る。


 クラリスなら。


 その言葉は、今この場で最も言ってはいけないものだった。


 ミレーヌの顔から血の気が引いた。


 彼女は、王太子の隣で小さく唇を噛む。


 オスカーは、できるだけ感情を殺して答えた。


「クラリス様は、朝会を進めていたのではございません」


「何?」


「朝会が揉めないよう、始まる前に半分終わらせておられました」


 その言葉は、広い朝会の間にまっすぐ落ちた。


 誰もすぐには返さなかった。


 バルツァー財務卿が目を細める。


 マルタ女官長は黙っている。


 フィオナ司祭は、ほんの少しだけ頷いた。


 軍務局長は、思い当たることがあるのか、腕を組み直した。


 ジュリアスだけが、その意味を受け入れ損ねていた。


「大げさだ。たかが朝会の段取りだろう」


「殿下」


 マルタが初めて口を開いた。


「たかが段取りで、人は恥をかかずに済みます。たかが席順で、家門同士の争いが避けられます。たかが一言の言い換えで、同盟国は笑顔を保ちます」


 静かな声だった。


 だが、老練な女官長の声は、若い令嬢の慰めとは違う重みを持っていた。


「クラリス様は、その“たかが”を積み上げておられました」


 ジュリアスは不快げに視線を逸らした。


「ならば、今からでも呼べ」


 オスカーは言葉を失った。


 呼べ。


 まるで、隣室に待機している侍女のような言い方だった。


 ミレーヌが小さな声で言う。


「お姉様は……昨夜、お帰りになりましたわ」


「分かっている。使者を出せばいい」


「殿下」


 オスカーは慎重に言葉を選んだ。


「クラリス様は、すでに王太子妃候補ではございません」


「だから何だ」


「王宮へお呼びするには、正式な理由が必要です」


 ジュリアスは苛立ちを隠さなかった。


「私が呼べと言っている」


 その瞬間、フィオナ司祭が静かに言った。


「では、王太子殿下は、婚約を解消した令嬢に、無償で王宮実務を命じるおつもりなのですね」


 声は柔らかい。


 だが、中身は刃だった。


 ジュリアスが口を閉ざす。


 神殿の言葉は軽くない。


 しかも、慈善事業の寄付金が議題になっている場で、王家が一人の令嬢へ無償奉仕を命じると取られれば、外聞が悪すぎる。


 バルツァー財務卿が咳払いした。


「ともかく、本日の議題をどう進めるかですな」


 軍務局長が低く笑った。


「上から順番に話せばいいのではなかったか」


 ミレーヌの肩が跳ねた。


 悪意のある言い方だった。


 彼女にも分かったのだろう。


 だが、言い返せない。


 自分が言った言葉だからだ。


 ジュリアスは強引に話を戻した。


「よい。慈善事業については後日再協議とする。次だ」


 オスカーは候補表を見る。


 次。


 北方街道補修費。


 財務卿と軍務局長が、同時にこちらを見た。


 オスカーは、ほんの少し遠くを見た。


 窓の外では、朝の光が庭園に降りている。


 クラリス様。


 あなたは、毎朝これを一人で防いでおられたのですか。


 声には出さなかった。


 出したら、仕事にならない。


「第二議題。北方街道補修費について」


 言った瞬間、財務卿が資料を広げた。


「まず申し上げますが、要求額は過大です」


 軍務局長が即座に返した。


「まず申し上げるが、雪崩で橋が落ちてからでは遅い」


 また始まった。


 朝会は、始まっている。


 だが、進んではいない。


 発言はある。

 反論もある。

 書記官は筆を動かしている。

 王太子は席にいる。


 けれど、何も決まらない。


 それは、止まっているのと同じだった。


 半刻後。


 国王アレクシスが朝会の間へ入る前に、すでに場は疲弊していた。


 議題は一つも決まっていない。


 神殿は不満を抱え、軍部は苛立ち、財務卿は責任を避け、王妃執務院は沈黙し、王太子は不機嫌になり、ミレーヌは笑顔を失っていた。


 国王が着座する。


「始めよ」


 その言葉に、オスカーは筆を止めた。


 始めよ。


 王の命が下った。


 だが、朝会はもう半刻前から始まっていた。


 そして、まだ始まっていなかった。


 オスカーは立ち上がり、深く頭を下げる。


「陛下。恐れながら、本日の議題順につきまして、再調整が必要でございます」


 アレクシス王は、眉を動かした。


「再調整?」


「はい」


「誰が組んだ」


 その場に、沈黙が落ちる。


 誰も答えられない。


 組んだ者がいないからだ。


 国王は、その沈黙だけで半分を察した。


「クラリス嬢はどうした」


 ジュリアスの表情が硬くなる。


 ミレーヌは俯く。


 マルタは静かに目を伏せる。


