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第76話 財務院は、余り布に値段をつけたがる

 財務院は、余り布という言葉を聞いた瞬間から、値段をつけたがった。


 それは、ある意味で当然だった。


 布である。


 しかも、北方産の上等な毛織物だ。


 裁断後に残ったとはいえ、子ども用の肩掛けになり、寝台の隙間詰めになり、包帯布の裏当てになり、修繕用端布として使える。


 使えるなら、価値がある。


 価値があるなら、記録すべきだ。


 記録するなら、評価額が必要だ。


 財務院の理屈としては、実にまっすぐだった。


 ただ、そのまっすぐさは、時々現場の机を真っ二つに割る。


「余り布にも価値があります」


 財務院会議室で、グレゴール財務参事官はそう切り出した。


 机の上には、仕立て場から提出された報告書が並んでいる。


 未記録再利用。


 クラリスがそう名づけた、裁断後の余り布の扱いについての報告である。


 出席者は、クラリス、オスカー、レオンハルト。


 財務院側からは、グレゴール参事官、エリオット監査官、港湾会計担当官ボルク。


 王妃執務院からは、セリア記録官が同席していた。


 ミレーヌは仕立て場での追加聞き取りに出ている。


 針子ニナから「表、まだ少し多いです」と言われたらしい。


 泣かずに直していると聞き、クラリスは胸の奥で小さく安堵していた。


「はい。価値があります」


 クラリスは否定しなかった。


 グレゴールは、少しだけ意外そうな顔をした。


 反論されると思っていたのだろう。


「では、資産として記録する必要があります」


「必要な範囲では」


「範囲?」


 グレゴールの眉が動く。


「余り布を再利用するなら、それは慈善物資の再配分にあたります。元の布が施療院保温布用であった場合、その余り布を子ども用肩掛けへ使えば、用途変更です」


「はい」


「用途変更なら、承認が必要です」


「場合によります」


「さらに、余り布が一定の価値を持つなら、仕立て場内での管理も必要です。横流しの危険もあります」


「それも理解しています」


 クラリスは落ち着いて答えた。


 グレゴールの言っていることは間違っていない。


 余り布が記録されなければ、そこに不正が入り込む可能性はある。


 善意で小さな肩掛けに使うこともできる。


 同時に、価値ある端布が誰かの懐へ入ることもある。


 記録がなければ、その二つは区別できない。


 だから、財務院が警戒するのは正しい。


 だが。


「参事官」


 クラリスは、机の上に置いた端布見本袋を開いた。


 仕立て場から持ち帰った小さな布片。


 縫い合わせれば何かになるものもあれば、ほつれが多く、修繕用にしか使えないものもある。


「この一枚一枚に、価格評価と承認手続きを入れますか」


 グレゴールは布片を見た。


「大きさによります」


「では、大きさの基準を作る必要があります」


「当然です」


「厚みも違います」


「分類します」


「肌当たり、毛羽立ち、縫い合わせ可否も違います」


「それも分類対象でしょう」


「分類する人は?」


 グレゴールは少し黙った。


 クラリスは続けた。


「仕立て場長でしょうか。針子でしょうか。財務院から評価官を派遣しますか。それとも王妃執務院が記録係を置きますか」


 ボルクが腕を組んだまま、小さく唸った。


 現場の人間らしい反応だった。


 グレゴールは答える。


「価値ある物資なら、必要な人員を置くことも検討すべきです」


「はい。検討は必要です」


 クラリスは頷いた。


「ですが、余り布一枚ごとに価格をつけるための費用が、余り布そのものの価値を上回る場合があります」


 エリオットが、そこで静かに口を開いた。


「その点は、財務院側でも考慮すべきです」


 グレゴールが彼を見る。


「説明しなさい」


 エリオットは、準備していたらしい小さな表を広げた。


