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第66話 北方慈善交易路という、新しい火種

 王宮筆頭実務顧問室に届いた書簡は、雪の匂いがしそうな封蝋で閉じられていた。


 実際に匂いがするわけではない。


 けれど、ノルヴァルト公国の紋章――雪冠を戴く鹿の印――が青白い封蝋に押されているだけで、北方の冷たい風が紙の端から入り込んでくるようだった。


 クラリスは封筒を見つめたまま、しばらく手を止めた。


「お嬢様」


 イリスが茶を置きながら言った。


「開ける前から、面倒な案件の顔をしております」


「封筒に顔はありません」


「ございます。これは、かなり面倒な顔です」


 オスカーが横から覗き込む。


「ノルヴァルト公国大使館からですか」


「はい」


「セルゲイ大使の書簡ですね」


「おそらく」


 オスカーは、少しだけ胃のあたりを押さえた。


「先日の善意確認制度への協力書簡の続きでしょうか」


「そうだと思います」


 クラリスは封蝋を確認し、受領記録を取ってから開封した。


 まず差出人。


 セルゲイ・ヴォルフガング駐在大使。


 宛先。


 王宮筆頭実務顧問クラリス・フォン・エルディア。


 そして表題。


 北方慈善交易路の共同管理に関する提案書


 その文字を読んだ瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなった。


 オスカーが、明らかに胃を押さえ直す。


 イリスは黙って、机の上にある七つの箱を見た。


 緊急

 明日でよい

 誰かに任せる

 断る

 名前をつける

 現物を確認する

 今日は帰る


 どの箱にも、まだぴたりとは入らない。


 クラリスは文面を読み進めた。


 内容は、丁寧で、理路整然としていて、そして厄介だった。


 ノルヴァルト公国は、北方の毛織物、薬草布、冬支度物資をアルヴィア王国へ安定して輸出している。


 これまでは商業交易と慈善支援が別々に扱われていた。


 だが、今回の慈善物資流通不正により、国内中継以後の記録不備が明らかになった。


 そこで、ノルヴァルト公国は提案する。


 北方産の冬支度物資について、商業流通と慈善支援を分けて記録し、輸出元、港湾到着、国内中継、最終受領先までを共同で確認する仕組みを作れないか。


 対象は、毛織物、厚手寝台布、薬草染めの包帯布、防寒外套用布地、施療院向け保温布。


 共同管理機関には、ノルヴァルト大使館、公認商会、アルヴィア王国財務院、王妃執務院、そして王宮筆頭実務顧問室が関わる。


 クラリスは、最後の一行をもう一度読んだ。


 王宮筆頭実務顧問室。


 入っている。


 当然のように。


「……来ましたね」


 オスカーが言った。


「来てしまいましたね」


 クラリスは静かに答えた。


 イリスが、そっと札を置いた。


 即答しない


「分かっています」


「念のためでございます」


「本当に分かっています」


「国際案件でございますので、二枚置きます」


 イリスは、同じ札をもう一枚置いた。


 クラリスは少しだけ笑いそうになったが、すぐに書簡へ視線を戻した。


 笑って済ませられる話ではない。


 これは善意確認制度の国際版だ。


 理念としては正しい。


 むしろ、必要に見える。


 ノルヴァルト公国側の輸出記録と、アルヴィア国内の受領記録をつなげれば、不正はかなり起きにくくなる。


 商会が「発送しました」と言い、途中で物資が消え、受領先が声を上げられない。


 そういう穴を塞げる。


 だが同時に、これは巨大な火種だった。


 外交。

 商業。

 関税。

 慈善。

 財務院の予算裁量。

 王妃執務院の記録能力。

 王太子府の外交文書。

 王弟府の調査権。

 社交界の寄付活動。

 そして、王宮筆頭実務顧問室の業務量。


 全部が絡む。


 善意確認制度は、ようやく国内で歩き始めたばかりだ。


 慈善記録官室では、まだ照会文の書き方を直している。


 王太子府では、差し戻し箱が一日でいっぱいになっている。


 財務院では、確認費という言葉だけで空気が悪くなる。


 社交界では、ローゼン侯爵夫人が敵を作りながら標準様式を広めている。


 その段階で、国際交易路を共同管理する。


 正しい。


 たぶん、とても正しい。


 だからこそ、危ない。


「レオンハルト殿下と王太子殿下にも共有します」


 クラリスは言った。


「はい」


