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第77話 ミレーヌ補佐見習い、針子に怒られる

 ミレーヌ・フォン・エルディアは、仕立て場へ向かう馬車の中で、余り布記録表を何度も見直していた。


 前回よりは、よくなっている。


 そう思う。


 思いたい。


 大判、中判、小片。


 用途候補は、小型膝掛け、子ども用肩掛け、包帯布裏当て、寝台補助、修繕用端布。


 肌当たりと毛羽立ちは、針子たちの助言で「肌当たり」にまとめた。


 作業中は細かく書かず、作業台ごとの端布袋に入れるだけ。


 作業後、記録係が聞き取り、針子は印を押す。


 以前のものより、ずっと現場寄りになったはずだった。


 それでも、ミレーヌの胸は落ち着かなかった。


 膝の上の紙を押さえる指先に、少し力が入る。


「紙に皺が寄りますよ」


 隣に座るリーナが静かに言った。


「あっ」


 ミレーヌは慌てて指を緩めた。


「すみません」


「紙ではなく、ご自分に謝ってください。かなり緊張しています」


「はい……緊張しています」


「なぜですか?」


「また使えないと言われたらと思うと」


「言われるかもしれませんね」


 リーナはあっさり言った。


 ミレーヌは少しだけ肩を落とす。


「そこは、少し励ましてくださっても」


「使えないものを使えると言われる方が困ります」


「それは……そうです」


「怒られるかもしれません。でも、怒られたら、どこが使えないか分かります」


 リーナの声は穏やかだった。


 けれど、その言葉は甘くなかった。


 最近、ミレーヌはそういう言葉のありがたさを知り始めている。


 優しく包んでくれる言葉は、その場では楽になる。


 でも、仕事を直す時に必要なのは、どこが違うかを教えてくれる言葉だ。


「逃げずに聞きます」


「はい。それが今日の仕事です」


 王妃執務院指定仕立て場に着くと、中からいつもの音が聞こえてきた。


 鋏が布を裁つ音。


 針が布を抜ける音。


 糸巻きが転がる音。


 誰かが「そこ、半寸ずれてる」と短く言う声。


 王宮の会議室では絶対に聞こえない、仕事の音だった。


 仕立て場長のエヴァレット夫人が迎えに出てきた。


「いらっしゃいませ、ミレーヌ様、リーナ様」


「本日もよろしくお願いいたします」


 ミレーヌは深く礼をした。


 エヴァレット夫人は彼女の手元を見て、少しだけ目を細める。


「例の表ですか」


「はい。改訂しました」


「では、見せてください。針子たちは、今日は忙しいですから、遠回しに言う余裕はありませんよ」


「……はい」


 その一言で、ミレーヌの背筋が伸びた。


 仕立て場の奥では、若い針子ニナが作業台に向かっていた。


 茶色の髪を後ろで束ね、袖をまくり、布を押さえる手に迷いがない。


 彼女はミレーヌを見ると、軽く頭を下げた。


 以前よりは少しだけ柔らかい。


 けれど、仕事中の目は鋭い。


「また表ですか」


「はい。見ていただけますか」


「見ます。でも、使えなかったら使えないって言います」


「お願いします」


 ミレーヌは、用意してきた余り布記録表を作業台の端に広げた。


 ニナは布を押さえていた手を一度拭き、表に目を落とした。


 最初の数行を読む。


 眉間に皺が寄る。


 ミレーヌの心臓が、嫌な音を立てた。


「……これ」


「はい」


「まだ細かいです」


 来た。


 ミレーヌは、一瞬だけ唇を噛みそうになった。


 でも、こらえた。


「どこが細かいでしょうか」


「全部」


 容赦がなかった。


 リーナが隣で小さく息を飲む。


 ニナは表を指で叩いた。


「大判、中判、小片は分かります。用途候補もまあ、分かります。でも、作業中に端布が出るたびに、どの袋に入れるか判断するんですよね?」


「はい。記入は作業後で」


「袋に分けるだけでも、手は止まります」


 ミレーヌは、はっとした。


 自分では、書かせなければ作業は止まらないと思っていた。


 でも、違う。


 袋に分けるという行為そのものが、すでに判断を求めている。


「それに、これはどっちですか」


 ニナは作業台の上にあった細長い端布を手に取った。


「長いけど細い。中判? 小片? 縫い合わせれば使えるけど、そのままだと無理。肌当たりは悪くない。でも端がほつれやすい。これ、どの袋に入れます?」


 ミレーヌは答えようとして、止まった。


 分からない。


 表では分類できると思っていた。


 でも、現物を前にすると迷う。


「……中判、でしょうか」


「じゃあ、これは?」


 ニナは別の布を出した。


 小さいが、厚みがある。


「小さいけど、補強布には使える。大きさなら小片。でも用途なら修繕用。どっち?」


 ミレーヌは、言葉を失った。


 ニナは怒っている。


 ただ、意地悪で言っているのではない。


 本当に困っているのだ。


「こんな細かい表、縫いながら書けません」


 ニナの声が少し強くなった。


「袋に分けるだけって言いますけど、その袋に入れる判断が細かいんです。私たちは布を見れば、あとで何に使えそうかは分かります。でも裁断中に毎回それを考えてたら、手が止まります」


