第75話 仕立て場の針子たちは、余り布を捨てていなかった
王妃執務院指定仕立て場は、港とはまったく違う音で満ちていた。
港では、縄の軋む音、荷車の車輪、男たちの声、海鳥の鳴き声、波と風の音が重なっていた。
だが仕立て場では、もっと細かい音が続いている。
布を裁つ鋏の音。
針が布を抜ける小さな音。
糸巻きが木箱の中で転がる音。
寸法を測る紐が机を擦る音。
針子たちが低い声で確認し合う声。
クラリスは扉の前で一度足を止めた。
港の風で破れた紙札は、薄い木札へ改められた。
色ではなく刻印で用途を分ける。
港では大きな字で最低限の情報だけ。
詳細は油引き紙の控えと台帳へ。
そこまではよい。
だが、港で使える札が、仕立て場でも使えるとは限らない。
ここには、また別の手がある。
布を抱える手ではなく、布を裁ち、縫い、ほどき、整える手。
その手に合わなければ、また制度は破れる。
「緊張していますか?」
隣でミレーヌが尋ねた。
彼女は小さな書類鞄を両手で持っている。
中には、改訂版の用途追跡木札試案、油引き紙の控え、品目分類表、そして自分の札が入っている。
手を見てから、紙を作る。
その札は、前回の港湾確認の後に彼女が書き足したものだった。
「緊張しています」
クラリスは正直に答えた。
「港で一度破れましたから」
「はい」
「仕立て場でも、たぶん何か見つかります」
「……見つからない方が怖いですね」
ミレーヌがそう言うと、クラリスは少しだけ微笑んだ。
「その通りです」
扉が開き、中から年配の婦人が出てきた。
きっちり結い上げた髪に、針山をつけた腕輪。
仕立て場長のエヴァレット夫人である。
貴族の夫人ではない。
だが、王妃執務院指定仕立て場を二十年以上切り盛りしてきた職人であり、王宮の儀礼服から施療院の寝台布まで扱ってきた人物だった。
「クラリス顧問。ようこそお越しくださいました」
「本日はご協力ありがとうございます」
「協力と言いますか、こちらも確認していただけるなら助かります」
エヴァレット夫人は、少しだけ苦笑した。
「最近、王宮から来る布には、札やら控えやらが増えましてね。針子たちが、どれを残してどれを箱へ戻すのか、少し混乱しております」
クラリスはすぐに頭を下げた。
「それも確認します。使いづらいものは遠慮なくおっしゃってください」
「では遠慮なく」
エヴァレット夫人の返事は早かった。
ミレーヌが小さく息を吸う。
今日は、港とは違う意味で容赦がなさそうだった。
仕立て場の中では、十数人の針子たちが作業していた。
若い娘もいれば、年配の女性もいる。
机の上には、北方毛織物の見本より少し薄い布、古い儀礼布をほどいたもの、包帯布に使う白い布、寝台用の広い布地が広げられている。
壁際には用途別の棚があった。
外套用。
膝掛け用。
寝台布用。
施療院保温布用。
修繕待ち。
端布。
最後の棚で、クラリスは足を止めた。
「端布?」
エヴァレット夫人は当然のように頷いた。
「裁断後に出る余り布です」
棚には、小さく畳まれた布が種類ごとに分けられていた。
細長いもの。
手のひらほどのもの。
子どもの肩に掛けられそうな大きさのもの。
包帯布の裏当てになりそうな柔らかいもの。
どれもきちんと畳まれている。
捨てられていない。
ミレーヌが目を丸くした。
「こんなに残るのですね」
「布を裁てば、必ず残ります」
エヴァレット夫人は言った。
「服でも寝台布でも、四角い布を無駄なく使うには限界があります。曲線を取れば端が出る。大きさを揃えれば半端が出る。厚い布ほど、余りも使い道があります」
セリア記録官が、すぐに質問した。
「この端布は、帳簿に記録されていますか」
「帳簿には、元の布の使用量は記録します」
「余り布としては?」
エヴァレット夫人は少し間を置いた。
「……細かくは、しておりません」
部屋の空気が変わった。
針子たちの手が、少しだけ遅くなる。
責められると思ったのかもしれない。
クラリスは、それに気づいた。
「責めるために伺っているのではありません」
彼女はまずそう言った。
