第67話 財務院は、交易路で巻き返そうとする
財務院からの照会文は、予想より早く届いた。
北方慈善交易路の提案が王宮筆頭実務顧問室に届いてから、まだ二日しか経っていない。
その間に、クラリスは王太子府、王弟府、王妃執務院、ノルヴァルト大使館との初期整理を始めたばかりだった。
財務院には、正式共有前の概要照会を出す予定だった。
こちらから出す予定だった。
しかし、向こうが先に動いた。
封筒には、財務院の公印。
差出人は、グレゴール財務参事官。
表題は、丁寧で、硬く、そして主張がはっきりしていた。
北方慈善交易路に関する財務院管轄確認について
クラリスは、それを見ただけで小さく息を吐いた。
「来ましたね」
オスカーが隣で言った。
彼は最近、胃薬を机の引き出しではなく、羽根ペンの隣に置くようになっている。
それがよいことなのか悪いことなのか、クラリスには分からない。
少なくとも、必要なことではあるらしい。
「予想通りです」
クラリスは封を開ける前に、受領記録を取った。
差出部署。
受領時刻。
件名。
添付資料数。
返信期限。
それから封を切る。
イリスが、少し離れた場所から見ていた。
「お嬢様」
「はい」
「開封前から眉間に皺が寄っております」
「寄ります」
「では、お茶は濃いめにいたします」
「お願いします」
クラリスは文面を読み進めた。
内容は、予想通りだった。
北方慈善交易路は、慈善物資を含むとはいえ、実態としては交易路である。
交易には、関税、港湾記録、輸送費、商会契約、輸出入価格、為替処理、保管費が関わる。
これらは従来、財務院の管轄である。
したがって、北方慈善交易路の共同調査および将来的な共同管理については、財務院を主担当とするのが妥当である。
王妃執務院および王宮筆頭実務顧問室は、慈善物資の受領確認に関する助言および補助に留めるべきである。
文章は礼儀正しい。
だが、中身は明確だった。
交易路は財務院のものだ。
そう言っている。
「どう見ますか」
オスカーが尋ねる。
「正論が半分、巻き返しが半分です」
クラリスは答えた。
「交易路である以上、財務院の関与は不可欠です。そこは正しい」
「はい」
「ですが、慈善物資を“交易の一部”としてだけ扱えば、また最終受領先が見えなくなります」
イリスが茶を置く。
「財務院は、確認費で押され気味でしたから」
「ええ」
クラリスは文書を机に置いた。
「交易路管理なら、自分たちの専門領域だと主張できます。実際、その通りでもあります」
「厄介でございますね」
「正しい部分がある主張は、厄介です」
完全な誤りなら否定すればいい。
だが、財務院の言い分には正しさがある。
関税や港湾記録を王妃執務院が管理することはできない。
王宮筆頭実務顧問室が商会契約の詳細をすべて握るのもおかしい。
財務院なしに交易路は動かない。
しかし、財務院単独ではまた同じ穴が空く。
商会報告。
港湾到着。
中継倉庫。
関税処理。
そこまでは美しく記録される。
だが、その先の孤児院や施療院へ届いたかどうかが見えなくなる。
慈善物資と商業物資が同じ船に積まれ、同じ倉庫を通り、同じ帳簿に「北方毛織物」とまとめられれば、善意は数字の中で溶ける。
「レオンハルト殿下と王太子殿下へ共有します」
クラリスは言った。
「財務院との協議を設定する必要がありますね」
「はい。ただし、最初から対立の場にはしません」
「財務院を排除しない」
「ええ」
クラリスは新しい紙を取り出した。
見出しを書く。
北方慈善交易路における財務院関与の整理
その下に、まず一行。
財務院の関与は不可欠。ただし単独管理は不可。
オスカーが、その一文を見て頷いた。
「今回の中心ですね」
「はい」
「財務院が見たら、かなり嫌がりそうです」
「でしょうね」
クラリスは、淡々と答えた。
「でも、書きます」
午後、財務院との協議が開かれた。
場所は財務院ではなく、王宮中央棟の小会議室。
どちらかの部署の部屋に入ると、場の主導権が偏る。
そこで、あえて中立の部屋が選ばれた。
出席者は、クラリス、レオンハルト、オスカー。
財務院側からは、グレゴール財務参事官、エリオット若手監査官、港湾会計担当官のボルク。
ノルヴァルト公国からは、セルゲイ大使。
王太子府からは、ジュリアス本人ではなく、外交書記官が同席する予定だった。
だが、会議開始直前に扉が開き、ジュリアスが入ってきた。
