第65話 妹は、できないと言えるようになった
試験の結果が出る朝、ミレーヌは王妃執務院の廊下をいつもよりゆっくり歩いた。
急いでも、結果は変わらない。
それは分かっている。
分かっているのに、足は勝手に速くなろうとする。
だから、あえてゆっくり歩いた。
床の模様を一つ数え、窓辺の花を一度見て、廊下の角で深呼吸する。
そうしなければ、慈善記録官室の扉の前に着く前に、自分の胸の音だけで倒れてしまいそうだった。
昨日の試験の最後の課題が、頭から離れない。
複数部署から届いた未整理書類。
商会報告。
王太子府の署名確認。
財務院の予算照会。
王妃執務院の品目確認。
王弟府の証拠保全照会。
社交界茶会の寄付一覧。
孤児院からの未着報告。
かつての自分なら、全部抱えようとした。
お姉様ができるなら、自分にもできるはずだと思った。
そして、できないものをできるふりで覆い隠した。
結果、王宮は止まった。
昨日の答案に、ミレーヌはこう書いた。
本件は、慈善記録官室補佐見習い一名で全体判断すべきではない。各部署へ分担照会し、慈善記録官室は受領・品目・未着情報に限定して処理する。
あれが正解だったのか。
逃げだと見られたのか。
そればかり考えてしまう。
「おはようございます、ミレーヌ様」
廊下の途中で、リーナが声をかけてきた。
彼女はいつものように書類束を抱えている。
けれど今日は、ミレーヌの顔を見るなり少し笑った。
「眠れましたか?」
「眠ったと思います」
「思います?」
「目は閉じていました」
「それは休息とは限りませんね」
「ですよね」
ミレーヌがそう答えると、リーナは小さく笑った。
その笑い方は優しい。
けれど、甘やかすだけではない。
「結果は、もう中に」
「はい」
「逃げますか?」
突然の問いに、ミレーヌは目を丸くした。
「逃げ……ません」
「なら大丈夫です」
「結果が悪くても?」
「悪くても、逃げなければ次があります」
リーナは、そう言って先に歩き出した。
ミレーヌはその背中を追いながら、自分の手を見た。
震えている。
でも、昨日よりはましだ。
慈善記録官室の扉を開けると、すでにセリア記録官とマルタ女官長がいた。
クラリスもいる。
ただし、採点席ではなく壁際の椅子に座っていた。
昨日と同じだ。
姉として心配している。
でも、試験官ではない。
その距離が、今はありがたかった。
「ミレーヌ様」
マルタ女官長が名を呼んだ。
「はい」
ミレーヌは背筋を伸ばした。
膝が少し震えたが、立っていられる。
マルタの前には、昨日の答案が並んでいた。
不備書類分類。
照会文。
品目分類。
空欄の扱い。
差し戻し文。
緊急度判定。
最後の答案だけ、他より少し上に置かれている。
あの、複数部署の未整理書類だ。
「結果から申し上げます」
マルタの声は、いつも通り硬い。
「仮合格です」
ミレーヌは、一瞬、意味が分からなかった。
合格。
でも、仮。
落ちてはいない。
でも、完全な合格でもない。
「あの……」
「正式採用ではありません」
マルタは続けた。
「三か月間、慈善記録官室の補佐見習いとして実務を継続。その間に、照会文作成、品目分類、部署間分担、相手方対応をさらに学んでいただきます。三か月後、再評価を行います」
ミレーヌは、ゆっくり息を吸った。
仮合格。
条件つき。
それが、今の自分にはとても正しい形に思えた。
いきなり正式採用と言われたら、怖かったかもしれない。
不合格と言われたら、もちろん落ち込んだ。
仮合格。
学びながら残る。
まさに、今の自分に必要な答えだった。
「ありがとうございます」
ミレーヌは深く礼をした。
「三か月、学びます」
「学ぶだけではありません。働いていただきます」
「はい」
「間違えたら、記録してください」
「はい」
「分からなければ、分からないと報告してください」
「はい」
「一人で抱えないこと」
その言葉で、ミレーヌは顔を上げた。
マルタは、最後の答案を手に取っていた。
「昨日の最後の課題について、お話しします」
「はい」
喉がまた乾いた。
やはり、あの答案のことだ。
マルタは答案の一部を読み上げた。
「“本件は、慈善記録官室補佐見習い一名で全体判断すべきではない”」
部屋が静かになる。
ミレーヌは、手を握りそうになって、やめた。
書類に触れていないから皺にはならない。
でも、手に力を入れれば、心まで固くなる気がした。
マルタは続けた。
「この一文が、今回の試験で最も重要でした」
「……重要、ですか」
「はい」
セリア記録官が、静かに頷く。
「この課題は、全部を処理できるかを見るものではありませんでした」
リーナが続ける。
「どこまで自分の担当で、どこから他部署に回すべきか。それを判断できるかを見る課題です」
ミレーヌは、ぽかんとしてしまった。
つまり、あれは逃げではなかった。
できないと書いたことが、間違いではなかった。
「私、全部できないと書きました」
「はい」