 オスカーは、王の前で嘘をつかなかった。


「昨夜、王宮を辞されました」


 国王は、すぐには声を出さなかった。


 やがて、ゆっくりと王太子を見る。


「ジュリアス」


「父上」


「説明せよ」


 ジュリアスは、少しだけ顎を上げた。


「クラリスとの婚約を白紙に戻しました。私には、ミレーヌのほうが王太子妃にふさわしいと判断したためです」


 朝会の間に、音にならない波が立った。


 国王の顔から、表情が消える。


「その判断を、なぜ昨日の夜会前にした」


「それは……」


「なぜ、王妃執務院にも政務院にも事前に知らせていない」


「私の婚約の問題です」


「王太子の婚約は、個人の恋ではない」


 声は荒くない。


 だから余計に重かった。


 ジュリアスは唇を噛む。


 ミレーヌが泣きそうな顔で一歩前へ出た。


「陛下、私が至らないせいで……」


「ミレーヌ嬢」


 国王は彼女を見た。


 目は冷たくなかった。


 だが、甘くもなかった。


「今は泣く場ではない」


 ミレーヌの足が止まった。


 泣けば誰かが助けてくれる。


 その人生で初めて、涙を止められた顔だった。


 国王はオスカーに向き直る。


「現状は」


「本日の朝会は、議題調整が不十分なため、決裁に進める状態ではございません。慈善事業寄付金、北方街道補修費、軍部冬季備蓄費が衝突しております。また、ノルヴァルト公国への返礼品確認も未処理です」


「返礼品?」


 国王の眉がわずかに動く。


「はい。昨夜、白薔薇の件は辛うじて避けられましたが、本日中に大使夫人への正式な贈答品を確定する必要がございます」


 マルタが補足する。


「昨夜は、クラリス様が最後に修正して残された挨拶文のおかげで、大きな失態には至りませんでした」


 その一言で、ジュリアスがわずかに顔を背けた。


 自分の挨拶が成功した理由を、今知ったのだ。


 国王は、深く息を吐いた。


「本日の決裁は午後へ回す。各局は、議題整理案を提出せよ。王妃執務院は、クラリス嬢が残していた資料を確認しろ」


 オスカーは頭を下げた。


「陛下。クラリス様が残された正式資料は確認済みです」


「補足資料は」


「ございません」


 国王の目が細くなる。


「ない?」


「クラリス様が私的に作成、管理されていたものですので、王宮には残っておりません」


 それは当然だった。


 当然だが、王宮にとっては致命的だった。


 国王は、王太子を見た。


「ジュリアス。お前は、何を手放したのか分かっているのか」


 ジュリアスは答えなかった。


 答えられなかった。


 その時、朝会の間の入口に侍従が現れた。


 青ざめた顔で膝をつく。


「陛下。失礼いたします」


「何事だ」


「ノルヴァルト公国セルゲイ大使より、午後の茶会について確認が入っております」


 国王の顔がわずかに曇る。


「確認?」


「はい。昨夜の返礼挨拶は大変丁寧であったが、本日の席次と菓子について、例年どおりクラリス様に確認済みか、と」


 朝会の間が静まり返った。


 例年どおり。


 クラリス様に。


 確認済みか。


 オスカーは、思わず目を閉じた。


 違う。


 昨夜が終わりではない。


 今日も、明日も、王宮は続く。


 そして、王宮が続く限り、クラリスが見えないところで担っていたものは次々と姿を現す。


 国王は短く命じた。


「茶会の担当は」


 マルタが答える。


「ミレーヌ様が担当される予定でございます」


 視線が一斉にミレーヌへ集まった。


 彼女は、青い瞳を揺らした。


「わ、私……」


 昨日なら、ここで笑えた。


 きっとできますわ、と言えた。


 だが今は違う。


 朝会の間で、財務卿と軍務局長と神殿代理の視線を受け、国王の前で涙を止められた後では、同じ言葉を軽く言うことができなかった。


 それでも、ジュリアスが彼女を見る。


 期待している。


 自分が選んだ明るい未来を、まだ信じたい顔で。


 ミレーヌは唇を震わせ、それから小さく頷いた。


「……はい。私が、いたします」


 マルタ女官長の目が、静かに伏せられた。


 オスカーは、その表情を見て悟った。


 次に止まるのは、朝会ではない。


 茶会だ。


 そして茶会は、朝会より華やかで、朝会より残酷だ。


 朝会の失敗は王宮内で済む。


 茶会の失敗は、社交界へ広がる。


 貴族夫人たちは、文官よりも早く噂を運ぶ。


 隣国大使は、笑顔のまま抗議文を書く。


 オスカーは筆を握り直した。


 今日の記録は長くなる。


 それだけは、間違いなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