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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第1話 妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言った日

「お姉様の仕事くらい、私にもできますわ」


 その言葉は、王宮南棟にある白薔薇の控えの間に、ひどく甘やかな声で落とされた。


 夜会の開始まで、あと半刻。


 窓の外では、招待客の馬車が次々と正門をくぐっていた。王宮楽団の調律の音が遠くから聞こえ、廊下を行き交う侍従や女官たちの靴音は、いつもより半拍だけ速い。


 そんな中で、クラリス・フォン・エルディアは、銀灰色の睫毛を静かに伏せ、手元の書類から顔を上げた。


 机の上には、今夜使う資料が整然と並べられている。


 王妃主催慈善園遊会の招待客名簿。


 ノルヴァルト公国大使夫妻の席次表。


 神殿寄付金配分案。


 王太子ジュリアス殿下の挨拶文の修正案。


 そして、今夜の夜会で不用意に隣席にしてはならない貴族夫人たちの一覧。


 どれも、表から見ればただの紙である。


 けれど、そこに一つ線を引き間違えれば、侯爵家と伯爵家の十年来の確執が再燃する。菓子を一つ出し間違えれば、隣国大使に侮辱と受け取られる。王太子殿下の挨拶文に不用意な一語を残せば、神殿と軍部が同時に眉をひそめる。


 王宮とは、絹と薔薇と音楽で飾られた、硝子細工のような場所だ。


 美しく見えるのは、誰かが割れ目を毎朝、指先で押さえているからにすぎない。


 そして、ここ十年近く、その指先の役を担ってきたのがクラリスだった。


 彼女の前に立っているのは、妹のミレーヌ・フォン・エルディア。


 淡い金髪を花冠のように結い上げ、薄桃色のドレスをまとった、誰が見ても愛らしい令嬢だった。青い瞳は潤みやすく、笑えば周囲の大人たちはすぐに頬を緩める。


 その隣には、アルヴィア王国の王太子、ジュリアス・ヴァレンティアがいた。


 金髪碧眼。


 民衆の前に立てば、それだけで歓声が上がるほど、王子らしい王子である。


 だが、クラリスは知っている。


 彼が式典で柔らかな言葉を選べるのは、前夜にクラリスが三度、挨拶文を書き直しているからだ。


 彼が貴族夫人の前で失言せずに済んでいるのは、会う前に「その夫人の次男は昨年落馬で亡くなっているので、狩猟の話題は避けること」と書き添えている者がいるからだ。


 彼が国民から好かれる王太子でいられるのは、失敗しそうな場所に、あらかじめ柔らかな絨毯を敷いている者がいるからだ。


 それを、ジュリアス本人はあまり知らない。


 知らなくても済むようにしてきたのが、クラリスだったから。


「ミレーヌ」


 クラリスは、羽根ペンを置いた。


 音はほとんどしなかった。


「今、何と?」


 妹は少しだけ唇を尖らせた。


「ですから、お姉様のお仕事くらい、私にもできますと申し上げたのです。だって、お姉様はいつも難しい顔をして書類を見ているだけではありませんか」


 控えの間の空気が、ほんのわずかに変わった。


 部屋の隅に控えていた侍女イリスの眉が、薄く動く。


 だがクラリスは、妹だけを見ていた。


「書類を見ているだけ」


「ええ。だって、お姉様は社交の場でもあまり笑いませんし、殿方と楽しくお話しになることもありませんし。お茶会だって、いつも席順がどうとか、菓子がどうとか、そんなことばかり」


