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第64話 ミレーヌ補佐見習い試験、始まります

 ミレーヌ・フォン・エルディアは、朝から三度、同じ紙を読み返していた。


 一度目は、起きてすぐ。


 二度目は、朝食の前。


 三度目は、王妃執務院へ向かう馬車の中。


 紙には、簡潔な字でこう書かれている。


 慈善記録官室補佐見習い実務試験 受験通知


 その下に、試験項目。


 一、不備書類の分類。

 二、受領先への照会文作成。

 三、品目分類。

 四、空欄の扱い。

 五、相手を責めない差し戻し文。

 六、緊急度判定。


 何度読んでも、文字は変わらない。


 当たり前だ。


 でも、読み返してしまう。


 ミレーヌは、膝の上で紙の端をそっと押さえた。


 強く握ると皺になる。


 最近、それを学んだ。


 書類は感情で握ってはいけない。


 書類に罪はない。


「……落ち着きませんわ」


 小さく呟くと、向かいに座っていた侍女が心配そうに顔を上げた。


「お嬢様、お茶をお持ちしましょうか」


「ありがとう。でも、大丈夫」


「本当に?」


「ええ。たぶん」


「たぶん」


 侍女は少し笑った。


 昔なら、その笑いに少しむっとしたかもしれない。


 公爵令嬢に向かって、と。


 けれど今のミレーヌは、その笑いがありがたかった。


 自分が緊張していることを、隠さずに済む。


 それだけで、ずいぶん息がしやすい。


「落ちたら、どうしましょう」


 ぽつりと言うと、侍女は一瞬迷った顔をした。


 慰めるべきか、励ますべきか、分からなかったのだろう。


 ミレーヌは、自分で答えた。


「落ちたら、もう一度勉強します」


 口に出すと、少しだけ胸が軽くなった。


 以前の自分なら、落ちることなど考えたくもなかった。


 公爵家令嬢だから。

 王太子妃になるはずだった姉の妹だから。

 クラリスの代わりになれると思っていたから。


 できないなど、認めたくなかった。


 けれど今は違う。


 できないことはある。


 知らないこともある。


 間違えることもある。


 だから、勉強する。


 そう思えるようになったこと自体が、ミレーヌには少し不思議だった。


 王妃執務院へ着くと、廊下の空気はいつもより冷たく感じた。


 実際には、いつもと変わらない。


 磨かれた床。

 静かに歩く女官たち。

 壁際に置かれた花。

 遠くで聞こえる紙の音。


 けれど、今日のミレーヌにはすべてが試験の前触れに見えた。


 慈善記録官室の扉の前で、リーナが待っていた。


「ミレーヌ様」


「リーナ様」


「顔色が、試験前の顔です」


「どんな顔ですか」


「私が初めて儀礼補佐の確認役を任された時と同じです」


「それは、よい顔ですか」


「あとで思い出すと笑える顔です」


「今は笑えません」


「でしょうね」


 リーナは少しだけ笑い、それから真面目な顔に戻った。


「でも、大丈夫です。今日の試験は、完璧な人を選ぶためのものではありません」


「……はい」


「分からないことを、分からないままにしない人を選ぶためのものです」


 その言葉は、少しだけミレーヌの背中を支えた。


 慈善記録官室へ入ると、セリア記録官が机を整えていた。


 いつもなら届いた受領書や差し戻し文が積まれている中央机には、今日は試験用の書類束が置かれている。


 マルタ女官長もいた。


 背筋を伸ばし、表情は厳しい。


 甘い試験ではないことが、ひと目で分かった。


「ミレーヌ様」


「はい」


「本日の試験は、慈善記録官室補佐見習いとして、今後も実務に関わるためのものです」


「はい」


「エルディア公爵家の令嬢であること、クラリス顧問の妹であることは、採点に含まれません」


「はい」


 その言葉に、ミレーヌは少しだけ肩の力が抜けた。


 厳しい言葉のはずなのに、安心した。


 姉の妹だから置いてもらうのではない。


 自分の仕事で、ここに残る。


 その方が怖い。


 でも、その方がいい。


「試験前に、王妃陛下よりお言葉があります」


 マルタがそう言った瞬間、ミレーヌは息を止めた。


「王妃陛下が?」


「はい」


 奥の扉が静かに開き、王妃エレオノーラが姿を見せた。


 今日の王妃は、華やかな正装ではない。


 柔らかな色の室内着に、薄い肩掛けを羽織っている。


 まだ長時間の公務は負担になるのだろう。


 それでも、立っている姿には気品があった。


 ミレーヌは慌てて礼をする。


「王妃陛下」


「顔を上げて、ミレーヌ」


 柔らかな声だった。


 ミレーヌはおそるおそる顔を上げた。


 王妃は、彼女を責める目では見ていなかった。


 けれど、甘やかす目でもなかった。


「今日、あなたは試験を受けます」


「はい」


「緊張していますか」


「……はい。とても」


「よろしい」


 意外な返答だった。


 王妃は少し微笑む。


「緊張しない人より、緊張していることを分かっている人の方が、記録の仕事には向いています」


「そうなのでしょうか」


「ええ。自分が間違えるかもしれないと知っている人は、確認しますから」


 ミレーヌは、言葉を飲み込んだ。


 以前の自分は、間違えるかもしれないと思っていなかった。