マルタは頷いた。
「それがよろしいのです」
涙が出そうになった。
必死にこらえた。
泣く場面ではない。
でも、胸の奥が熱くなる。
できないと言っていい。
それが正解になることがある。
その事実が、ミレーヌにはまだ少し信じられなかった。
「慈善記録官室の補佐に必要なのは、万能であることではありません」
マルタは言った。
「必要な部署へ必要な書類を回すこと。自分の担当範囲を理解すること。勝手に判断しないこと。分からないことを、分からないまま進めないこと」
「はい」
「あなたは、まだ未熟です」
「はい」
そこは即答できた。
マルタの目が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ですが、昨日の答案では、できないことを分けられました。それは補佐として必要な力です」
ミレーヌは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
クラリスは、壁際で黙っていた。
その顔は穏やかだ。
誇らしそうにも見える。
だが、姉は口を挟まない。
この場は、ミレーヌと慈善記録官室の場だからだ。
その距離が、今のミレーヌにはよく分かった。
「それでは、答案ごとの講評に移ります」
マルタは容赦なく言った。
ミレーヌは姿勢を正す。
仮合格で終わりではない。
ここからが本番だった。
第一課題の不備書類分類は、おおむね良好。
ただし、受領先確認不十分と補助記録不明の境が一部曖昧だった。
第二課題の照会文は、昨日の失敗を踏まえて改善されていた。
ただし、「分かる範囲で」と書いた後に、必須項目と任意項目の区別がやや弱い。
第三課題の品目分類は、再仕立て品の元品目と予定品目の併記が評価された。
第四課題の空欄の扱いは、よい。
ただし「該当なし」と「未確認」は必ず分けること。
第五課題の差し戻し文は、相手を責めない姿勢はよいが、返答期限の記載漏れがあった。
そして第六課題。
「部署間分担の判断は良好です」
マルタは言った。
「ただし、緊急度判定に甘さがあります」
「甘さ、ですか」
「孤児院からの未着報告は優先度高としましたね」
「はい」
「それは正しい。ですが、財務院の予算照会を低めに置きました」
「はい。未着報告の方が現場に近いと思いまして」
「考え方は分かります。しかし、予算照会の内容によっては、補填物資の手配そのものが止まります。現場に近いものだけが緊急とは限りません」
ミレーヌは、はっとした。
確かにそうだ。
現場の未着報告が切実なのは間違いない。
だが、補填を動かす予算が止まれば、その未着への対応も止まる。
「視野が狭かったです」
「狭いというより、現場側に寄りました」
マルタは言った。
「それ自体は悪いことではありません。以前のあなたなら、現場を見なかったかもしれない。今は見ようとしている。ですが、補佐は現場と制度の両方を見なければなりません」
「はい」
ミレーヌは、すぐに答案の横に赤で書き足した。
補填に関わる予算照会は緊急度再確認。現場報告と予算手続きは連動する。
その動きを、マルタは黙って見ていた。
「今、書きましたね」
「あ……はい。忘れないように」
「よろしい」
短い言葉だった。
でも、ミレーヌは嬉しかった。
講評が終わると、セリアが一枚の紙を差し出した。
慈善記録官室補佐見習い 三か月実務課題
そこには、今後の課題が並んでいた。
一、照会文例集の作成補助。
二、品目分類表の改訂。
三、空欄理由の分類表作成。
四、未着報告の緊急度判定補助。
五、社交界標準様式の受領確認。
六、月末に自己不備記録の提出。
最後の項目で、ミレーヌは少し固まった。
「自己不備記録……」
「はい」
セリアは穏やかに言った。
「自分が間違えた点、迷った点、判断を保留した点を月末にまとめてください」
「たくさん出そうです」
「よいことです」
「よいことでしょうか」
「出ない方が怖いです」
リーナが横で深く頷いた。
「最初の月に不備が一つも出ない補佐は、たぶん不備を見ていません」
それは恐ろしい言葉だった。
だが、今なら分かる。
失敗しないことより、失敗に気づけることの方が大切なのだ。
「分かりました」
ミレーヌは課題表を受け取った。
「書きます」
「隠さずに」
「はい。隠さずに」
そこまで終わったところで、マルタは少しだけ表情を緩めた。
「仮合格、おめでとうございます」
その瞬間、ミレーヌの目から一粒だけ涙が落ちた。
慌てて拭う。
「すみません」
「一粒なら許します」
マルタが真顔で言った。
リーナが笑いをこらえきれず、少し吹き出した。
セリアも口元を押さえている。
ミレーヌも、泣きながら少し笑った。
「一粒で止めます」
「よろしい」
ようやく、クラリスが近づいてきた。
採点は終わった。
だから、姉として話してもよいのだろう。
「ミレーヌ」
「お姉様」
「仮合格、おめでとう」
その一言で、二粒目が出そうになった。