全員が一瞬だけ驚く。
「予定より時間が取れた」
ジュリアスは短く言った。
「王太子府の外交案件でもある。私も聞く」
クラリスは礼をした。
「承知いたしました」
グレゴール参事官は、顔には出さなかったが、少しだけ計算を変えたようだった。
王太子本人が同席するなら、財務院も言葉を選ばざるを得ない。
それがよい方向に働くか、悪い方向に働くかはまだ分からない。
会議が始まると、まずグレゴールが口を開いた。
「北方慈善交易路の件につきまして、財務院の立場を申し上げます」
いつものように、声は丁寧だった。
「本件は慈善物資を含むとはいえ、港湾、関税、輸送、商会契約、価格調整を伴う交易案件です。従来の王宮規程上、財務院の管轄を中心に置くのが妥当と考えます」
クラリスは頷いた。
「その点は理解しております」
グレゴールは、少しだけ目を細めた。
反論されると思っていたのかもしれない。
「交易路管理に財務院が関わらないことはあり得ません」
クラリスは続けた。
「関税、港湾記録、商会契約、輸送費、保管費。これらは財務院の専門です。王妃執務院や顧問室が単独で扱うべきものではありません」
「では」
「ですが」
クラリスは、静かに言葉を重ねた。
「財務院単独管理にもできません」
会議室の空気が硬くなった。
グレゴールは笑みを消さない。
だが、目は笑っていなかった。
「理由を伺いましょう」
「今回の慈善物資流通不正では、商会報告や中継記録が整っていても、最終受領先へ届いていない事例がありました。交易路の上流だけを管理しても、慈善物資が本来の目的地へ届いたかは確認できません」
オスカーが資料を配る。
南施療院の膝掛け未着。
孤児院の冬服不足。
包帯布の品質低下。
ノルヴァルト毛織物の輸出記録と国内中継後の数量差。
既に何度も見た資料だ。
だが、北方慈善交易路の話になると、また違う重さを持つ。
「交易利益と慈善物資を分けて記録する必要があります」
クラリスは言った。
「商業毛織物百反と、施療院支援用毛織物十反を同じ“北方毛織物”として扱えば、数字上は整います。しかし、慈善分が途中で商業分に混ざっても見えなくなります」
港湾会計担当官ボルクが口を開いた。
「港湾では、荷の種類と総量で管理します。用途別に細かく分けると処理が煩雑になります」
「承知しています」
「船荷の段階で、商業用と慈善用を分けるには商会側の協力も必要です。荷札、保管場所、関税処理、すべて手間が増える」
「はい」
「その手間は誰が負担するのですか」
ボルクの言葉は実務的だった。
敵意というより、現場の苛立ちに近い。
クラリスはその点を軽んじなかった。
「そこを確認するために、まず共同調査が必要です」
「共同管理ではなく?」
「はい。現時点では、共同管理に進む前に、毛織物と薬草布の二品目に絞った共同調査を提案します」
セルゲイ大使が静かに頷いた。
「ノルヴァルト公国としても、その方向で再提案する用意があります」
グレゴールはセルゲイを見た。
「大使も、共同管理ではなく調査からでよろしいと?」
「制度は、急げば壊れます」
セルゲイは穏やかに答えた。
「長い交易路ほど、最初の杭を深く打つべきです」
詩のような言い回しだが、内容は現実的だった。
グレゴールは少しだけ鼻から息を吐いた。
「調査であっても、港湾記録と関税記録は財務院が管理します」
「もちろんです」
クラリスは答えた。
「ただし、調査票には受領確認欄を組み込みます」
「受領確認欄」
「はい。輸出元記録、港湾到着記録、国内中継記録、商会保管記録、最終受領先確認。五段階で見る形です」
エリオットが資料を覗き込む。
「五段階……ミレーヌ様の五欄様式を交易路用に拡張した形ですね」
「基礎はそうです」
クラリスは頷いた。
「ただし、国際交易用には品目分類と関税処理欄を追加する必要があります」
グレゴールがすぐに言った。
「関税処理欄は財務院が管理します」
「はい」
「では、財務院の記録が主で、受領確認は付随記録という扱いで」
「いいえ」
クラリスは即座に否定した。
グレゴールの眉が動く。
「受領確認は付随ではありません。慈善物資に関しては、最終受領先確認まで揃って初めて完了です」
「しかし、交易上の完了は港湾到着および関税処理で」
「商業交易としてはそうです」
クラリスは静かに言った。
「慈善物資としては違います」