 仕立て場の音が少しだけ小さくなった。


 他の針子たちも、聞いている。


 エヴァレット夫人は止めなかった。


 ミレーヌは、頬が熱くなるのを感じた。


 恥ずかしい。


 悔しい。


 自分では直したつもりだった。


 港で学んだつもりだった。


 手を見てから紙を作る、と札に書いたばかりだった。


 なのに、また見落としていた。


「申し訳ありません」


 ミレーヌは頭を下げた。


 ニナは少し気まずそうにした。


「謝ってほしいわけじゃなくて」


「はい」


 ミレーヌは顔を上げた。


「見せてください」


「え?」


「作業を。どこで手が止まるのか、見せてください」


 ニナは一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから、少しだけ目を細める。


「見るだけじゃ分からないかも」


「では、教えてください」


「邪魔しないでくださいね」


「はい」


 その返事に、エヴァレット夫人が小さく頷いた。


「ニナ、いつも通りやりなさい」


「はい」


 ニナは作業台に戻った。


 大きな布を広げる。


 型紙を置く。


 重石で押さえ、鋏を入れる。


 その動きは速い。


 ミレーヌは、息を詰めるように見た。


 布が切られるたび、端布が出る。


 けれど、ニナはそれをすぐ分類しない。


 手元の邪魔にならない位置へ、ひょいと寄せる。


 次の線を裁つ。


 また端布が出る。


 それも寄せる。


 何枚か溜まったところで、彼女は作業台の右端へざっと寄せた。


 分類ではない。


 ただ、作業の流れを邪魔しない場所へ逃がしているだけだ。


 その間、視線は常に布の線と型紙にある。


 端布一枚ずつを吟味する時間などない。


「今、分類しないのですね」


 ミレーヌが小声で言うと、ニナは手を止めずに答えた。


「しません。裁断中に考えると寸法を間違えます」


「でも、あとで何に使うか分かるのですか」


「分かります。裁断が終わって、まとめて見れば」


 そう言いながら、ニナはさらに布を裁つ。


 ミレーヌはようやく気づいた。


 自分の表は、作業中の端布をその場で分類させようとしていた。


 記入は作業後にした。


 でも、判断は作業中に残してしまっていた。


 それでは手が止まる。


 見ているようで、見ていなかった。


 裁断が一段落すると、ニナは作業台の端に溜まった端布をまとめた。


 そこで初めて、一枚一枚を手に取る。


「これは縫い合わせ。これは修繕。これは裏当て。これは……ほつれすぎ、詰め物くらい」


 判断は速い。


 だが、それは裁断中ではない。


 一区切りついた後だからできるのだ。


 ミレーヌは自分の表を見た。


 そして、羽根ペンで線を引いた。


「作業中の袋分けをやめます」


 ニナが顔を上げる。


「やめるんですか」


「はい。作業中は、端布を一時置き場にまとめるだけにします」


「一時置き場?」


「作業台ごとに“端布一時置き箱”を置きます。分類は、裁断が一段落した後。記録係が聞き取りながら、ニナさんたちと一緒に分けます」


 ニナは少し考えた。


「それなら、裁断中は止まらない」


「はい」


「でも、あとでまとめて見るなら、誰の作業台から出た端布か分かるようにしないと」


「作業台番号をつけます」


「あと、何の布を裁った後の端布かも」


「元布番号をつけます」


「端布を一時置き箱に入れるだけなら、できます」


 その言葉に、ミレーヌは少しだけ息を吐いた。


 だが、まだ終わりではない。


「分類項目も減らします」


 ミレーヌは表を見ながら言った。


「作業後の最初の分類は三つだけにします。使える、要確認、使えない」


 ニナが目を瞬かせる。


「三つ?」


「はい。最初から用途まで決めるのではなく、まず生かせるかどうかを分けます。その後、使えるものだけ用途候補を記録します」


 ニナは、手元の端布を見た。


「それなら早いです」


「要確認は?」


「迷うもの。後で仕立て場長か記録係と見る」


 エヴァレット夫人が口を開いた。


「悪くありません。針子がその場で細かい用途まで決めずに済みます」


 セリア記録官が、静かに整理する。


「では、新しい流れはこうですね。裁断中は端布一時置き箱へ。作業後に、使える、要確認、使えないへ一次分類。使えるもののみ、用途候補を大分類で記録。要確認は仕立て場長確認。使えないものは重量または袋単位で記録」


