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第71話 北方毛織物の一枚目は、誰のための布なのか

 王宮筆頭実務顧問室に、布が届いた。


 書類ではない。


 帳簿でもない。


 封蝋のついた外交書簡でもない。


 布である。


 しかも、かなり上等な布だった。


 深い灰色に、わずかに青みが混じった毛織物。手で触れると厚みがあるのに硬すぎず、指先を押し返す弾力があった。冬の風を受けても、それを内側へ通さないだろうと分かる。


 机の上に置かれたその布を、クラリスはしばらく無言で見つめていた。


「お嬢様」


 イリスが横から言った。


「ついに書類ではなく現物が攻めてまいりました」


「攻めてきたわけではありません」


「では、押しかけてきました」


「それも少し違います」


 クラリスは布の端をそっと持ち上げた。


 同封されていた札には、ノルヴァルト公国の公認商会印がある。


 品名。


 北方厚織毛布地。


 用途。


 防寒外套、寝台用毛布、施療院保温布、冬季慈善支援品。


 用途が多い。


 多すぎる。


 これが問題なのだと、クラリスはすぐに分かった。


 同じ布が、商業用にも慈善用にも使える。


 防寒外套として貴族へ売ることもできる。寝台用毛布として宿屋へ納めることもできる。施療院の病床で使うこともできる。孤児院へ送る冬支度品にもなる。


 つまり、途中で混ざりやすい。


 混ざった時に、誰のものだったか分からなくなりやすい。


「オスカー様」


「はい」


 オスカーはすでに記録用紙を構えていた。


 最近、彼は顧問室に現物が届くと、まず胃ではなく筆を押さえるようになった。よい傾向なのかもしれない。


「受領記録を」


「差出人、ノルヴァルト公国大使館。添付、北方厚織毛布地見本一枚、品質票一枚、輸出元商会証明一通、用途別分類案一通」


「分類は?」


「……多用途品、ですね」


「ええ」


 クラリスは布を机に広げた。


 布そのものは、美しい。


 手間をかけて織られているのが分かる。


 だが、顧問室に届いた瞬間、それは美しい布である前に、問題を含んだ現物になった。


 イリスが新しい札を一枚置いた。


 美しいものほど確認


「最近、札の方向性が鋭くなっていませんか」


「実務に合わせております」


「そう」


 反論できなかった。


 その日の午後、慈善記録官室からセリアとミレーヌが呼ばれた。


 北方慈善交易路の共同調査は、まだ正式には始まっていない。けれど、品目分類の準備は始めなければならない。


 毛織物と薬草布。


 この二品目が最初の対象候補だった。


 そのうち、毛織物の見本が届いたというわけだ。


 ミレーヌは顧問室に入ってくるなり、机の上の布を見て目を丸くした。


「綺麗……」


 思わずこぼれた言葉だった。


 クラリスは少し微笑んだ。


「ええ。とてもよい布です」


「これが、問題なのですか?」


「問題になる可能性がある布です」


 ミレーヌはすぐに表情を改めた。


 最近の彼女は、綺麗なものを見ても、そこで終わらなくなった。


 何のためのものか。

 どこから来たか。

 誰に届くべきか。

 どの欄に入るか。


 そう考える癖がつき始めている。


「触ってもよろしいでしょうか」


「もちろん」


 ミレーヌは手袋を整え、布に触れた。


 指先で厚みを確かめ、端の織りを見て、札を読む。


「用途が四つあります。防寒外套、寝台用毛布、施療院保温布、冬季慈善支援品」


「そうです」


「このままだと、分類できません」


 セリア記録官が隣で頷いた。


「最終用途が確定していないためですね」


「はい。輸入時点では北方厚織毛布地。でも、慈善支援用として扱うなら、どの受領先へ何として届くかを別に見ないといけません」


 ミレーヌは、少し考えてから続けた。


「元品目と予定用途を分ける必要があります」


 クラリスはオスカーを見る。


 オスカーはすでに書いていた。


 元品目:北方厚織毛布地。予定用途:防寒外套/寝台用毛布/施療院保温布/冬季慈善支援品。最終分類:受領先用途確定後。


 セリアが静かに言った。


「慈善記録官室の分類表にも、元品目欄と最終用途欄を追加しましょう」


「はい」


 ミレーヌは頷いた。


 だが、その顔にはまだ迷いがあった。


 クラリスは気づいた。


「何か気になりますか」


「……はい」


「言ってみて」


 ミレーヌは布を見つめた。


「これ、同じ布ですよね」


「ええ」


「同じ布なのに、貴族の外套になれば商業品で、施療院の病床に置かれれば慈善物資になります」


「そうですね」


「では、途中で“これは慈善用です”と札をつけても、本当に最後までそう扱われるかは、まだ分からないのではありませんか」


 部屋が静かになった。


 オスカーの筆が止まりかけ、すぐに動き出す。


 クラリスは、ゆっくり頷いた。