 オスカーがすぐに写しの準備を始める。


「財務院にも?」


 イリスが尋ねる。


「まだです」


 クラリスは即答した。


「まず、概要確認です。財務院へ正式共有する前に、どの部分が財務院管轄で、どの部分が王妃執務院管轄で、どの部分が外交案件なのか整理します」


「よろしいかと」


 イリスは頷いた。


「財務院に先に渡すと?」


「交易路管理を財務院単独案件として扱われる可能性があります」


「なるほど」


「でも、財務院を外すこともできません」


 クラリスは書簡を閉じた。


「だから厄介です」


 その日の午後、外交応接室で小さな協議が開かれた。


 出席者は、セルゲイ大使、ジュリアス、レオンハルト、クラリス、オスカー。


 正式会議ではない。


 あくまで提案内容の初回説明。


 だが、部屋にはすでに正式会議に近い緊張があった。


 セルゲイ大使は、いつものように穏やかだった。


 銀灰色の髪を後ろへ流し、静かな微笑を浮かべている。


 その落ち着きが、逆に油断ならない。


 柔らかい声で、大きな話を持ち込む人である。


「クラリス顧問」


「はい」


「急な提案となりましたこと、ご容赦ください」


「急ですが、予想外ではありませんでした」


 セルゲイは少しだけ目を細めた。


「やはり、そうお考えでしたか」


「ノルヴァルト公国側の輸出記録が整っていたことで、今回の不正の発生地点を絞ることができました。その利点を、今後の交易路管理へ広げる案は自然です」


「話が早くて助かります」


「ただし、早く進められるという意味ではありません」


 クラリスがそう言うと、セルゲイは少し笑った。


「その点も、承知しております」


 ジュリアスが提案書を開く。


 王太子として、外交案件に関わる顔になっていた。


 以前の華やかさだけの表情ではない。


 慎重に読む顔だ。


「北方慈善交易路という名称だが、これは商業交易も含むのか」


「はい、王太子殿下」


 セルゲイが答える。


「慈善物資だけを抜き出して管理すると、かえって抜け道が生まれます。同じ船、同じ倉庫、同じ商会で扱われることが多いためです」


「つまり、商業流通の中に慈善物資が紛れ、そこで数量や品質が変わる危険がある」


「その通りです」


 レオンハルトが低く言う。


「財務院と商会が強く関わるな」


「避けられません」


 セルゲイはあっさり認めた。


「関税、港湾記録、輸送費、商会契約。これらは財務院の領域です」


「同時に、最終受領先は王妃執務院と慈善記録官室の領域です」


 クラリスが続ける。


「はい」


 セルゲイは頷いた。


「ですので、共同管理と申し上げています」


 オスカーが資料を見ながら、少し眉を寄せた。


「対象物資が多いですね。毛織物、厚手寝台布、薬草布、包帯布、防寒外套用布地、保温布……」


「北方では冬支度物資の種類が細かく分かれています」


 セルゲイは説明する。


「同じ布でも、寝台用、外套用、包帯用、施療院保温用では品質が違います」


 クラリスは、すぐにミレーヌの品目分類表を思い出した。


 膝掛け、毛布、寝台布、包帯布。


 同じ布でも用途が違う。


 国内の慈善確認で苦労していることが、国際交易路ではさらに大きくなる。


「品目分類が鍵になりますね」


「ええ」


 セルゲイは少し嬉しそうに言った。


「貴国の慈善記録官室が作り始めた分類表は、非常に興味深い」


 クラリスは、少し警戒した。


「大使。どこでそれを?」


「王妃執務院経由で、標準様式の概要を拝見しました。もちろん、正式に許可された範囲です」


「そうでしたか」


「ミレーヌ様のお名前もありました」


 クラリスは一瞬だけ黙った。


 ミレーヌの名前が、国際案件の場で出た。


 それは誇らしくもあり、少し不安でもあった。


 まだ仮合格の補佐見習いだ。


 過度に注目されれば、負担になる。


「ミレーヌは、まだ補佐見習いです」


 クラリスは言った。


「承知しています。ですが、見習いの仕事が制度の根に関わることは珍しくありません」


 セルゲイの声は穏やかだった。


「若い記録は、時に古い慣例より正直です」


 それは褒め言葉でもあり、外交官らしい観察でもあった。


 ジュリアスが資料から顔を上げる。


「この共同管理案を進める場合、王太子府は外交文書と承認手続きを担うことになる」


「はい」


「財務院は関税と港湾記録」


「はい」


「王妃執務院は受領先確認」


「はい」


「王宮筆頭実務顧問室は?」