会議室が静まる。
この区別が、今回の中心だった。
商業交易としての完了。
慈善物資としての完了。
財務院は前者を見たい。
王妃執務院や顧問室は後者を見なければならない。
どちらも必要。
だが、どちらか一方だけでは足りない。
「ですので、交易利益と慈善物資を分けて記録します」
クラリスは続けた。
「関税収入、商会利益、輸送費、保管費は財務院が見る。ただし、慈善物資分については、受領先確認まで閉じない。二つを混ぜないことが重要です」
グレゴールは、手元の紙を指で軽く叩いた。
「理屈は分かります。しかし、財務院側の負担が大きい」
「その負担も記録します」
「また記録ですか」
グレゴールの声に、少し皮肉が混じった。
クラリスは動じなかった。
「はい。負担を記録しなければ、誰かが無償で埋めます」
エリオットが、わずかに顔を上げた。
その言葉は、彼にも響いたようだった。
「港湾で慈善分を分けるための追加作業が必要なら、確認費に入れます。商会側に求めるなら契約条件に入れます。王妃執務院側に受領確認が必要なら、慈善記録官室の人員計画に入れます」
クラリスは、グレゴールをまっすぐ見た。
「見えない負担にしないための協議です」
しばらく沈黙が続いた。
最初に口を開いたのは、エリオットだった。
「財務院側から見ても」
彼の声は少し慎重だった。
「交易利益と慈善物資の記録を分けることには意味があります」
グレゴールがゆっくり彼を見る。
「続けなさい」
「商業分と慈善分が混在すると、関税免除や減免措置の扱いが曖昧になります。慈善物資として免除されたものが、商業分へ混ざれば財務上も問題です」
ボルク港湾会計担当官も、少し考える顔になった。
「確かに、慈善免除分の荷が商業倉庫へ移れば、関税記録にも影響します」
「はい」
エリオットは続けた。
「金額が大きいほど、確認が必要です。交易路だからこそ、です」
その言葉は、前の協議でも彼が言ったものに近かった。
だが今回は、より財務院の言葉になっている。
慈善のためだけではない。
財務のためにも、分ける必要がある。
グレゴールはしばらく黙っていた。
その沈黙は、エリオットにとって長かっただろう。
彼は財務院内で孤立し始めている。
ここでまた発言するのは、簡単ではなかったはずだ。
しかし、エリオットは目を伏せなかった。
「……一理あります」
グレゴールがようやく言った。
短い。
だが、否定ではない。
セルゲイ大使が静かに微笑む。
「ノルヴァルト側としても、慈善免除分と商業分が混ざることは望みません。輸出元の信用にも関わります」
「では」
ジュリアスが口を開いた。
王太子として、会議を前へ進める声だった。
「共同調査の初期条件を整理しよう」
彼は資料を見ながら言った。
「一、対象物資は毛織物と薬草布」
オスカーが書き取る。
「二、期間は三か月」
「三、輸出元記録、港湾到着、国内中継、商会保管、最終受領先確認の五段階を調査」
「四、関税処理欄は財務院が管理」
「五、慈善物資の最終受領確認は王妃執務院および慈善記録官室が管理」
「六、顧問室は制度設計と各部署間の照会整理を担当。ただし単独管理しない」
クラリスは、最後の一文で小さく頷いた。
単独管理しない。
それが大事だった。
ジュリアスは続けた。
「七、王弟府は証拠保全ではなく、調査手順の安全確認に限定」
レオンハルトが頷く。
「八、ノルヴァルト大使館は輸出記録と公認商会記録を提供」
セルゲイが答える。
「承知しました」
グレゴールは、少しだけ渋い顔をしながらも言った。
「九、財務院は港湾・関税・商会契約記録を提供。ただし、閲覧範囲は事前に定める」
「十、閲覧範囲と秘匿情報の扱いは別紙で」
クラリスが加える。
「よろしいですか」
全員が、それぞれの表情で頷いた。
完全な合意ではない。
だが、協議は進んだ。
財務院単独管理にはしない。
しかし、財務院を排除もしない。
制度の中に入れる。
役割を明記する。
負担も記録する。
それが今日の着地点だった。
会議の終わり際、グレゴールがクラリスに言った。
「王宮筆頭実務顧問」
「はい」
「あなたは財務院を信用していないのですか」
部屋の空気が少し変わった。
真正面から来た。
クラリスは、すぐには答えなかった。
ここで「信用しています」と言えば、軽い。
「信用していません」と言えば、敵対になる。