 だから確認しなかった。


 だから王宮を止めた。


 王妃は、その痛みをなぞるように、しかし直接は責めずに言った。


「ミレーヌ。できるふりをしないこと」


「はい」


「それが今のあなたの一番よいところです」


 ミレーヌの目が熱くなった。


 褒められた。


 けれど、昔のような褒め言葉ではない。


 可愛いとか、素直とか、公爵令嬢らしいとか。


 そういう言葉ではない。


 できるふりをしないこと。


 かつての自分にはなかったもの。


 今、ようやく得ようとしているもの。


「ありがとうございます」


 声が少し震えた。


 王妃は頷いた。


「では、受けていらっしゃい。結果がどうであれ、逃げずに受けたことは残ります」


「はい」


 ミレーヌは深く礼をした。


 試験室は、慈善記録官室の隣の小会議室だった。


 窓が一つ。


 机が一つ。


 試験官席に、マルタ女官長、セリア記録官、リーナ。


 そして少し離れた席に、クラリスがいた。


 ミレーヌは、姉の姿を見た瞬間、思わず安心しかけた。


 だが、クラリスは穏やかに首を振った。


「わたくしは、採点には関与しません」


「はい」


「今日は、見届けるだけです」


「……はい」


 少し寂しい。


 でも、それでいい。


 姉に助けてもらう試験では意味がない。


 ミレーヌは受験席に座った。


 机の上には、白紙、羽根ペン、分類用の札、そして試験用の書類束。


 マルタが告げる。


「第一課題。不備書類の分類」


 セリアが書類束を置いた。


「この中には、五種類の不備が混ざっています。商会報告不足、受領先確認不足、現物確認不足、補助記録不明、未着報告未処理。各書類を分類し、理由を記してください」


「はい」


 ミレーヌは一枚目を取った。


 商会名はある。

 発送日もある。

 数量もある。


 だが、受領先確認がない。


 分類、受領先確認不足。


 二枚目。


 受領先の礼状はある。


 しかし、品目数が書かれていない。


 分類、受領先確認不十分。補助照会必要。


 三枚目。


 侍女の控えに箱数はあるが、何を確認したのか不明。


 分類、補助記録内容不明。


 手が少し震える。


 でも、止まらない。


 間違えないようにするのではなく、理由を書く。


 自分がなぜそう分類したかを残す。


 それが大切だと、今は分かる。


 第二課題は、受領先への照会文作成だった。


 相手は地方施療院。


 届いた包帯布について、数量と状態の記録が不足している。


 ミレーヌは最初に、昨日の自分の失敗を思い出した。


 強すぎる文面。


 責めているように読める文。


 それを避ける。


 でも、必要な確認は曖昧にしない。


 彼女は一行目に、感謝を書いた。


 次に、記録が必要な理由。


 そして、項目を箇条書きにする。


 最後に、分からないところは空欄で戻してよいと添えた。


 空欄であること自体が、施療院様の不備となるものではございません。確認方法をこちらから改めてご相談いたします。


 書き終えた時、リーナがほんの少しだけ目を細めた。


 よい、という顔だった。


 ミレーヌはそれに勇気づけられたが、すぐに気を引き締めた。


 まだ終わっていない。


 第三課題、品目分類。


 これが思ったより厄介だった。


 同じ布でも、用途が違う。


 膝掛け。

 毛布。

 寝台布。

 包帯布。

 肌着用布。

 儀礼布の再仕立て予定品。


 厚み、織り、使用場所、受領先。


 どれも見なければならない。


 ミレーヌは、一瞬だけ混乱した。


 儀礼布の再仕立て予定品は、現時点では儀礼布か、慈善物資か。


 発送前なら儀礼布。


 再仕立て後なら膝掛けまたは寝台布。


 受領先へ届いた時の状態で最終分類。


 そう書いてから、少し迷い、補足を入れた。


 途中段階では、元品目と予定品目を併記する。


 これでよいかは分からない。


 だが、分からないままにしないための補足だった。


 第四課題、空欄の扱い。


 これは、ある意味で一番怖かった。


 試験用紙には、受領先確認欄が空白の書類、補助記録欄が空白の書類、未着報告欄が空白の書類が並んでいる。


 空欄をすべて不備とするのではない。


 何の空欄かを見る。


 届いていないから空欄なのか。

 まだ確認中だから空欄なのか。

 該当なしだから空欄なのか。

 書き忘れだから空欄なのか。


 ミレーヌは、一つずつ横に書いた。


 空欄理由不明。照会必要。

 該当なしの可能性あり。確認欄に「該当なし」記入を求める。

 未着報告欄は、未着がない場合も「なし」と記す方が望ましい。


 空欄を恐れない。


 でも、空欄の意味は確認する。


 第五課題、相手を責めない差し戻し文。


 ミレーヌは深く息を吸った。


 これは、昨日叱られたばかりの内容だ。


 いや、叱られたからこそ、今やる意味がある。


 相手は社交界の夫人。


 記録様式に「手配済み」とだけ書いてきた。


 以前なら、足りない点を並べてしまっただろう。


 今は、違う。


 ご手配いただきありがとうございます。今後の確認を確実にするため、商会名、発送予定日、最終受領先について、分かる範囲で追記をお願いいたします。発送前確認がお済みの場合は、その確認者名と確認内容も補助記録として残せます。