「仕立て場で出る端布を仮に三分類とします。大判、中判、小片。大判は小型膝掛けや肩掛けに転用可能。中判は修繕・裏当て。小片は袋単位で寝台隙間詰めや補助布」


 クラリスは、彼の表を見て内心で感心した。


 仕立て場の話を、すでに財務院の言葉に置き換えている。


 これは重要だった。


 現場の言葉だけでは、財務院は動かない。


 財務院の言葉だけでは、現場が止まる。


 両方をつなぐ者が必要だ。


「大判は個別記録に値します」


 エリオットは続けた。


「しかし小片まで一枚ずつ評価額をつけると、評価作業、確認、承認、台帳記入の費用が、小片の価値を上回る可能性があります。すべてに値段をつけると、値段をつけるための費用の方が高くなります」


 ボルクが低く笑った。


「港でもよくあります。紐一本を追うために、紐十本分の人件費が飛ぶ」


 グレゴールは、渋い顔をした。


「しかし、記録しなければ横流しの温床になる」


「記録はします」


 クラリスはすぐに言った。


「ただし、すべてを同じ細かさでは記録しません」


 彼女は、あらかじめ作ってきた案を開いた。


 余り布記録基準案。


 一、一定以上の大きさの余り布は個別記録。

 二、中程度の余り布は用途候補別に束単位で記録。

 三、小片は重量または袋単位で記録。

 四、再利用先は大分類で記録。小型膝掛け、肩掛け、裏当て、修繕、寝台補助など。

 五、金銭評価は高額再利用分のみ。

 六、針子個人の裁量で使える「修繕用端布枠」を認める。

 七、仕立て場内の端布袋は作業後に記録係が確認し、針子は印のみ。

 八、月末に余り布利用報告を慈善記録官室へ提出。

 九、異常に多い余り布、用途不明、持ち出し不明があれば照会。

 十、通常範囲内の小片利用は不正扱いしない。


 グレゴールは、案を読みながら眉間の皺を深くした。


「修繕用端布枠」


「はい」


「針子個人の裁量を認めるのですか」


「個人と言っても、仕立て場内の作業裁量です。一定量を上限として、破れた布の補修や縫製時の補強に使える枠を設けます」


「それこそ、曖昧ではありませんか」


「曖昧に見えるので、枠にします」


 クラリスは答えた。


「今は存在すら記録されていません。枠を作れば、少なくとも“この範囲は日常修繕用”と分かります」


 セリア記録官が補足する。


「仕立て場では、作業途中で小さな補強布が必要になることがあります。そのたびに承認を求めると、作業が止まります」


 ボルクも頷いた。


「現場の小さな判断まで上に上げると、上も下も詰まります」


 グレゴールは、すぐには納得しなかった。


 彼は案の五番を指す。


「金銭評価は高額再利用分のみ、とありますが、高額の基準は?」


「財務院と王妃執務院で相談が必要です」


「曖昧です」


「はい。まだ案ですので」


「大判なら価格評価、中判なら束単位、小片なら袋単位。この境界で揉めます」


「揉めるでしょう」


 クラリスは認めた。


 グレゴールが少し顔を上げる。


「認めるのですか」


「認めます。境界は必ず揉めます。だから、最初は試験経路内の北方毛織物に限定し、実際の量を見て基準を直します」


 レオンハルトが静かに口を開いた。


「最初から完璧な基準を作ろうとすると、基準作成だけで冬が終わる」


 その一言は、妙に重かった。


 会議室の空気が少しだけ変わる。


 冬が終わる。


 北方毛織物は、冬のための布だ。


 制度を整えすぎて、布が届く頃には春になっていたのでは意味がない。


 クラリスは頷いた。


「記録は現場を縛るためではありません」


 彼女は静かに言った。


「消えたものと、生きたものを分けるためです」


 グレゴールの視線が止まる。


 クラリスは続けた。


「余り布が本当に消えたのか。子どもの肩掛けになったのか。修繕用に使われたのか。包帯の裏当てになったのか。それを分けるために記録します。現場の善意まで不正扱いするためではありません」