エヴァレット夫人も、針子たちもこちらを見る。
「ただ、確認したいのです。この端布は、どう使われていますか」
エヴァレット夫人は、端布棚から一枚を取り出した。
小さな灰色の布。
「この大きさなら、子ども用の肩掛けになります。こちらの細長いものは、寝台の隙間詰め。柔らかい薄布は包帯布の裏当て。もっと小さいものは修繕用です」
「捨てないのですね」
ミレーヌが言った。
その声は、責めるものではなく、純粋な驚きに近かった。
エヴァレット夫人は少しだけ表情を厳しくした。
「捨てる?」
ミレーヌは自分の言葉が強く響いたことに気づき、慌てて首を振った。
「すみません。そういう意味ではなくて……王宮の帳簿では、元の布が何枚の膝掛けになるか、という見方をしていたので、余ったものがどうなるかを考えていませんでした」
エヴァレット夫人の表情が少し和らいだ。
「針子は、布を捨てません」
彼女は静かに言った。
「特に北方の布は上等です。端でも温かい。子どもの肩なら、それで十分守れます」
近くにいた若い針子が、小さく頷いた。
名はニナと紹介された。
彼女はまだ十代後半ほどに見えるが、手の動きは速い。
「このくらいの端布でも、縫い合わせれば膝掛けになります」
ニナは、二枚の端布を重ねて見せた。
「見栄えは少し落ちますけど、暖かいです。病室なら十分です」
その言葉に、クラリスは胸の奥が少し重くなった。
余り布。
帳簿には出ていない。
けれど、現場では生きている。
小さな肩掛けになり、包帯布の裏当てになり、寝台の隙間を埋め、破れた膝掛けを直している。
それは不正ではない。
むしろ、善意ある再利用だ。
だが、記録がなければ、外から見た時には消えた布に見える。
あるいは逆に、本当に消えた布と区別がつかない。
「これを不正と書くのは違う気がします」
ミレーヌがぽつりと言った。
その声は、仕立て場全体によく響いた。
「でも、記録しないのも違います」
クラリスは頷いた。
「その通りです」
彼女は、オスカーを見る。
オスカーはすでに羽根ペンを構えている。
「名前をつけましょう」
クラリスは言った。
「不正ではなく、未記録再利用」
エヴァレット夫人が、ゆっくりその言葉を繰り返した。
「未記録再利用」
「はい。余り布を捨てず、有用に再利用している。しかし帳簿には出ていない状態です」
セリアが記録する。
未記録再利用:裁断・加工後の余り布を現場で有用に再利用しているが、正式帳簿に記録されていない状態。不正とは限らないが、未記録のため消失・横流しと区別困難。
エヴァレット夫人は、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「不正と言われるのではないかと」
「現時点では、そう判断しません」
クラリスは答えた。
「ただし、記録は必要です」
「でしょうね」
エヴァレット夫人は端布棚を見た。
「余り布を捨てるなんて、針子にはできません。けれど、それを帳簿に書く場所がなかったのです」
その言葉は、クラリスの胸に刺さった。
帳簿に書く場所がない。
それは、王宮のあちこちで起きていることだった。
仕事はある。
善意もある。
工夫もある。
でも、それを書く欄がない。
だから見えない。
見えないものは、都合よく使われる。
ある時は美談として。
ある時は無償労働として。
ある時は不正の隠れ蓑として。
「余り布欄を作ります」
クラリスは言った。
ミレーヌがすぐに紙を出した。
「どのような欄にしますか」
「まずは、裁断後に出た余り布の大分類」
セリアが続ける。
「大、中、小、端切れ、でしょうか」
エヴァレット夫人は首を振った。
「大きさだけでは足りません。厚みも必要です。厚手なら膝掛けや肩掛け、薄手なら裏当てや包帯補助。硬い布は寝台の隙間詰めには使えても、肌に触れるものには向きません」
ミレーヌが慌てて書き取る。
「大きさ、厚み、肌触り……」
ニナが横から口を出した。
「あと、毛羽立ち」
「毛羽立ち?」
「毛羽が多い布は、包帯には向きません。傷に触れるとよくないので」