 責めない。


 でも、必要なことは求める。


 最後に、第六課題。


 緊急度判定。


 マルタが少し表情を変えた。


「最後の課題です」


 セリアが、新しい書類束を机に置いた。


 これまでより厚い。


 ミレーヌは、嫌な予感がした。


「複数部署から同時に来た書類です。あなたは慈善記録官室の補佐見習いとして、どれを処理し、どれを回し、どれを照会し、どれを保留するか判定してください」


「はい」


 束を開いた瞬間、ミレーヌの手が止まった。


 商会報告。

 王太子府の署名確認。

 財務院の予算照会。

 王妃執務院の品目確認。

 社交界茶会の寄付一覧。

 孤児院からの未着報告。

 儀礼局からの再仕立て予定表。

 王弟府からの証拠保全照会。


 多い。


 多すぎる。


 まるで、かつて王宮が止まった時に自分が見ていた書類の山のようだった。


 胸の奥が冷たくなる。


 あの日、自分は何も分からなかった。


 姉の仕事くらいできると思っていた。


 でも、どれを優先し、どれを誰に回し、どれを確認すべきか分からなかった。


 結果、王宮は止まった。


 ミレーヌは、羽根ペンを握る手に力が入るのを感じた。


 やらなければ。


 今度こそ。


 全部、自分で。


 そう思いかけた瞬間、机の端に置いた自分の小さな札が目に入った。


 試験前に、こっそり持ってきた札。


 確認は、責めるためではない。


 その下に、昨日書き足した一文。


 でも、曖昧にするためでもない。


 そして王妃の言葉。


 できるふりをしないこと。


 ミレーヌは、手を止めた。


 全部できるふりをしてはいけない。


 彼女は一枚目の紙を取り、分類を始めた。


 孤児院からの未着報告。


 これは慈善記録官室で即確認。


 優先度高。


 ただし、物資発送元の商会報告と照合が必要。


 社交界茶会の寄付一覧。


 慈善記録官室で受領。


 ただし、受領先未記載のため差し戻し。


 王太子府の署名確認。


 慈善記録官室では判断しない。


 王太子府へ返送。必要に応じて顧問室へ照会。


 財務院の予算照会。


 慈善記録官室単独で判断しない。


 王宮筆頭実務顧問室および財務院確認費担当へ共有。


 儀礼局の再仕立て予定表。


 元品目と予定品目を併記し、現物確認時点で再分類。


 王弟府の証拠保全照会。


 慈善記録官室は関連受領記録を写しで提出。原本移動は不可。


 そこまで書いて、ミレーヌは深く息を吸った。


 そして、最後の欄にこう書いた。


 本件は、慈善記録官室補佐見習い一名で全体判断すべきではない。各部署へ分担照会し、慈善記録官室は受領・品目・未着情報に限定して処理する。


 書いた瞬間、試験室が静かになった気がした。


 ミレーヌは顔を上げた。


 マルタも、セリアも、リーナも、クラリスも、黙っている。


 自分は間違えたのだろうか。


 やはり、全部できませんと書いたのは弱かったのだろうか。


 不安が胸に広がる。


 マルタが、ゆっくり口を開いた。


「時間です」


 ミレーヌは羽根ペンを置いた。


「はい」


 答案が回収される。


 採点はその場では行われない。


 そう聞いていた。


 だが、最後の課題だけ、マルタは答案を手にしたまま、しばらく見ていた。


 それから顔を上げる。


「ミレーヌ様」


「はい」