だから、少し考えた。
「人ではなく、仕組みを信用したいと思っています」
クラリスは答えた。
グレゴールの目が細くなる。
「仕組み」
「はい。財務院にも誠実な方はいます。不正に関わった者もいました。だから、誰か一人の善意や裁量ではなく、仕組みで確認できるようにしたいのです」
グレゴールは黙った。
クラリスは続ける。
「これは財務院だけの話ではありません。王妃執務院も、王太子府も、社交界も、顧問室も同じです」
「顧問室も?」
「もちろんです」
クラリスは頷いた。
「わたくし個人を信用して制度を動かすなら、それも危険です」
その言葉に、ジュリアスとレオンハルトが同時にわずかに反応した。
グレゴールはしばらく彼女を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……なるほど。厄介ですな」
「よく言われます」
「でしょうな」
それは、今日初めて少しだけ柔らかい声だった。
会議が終わった後、エリオットがクラリスへ近づいた。
「クラリス顧問」
「はい」
「先ほどの条件整理、助かりました。財務院側からも、交易利益と慈善物資を分ける理由が立ちます」
「あなたの発言があったからです」
エリオットは少しだけ目を伏せた。
「財務院内では、また嫌がられると思います」
「でしょうね」
「でも、財務院のためにも必要だと思います」
「はい」
クラリスは、少し声を低くした。
「無理をしすぎないでください」
エリオットは苦笑した。
「それは、クラリス顧問に言われると不思議です」
「最近、よく言われます」
「でも、ありがとうございます」
彼は礼をして下がった。
その背中を見ながら、レオンハルトが近づいてきた。
「エリオットは危ういな」
「はい」
「財務院内で目立ち始めている」
「守り方を間違えると、かえって彼を追い込みます」
「次の火種だな」
「ええ」
クラリスは、静かに頷いた。
すでに嫌な予感がある。
財務院旧派が、エリオットをこのまま置いておくとは思えない。
王宮筆頭実務顧問室へ戻ると、イリスがいつものように待っていた。
「お帰りなさいませ。財務院は巻き返しましたか」
「巻き返そうとしました」
「結果は?」
「制度内に入りました」
「それはよろしいのですか」
「はい。ただし、単独管理ではありません」
クラリスは今日の合意メモを机に置いた。
そして、新しい箱に入れた。
国際案件
その隣に、もう一枚の紙を置く。
財務院関与。単独管理不可。
イリスがそれを見て頷く。
「本日の教訓ですね」
「はい」
「エリオット監査官は?」
クラリスは少し驚いた。
「なぜ彼の名前が?」
「お嬢様のお顔が、誰かを心配している顔です」
「……本当に顔で分かるのね」
「かなり」
クラリスは小さく息を吐いた。
「彼は、財務院内でさらに目立つと思います」
「守りますか」
「守りたいです」
「感情で?」
「いいえ」
クラリスは、少し間を置いて答えた。
「記録で」
イリスは満足そうに微笑んだ。
「よろしいかと」
夕方、財務院から会議記録の確認依頼が届いた。
グレゴール参事官の署名がある。
内容は硬い。
だが、今日の合意事項はおおむね正確に記されていた。
財務院は交易路で巻き返そうとした。
だが、完全に押し切ることはできなかった。
代わりに、制度の中に入った。
それは勝利ではない。
むしろ、ここから面倒が増える。
財務院が関わるということは、財務院内の抵抗も制度の中へ入ってくるということだからだ。
クラリスは、机の上の箱を見た。
国際案件。
名前をつける。
誰かに任せる。
現物を確認する。
今日は帰る。
どの箱も、これから忙しくなるだろう。
イリスが最後に札を置いた。
今日は帰る
「まだ会議記録の確認が」
「明日でよいです」
「財務院からの正式確認です」
「明日でよいです」
「……はい」
クラリスは、会議記録を明日でよいの箱へ入れた。
少しだけ勇気が要った。
でも入れた。
財務院は、交易路で巻き返そうとした。
そしてクラリスは、財務院を排除しなかった。
ただし、単独管理も許さなかった。
改革とは、敵を外へ追い出すことではない。
時には、反発する相手を制度の中に入れ、役割を決め、見える場所で動いてもらうことでもある。
その方が、ずっと面倒だ。
けれど、王宮を本当に動かすには、たぶんその面倒から逃げられない。