でも、マルタが見ている。
ミレーヌは必死にこらえた。
「ありがとうございます」
「よく頑張りました」
「まだ正式合格ではありません」
「ええ」
クラリスは微笑んだ。
「でも、ここから働けます」
その言葉が、何より嬉しかった。
働ける。
役に立てるかもしれない。
姉の代わりではなく。
公爵家令嬢として飾られるのでもなく。
補佐見習いとして、できることとできないことを分けながら。
「私」
ミレーヌは、少し声を整えた。
「全部できる補佐には、たぶんなれません」
「ええ」
クラリスは、当然のように頷いた。
その当然さに、救われた。
「でも、できないことを分けられる補佐になります」
クラリスの目が、少しだけ揺れた。
マルタも、セリアも、リーナも黙って聞いている。
「分からないことを、分からないままにしません。空欄を、勝手に埋めません。相手を責める確認もしません。……たぶん、また失敗しますけど」
「失敗したら?」
クラリスが尋ねる。
「記録します。直します。必要なら、叱られます」
リーナが小さく笑った。
「最後が大事ですね」
「叱られるのは怖いです」
「怖くていいです」
マルタが言った。
「怖くなくなったら、それはそれで危険です」
「はい」
ミレーヌは深く頷いた。
午後、慈善記録官室に小さな仮任命札が置かれた。
慈善記録官室 補佐見習い ミレーヌ・フォン・エルディア
正式な名札ではない。
三か月の見習い期間用の仮札である。
それでも、ミレーヌはその札をしばらく見つめていた。
自分の名前が、王宮の仕事の中にある。
姉の横ではなく。
姉の影でもなく。
自分の机の上に。
「変な感じです」
隣でリーナが書類を整えながら尋ねた。
「嫌ですか?」
「いいえ」
ミレーヌは首を振った。
「怖いです。でも、嫌ではありません」
「なら、よかったです」
セリアが早速、書類を一束置いた。
「仮合格初日の仕事です」
「もうですか」
「はい。リーフェ孤児院から再返信が来ました」
ミレーヌは驚いた。
あの、照会文を出した孤児院だ。
封筒は質素で、少し端が擦れていた。
けれど、宛名は丁寧に書かれている。
開封記録を取り、慎重に中を見る。
中には、昨日の照会に対する返事があった。
肌着三十着。
寝台布二十枚。
破損なし。
受領者、院長代理マルタナ。
受領日。
最後に、小さく追記がある。
書き方が分からず、最初の礼状が簡単になってしまいました。責められたのではないと分かり、安心しました。次からは、この形で書きます。
ミレーヌは、その一文を何度も読んだ。
胸の奥がじんと熱くなる。
昨日、叱られて書き直した文が、届いた。
相手を怯えさせず、必要な記録を返してもらえた。
完璧ではない。
でも、一つ進んだ。
「セリア記録官」
「はい」
「この返答、照会文例集に入れてもよいでしょうか」
「もちろんです」
「題名は……」
ミレーヌは少し考えた。
そして、自分で言った。
「相手が答えられる照会文、実例一」
リーナが笑う。
「よい題名です」
ミレーヌは、その返事を受領先確認欄に丁寧に記録した。
空欄だった場所が、埋まる。
ただし、誰かが勝手に埋めたのではない。
必要な人に聞き、相手が答え、記録として埋まった。
その違いが、今は分かる。
夕方、クラリスは王宮筆頭実務顧問室でミレーヌの仮合格報告を読んだ。
オスカーが横で記録を整えている。
イリスは茶を置きながら、そっと言った。
「ミレーヌ様、仮合格ですか」
「ええ」
「よろしゅうございました」
「本当に」
クラリスは報告書を見つめた。
全部できる補佐ではなく、できないことを分けられる補佐を目指す。
ミレーヌの言葉として、マルタ女官長が記録してくれていた。
クラリスは、その一文にしばらく目を止めた。
妹は、できないと言えるようになった。
それは、ただの謙遜ではない。
自分を低く見積もることでもない。
できないと言うことで、必要な人につなげる。
できないと言うことで、間違った判断を止める。
できないと言うことで、次に学ぶ場所を見つける。
かつて「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言った妹は、もういない。
今のミレーヌは、机の前で震えながらも、自分の仕事を始めている。
「お嬢様」
イリスが静かに言った。
「泣いてもよろしいかと」
「泣いていません」
「まだ、ですね」
「……イリス」
「一粒なら、マルタ女官長も許すそうです」
クラリスは思わず笑ってしまった。
涙は出なかった。
でも、胸の奥は温かかった。
その日、慈善記録官室には新しい札が二枚増えた。
できるふりをしない。分ける。
相手が答えられる照会文。
どちらも、ミレーヌの字だった。
三か月後、正式採用されるかはまだ分からない。
けれど、彼女はもう始めている。
できないことを、できないと言うところから。
そして、それを次の仕事へつなげるところから。