「最後の課題で、あなたは“自分一人で全体判断すべきではない”と書きましたね」


「はい」


「なぜですか」


 ミレーヌは、喉が少し乾くのを感じた。


 でも、答えなければならない。


「全部を私が判断すると、間違えるからです」


 声は思ったより小さかった。


 でも、続けた。


「慈善記録官室で見るべきものと、王太子府、財務院、王弟府、儀礼局で見るべきものが混ざっていました。私が全部できるふりをすると、必要な部署へ回らなくなります」


 マルタは黙って聞いている。


 ミレーヌは、勇気を出して続けた。


「だから、分けました」


 その言葉を言った時、クラリスの表情が少しだけ変わった気がした。


 姉は何も言わない。


 でも、見守っている。


 マルタは答案を置いた。


「結構です」


 それが合格なのか、不合格なのかは分からない。


 ただ、叱責ではなかった。


 試験が終わると、ミレーヌは廊下に出た。


 足が少し震えている。


 リーナが後から出てきて、隣に立った。


「お疲れ様でした」


「疲れました」


「でしょうね」


「最後の課題、間違えたかもしれません」


「どうして?」


「全部できません、と書きました」


 リーナは、少しだけ笑った。


「それは、たぶん間違いではありません」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶん」


「採点者ではありませんので」


 その正直な返答に、ミレーヌは少し笑ってしまった。


 そこへ、クラリスが出てきた。


 ミレーヌは反射的に姿勢を正す。


「お姉様……クラリス顧問」


「今日は、お姉様でいいわ」


 その言葉だけで、少し泣きそうになった。


 でも、まだ結果は出ていない。


 泣くのは早い。


「どうでしたか」


 クラリスが尋ねる。


 ミレーヌは少し考えた。


「怖かったです」


「ええ」


「途中で、全部やらなきゃと思いました」


「そう」


「でも、全部やるとまた間違えると思って……分けました」


 クラリスは静かに頷いた。


「それでいいと思います」


「本当に?」


「少なくとも、わたくしはそう思います」


 採点には関与しない。


 姉はその線を守っている。


 だから、これ以上は言わないのだろう。


 でも、その一言だけで十分だった。


 夕方、正式な結果はまだ出なかった。


 採点は明日に持ち越される。


 ミレーヌは慈善記録官室の自分の机に戻り、小さな札を見た。


 確認は、責めるためではない。


 その横に、新しい紙片を置く。


 少し迷ってから、こう書いた。


 できるふりをしない。分ける。


 その字は、少し歪んでいた。


 試験後で手が疲れていたからだ。


 でも、ミレーヌはその紙を気に入った。


 今日の自分に必要な言葉だった。


 慈善記録官室補佐見習い試験は、始まった。


 結果はまだ分からない。


 けれど、少なくとも一つだけ分かったことがある。


 ミレーヌはもう、「私にもできます」と言うために机へ向かっているのではない。


 分からないものを分けるために。


 できないことを、できないまま放置しないために。


 そして、必要な人へ必要な記録を届けるために。


 彼女は、もう一度、答案用紙のない机に向かった。

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