 エリオットが深く頷いた。


 セリアも、表情を引き締める。


 ボルクは腕を組んだまま、少しだけ目を細めた。


 グレゴールは、しばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「理屈は分かります」


「ありがとうございます」


「ですが、甘いと言われますよ」


「誰にでしょうか」


「財務院内に」


 グレゴールは隠さなかった。


「余り布にも価値がある。なのに顧問室は現場裁量を認めた。財産管理を甘くしている。そう言う者は出ます」


「出るでしょうね」


 クラリスは答えた。


「対策は?」


「基準を公開します」


「公開」


「はい。どこまで個別記録し、どこから袋単位にするのか。修繕用端布枠の上限。月末報告。異常値の照会条件。すべて文書化します」


「それで批判が止まると?」


「止まりません」


 クラリスは即答した。


「ですが、批判に答える材料になります」


 グレゴールは、少しだけ口元を動かした。


「やはり厄介ですな」


「最近、その言葉をよく聞きます」


「言いたくなるのでしょう」


 それは嫌味のようでいて、少しだけ認めている響きもあった。


 会議はさらに続いた。


 財務院が求めた条件は三つ。


 一つ、大判余り布については個別記録とすること。

 二つ、修繕用端布枠には月ごとの上限を設けること。

 三つ、余り布の再利用先が慈善物資以外へ向かう場合は別途照会すること。


 クラリス側が求めた条件も三つ。


 一つ、小片の一枚単位評価を求めないこと。

 二つ、針子本人に即時記入を強制しないこと。

 三つ、作業後記録係の時間を確認費に入れること。


 最後の条件で、グレゴールはまた渋い顔をした。


「裁断後記録手当、ですか」


「はい」


「また手当が増える」


「手間が増えるからです」


「言うと思いました」


「言います」


 クラリスはまっすぐ答えた。


 エリオットが横で資料を整理しながら補足する。


「仕立て場で記録係を置かなければ、針子の作業時間が削られます。結果として完成品数が減る可能性があります。完成品数が減れば、慈善物資の再手配が必要になり、費用が増えます」