「その通りです」


 ミレーヌは少し不安そうに姉を見た。


「変なことを言いましたか」


「いいえ。とても大事なことを言いました」


 クラリスは、布の上に置かれた札を一枚動かした。


 そこに、新しい空白が見えたような気がした。


「輸入時点で慈善用と記されていても、中継で商業用へ混ざる可能性があります。逆に、商業用の余剰が慈善用へ回る場合もあるでしょう。だから、最初の札だけでは足りない」


「では」


「途中確認が必要です」


 セリアがすぐに言った。


「港湾到着時、国内中継倉庫、再仕立てまたは裁断時、最終受領先」


「四段階ですね」


 オスカーが書き取る。


「輸出元を含めれば五段階です」


 クラリスが補足した。


「輸出元、港湾到着、国内中継、用途確定または加工、最終受領先」


 ミレーヌは、小さく息を吐いた。


「多いですね」


「多いです」


 クラリスは正直に答えた。


「でも、多いから省くと、どこで混ざったか分からなくなります」


「はい」


 その時、イリスが布の端を見ていた。


「お嬢様」


「何か?」


「この布、端に小さな織り印があります」


 クラリスたちは一斉に布の端を見た。


 確かに、縁の近くに小さな白い糸で印が織り込まれている。


 鹿の角を簡略化したような模様。


 ノルヴァルト公認商会の印だろうか。


 オスカーが品質票を確認する。


「輸出元商会印ですね。北方では、織元または輸出商会ごとに端印を入れる習慣があるようです」


 クラリスは目を細めた。


「これは使えます」


「現物確認に、ですか」


「はい。帳簿だけでなく、布の端印を確認項目に入れます」


 ミレーヌが少し明るい顔をした。


「それなら、途中で別の布に替わった時に分かるかもしれません」


「完全ではありませんが、手がかりになります」


 セリアが記録する。


「北方毛織物確認項目案。一、品名。二、数量。三、厚みまたは等級。四、端印。五、予定用途。六、最終用途。七、受領先。八、状態」


 イリスが、また札を置いた。


 端を見る


「それ、布限定では?」


「人にも書類にも応用できます」


「どういう意味?」


「端に本音が出ることがございます」


 オスカーが小さく咳をした。


 笑いをこらえたらしい。


 ミレーヌは真面目に頷きかけて、途中で「あれ?」という顔をした。


 少しだけ、部屋の空気が柔らかくなる。


 だが、問題は柔らかくない。


 北方慈善交易路の共同調査は、ただの帳簿照合では済まない。


 現物を見る必要がある。


 布の端を見る必要がある。


 その布が誰のための布なのか、最後まで追う必要がある。


 夕方近く、セルゲイ大使が顧問室を訪れた。


 彼はいつものように穏やかだったが、机の上に広げられた布を見ると、ほんの少し嬉しそうな顔をした。


「届きましたか」


「はい。非常によい布です」


「北方の冬では、この程度でなければ役に立ちません」


「アルヴィアの冬でも十分役に立ちます」


「そうでしょう」


 セルゲイは布に触れ、端印を確認した。


「気づかれましたか」


「イリスが見つけました」


「さすがです」


 イリスは静かに礼をした。


「端を見るのは侍女の仕事でもございますので」


 セルゲイは面白そうに微笑んだ。


「良い言葉です」


 クラリスは、少しだけ警戒した。


 この大使は、よい言葉を見つけると外交文書に使いかねない。


「大使、この端印は現物確認に使えるでしょうか」


「使えます。ただし、注意が必要です」


「注意?」


「端を切られることがあります」


 部屋が静まった。


 セルゲイは、穏やかな声のまま続ける。


「不正をする者は、印のある端を切り落として別の布と混ぜることがあります。ですので、端印の有無だけでなく、裁断前の長さ、裁断後の残布、加工先の記録も必要です」


 ミレーヌが、思わず小さく言った。


「増えました」


「増えましたね」


 セリアも静かに答えた。


 クラリスは額に手を当てたくなったが、我慢した。


「裁断前後の記録も必要、と」


「はい。特に慈善物資として防寒外套へ仕立てる場合、布地から衣服になる途中で数量が変わります。余り布の扱いも記録しなければなりません」


「余り布」


「ええ。余り布は小さな膝掛けや包帯布に使えることもあります。逆に、そこで消えることもあります」


 オスカーの筆が忙しく動く。


 忙しすぎて、少し心配になるほどだった。


 イリスがそっと胃薬ではなく茶を置く。


 オスカーは礼を言って飲んだ。


「つまり」


 クラリスは整理する。


「北方毛織物の共同調査では、輸出元記録、港湾到着、国内中継、用途確定、裁断または加工、余り布、最終受領先まで見る必要があります」


 セルゲイは頷いた。


「完璧にすべてを見るのは難しいでしょう。ですので、最初の調査では一経路に絞るのがよいかと」


「一経路」