ミレーヌの目が真剣になる。
「毛羽立ち。包帯布には不可」
ニナは少し驚いたように彼女を見た。
自分の言葉が、そのまま紙に残っていることが不思議なのだろう。
「それ、書くんですか」
「大事なことなので」
ミレーヌが答えると、ニナは少しだけ目を逸らした。
「そうですか」
照れたようだった。
クラリスは、端布棚をもう一度見た。
余り布の種類は、思ったより多い。
これをすべて細かく記録すれば、仕立て場は止まる。
しかし記録しなければ、消える。
この間を取らなければならない。
「まず、試験経路の北方毛織物だけに限定します」
クラリスは言った。
「全仕立て場の全余り布ではありません」
エヴァレット夫人は、はっきり安堵した顔をした。
「それなら、試せます」
「記録方法も、現場を見ながら決めます。針子の方々が裁断中にすべて書く必要はありません」
「助かります」
その言葉には実感があった。
針子たちは、手を止めたくない。
止めれば、縫い上がるものが減る。
それは、最終的に受領先へ届く布を減らすことにもなる。
記録のために布が届かなくなるなら、本末転倒だ。
「裁断台ごとに端布袋を置くのはどうでしょう」
ミレーヌが言った。
全員が彼女を見る。
少し緊張したが、彼女は続けた。
「作業中は、余り布を大きさや用途候補ごとに袋へ入れるだけにします。作業後に、記録係が袋ごとに確認する。針子さんは、その時に用途候補を伝えて印を押す」
エヴァレット夫人は少し考えた。
「袋に入れるだけなら、作業を止めずに済みます」
ニナも頷いた。
「布の端に積んでおくより散らばらないし、いいかも」
「袋には大きく用途候補を書きますか」
セリアが尋ねる。
エヴァレット夫人は首を傾げる。
「書くより、色分け……いや、港では色が問題でしたね」
クラリスは少し笑った。
「仕立て場内だけなら色も使えます。ただし、港湾用と混同しないよう、場所限定の記録にしましょう」
「では、仕立て場内では紐の色で端布袋を分けても?」
「はい。ただし、外部へ出す記録では色名ではなく用途名で記載します」
オスカーが書く。
仕立て場内端布袋:作業効率のため色分け可。ただし外部記録では用途名・大分類へ変換。
イリスがいれば、きっと札にしただろう。
そう思って、クラリスは少しだけ口元を緩めた。
午後いっぱい、クラリスたちは仕立て場の作業を見た。
北方毛織物を想定した裁断試験。
実際の支援物資ではなく、練習布で行う。
針子たちは手際よく布を広げ、型紙を置き、鋏で裁つ。
驚くほど迷いがない。
だが、余り布は確かに出る。
細長い端。
三角形の小片。
手のひら大の布。
子ども用なら使えそうな長方形。
ミレーヌは、それを見ながら自分の表を何度も直した。
最初は、大・中・小だけだった。
しかしすぐに足りないと分かる。
用途候補。
肌に触れる可否。
厚み。
毛羽立ち。
縫い合わせ可能か。
修繕用か。
けれど、項目を増やしすぎると、針子たちが書けない。
彼女は悩んだ末に、表を二段に分けた。
作業中に見るものは、袋の分類だけ。
作業後に記録係が見るものは、詳細。
針子本人が書くのではなく、聞き取りでよい。
「これなら……」
ミレーヌは、表を見つめて呟いた。
「まだ多いですか」
ニナが横から覗き込む。
「多いです」
即答だった。
ミレーヌは少し固まる。
ニナは慌てて言った。
「あ、でも、最初のよりはましです」
「最初のは、かなり駄目でしたか」
「かなり」
正直すぎる。
ミレーヌは一瞬落ち込んだ顔をしたが、すぐに羽根ペンを握り直した。
「では、どこがまだ多いですか」
ニナは少し驚いた。
怒られると思っていたのかもしれない。
だが、ミレーヌは本気で聞いている。
「ええと……肌触りと毛羽立ちは、別にしなくてもいいかも。触ればだいたい一緒に分かるので」
「では、“肌当たり”にまとめます」
「それなら分かります」
「縫い合わせ可能か、は?」
「それは必要です。小さくても縫い合わせられる布と、ほつれすぎて無理な布があります」
「分かりました」
ミレーヌは表を直した。