 ミレーヌは、ジュリアスの腕にそっと指を添えた。


 それは、姉に見せつけるというより、周囲に自分の立場を知らせる仕草だった。


「私なら、もっと明るくできますわ。殿下にも、皆様にも、笑顔でいていただけるように」


 ジュリアスは、それを咎めなかった。


 むしろ、どこか満足そうに頷いた。


「クラリス。ミレーヌの言うことにも一理ある」


 クラリスは、ゆっくりと王太子へ視線を移した。


「一理、でございますか」


「ああ。君は優秀だ。そこは認める。だが、優秀すぎる。王太子妃に必要なのは、ただ物事を間違えずに進める力だけではない」


 ジュリアスは、舞台上の役者のように言葉を選んでいる。


 けれど、その台詞に下書きはない。


 だから継ぎ目が甘い。


「民を安心させる明るさ。貴族たちの心を和ませる柔らかさ。そういうものが必要だ。君は……そうだな、いつも冷たい」


「冷たい」


「完璧ではある。だが、完璧なだけでは人はついてこない」


 クラリスは黙って聞いていた。


 不思議なほど、胸は乱れなかった。


 この言葉を、どこかで予想していたのかもしれない。


 いつか来る。


 そう思っていたわけではない。


 けれど、王宮で長く生きていると、物事には兆しがあることを知るようになる。


 ミレーヌが最近、王太子の近くに呼ばれる回数が増えていたこと。


 ジュリアスが、クラリスの差し出した修正案を露骨に鬱陶しがるようになったこと。


 母が「ミレーヌもそろそろ王宮に慣れさせたほうがいいわね」と言ったこと。


 父がその話題を聞いた時、否定しなかったこと。


 すべては、今日のための細い糸だった。


 クラリスは、その糸が結ばれる音を聞いている。


「それで、殿下はわたくしに何をお望みなのでしょうか」


 ジュリアスは少し顎を上げた。


「君との婚約を、白紙に戻したい」


 イリスが小さく息を吸った。


 ミレーヌは困ったような顔を作る。


 よくできた表情だった。


 姉を傷つけたいわけではない。

 でも、自分の幸せは譲れない。

 そう見えるように、涙を浮かべる寸前で止めている。


「ごめんなさい、お姉様」


 ミレーヌは、細い声で言った。


「私、殿下のお支えになりたいのです。お姉様みたいに完璧ではないかもしれませんけれど、私には私の良さがありますでしょう?」


 クラリスは、妹の顔を見つめた。


 幼い頃、ミレーヌはよくクラリスの部屋に来た。


 姉が勉強している横で、菓子を食べ、花の刺繍糸を床に広げ、分からないことがあるとすぐに聞いた。


「お姉様、これは何?」


「お姉様、どうすればいいの?」


「お姉様なら、すぐ分かるでしょう?」


 クラリスはそのたびに手を止めた。


 妹が困る前に答えた。

 妹が叱られる前に片付けた。

 妹が泣く前に慰めた。


 それが姉の務めだと思っていた。


 今、目の前の妹は、同じ顔で言っている。


 お姉様の仕事くらい、私にもできますわ。


「そう」


 クラリスは頷いた。


 短い返事だった。


 ジュリアスは、その静けさを都合よく受け取ったらしい。


「分かってくれるか」


「殿下のご意思は承りました」


「ならば、今夜の夜会まではこれまでどおり務めてほしい。混乱は避けたいからな」


 その言葉で、イリスの目が完全に冷えた。


 だが、クラリスは声を荒らげなかった。


 ただ、机の上の書類へ視線を落とした。


 混乱は避けたい。


 なるほど。


 婚約は白紙にする。

 王太子妃の座は妹に譲らせる。

 だが、今夜の段取りはこれまでどおり整えてほしい。


 じつに王宮らしい願いだった。


「ミレーヌ」


 クラリスは、妹を呼んだ。


「はい、お姉様」


「今夜の夜会で、ノルヴァルト公国大使夫人には何色の花を贈る予定かしら」


 ミレーヌは目を瞬かせた。


「花、ですか?」


「ええ」


「ええと……白薔薇、ではいけませんの? この控えの間にも飾ってありますし、清らかで素敵ですわ」


