第68話 若手監査官を守るのは、改革ではなく記録です
財務院の人事異動案は、いつも何気ない顔で回ってくる。
大きな封筒でもない。
赤い紐で縛られているわけでもない。
重大案件を示す封蝋が押されているわけでもない。
ただの薄い紙束。
表題も、淡々としている。
地方財務出張所配置候補者一覧
それだけだった。
だからこそ、恐ろしい。
人を遠ざける時、王宮は怒鳴らない。
処罰とも言わない。
左遷とも書かない。
経験を積ませる。
地方実務を学ばせる。
人員の均衡を図る。
将来のために幅を持たせる。
そういう、反論しづらい言葉で包む。
エリオット・グレインの名は、その一覧の三番目にあった。
配属候補地。
北西地方財務出張所。
任期。
二年。
理由。
地方交易実務および関税補助経験を積ませるため。
クラリスがその写しを受け取ったのは、午後の終わり近くだった。
持ってきたのは、オスカーである。
彼はいつもよりさらに顔色が悪かった。
「クラリス顧問」
「はい」
「王弟府経由で、財務院の人事候補一覧の写しが届きました」
その時点で、クラリスは嫌な予感がした。
王弟府経由。
つまり、通常の回覧ではない。
誰かが「これは見た方がいい」と判断して回してきたということだ。
封を開け、エリオットの名を見つけた瞬間、胸の奥が冷えた。
次に、熱くなった。
「……早いですね」
クラリスは言った。
声は落ち着いていた。
自分でも意外なほど。
オスカーは小さく頷く。
「はい。北方慈善交易路の協議から、まだ二日です」
イリスが茶を置く手を止めた。
彼女も紙面を見た。
「エリオット監査官を、地方へ?」
「候補です」
クラリスは紙から目を離さずに答えた。
「まだ決定ではありません」
「表向きの理由は?」
「地方交易実務および関税補助経験」
「便利な理由でございますね」
「ええ」
便利すぎる。
北方慈善交易路の協議で、エリオットは財務院内から改革寄りの発言をした。
交易利益と慈善物資を分ける必要がある。
金額が大きいからこそ確認が必要だ。
財務院側の理屈としても、彼の発言は正しかった。
だが、それは旧派にとって都合が悪い。
財務院が交易路管理で巻き返そうとする中、内部から「確認が必要」と言う若手は扱いづらい。
なら、地方へ。
経験のために。
きれいな理由だった。
きれいすぎて、腹が立った。
クラリスは、すぐに立ち上がりかけた。
財務院へ照会を出す。
グレゴール参事官に理由を問う。
レオンハルトに相談する。
国王へ――。
「お嬢様」
イリスが静かに言った。
その声で、クラリスは動きを止めた。
イリスは机の上に札を置く。
感情で走らない
クラリスは、指先に力が入っていることに気づいた。
紙が少し曲がりかけている。
慌てて力を抜く。
「……分かっています」
「今は、かなり分かっておられない顔でした」
「そうね」
クラリスは認めた。
悔しい。
怒っている。
エリオットは、自分の身を守るためではなく、財務院に必要な発言をした。
それで遠ざけられるなら、黙っていられない。
だが、ここでクラリスが感情的に人事へ介入すれば、噂はすぐ広がる。
王宮筆頭実務顧問が財務院人事に口を出した。
自分に都合のよい若手監査官を囲い込もうとしている。
財務院の独立性を脅かしている。
そう言われる。
そして、一番困るのはエリオットだ。
クラリスに守られた若手。
そう見られれば、彼は財務院でさらに孤立する。
「まず、記録です」
クラリスは自分に言い聞かせるように言った。
イリスが頷く。
「はい」
オスカーは、すでに白紙を用意していた。
さすがだった。
「照会項目を整理します」
クラリスは椅子に座り直し、羽根ペンを取った。
まず、見出し。
財務院人事候補案に関する確認事項
一、異動案が作成された日付。
二、候補者選定の基準。
三、エリオット・グレイン監査官の現在担当案件。
四、確認費基準草案作成への関与状況。
五、北方慈善交易路共同調査案への担当予定。
六、異動後の代替担当者。
七、異動理由の詳細。
八、財務院内規における人事候補選定手順との整合性。
九、現在進行中の案件への影響評価。
十、本人への事前説明の有無。
書きながら、クラリスは少しずつ呼吸を整えた。
怒りが、文字へ変わっていく。