「はい」


 ミレーヌは必死に書いた。


 その横でリーナが小さく言う。


「ずいぶん減りました」


「はい」


「でも、必要なところは残っています」


「はい」


 ミレーヌは顔を上げ、ニナを見た。


「これなら、縫えますか」


 ニナは、少しだけ口元を曲げた。


「裁断ですけど」


「あっ」


「でも、まあ……それなら、縫えます。裁てます」


 その言い方は少しぶっきらぼうだった。


 けれど、前よりずっと柔らかかった。


 ミレーヌは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「だから、謝るところじゃないです」


「いえ、教えてくださったので」


 ニナは視線を逸らした。


「別に。使えない表を渡される方が困るだけです」


 その言葉に、ミレーヌは少し笑った。


「はい。困らせないように直します」


 仕立て場での作業確認は、その後も続いた。


 ミレーヌは、ほとんど座らなかった。


 針子たちの手元を見る。


 裁断の区切りを見る。


 糸替えのタイミングを見る。


 誰が何を判断し、誰が何を後回しにしているのかを見る。


 リーナが途中で小声で言った。


「少し休みましょう」


「もう少しだけ」


「その“もう少しだけ”は、クラリス様に似ています」


 ミレーヌは、はっとした。


「休みます」


「よろしい」


 休憩中、ニナが水を飲みながら言った。


「王宮の人って、紙を作るのが好きですよね」


 なかなか遠慮がない。


 ミレーヌは苦笑した。


「必要だと思っていました」


「必要なのは分かります。でも、紙が増えると、手が止まります」


「はい」


「手が止まると、布が減ります」


「……はい」


 その言葉は重かった。


 紙が増えると、手が止まる。


 手が止まると、布が減る。


 布が減ると、届くものが減る。


 記録は届かせるためにあるのに、記録が届くものを減らしてしまったら意味がない。


「ニナさん」


「何ですか」


「私、書く人のことしか考えていませんでした」


 ミレーヌは、素直に言った。


「書きやすい表、読みやすい表、確認しやすい表。そればかり考えていました。でも、縫う人の手を見ていませんでした」


 ニナは、水の入った杯を両手で持ったまま、少し黙った。


「……見に来たなら、いいんじゃないですか」


「はい。見に来てよかったです」


「また変なの作ったら怒りますけど」


「お願いします」


「お願いされることじゃないです」


 ニナは、少しだけ笑った。


 ほんの少しだったが、ミレーヌには分かった。


 怒りの角が、少し取れたのだ。


 夕方までに、余り布記録表は大きく変わった。


 最初の表は、ミレーヌが持ってきた時より半分近く短くなった。


 新しい表題はこうだ。


 端布一時置き・作業後分類表


 項目は少ない。


 作業台番号。

 元布番号。

 作業日。

 一次分類――使える/要確認/使えない。

 使える場合の用途候補。

 要確認の判断者。

 袋単位または重量。

 記録係名。

 針子確認印。


 ミレーヌは、その表を見て少し不安になった。


「減らしすぎでしょうか」


 セリアが表を確認する。


「必要なものは残っています」


 エヴァレット夫人も頷いた。


「これなら、試せます」


 ニナが横から言った。


「前よりは」


 リーナが小さく笑う。


「その言葉、今日二度目です」


「大事です。前よりは、です」


 ミレーヌも笑った。


「前よりは、を積み重ねます」


 その日の帰り際、ニナがミレーヌに小さな端布を一枚差し出した。


 前回と同じように、練習布の余りだ。