 その問いで、視線がクラリスへ集まった。


 クラリスは、すぐには答えなかった。


 提案書上では、顧問室は制度設計と横断確認を担うことになっている。


 だが、それをそのまま受ければ、顧問室の仕事は一気に膨れ上がる。


 国内制度すら試運用段階なのだ。


 国際制度をそのまま抱えれば、また「できる人に全部任せる」形に戻る。


 クラリスは、イリスが置いた札を思い出した。


 即答しない。


 二枚も置かれた札だ。


「現時点では、制度設計全体を顧問室が担うとは申し上げられません」


 クラリスは言った。


 セルゲイは、静かに聞いている。


「善意確認制度は、ようやく歩き始めたばかりです。慈善記録官室、王太子府、財務院、社交界、いずれも初期運用の課題を抱えています」


「はい」


「国際交易路へ広げるなら、まず足元が崩れないか確認します」


 レオンハルトが、わずかに頷いた。


 ジュリアスも、何も言わずに聞いている。


「具体的には」


 クラリスは指を折るように続けた。


「第一に、国内の善意確認制度の運用状況。第二に、北方物資の品目分類基準。第三に、港湾記録と受領先記録の接続方法。第四に、財務院の関税記録と慈善物資記録の分離。第五に、王太子府の外交承認手順。第六に、顧問室の業務範囲と補佐体制」


 オスカーが必死に書き取る。


 セルゲイは少し目を細めた。


「かなり慎重ですね」


「必要な慎重さです」


「お断りになる可能性も?」


「あります」


 クラリスは、はっきり言った。


 オスカーの筆が一瞬止まりかけた。


 ジュリアスも少しだけ目を動かした。


 外交の場で、断る可能性を正面から言うのは、なかなか強い。


 だが、曖昧に期待を持たせる方が危険だった。


「ただし、検討はいたします」


 クラリスは続けた。


「この提案は、善意確認制度の発展として大きな意味があります。しかし、制度は広げればよいものではありません。広げた先で崩れれば、国内制度ごと信用を失います」


 セルゲイは、しばらくクラリスを見ていた。


 やがて、穏やかに笑った。


「やはり、貴女に提案してよかった」


「なぜでしょう」


「簡単に飛びつかないからです」


 セルゲイは言った。


「我が国にも、こういう共同事業を功績として急ぎたい者はおります。けれど、慈善と交易は急げば歪みます」


「同感です」


「では、正式検討前の共同調査という形はいかがでしょう」


「共同調査」


「はい。制度を作る前に、まず実態を調べる。北方物資の現在の流れ、既存帳簿、商会ごとの扱い、港湾到着後の中継、最終受領先まで。貴国の制度に合わせるというより、現状を見えるようにする」


 クラリスは少し考えた。


 共同管理ではなく、共同調査。


 それなら、今すぐ制度化するより現実的だ。


 ただし、調査にも人が要る。


 財務院が絡む。


 商会が絡む。


 外交が絡む。


 やはり火種であることには変わりない。


「共同調査であっても、範囲を限定する必要があります」


「もちろん」


「対象物資を一つか二つに絞り、期間も区切ります」


「候補は?」


「毛織物と薬草布でしょうか」


 クラリスは答えた。


「今回問題となった冬支度物資に近く、かつ施療院支援にも関わります」


 セルゲイは頷いた。


「妥当です」


 ジュリアスが口を開く。


「共同調査なら、王太子府は外交上の窓口を担う。だが、国内調査は各部署の管轄を明確にしなければならない」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「財務院、王妃執務院、王宮筆頭実務顧問室、王弟府、王太子府の役割を最初に文書化します」


 レオンハルトが言った。


「王弟府は証拠保全ではなく、調査手順の安全確認に留めるべきだな。最初から王弟府が前面に出ると、商会が萎縮する」


「同感です」


 クラリスは答えた。


 セルゲイは、そのやり取りを興味深そうに見ていた。


「貴国は、記録だけでなく距離の取り方も制度にするのですね」


「最近、必要性を痛感しております」


 クラリスがそう答えると、レオンハルトがほんの少しだけ視線を逸らした。


 オスカーは何も聞かなかったふりで記録を続けている。


 会議の最後に、セルゲイは改めて提案した。


「では、北方慈善交易路共同管理案については、直ちに制度化せず、まず共同調査案として再提出いたします。対象物資は毛織物と薬草布。期間は三か月。調査範囲は輸出記録、港湾到着、国内中継、慈善受領先まで」


