第69話 ジュリアス殿下、初めて部下に謝らない
王太子府の差し戻し箱は、少しだけ大人しくなった。
少しだけ、である。
空になったわけではない。
むしろ、朝の時点ですでに七件入っている。
ただ、以前のように、箱から書類がはみ出して「これは箱なのか、それとも紙の山なのか」と若い書記官が遠い目をする状態ではなくなった。
差し戻し理由の分類が始まり、根拠資料台帳の試作が置かれ、提出前確認欄が決裁書の端に追加された。
その結果、少なくとも「資料の置き場所が分からない」というだけの差し戻しは減った。
王太子府は、遅いながらも動いている。
それでも、空気は軽くなかった。
「殿下、こちらは根拠資料番号が記載されております」
若い書記官トーマが、書類を差し出す。
ジュリアスは受け取り、資料番号と台帳を照らし合わせた。
該当あり。
備品局の現物確認者名もある。
提出前確認欄にも、トーマの確認印。
「よし。これは通す」
署名する。
トーマの肩が、目に見えて下がった。
安堵だ。
その安堵を見て、ジュリアスの胸が少し痛んだ。
たかが一件の決裁が通っただけで、若い書記官がこれほど息を吐く。
つまり、それだけ緊張している。
差し戻しは罰ではなく確認。
そう言った。
札にもした。
けれど、言われた側がすぐにそう受け取れるわけではない。
特に王太子府では、差し戻しに慣れていない。
王太子から返される。
それだけで、失敗したように感じる者もいる。
ジュリアスは、机の端の札を見た。
署名は読む
差し戻しは罰ではなく確認
札は増えた。
だが、札だけでは人の疲れは減らない。
昼前、ライオネルが差し戻し理由集計を持ってきた。
古参補佐官である彼は、最初こそ改革に強く反発していた。
しかし今は、差し戻し理由の集計を担当している。
不満が消えたわけではない。
むしろ、彼の表情にはまだ苦さがある。
それでも彼は、数字を揃え、分類し、前日比まで出してきた。
仕事として受けた以上、雑にはしない。
それがライオネルという男だった。
「殿下。本日午前までの集計です」
「ありがとう」
ジュリアスは資料を受け取った。
差し戻し総数、二十六件。
根拠資料不足、八件。
実確認者名なし、五件。
前年踏襲のみ、三件。
支出先不明、二件。
文言不備、四件。
緊急処理扱い要検討、四件。
以前より減っている。
だが、減ったからといって楽になったわけではない。
欄外に、ライオネルの手で小さく注記がある。
分類作業および再提出対応により、補佐官・書記官の処理時間が増加。通常決裁の遅延あり。
ジュリアスは、その一文をしばらく見つめた。
「疲れているな」
思わず言うと、ライオネルは一瞬だけ目を伏せた。
「業務上の負荷は増えております」
「君たちは、かなり無理をしている」
「王太子府の務めです」
そう返されると、ジュリアスは言葉に詰まった。
王太子府の務め。
便利な言葉だ。
それでどれだけの負担を覆い隠してきたのか、最近ようやく分かってきた。
机の上には、まだ未処理の書類がある。
差し戻し箱にも、再提出待ちの札が入っている。
トーマは台帳作りで昼食を後回しにしている。
別の書記官は、昨日から目の下に薄い影を作っている。
ライオネルも、平然としているが、いつもより声が低い。
ジュリアスは、胸の奥で苦く思った。
自分が始めたことだ。
必要なことだ。
だが、その必要なことの負担を、部下たちが受けている。
「すまな……」
言いかけた時だった。
ライオネルが、珍しくはっきりと遮った。
「殿下」
ジュリアスは口を閉じた。
ライオネルの表情は硬い。
叱責ではない。
だが、止める意思があった。
「今、それをおっしゃらないでください」
「なぜだ」
「殿下が謝れば、我々は“殿下を困らせている”ことになります」
その言葉に、ジュリアスは動けなくなった。
ライオネルは続ける。
「殿下が必要と判断された改革です。私どもにも負担はあります。戸惑いも、不満もあります。ですが、殿下がここで謝罪されれば、我々は負担を申し上げにくくなります」
「謝れば、言いやすくなるのではないのか」
「場合によります」
ライオネルは静かに言った。
「少なくとも王太子府では、殿下に謝らせたとなれば、補佐官も書記官も余計に黙ります」
ジュリアスは、思わず机の上の札を見た。
差し戻しは罰ではなく確認。
では、謝罪は何なのか。
部下への思いやりのつもりだった。
しかし、王太子が謝ることで、部下が「自分たちが殿下を責めている」と感じるなら。
それは負担を増やすだけかもしれない。
「では、私はどうすればいい」
ジュリアスは低く尋ねた。
王太子らしくない問いだった。
だが、今はそれを聞く必要があった。
ライオネルは少し考えた。
「謝罪ではなく、対応を」
「対応」
「はい。負担を減らす仕組みを作ってください」