「これは?」


「今日の“要確認”です」


 ニナは言った。


「使えるか使えないか、すぐには迷うやつ。こういうのを入れる場所、作ったんですよね」


「はい」


「じゃあ、見本にしてください」


 ミレーヌは両手で受け取った。


 小さな布片。


 端が少しほつれているが、厚みはある。


 すぐ捨てるには惜しい。


 でも、そのまま何かに使うには迷う。


 まさに、要確認だった。


「ありがとうございます」


「あと」


 ニナは少し目を逸らした。


「今日の表、最初のよりは、だいぶましでした」


 ミレーヌは、胸が温かくなるのを感じた。


「はい」


 それ以上言うと、ニナが照れそうだったので、ミレーヌは深く礼をするだけにした。


 王宮筆頭実務顧問室へ戻ると、クラリスが待っていた。


 机の上には別件の書類が積まれていたが、ミレーヌが入ってくるとすぐ顔を上げた。


「どうでしたか」


 ミレーヌは一瞬迷った。


 うまくいきました、と言いたい気持ちもある。


 でも、それは違う。


「怒られました」


 クラリスは少しだけ目を細めた。


「何を?」


「こんな細かい表、縫いながら書けません、と」


「そう」


「最初は落ち込みました。でも、作業を見せてもらいました。裁断中は端布を分類する時間がありません。判断するのは、作業が一段落してからでした」


 ミレーヌは改訂表を差し出した。


「なので、作業中の袋分けをやめました。作業台ごとの一時置き箱にします。分類は作業後です」


 クラリスは表を読み、ゆっくり頷いた。


「よい修正です」


 その一言で、ミレーヌの肩から力が抜けた。


「ありがとうございます」


「ニナさんには?」


「前よりは、だいぶましと言われました」


「最高評価に近いのでは?」


「たぶん」


 ミレーヌは少し笑った。


 クラリスも笑った。


 オスカーが報告書の見出しを書き始める。


 余り布記録表改訂報告――針子作業確認による項目削減


 ミレーヌは、自分の不備記録も書いた。


 最初の改訂表では、記入を作業後にしたものの、分類判断を作業中に残していた。裁断中に判断を求めると手が止まる。作業中は一時置き、作業後に分類へ変更。


 そして、自分の札を取り出した。


 手を見てから、紙を作る。布も最後まで見る。


 その下に、新しい一文を書き足す。


 手が止まると、届く布が減る。


 クラリスは、その言葉を見てしばらく黙った。


 重い言葉だった。


 紙一枚の重さは軽い。


 でも、その紙が手を止めれば、届く布が減る。


 記録は必要だ。


 けれど、記録のせいで届くものが減ってはいけない。


 その線を探すことが、この仕事なのだ。


 イリスが横から覗き込み、静かに言った。


「よい札です」


「イリスさん」


 ミレーヌが少し慌てた。


「これは私用の札です」


「承知しております」


 クラリスはイリスを見た。


「本当に?」


「……写しは取りません」


「今、少し迷いましたね」


「よい言葉でしたので」


 ミレーヌは困ったように笑った。


 だが、その笑みには少し誇らしさもあった。


 自分の失敗が、また一つ仕事の言葉になった。


 針子に怒られたことは、恥ずかしい。


 でも、逃げなかった。


 手元を見た。


 紙を減らした。


 そして、前よりは使える表になった。


 ミレーヌ補佐見習いは、まだ正式採用ではない。


 けれど、今日の彼女は確かに一つ覚えた。


 机で紙を作る前に、手を見ること。


 その手が止まれば、誰かに届く布も止まってしまうのだということを。

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