 クラリスは頷いた。


「そう」


 ノルヴァルト公国で白薔薇は、和解を拒む時に贈る花だ。


 少なくとも、先月届いた大使夫人の手紙にはそう書かれていた。


 だが、クラリスはそれ以上言わなかった。


「では、慈善園遊会の寄付金配分について、神殿には何日までに内示を出す予定?」


「内示?」


「正式決定の前に、孤児院と施療院へ冬支度の見込みを伝えるものよ」


「それは……財務の方がなさるのでは?」


「財務卿は数字を出すだけです。どの施設にどの順で伝えるかは、王妃執務院で調整していました」


「でしたら、王妃様が」


「王妃陛下は、昨日からお熱があるわ」


 ミレーヌの笑顔が、ほんの少しだけ曇った。


 ジュリアスが眉を寄せる。


「クラリス、意地悪な質問はやめろ」


「意地悪?」


「ミレーヌはこれから学ぶのだ。初めから君と同じようにできるわけがない」


 クラリスは、王太子を見た。


「けれど、わたくしの仕事くらいできるとおっしゃいました」


「言葉の綾だ」


「王宮では、言葉の綾が国境を揺らします」


 ジュリアスの顔に不快の色が浮かんだ。


 彼はその表情をすぐに隠したが、隠しきれない。


「そういうところだ、クラリス」


 彼は低く言った。


「君はいつも、人を責めるような言い方をする。ミレーヌは君のように知識を振りかざしたりしない」


 クラリスの指先が、紙の端に触れた。


 知識を振りかざす。


 そう受け取られていたのか。


 彼の挨拶文から隣国を刺激する語を削ったことも。


 彼が喪中の夫人に狩猟の話をしないよう、直前に耳打ちしたことも。


 軍部と神殿が同じ日に予算を求めないよう、順番を整えてきたことも。


 それらは、彼にとって振りかざされた知識だったのか。


 クラリスは、静かに息を吐いた。


「承知いたしました」


 そして、書類を整理し始めた。


 まず、王宮の正式文書を右に置く。


 招待客名簿の清書。

 正式な席次表。

 財務卿から提出された寄付金配分の原案。

 王太子殿下の挨拶文の最終稿。


 次に、私的に作成した補足資料を左に置く。


 各貴族夫人の近況。

 近年の婚姻関係による派閥変化。

 ノルヴァルト公国大使夫妻の宗教的禁忌。

 今月、同席させてはならない家門の組み合わせ。

 王太子殿下が不用意に触れがちな話題一覧。

 神殿と軍部の予算衝突を避けるための発言順。

 ミレーヌが今夜着てはいけない色の覚書。


 イリスが無言で鞄を開いた。


 さすがに、ジュリアスが気づいた。


「何をしている」


「片付けております」


「それは見れば分かる。なぜ片付ける」


「婚約は白紙になりました。わたくしは、王太子妃候補ではございません」


「だからといって、今すぐ放り出すことはないだろう」


「放り出す?」


 クラリスは、補足資料を丁寧に揃えた。


「こちらの正式文書は残してまいります。王宮のものですから」


「ならば、そちらも置いていけ」


 ジュリアスが指さしたのは、左側の山だった。


 クラリスは、首を横に振った。


「これは、わたくしが私の時間で作ったものです」


「王宮のために作ったのだろう」


「ええ。ですが、正式に命じられたものではございません。役職もございません。報酬もいただいておりません。未来の王太子妃として必要だと思い、自分で調べ、自分でまとめ、自分で管理していた資料です」


「詭弁だ」


「では、殿下。これらを作る役職名をお教えくださいませ」


 ジュリアスが黙った。


 そんな役職はない。


 王太子妃候補。


 それが、クラリスに与えられていた唯一の名だった。


 けれど、その名で支払われたものはなかった。


 朝から晩まで王宮に詰め、王妃執務院の滞りを直し、貴族夫人の機嫌を取り、神殿への寄付金が遅れないよう財務卿に書簡を送り、王太子の挨拶文を直し、妹のドレスの色まで気にかける。