その言葉は、王宮筆頭実務顧問室でよく聞く言葉に近かった。
仕組み。
負担。
記録。
ジュリアスは、思わず苦く笑った。
「クラリス顧問に似てきたな」
ライオネルは、少しだけ眉を上げた。
「不本意ながら、影響は受けております」
その返しに、トーマが奥で小さく咳き込んだ。
笑いをこらえたらしい。
王太子府の空気が、ほんのわずかに緩んだ。
「そうか」
ジュリアスは、集計表をもう一度見た。
謝るな。
仕組みを作れ。
ならば、やるべきことは一つだ。
「ライオネル」
「はい」
「差し戻し対応専門の一時チームを作る」
ライオネルの目が動いた。
「一時チーム、でございますか」
「ああ。通常決裁を進める者と、差し戻し理由の分類・再提出案内・根拠資料台帳整備を担当する者を分ける。このまま全員が全部を見ると、通常業務まで止まる」
トーマが顔を上げた。
「殿下、それなら台帳担当も分けた方がよろしいかと」
「理由は」
「根拠資料台帳は、一度整えば差し戻しを減らせます。でも今は作る作業と使う作業が同時に走っています。担当が曖昧だと、台帳自体がまた不備になります」
ジュリアスは頷いた。
「よい。台帳担当を一名置く」
ライオネルがすぐに補足する。
「若い書記官だけに任せるのは危険です。古参補佐官が一名、確認役に入ります」
「君が見るか」
「私が見ます」
その返事は早かった。
少し意外だった。
ジュリアスはライオネルを見る。
「よいのか。君はこの改革に反対だっただろう」
「今も、すべてに賛成しているわけではありません」
ライオネルは正直だった。
「ですが、反対している者が見た方が、無理な運用に気づけます」
ジュリアスは、しばらく彼を見た。
その言葉には、反発ではなく責任があった。
ライオネルは、改革に浮かれてはいない。
だからこそ、現場の負担を見られる。
「頼む」
「承知いたしました」
その日の午後、ジュリアスは王宮筆頭実務顧問室へ短い照会を送った。
件名。
王太子府差し戻し対応一時チーム設置案について
内容。
通常決裁班、差し戻し分類班、根拠資料台帳班に分ける。
差し戻し分類班は三週間限定。
台帳班は初期整備完了後、通常記録担当へ移行。
処理時間、差し戻し件数、再提出日数を毎週集計。
三か月後に制度見直し。
クラリスはその照会を読み、静かに頷いた。
「よい案です」
イリスが横から見る。
「王太子殿下が?」
「はい」
「謝罪ではなく、仕組みを作られたのですね」
「そのようです」
クラリスは少しだけ微笑んだ。
その微笑みは、昔の婚約者へ向けるものではなかった。
王太子として、少しずつ変わろうとしている人への評価だった。
オスカーが資料を見ながら言う。
「三週間限定というのがよいですね。恒常化すると、また別の部署のようになります」
「ええ。初期負担を吸収するための一時チームとして妥当です」
「返答は?」
「助言として、二点だけ追加します」
クラリスは羽根ペンを取った。
一、差し戻し対応一時チームにも業務量記録をつけること。
二、差し戻し理由の多い部署へは、叱責ではなく記入例を共有すること。
最後に短く添える。
謝罪より、負担を減らす仕組みを優先した判断は妥当です。
書いてから、一瞬だけ迷った。
少し踏み込みすぎだろうか。
だが、これは職務上の評価だ。
クラリスはそのまま残した。
夕方前、返答を受け取ったジュリアスは、その最後の一文でしばらく手を止めた。
謝罪より、負担を減らす仕組みを優先した判断は妥当です。
妥当。
クラリスらしい言葉だった。
優しいようで、少し硬い。
だが、今のジュリアスにはちょうどよかった。
許しではない。
慰めでもない。
判断への評価。
それがありがたかった。
「殿下?」
トーマが声をかける。
「いや、何でもない」
ジュリアスは返答書を閉じた。
「一時チームを設置する。今日中に人員案を出す」
「はい」
「ライオネル」
「はい」
「通常決裁班と差し戻し分類班の線引きを頼む」
「承知しました」
「トーマは根拠資料台帳班。ただし、ライオネルの確認を受けること」
「はい!」
「声が大きい」
「失礼しました」
若い書記官は慌てて頭を下げた。
その様子を見て、王太子府の空気が少しだけ柔らかくなる。
柔らかくなったところで、ジュリアスは立ち上がった。
「皆、聞いてくれ」
部屋にいた補佐官、書記官、記録係が顔を上げる。
ジュリアスは、少しだけ言葉を探した。
ここで「すまない」と言わない。
言いたくなる。
だが、言わない。
ライオネルに止められたからではない。
その理由が分かったからだ。
「差し戻し確認の導入で、負担が増えていることは分かっている」
皆が静かに聞いている。
「私は謝らない」
その一言で、部屋がわずかに揺れた。
トーマなど、目を丸くしている。
ジュリアスは続けた。