怒鳴るより、ずっと冷たい形になっていく。
オスカーが横で言った。
「個人を守るというより、進行中案件への影響確認ですね」
「はい」
「人事への直接介入ではありません」
「その線を守ります」
イリスが、もう一枚札を置いた。
守るなら、手順で
「今日の札は刺さりますね」
「刺さるように作っております」
クラリスは少しだけ苦笑した。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのはレオンハルトだった。
手には、同じ人事候補一覧の写し。
表情は、かなり険しい。
「見たか」
「はい」
「怒っているな」
「はい」
クラリスは隠さなかった。
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「私もだ」
「殿下」
「だが、怒って動くと悪手になる」
「分かっています」
「ならいい」
彼は机の上の照会項目を見た。
しばらく黙って読み、頷く。
「よい。これなら人事への介入ではなく、担当案件への影響確認として出せる」
「王弟府から出しますか」
「いや」
レオンハルトは首を振った。
「最初は顧問室からでいい。王弟府が前に出ると、財務院は身構える」
「では、顧問室から財務院へ」
「写しを王弟府へ。必要なら次に王弟府が手順確認として動く」
「承知しました」
レオンハルトは、少しだけ声を低くした。
「エリオット本人には?」
「今は直接連絡しません」
「理由は」
「彼がまだ知らされていない可能性があります。こちらから伝えれば混乱させますし、財務院内で“顧問室と通じている”と見られます」
「正しい」
正しい。
けれど、苦い。
心配している人へ、すぐに声をかけられない。
それもまた、政治の距離だった。
照会文は、その日のうちに送られた。
文面はあくまで冷静。
北方慈善交易路共同調査および確認費基準草案に関わる担当者変更が検討されているようなので、進行中案件への影響確認のため必要事項を照会する。
それだけ。
エリオットを守りたいとは書かない。
不当人事ではないかとも書かない。
ただ、日付と理由と担当案件と代替人員を問う。
財務院が一番嫌がる問いだった。
なぜなら、曖昧に出した人事案の輪郭が、紙の上で見えてしまうからだ。
翌朝、財務院から一次回答が届いた。
早い。
早すぎる。
それだけ、向こうもこの照会に緊張したのだろう。
クラリスは開封し、内容を確認した。
一、異動案作成日。
北方慈善交易路協議の翌日。
クラリスは、その日付に目を止めた。
やはり早い。
二、候補者選定の基準。
若手監査官の地方実務経験付与。
三、エリオットの現在担当案件。
確認費基準草案補助、過去確認費相当支出一覧作成、北方慈善交易路共同調査予備資料の財務院側整理。
四、代替担当者。
未定。
クラリスは、そこで羽根ペンを置いた。
「未定」
オスカーが呟く。
「非常にまずいですね」
「ええ」
進行中案件が三つある。
しかも、そのどれもが改革の中核に近い。
それなのに代替担当者が未定。
経験付与という名目にしては、引き継ぎが雑すぎる。
五、本人への事前説明。
未実施。
イリスが静かに言った。
「これは、急いでおりますね」
「はい」
クラリスは二枚目の照会文を作った。
今度は、さらに具体的に。
追加照会
一、代替担当者未定のまま異動候補に入れた理由。
二、確認費基準草案の完成予定日への影響。
三、過去確認費相当支出一覧の作業継続方法。
四、北方慈善交易路共同調査における財務院側資料整理の代替体制。
五、異動時期が現在である必要性。
六、三案件完了後の異動検討では不都合があるか。
最後の一文は、かなり鋭かった。
だが必要だった。
三案件完了後の異動検討では不都合があるか。
今でなければならない理由を問う。
もし本当に経験のためなら、案件完了後でもいいはずだ。
今でなければならない理由があるなら、それを文書に残さなければならない。
レオンハルトはその文を読み、静かに頷いた。
「効く」
「効きすぎますか」
「ちょうどいい」
「財務院は嫌がりますね」
「嫌がるだろうな」
彼は少しだけ口元を動かした。
「だが、怒鳴るよりずっといい」