「ノルヴァルト公認商会からアルヴィア港、王都中継倉庫、王妃執務院指定仕立て場、南施療院。例えば、その一本です」


 クラリスは考えた。


 それなら、調査範囲は限定できる。


 毛織物が布地として入り、仕立て場で保温布または膝掛けに加工され、施療院へ届く。


 商業分とは分けやすい。


 だが、財務院と港湾、仕立て場、王妃執務院、施療院が関わる。


 十分大きい。


「一経路に絞る案は妥当です」


 クラリスは言った。


「ただし、南施療院ばかりに負担をかけるのは避けたいです」


「では、受領先候補を二つ用意し、負担を確認してから決めましょう」


「はい」


 ミレーヌが小さく手を上げた。


「あの」


 全員が彼女を見る。


 ミレーヌは少し緊張したが、逃げずに続けた。


「受領先が施療院の場合、布の状態だけでなく、使う場所も記録した方がよいのでしょうか」


「使う場所?」


 クラリスが促す。


「病室用なのか、待合室用なのか、寝台用なのかで、必要な厚みや大きさが違います。届いた数が合っていても、用途が違うと困るかもしれません」


 セルゲイが、感心したように目を細めた。


「良い指摘です」


 ミレーヌは少し驚いた。


「ありがとうございます」


「北方では、同じ保温布でも、病床用と移動用で厚みを変えます。施療院での使用場所を確認するのは意味があります」


 クラリスは、ミレーヌを見た。


 妹は少し赤くなっているが、きちんと立っている。


 補佐見習いとしての視点が、国際案件の品目分類に入り込んだ瞬間だった。


「では、受領先用途欄に使用場所を追加しましょう」


 クラリスが言うと、セリアが書き取った。


 受領先用途:病床用/待合室用/移動用/その他。


 ミレーヌは、小さく息を吐いた。


 自分の発言が記録された。


 怖い。


 でも、少し嬉しい。


 そんな顔だった。


 協議の終わり、セルゲイは布を丁寧に畳み直した。


「この一枚の布だけで、随分と多くの欄が増えましたね」


「増えました」


 クラリスは正直に答えた。


「ですが、必要な欄です」


「ええ」


 セルゲイは微笑んだ。


「誰のための布なのか。それを最後まで追うには、欄が必要です」


 その言葉は、今日のまとめとしてふさわしかった。


 夜、顧問室でクラリスは新しい分類案をまとめた。


 表題。


 北方毛織物共同調査 初期確認項目案


 元品目。

 輸出元。

 端印。

 輸出時数量。

 港湾到着数量。

 中継倉庫。

 予定用途。

 裁断・加工先。

 余り布。

 最終用途。

 受領先。

 使用場所。

 状態。

 未着・不足・用途違い報告。


 見事に増えた。


 イリスがそれを見て、机の横に置いてある札を静かに指した。


 増やす前に減らす


「減っていませんね」


「増えました」


「必要な増加ですか」


「必要な増加です」


「では、別のところを減らしましょう」


「……はい」


 正しい。


 確認項目が増えるなら、ほかの作業を減らさなければならない。


 でなければ、また誰かが無償で埋める。


 クラリスは分類案を見直し、二つの欄を統合した。


 輸出時数量と港湾到着数量は別のまま。

 予定用途と最終用途も別。

 端印は残す。

 余り布も残す。


 削れるところは少ない。


 それでも、説明欄を短くし、重複する確認文をまとめた。


 完全ではない。


 だが、少しだけ軽くなった。


「これで、初期案にします」


 イリスが頷いた。


「よろしいかと」


 オスカーは疲れた顔で笑った。


「国際案件の箱に入れますか」


「はい」


 クラリスは、分類案の写しを国際案件の箱へ入れた。


 箱の中身が、また重くなった気がした。


 その横で、ミレーヌが自分用の小さな札を見ていた。


 できるふりをしない。分ける。


 彼女はその下に、新しい一文を書き足した。


 同じ布でも、誰のためかで変わる。


 クラリスはそれを見て、何も言わなかった。


 とてもよい札だった。


 北方毛織物の一枚目は、ただの見本ではなかった。


 それは、この先の共同調査が何を見るべきかを教えてくれる一枚だった。


 布は、布でしかない。


 だが、その布が誰のためのものなのかを記録しなければ、善意は途中で形を変える。


 貴族の外套になるのか。


 商会の利益になるのか。


 施療院の病床を温めるのか。


 孤児院の冬を越す助けになるのか。


 それを最後まで追うために、また新しい欄が生まれた。


 欄が増える。


 仕事も増える。


 けれど、見えないまま消えるよりはいい。


 クラリスはそう思いながら、今日も終業時刻の札を見た。


 今日は帰る


 北方の布は、机の上に畳まれている。


 まだ誰のための布にもなっていない。


 だからこそ、これから誰のために届くのかを、記録しなければならなかった。

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