 それらはすべて、未来のため。


 いつか王太子妃になるのだから。


 そう言われれば、断れなかった。


 だが、その未来は今、王太子自身の口で消された。


「クラリス」


 ジュリアスの声には、苛立ちが混じっていた。


「最後くらい、潔く振る舞え」


「潔く?」


「ミレーヌのためにも、引き継ぎをしていけ。姉だろう」


 その瞬間、イリスが口を開きかけた。


 クラリスは片手で制した。


 侍女の怒りを借りる必要はない。


 これは、クラリス自身が終わらせるべきことだった。


「ミレーヌ」


 妹は肩を震わせた。


「はい……」


「引き継ぎは必要かしら」


 ミレーヌは、ジュリアスとクラリスを交互に見た。


 今、ここで必要だと言えば、先ほどの言葉が崩れる。


 自分にもできると言った。


 姉の仕事くらいと言った。


 王太子の隣で、笑顔で言った。


 だから、彼女は引けなかった。


「……必要、ありませんわ」


 声は少し細かった。


 それでも、言った。


「私、自分でできます。殿下もいてくださいますもの」


 ジュリアスは安堵したように頷いた。


「そうだ。ミレーヌには私がついている」


 クラリスは、初めてほんの少しだけ口元を緩めた。


 笑みというには淡すぎるものだった。


「承知いたしました」


 補足資料をすべて鞄へ収める。


 羽根ペンを置く。


 インク壺の蓋を閉める。


 自分の紋章入りの封蝋をしまう。


 そして、最後に王太子の挨拶文を机の上に残した。


 それはすでに修正済みだった。


 今夜だけは、まだ王宮に傷をつけずに済む。


 そこまでしてしまう自分に、クラリスは内心で少しだけ呆れた。


 手放すと決めても、最後の紙一枚を整えてしまう。


 十年で染みついた癖は、そう簡単には抜けないらしい。


 イリスが外套を差し出した。


「お嬢様」


「ありがとう」


 クラリスは外套を羽織り、机から一歩下がった。


 ミレーヌは不安を隠すように、花のように笑う。


「お姉様、怒っていらっしゃるの?」


「いいえ」


「本当に?」


「ええ」


 怒っているのか。


 クラリスは自分の胸に問うた。


 怒りは、あるのかもしれない。


 けれど、それより先に、ひどく静かな疲れがあった。


 寝不足の朝に、ようやく重い鞄を床へ置いた時のような、頼りない解放感。


 自分でも驚くほど、涙は出なかった。


「ミレーヌ」


「はい」


「王宮は、笑顔だけでは回りません」


 妹の表情が強張る。


 クラリスは続けた。


「けれど、あなたができると言ったのなら、きっとなさるのでしょう」


「もちろんですわ」


「では」


 クラリスは、王太子と妹へ深く一礼した。


 王妃教育で叩き込まれた、完璧な礼だった。


「明日から、お願いいたします」


 それが、クラリス・フォン・エルディアが王太子妃候補として残した最後の言葉になった。


 扉の外へ出ると、廊下は夜会前の慌ただしさで満ちていた。


 銀の盆を持った侍女。

 花を運ぶ庭師。

 控え室へ案内される伯爵夫人。

 廊下の端で小声で打ち合わせをする文官。


 誰も、今この瞬間に王宮の土台から一本の柱が抜けたことを知らない。


 知らないまま、いつもどおりに夜会は始まろうとしている。


 イリスはしばらく黙って歩いていたが、人気のない回廊に入ると、低い声で言った。


「お嬢様」


「何?」


「今夜のうちに、王宮の厨房へ白薔薇の件だけでも伝えますか」


 クラリスは足を止めた。


 窓の外に、夜の庭が見える。


 白薔薇が揺れていた。


 ノルヴァルト公国では、白薔薇は和解拒絶の花。


 今夜、大使夫人に贈られれば問題になる。

 ただ、正式な贈花の確認は明朝。

 今夜はまだ間に合う。


 クラリスは少しだけ目を閉じた。


 十年。


 十年、こうしてきた。


 誰かが傷つく前に止める。

 誰かが失敗する前に直す。

 誰かが責められる前に謝罪の道筋を作る。


 その結果、誰も失敗しなかった。


 誰も傷つかなかった。


 誰も責められなかった。


 そして、誰もクラリスの仕事を知らなかった。


「いいえ」


 クラリスは言った。


 声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「もう、わたくしの仕事ではないわ」


 イリスは、深く息を吐いた。


 怒りとも安堵ともつかない吐息だった。


「ようやく、そのお言葉を聞けました」


「そんなに待っていたの?」


「はい。五年ほど」


「長いわね」


「お嬢様ほどではございません」


 クラリスは、少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 王宮の回廊で笑う時、彼女はいつも周囲の目を計算していた。