ニナがその様子をじっと見ている。
「本当に直すんですね」
「直します。使えないなら意味がないので」
ミレーヌはそう言ってから、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「この前、港で学びました」
ニナは、ふうん、と言った。
まだ完全に心を開いたわけではない。
でも、少しだけ態度が柔らかくなった。
夕方、仕立て場長のエヴァレット夫人は、改訂された余り布記録案を見て頷いた。
「これなら、試せます」
その一言に、ミレーヌは明らかにほっとした。
クラリスも同じだった。
王宮で作った表ではなく、仕立て場で直した表。
それが、ようやく現場から「試せる」と言われたのだ。
「ただし」
エヴァレット夫人は続けた。
「作業後の記録係が必要です。針子に全部書かせるのは無理です」
「はい。記録係の時間も確認費に入れます」
「それなら」
彼女は少しだけ目を細めた。
「初めて、王宮が現場の時間を費用として見てくれる気がします」
その言葉に、クラリスは少し胸が詰まった。
現場の時間。
それもまた、これまで帳簿に出てこなかったものだった。
余り布と同じように。
「見ます」
クラリスは答えた。
「見えないままにはしません」
仕立て場を出る前、ニナがミレーヌに小さな布片を渡した。
「これ」
「何ですか?」
「練習布の余り。捨てるやつじゃなくて、縫い合わせたら使えるやつ」
ミレーヌは布片を受け取った。
小さいが、確かに温かい。
「これも、記録しますか」
ニナが少し挑むように聞く。
ミレーヌは布を見つめ、真面目に答えた。
「試験記録には入れます。ただし、価値を細かくつけるのではなく、縫い合わせ可能な端布として」
ニナは、少しだけ笑った。
「まあ、それならいいです」
その笑顔は、ごくわずかだった。
でも、ミレーヌには十分だった。
王宮筆頭実務顧問室へ戻ると、イリスが待っていた。
彼女は机の上に置かれた端布を見て、静かに尋ねた。
「今度は布片が増えましたか」
「はい」
「国際案件の箱へ?」
「いえ、これは見本として別保管します」
「箱が増えますね」
「増やしません」
クラリスは即答した。
イリスは少し残念そうだった。
「では、袋でしょうか」
「……見本袋なら」
「承知しました」
負けた気がした。
オスカーが報告書を書き始める。
表題。
王妃執務院指定仕立て場確認報告――余り布の未記録再利用について
主な内容。
一、裁断後の余り布が現場で有用に再利用されている。
二、再利用先は小型膝掛け、子ども用肩掛け、包帯布裏当て、寝台隙間詰め、修繕用端布など。
三、現時点では正式帳簿に余り布欄がない。
四、不正ではなく未記録再利用として扱う。
五、余り布欄を新設する。
六、記録は針子本人に即時記入させず、端布袋と作業後聞き取り方式を試す。
七、作業後記録係の時間を確認費に含める必要あり。
ミレーヌは、自分の不備記録も書いた。
余り布について、最初は大きさだけで分類しようとしたが不十分。厚み、肌当たり、縫い合わせ可否、用途候補が必要。ただし項目を増やしすぎると針子の手が止まる。作業中は袋、作業後に聞き取り。
さらに、自分の札に新しい言葉を書き足した。
手を見てから、紙を作る。布も最後まで見る。
クラリスはそれを見て、静かに頷いた。
よい言葉だった。
ただ、イリスが札にしそうな気がしたので、声には出さなかった。
夜、仕立て場から預かった端布見本を、ミレーヌが小さな袋に入れた。
袋にはこう書いた。
未記録再利用見本。縫い合わせ可能な端布。
それは、捨てられなかった善意の欠片だった。
余り布は、帳簿の外にあった。
だが、現場では生きていた。
誰かの肩を温め、寝台の隙間を埋め、包帯の裏を支え、破れた布を直していた。
記録がないからといって、価値がないわけではない。
けれど、記録がなければ、価値ある再利用と消えた布の区別がつかない。
だから、名前をつける。
未記録再利用。
そして、欄を作る。
消えたものと、生きたものを分けるために。