「その方向で、初期検討に入ります」


 ジュリアスが王太子として答えた。


 クラリスは、はっきり補足した。


「ただし、正式承認ではありません」


「承知しています」


 セルゲイは笑った。


「即答しない貴女の流儀にも、慣れてきました」


 クラリスは、少しだけ苦笑した。


「最近、周囲に徹底されておりますので」


 会議が終わり、顧問室へ戻ると、イリスが待っていた。


 彼女はクラリスの顔を見るなり尋ねた。


「即答されましたか」


「していません」


「二枚置いた甲斐がありました」


「共同管理案を、共同調査案に縮小する方向で進めます」


「縮小できたのですね」


「はい。ただし、火種であることに変わりはありません」


 クラリスは机に座り、今日の記録を整理した。


 北方慈善交易路。


 名前だけでも大きい。


 商業と慈善が絡み、国境を越え、財務院の利権も動く。


 オスカーが控えを置いた。


「分類はどの箱にしますか」


 クラリスは七つの箱を見た。


 緊急ではない。

 明日でよい、でもない。

 誰かに任せるだけでもない。

 断るには早い。

 名前はつけた。

 現物確認は必要になる。

 今日は帰る、にはまだ早い。


 どの箱にも入らない。


 イリスが、しばらく箱を見つめた。


 そして、どこからか空の小箱を一つ持ってきた。


 札はまだ白紙だ。


「イリス?」


「増えそうですので」


「何が?」


「国際案件が」


 嫌な予感しかしない。


 イリスはさらさらと札に文字を書いた。


 国際案件


 そして、七つの箱の隣に置いた。


 オスカーが、妙に納得した顔で頷く。


「必要ですね」


「必要ですか?」


 クラリスは抵抗した。


 かなり抵抗した。


 しかし、机の上にはノルヴァルト公国からの提案書がある。


 その横には、共同調査案への整理メモ。


 どう見ても、国際案件だった。


 クラリスは深く息を吐き、提案書の写しを新しい箱に入れた。


 国際案件


 箱の中で、紙が妙に重く見えた。


「増えましたね」


 イリスが言った。


「仕事が?」


「箱が」


「仕事もです」


「だから箱を増やしました」


 理屈は通っている。


 通っているが、納得したくない。


 夕方、レオンハルトから短い書簡が届いた。


 北方慈善交易路は、財務院が必ず動く。先に役割範囲を固めよう。


 ほぼ同時に、ジュリアスからも届いた。


 王太子府として外交窓口は担う。ただし、国内制度を広げすぎないよう注意する。


 そして、セルゲイ大使からは礼状が届いた。


 急がぬ慎重さこそ、長い交易路には必要です。


 三通並べると、火種が三方向から見えてくる。


 王弟府。

 王太子府。

 ノルヴァルト公国。


 そして、まだ来ていないが、必ず来るもの。


 財務院。


 クラリスは、新しい箱を見た。


 国際案件


 その横に、イリスがいつもの札を置いた。


 今日は帰る


「この状態で?」


「この状態だからでございます」


 クラリスは反論しかけた。


 共同調査の範囲だけでも整理したい。

 財務院に共有する前の論点を書きたい。

 ミレーヌの品目分類表を見直したい。

 王太子府の外交手順も確認したい。


 やることは山ほどある。


 けれど、それを今夜全部やれば、また同じことになる。


 クラリスは、ゆっくり羽根ペンを置いた。


「……帰ります」


「はい」


 イリスは満足そうに微笑んだ。


 北方慈善交易路。


 それは、新しい火種だった。


 善意確認制度を国境の向こうへ広げる可能性であり、財務院が巻き返すための口実であり、王太子府が外交で再び存在感を示す場でもある。


 正しいからこそ危ない。


 必要だからこそ、急いではいけない。


 クラリスは扉を閉める前に、机の上の新しい箱をもう一度見た。


 国際案件。


 増えてしまった箱は、もう消えない。


 たぶん、これから何度も使うことになる。

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