 今の笑みには、計算がなかった。


 それがかえって、ひどく頼りなく感じられた。


 正門へ向かう途中、王宮書記官のオスカー・ベルンとすれ違った。


 彼は書類の束を抱え、片手で眼鏡を押し上げながら走っていたが、クラリスに気づくと慌てて足を止めた。


「クラリス様? 夜会前にどちらへ」


 言いかけて、彼はクラリスの外套と、イリスの持つ鞄に目を留めた。


 王宮に慣れた者は、荷物の意味を読み取る。


 それが一時的な移動なのか、完全な撤収なのかを。


 オスカーの顔色が変わった。


「まさか」


 クラリスは、いつもどおり丁寧に礼をした。


「オスカー様。これまで大変お世話になりました」


「お世話に……いや、クラリス様、今夜の進行表は」


「机の上に正式なものを残してあります」


「正式なもの、ということは」


 オスカーの声がかすれた。


「補足は?」


「ございません」


「大使夫妻の禁忌一覧は」


「ございません」


「明朝の朝会の議題順は」


「作成しておりません」


 オスカーは、数秒ほど無言になった。


 そして、ひどく真面目な顔で言った。


「胃薬を倍にしてまいります」


 イリスが淡々と返す。


「三倍をおすすめいたします」


「そうします」


 クラリスは思わず目を瞬かせた。


 オスカーは小さく頭を下げる。


「クラリス様。事情は存じませんが……いえ、何となく察しましたが」


 彼は廊下の奥、白薔薇の控えの間の方をちらりと見た。


「どうか、ご自分をお責めになりませんように」


 クラリスは返事に少し迷った。


 おかしな人だと思った。


 責めるべき相手が誰かを、オスカーはもう知っている。


 けれど、クラリスが自分を責めることまで知っている。


「ありがとうございます」


 それだけを言うと、彼はまた走っていった。


 ただし、先ほどより足取りが重い。


 イリスが呟く。


「王宮で数少ない、目のある方ですね」


「そうね」


「では、あの方のためにも、少しだけ戻りますか」


「イリス」


「冗談でございます」


「あなたの冗談は、時々顔が怖いわ」


「本気を混ぜておりますので」


 クラリスは返事をしなかった。


 王宮の正門を出ると、夜の風が頬を撫でた。


 馬車が用意されている。


 エルディア公爵家の紋章が入った馬車だ。


 その扉の前で、クラリスは一度だけ振り返った。


 王宮は灯りに包まれていた。


 高い窓から音楽が漏れ、薔薇の香りが夜気に混じり、招待客たちの笑い声が遠く響く。


 美しい場所だ。


 そう思った。


 そして、恐ろしく脆い場所だとも思った。


 この灯りが消えないように。


 この音楽が止まらないように。


 誰かの笑顔が凍らないように。


 クラリスはずっと、裏側で手を動かしてきた。


 けれど明日からは違う。


 妹が言った。


 私にもできますわ、と。


 王太子が選んだ。


 ミレーヌの明るさこそ必要だ、と。


 ならば、明日からは彼らの王宮だ。


 クラリスは、馬車に乗り込んだ。


 イリスが向かいに座る。


 扉が閉まる直前、王宮の方から小さなざわめきが聞こえた。


 夜会が始まったのだろう。


 それとも、何か一つ、早くも予定と違うことが起きたのだろうか。


 クラリスは確認しなかった。


 馬車が静かに動き出す。


 石畳を車輪が鳴らす音が、王宮から少しずつ遠ざかっていく。


「お嬢様」


 イリスが言った。


「明日の朝会、止まりますね」


 クラリスは、膝の上で重ねた手を見つめた。


 その手は、まだ何かを書類に書き込もうとしているように、かすかに緊張している。


 彼女はゆっくりと指をほどいた。


「止まらないようにしてきたのよ」


 窓の外で、王宮の灯りが遠くなる。


「十年も」


 その夜、アルヴィア王宮の灯りはいつもどおり輝いていた。


 誰もまだ知らない。


 翌朝、その輝きの下で、最初の会議が始まらなくなることを。


 そして、王宮という巨大な仕組みが、たった一人の令嬢の無償の手によって支えられていたのだと、誰もがようやく思い知ることを。

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