 ボルクが少し笑った。


「結局、どこかで払うことになります」


「その通りです」


 クラリスは頷いた。


「先に払って記録するか、後で足りなくなって補填するかです」


 グレゴールは、長く息を吐いた。


「……裁断後記録手当については、試験経路分のみ認める方向で検討します」


「ありがとうございます」


「検討です。承認ではありません」


「承知しております」


 その線引きは大事だった。


 財務院も、簡単には譲れない。


 だが、試験経路に限って記録手当を検討する。


 そこまで進んだだけでも大きい。


 会議の終わりに、グレゴールは余り布の見本を一枚手に取った。


 小さな灰色の布片。


 彼はそれを指先で見ながら言った。


「これに値段をつけないのは、財務院として落ち着きません」


「分かります」


「ですが、これ一枚に値段をつけるために三枚の書類を作るのも、確かに馬鹿げている」


 ボルクが小さく咳をした。


 笑いを隠したのだろう。


 グレゴールは布片を袋へ戻した。


「試験経路で数字を見ましょう」


「はい」


「数字が出れば、もう少し話しやすい」


「同感です」


 クラリスは礼をした。


 会議後、廊下に出ると、エリオットが少しだけ遅れてついてきた。


「クラリス顧問」


「はい」


「先ほどの“値段をつけるための費用”の話ですが」


「あなたの補足に助けられました」


「いえ。財務院内でも、あの言い方なら通じると思います」


 彼は少し考え、続けた。


「財務院の者は、価値があるものを見逃すことを恐れます」


「はい」


「ですが同時に、費用対効果という言葉にも弱い」


 クラリスは少しだけ笑った。


「覚えておきます」


「余り布を守るには、財務院の言葉にする必要があります」


「ええ」


 エリオットは真面目な顔で言った。


「現場の善意を守るには、財務院が納得できる数字が必要です」


 それは、とても財務院らしい言葉だった。


 だが、冷たい言葉ではない。


 善意を数字に閉じ込めるためではなく、善意が数字の外で消えないようにするための言葉だった。


 顧問室に戻ると、イリスが出迎えた。


「余り布に値段はつきましたか」


「一部だけ」


「一部」


「大判は個別記録。小片は袋単位。修繕用端布枠を試験的に認める方向です」


「では、全部に値札はつかなかったのですね」


「はい」


 イリスは満足そうに頷いた。


「よろしいかと。小さな布にまで値札をつけられると、布も落ち着きません」


「布の気持ち?」


「たぶん」


 クラリスは少し笑った。


 オスカーは報告書を書き始めている。


 表題。


 余り布記録基準および財務院協議報告


 内容は、いつものように長い。


 未記録再利用の定義。

 余り布の価値と資産管理。

 記録単位の線引き。

 修繕用端布枠。

 裁断後記録手当。

 金銭評価の対象範囲。

 財務院内反発の可能性。


 最後に、クラリスは今日の一文を書き足した。


 記録は、消えたものと生きたものを分けるためのもの。


 イリスが横から見て、そっと札を出しそうにした。


「札にしないで」


「まだ何も」


「今、出そうとしたわ」


「よい言葉でしたので」


「報告書に残せば十分です」


「検討します」


「検討しなくていいです」


 そのやり取りを聞いていたオスカーが、静かに笑った。


 だが、すぐに真面目な顔に戻る。


「クラリス顧問」


「はい」


「財務院内の旧派が、今回の件で何か言いそうです」


「ええ」


「顧問室が財産管理を甘くしている、と」


「グレゴール参事官も同じことを言っていました」


「対策は?」


「基準を公開し、試験経路の数字を取ります」


「噂には?」


「噂にも、答えられる範囲で文書を」


 クラリスは、机の上の余り布見本袋を見た。


 小さな布片。


 値段をつけようとすれば、つけられるかもしれない。


 だが、この布の価値は、銀貨何枚という数字だけではない。


 子どもの肩を温めるかもしれない。


 病床の隙間を埋めるかもしれない。


 破れた膝掛けをもう一冬使えるようにするかもしれない。


 その価値を、財務院は帳簿に入れたがる。


 現場は、手で分かっている。


 クラリスの仕事は、その間に欄を作ることだった。


 細かすぎず。


 甘すぎず。


 消えないように。


 止まらないように。


 その夜、ミレーヌが仕立て場から戻ってきた。


 顔は少し疲れているが、目は明るい。


「お姉様、ニナさんにまた言われました」


「何を?」


「“これなら、前よりは書けます。でもまだ多いです”と」


「手厳しいわね」


「はい。でも、前よりは、がつきました」


 ミレーヌは少し誇らしそうだった。


 クラリスは笑った。


「大きな進歩です」


「それと、端布袋の分類を一つ減らしました」


「なぜ?」


「針子さんたちが、肌当たりと毛羽立ちは同時に見ているので、分ける必要がないと分かりました」


「よい判断です」


 ミレーヌは、少しだけ照れた。


 そして、自分の札に新しい言葉を書き足した。


 記録は増やすだけではない。減らして届かせる。


 クラリスは、その一文を見て目を細めた。


 イリスが背後から覗き込み、明らかに札にしたそうな顔をしていた。


「イリス」


「はい」


「それはミレーヌの札です」


「承知しております」


 本当に承知しているかは怪しい。


 だが、今日のところは何も増えなかった。


 財務院は、余り布に値段をつけたがった。


 それは間違いではない。


 価値あるものを見逃さないことは、財務院の仕事だ。


 けれど、すべてに値段をつければ、現場は布を裁つ前に書類で埋もれる。


 だから、線を引く。


 個別に見るもの。

 束で見るもの。

 袋で見るもの。

 裁量として認めるもの。

 異常として照会するもの。


 余り布は、捨てられなかった善意の欠片だ。


 それを消さず、縛りすぎず、生かすための記録が、ようやく形になり始めていた。

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