追加照会を送った日の午後、グレゴール財務参事官から面会希望が来た。
場所は、王宮中央棟の小会議室。
出席者は、グレゴール、クラリス、レオンハルト、オスカー。
財務院の記録官も同席する。
エリオット本人はいない。
それも予想通りだった。
会議室に入ると、グレゴールはいつもより硬い表情をしていた。
「クラリス顧問」
「グレゴール参事官」
「人事候補案について、ずいぶん詳細な照会をいただきました」
「進行中案件への影響確認です」
「財務院の人事は、財務院内で判断するものです」
「承知しております」
クラリスは静かに答えた。
「ですので、人事の是非ではなく、担当案件への影響を確認しております」
グレゴールは目を細めた。
「同じことではありませんか」
「違います」
クラリスは即答した。
「財務院が誰をどこに配置するかを、顧問室が決めることはできません。しかし、王宮筆頭実務顧問室、王妃執務院、王太子府、王弟府、ノルヴァルト大使館が関わる進行中案件の担当者が突然変更されるなら、影響確認は必要です」
レオンハルトが続けた。
「王弟府としても、共同調査の手順確認に影響が出るなら把握する必要がある」
グレゴールは、少しだけ息を吐いた。
「エリオット監査官一人が抜けても、財務院は動きます」
「もちろんです」
クラリスは頷いた。
「では、代替担当者をお示しください」
沈黙。
それが答えだった。
グレゴールは、少し不機嫌そうに書類を見た。
「現在、調整中です」
「候補は?」
「未定です」
「引き継ぎ期間は?」
「異動が正式決定してから」
「本人への事前説明は?」
「まだ候補段階ですので」
「では、候補段階でありながら、進行中三案件の担当者変更可能性があるということですね」
オスカーの筆が静かに動く。
グレゴールは、その筆音を聞いているようだった。
記録されている。
この会話が。
それは財務院にとって厄介なことだ。
言葉で押し切れない。
後から「そんな意味ではない」と言いづらい。
「クラリス顧問」
グレゴールは低く言った。
「あなたは、エリオット監査官を守ろうとしているのですか」
また、真正面から来た。
クラリスは、少しだけ間を置いた。
以前なら、ここで感情が出たかもしれない。
はい、守りたいです。
彼は必要な人材です。
不当に飛ばすべきではありません。
そう言いたい。
だが、今は違う答えが必要だった。
「私は、進行中の仕事を守ろうとしています」
クラリスは言った。
グレゴールは黙って見る。
「確認費基準草案、過去確認費相当支出一覧、北方慈善交易路共同調査。これらは、財務院だけでなく王宮全体に関わる案件です。その担当者を変更するなら、理由と代替体制が必要です」
「人ではなく、仕事を守ると?」
「はい」
「綺麗な言い方ですな」
「人を理由なく遠ざけるよりは、ずっと綺麗だと思います」
言った瞬間、部屋の空気が止まった。
少し踏み込んだ。
クラリス自身も分かった。
オスカーの筆が、一瞬だけ止まり、すぐに再開する。
レオンハルトは何も言わない。
グレゴールは、しばらくクラリスを見ていた。
怒るかと思った。
だが、彼は怒鳴らなかった。
「……候補案を一時保留にします」
静かな声だった。
「理由は?」
クラリスが尋ねる。
グレゴールは、苦い顔をした。
「進行中案件への影響確認が不十分だったため」
「記録してよろしいでしょうか」
「どうせ記録するのでしょう」
「はい」
「では、そのように」
オスカーが丁寧に書き取る。
エリオット・グレイン監査官の地方財務出張所配置候補案は、進行中案件への影響確認が不十分であるため一時保留。代替体制および引き継ぎ案が整うまで再審議。
クラリスは、胸の奥でようやく息を吐いた。
勝ったわけではない。
異動案が完全に消えたわけでもない。
だが、止まった。
急な人事が、記録の前で止まった。
会議が終わる前に、グレゴールが言った。
「クラリス顧問」
「はい」
「財務院内の人事に、今後もこのような照会を?」
「進行中の共同案件に影響がある場合は」
「……本当に厄介ですな」
「よく言われます」
グレゴールは、今度は少しだけ笑った。
疲れたような笑いだった。
「エリオット監査官本人には、こちらから説明します」
「承知しました」
「彼を英雄にするつもりはありません」