「謝れば、君たちは負担を言いにくくなる。だから、謝罪ではなく仕組みを変える」
ライオネルが、ほんの少しだけ目を伏せた。
ジュリアスは、その反応を見て、先ほどの助言が間違っていなかったと知った。
「今日から三週間、差し戻し対応一時チームを置く。通常決裁を止めないためだ。差し戻しが多い部署には、叱責ではなく記入例を返す。処理時間も記録する。負担が重すぎるなら、数で見えるようにする」
若い書記官の一人が、小さく息を吐いた。
それは安堵だった。
叱責ではなく記入例。
その一言だけでも、現場の怖さは少し減る。
「殿下」
別の補佐官が手を上げた。
「一時チームの期間は三週間とのことですが、延長の可能性はありますか」
「ある。ただし、延長する場合は理由を記録する」
「承知しました」
「それから」
ジュリアスは少しだけ表情を引き締めた。
「差し戻しを減らすために、確認を省くことはしない」
部屋が静まる。
「減らすべきは、不備だ。確認ではない」
その言葉を、ライオネルがすぐに紙へ記録した。
おそらく王太子府の新しい運用方針に入る。
ジュリアスはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
自分の言葉が、記録になる。
以前なら、当たり前だと思ったかもしれない。
今は、少し怖い。
しかし、その怖さが必要なのだろう。
夜になり、王太子府の差し戻し箱の横に、新しい箱が三つ置かれた。
分類待ち
再提出案内済み
記入例作成中
トーマが手書きで札を作った。
字は少し若い。
だが、読みやすい。
ライオネルがその札を見て言った。
「もう少し文字の大きさを揃えなさい」
「はい」
「だが、分かりやすい」
「ありがとうございます」
トーマは嬉しそうに札を書き直した。
王太子府では、これまで箱や札が増えることを少し馬鹿にしていたところがある。
王宮筆頭実務顧問室の真似だと。
だが、置いてみると便利だった。
今どこで止まっているのか分かる。
誰が次に触るべきか分かる。
紙の山が、少しだけ仕事の流れに見える。
ライオネルは、そのことを認めざるを得なかった。
「トーマ」
「はい」
「明日から、差し戻し理由ごとに記入例を作る。まずは根拠資料不足からだ」
「はい。資料番号の例も入れますか」
「入れなさい。あと、前年踏襲の場合の書き方も」
「はい!」
「声が大きい」
「すみません」
同じやり取りが繰り返され、近くの書記官が小さく笑った。
王太子府の空気は、まだ重い。
仕事も多い。
だが、完全に沈んではいない。
ジュリアスは執務机からその様子を見ていた。
そして、机の端に新しい札を書いた。
謝罪ではなく仕組みを。
置いてから、少し迷った。
札が増えすぎではないか。
王太子の机として、どうなのか。
そう思ったが、結局そのままにした。
今の自分には必要だ。
必要なものを見栄で片づける時期は、もう過ぎた。
翌朝、王宮筆頭実務顧問室に、王太子府から初回の一時チーム設置報告が届いた。
クラリスは受領記録を取り、内容を確認する。
通常決裁班。
差し戻し分類班。
根拠資料台帳班。
記入例作成担当。
三週間後の見直し予定。
そして最後に、ジュリアスの手書きで短く添えられていた。
すまない、ではなく、仕組みを変える。これを王太子府の返答とする。
クラリスは、その一文を読み、しばらく黙っていた。
イリスが横から尋ねる。
「どうされました」
「殿下が、本当に変わろうとしているのだと思いました」
「よろしいことでは?」
「はい」
クラリスは静かに頷いた。
「過去が消えるわけではありませんが」
「消す必要もないかと」
「ええ」
過去は消えない。
婚約者としての失望も、王太子府が彼女の働きに甘えていたことも、署名の形骸化も。
けれど、過去が消えないことと、今の変化を見ないことは違う。
ジュリアスは今、王太子として自分の部署を変えようとしている。
謝って済ませるのではなく、仕組みで返そうとしている。
それは、認めてよい変化だった。
クラリスは、王太子府からの報告を名前をつけるの箱へ入れた。
紙にはこう書いた。
謝罪から仕組みへの転換
イリスがそれを見て頷く。
「よい名前です」
「ええ」
「王太子殿下にも、札が必要そうですね」
「もうご自分で作っていると思います」
「増えますね」
「王宮中に?」
「はい」
クラリスは少し笑った。
王宮中に札が増える。
想像すると、少しおかしい。
けれど、それで仕事が見えるなら、悪くない。
王太子府の差し戻し箱は、まだ空ではない。
部下たちの疲れも、すぐには消えない。
だが、ジュリアスは初めて、部下に謝らなかった。
謝罪で自分の心を軽くするのではなく、負担を減らす仕組みを作った。
その一歩は小さい。
でも、王太子府にとっては大きかった。