「必要ありません」
クラリスは答えた。
「仕事を続けてもらえれば十分です」
その日の夕方、エリオットは財務院記録室で呼び出しを受けた。
相手はグレゴール参事官だった。
正直、覚悟はしていた。
地方異動の噂は耳に入っていた。
誰もはっきり言わないが、周囲の態度で分かる。
資料の回りが遅くなり、会話が減り、自分の机だけ少し空気が違う。
そして今日、参事官に呼ばれた。
決定かもしれない。
そう思っていた。
だが、告げられたのは別のことだった。
「地方出張所への配置候補案は、一時保留となった」
エリオットは、思わず顔を上げた。
「保留、ですか」
「進行中案件への影響確認が不十分だった」
グレゴールの声は硬い。
「確認費基準草案、過去確認費相当支出一覧、北方慈善交易路共同調査。君はこの三件に関わっている。代替体制なしに動かすのは、手順として粗かった」
エリオットは、しばらく言葉が出なかった。
自分の能力が評価された、というより、担当している仕事が記録上守られたのだと分かった。
「……クラリス顧問が」
「進行中案件への影響照会があった」
グレゴールは、少しだけ目を細めた。
「君個人を守る文面ではなかった」
「はい」
「だから止まった」
エリオットは、その意味をゆっくり理解した。
もしクラリスが「エリオットを異動させないでほしい」と言ったなら、財務院は反発しただろう。
王宮筆頭実務顧問が財務院人事に介入したと。
自分も、さらに居づらくなったかもしれない。
だが、進行中案件への影響確認。
担当者、代替人員、日付、引き継ぎ。
その記録が、人事案を止めた。
「参事官」
「何だ」
「私は、この三件を続けてよろしいのでしょうか」
「続けなさい」
短い返事だった。
だが、重かった。
「ただし」
グレゴールは続けた。
「財務院の者として続けるのだ。実務顧問室の者ではない」
エリオットは背筋を伸ばした。
「承知しております」
「ならよい」
部屋を出る時、グレゴールが最後に言った。
「赤字を入れるなら、根拠も添えなさい」
エリオットは振り返る。
参事官は書類に目を落としていた。
こちらを見ていない。
それでも、言葉は確かに向けられていた。
「はい」
エリオットは深く礼をした。
夜、王宮筆頭実務顧問室に、エリオット本人から短い礼状が届いた。
公式ではない。
だが、私信というほど私的でもない。
職務上の礼状だった。
進行中案件への影響照会により、担当継続となりました。ありがとうございました。
クラリスは、その文面を読み、少しだけ安堵した。
すぐに返事を書こうとして、手を止める。
感情で書くと、余計なことを書きそうだった。
イリスが横から静かに見ている。
「お返事は?」
「書きます。ただし、短く」
クラリスは羽根ペンを取り、こう書いた。
あなたを私が守ったのではありません。あなたの仕事を、記録が守りました。引き続き、財務院の監査官として必要な記録をお願いいたします。
書き終えて、自分で少し冷たい文面かと思った。
だが、これでいい。
エリオットを自分の側に引き寄せるわけではない。
彼は財務院の監査官として立つ必要がある。
その仕事が守られたのだ。
イリスが文面を読んで、頷いた。
「よろしいかと」
「冷たくありませんか」
「温かくしすぎる方が危険です」
「そうね」
クラリスは封をした。
その後、机の上の七つの箱を見た。
今日使ったのは、名前をつけると、誰かに任せると、少しだけ緊急。
新しい箱、国際案件にも、北方慈善交易路の関係書類が増えている。
そして、今日の教訓を書いた紙を一枚作った。
人を守る時も、怒鳴るより先に記録。
イリスがそれを見て、静かに札を差し出した。
「これも札にしますか」
「……しなくていいです」
「よい言葉ですが」
「増えすぎます」
「箱も増えましたし、札も増えてよろしいかと」
「よくありません」
そう言いながら、クラリスは少し笑った。
若手監査官を守ったのは、改革ではなかった。
クラリスの怒りでもなかった。
王弟府の力でもなかった。
日付。
担当案件。
代替人員。
異動理由。
影響評価。
それらを問う記録だった。
記録は、時に人を縛る。
けれど、時に人を守る。
そのことを、クラリスはまた一つ学んだ。




