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第63話 レオンハルト殿下は、支える距離を間違えない

 王弟府の書記官は、噂を持ち込む時ほど丁寧になる。


 普段なら「報告です」と言って書類を置くところを、その日は扉の前で一度足を止め、軽く咳払いをし、さらに室内の空気を確かめてから口を開いた。


「殿下。王宮内外の噂につきまして、追加報告がございます」


 レオンハルトは、机上の書類から顔を上げた。


 王弟府の執務室は、王太子府ほど華やかではない。


 装飾は少なく、棚には調査記録と封印済みの証拠控えが整然と並んでいる。


 華やかさより、静けさ。


 勢いより、正確さ。


 この部屋は、そういう場所だった。


「クラリス顧問の件か」


「はい」


 書記官は、やはり丁寧に答えた。


 丁寧すぎる。


 つまり、よくない内容なのだろう。


「読め」


「王宮筆頭実務顧問職について、職務範囲説明文の掲示後、一定の誤解は収まりつつあります。ただし、別種の噂が広がっております」


「別種?」


「はい。クラリス顧問ご本人の権限問題から、殿下との関係へ話が移っております」


 レオンハルトの目が、わずかに細くなった。


 書記官は目を伏せたまま続ける。


「主な内容は、王弟殿下がクラリス顧問を通じて王太子府に影響力を持とうとしている、王弟府が実務顧問室を事実上の別働部署として扱っている、また……」


「続けろ」


「クラリス顧問と殿下の距離が、政治的にも私的にも近すぎる、というものです」


 沈黙が落ちた。


 レオンハルトは、手元の羽根ペンを置いた。


 音は小さい。


 だが、書記官は背筋を伸ばした。


「出所は」


「複数です。財務院旧派に近い官僚筋、社交界反対派の一部、王太子府周辺の噂好きな若手貴族など。明確な一か所ではございません」


「一か所でないなら、消しても増えるな」


「はい」


 書記官は少し驚いた顔をした。


 レオンハルトがすぐに弾圧や調査を命じると思っていたのかもしれない。


 そうしたい気持ちは、ある。


 かなりある。


 クラリスが、自分の職務として立とうとしている。


 無償奉仕者でも、王太子の影でもなく、自分の名前で王宮の実務に向き合っている。


 その彼女の努力を、誰かが「王弟殿下の影」と言う。


 腹が立たないわけがない。


 だが、腹が立つ時ほど、雑な手を打つと相手の思う壺になる。


 クラリスなら、そう言うだろう。


 レオンハルトは短く息を吐いた。


「この件は、クラリス顧問と共有する」


「よろしいのですか」


「隠す方が悪い」


「承知いたしました」


 書記官が下がった後、レオンハルトはしばらく机の上を見ていた。


 そこには、王宮筆頭実務顧問室から届いた照会文の写しがある。


 財務院確認費基準。

 王太子府差し戻し分類。

 社交界標準様式。

 慈善記録官室の照会文例。


 どれもクラリスが一人で作ったものではない。


 だが、中心に彼女がいる。


 そのことは事実だ。


 だからこそ、狙われる。


 彼女の権限を疑う者。

 彼女の背景を疑う者。

 彼女とレオンハルトの関係を利用しようとする者。


 改革が進めば進むほど、人は制度ではなく人間関係を見たがる。


 その方が、攻撃しやすいからだ。


 昼過ぎ、クラリスは王弟府へ呼ばれた。


 呼び出しの文面は、いつもより少し硬かった。


 王弟府と王宮筆頭実務顧問室の協力関係に関する確認。


 読んだ瞬間、イリスが言った。


「噂ですね」


「おそらく」


「殿下は怒っておられるでしょうか」


「たぶん」


「お嬢様は?」


「怒るより先に、少し疲れました」


 イリスは静かに頷いた。


「噂は、同じところを何度も踏んできますから」


「ええ」


 王弟府へ向かう廊下で、クラリスは少しだけ考えた。


 レオンハルトとの距離。


 それは、最近の彼女にとって避けて通れない問題だった。


 彼は支えてくれる。


 必要な時、正しい場所で、正しい力を貸してくれる。


 王弟府の調査権。

 証拠保全。

 王宮内の政治的後ろ盾。

 そして、クラリス自身が無理をしようとした時に止める声。


 それはありがたい。


 とても。


 だが、近すぎれば、彼女の職務が彼の私的な庇護に見える。


 王弟殿下に守られているから強いのだ、と言われる。


 王弟府の影だから各部署が従うのだ、と言われる。


 それは、王宮筆頭実務顧問という職務そのものを弱くする。


 執務室に入ると、レオンハルトは一人で待っていた。


 ただし、机の端には記録官用の紙が置かれている。


 私的な話で終わらせないつもりなのだと、すぐに分かった。


「来てくれてありがとう」


「王弟殿下からの照会ですので」


 クラリスがそう返すと、レオンハルトは少しだけ苦笑した。


「今日は、あえてそう呼んだな」


「必要かと思いまして」


「そうだな」


 彼は椅子を勧めた。


 クラリスが座ると、レオンハルトは一枚の報告書を渡した。


 噂の内容が整理されている。


 王弟府がクラリスを利用している。

 クラリスが王弟府の力で王太子府へ影響を与えている。

 二人の距離が政治的に近すぎる。

 私的な関係が職務に入り込んでいる。


 文字で見ると、なかなか刺さる。


 クラリスは最後まで読み、静かに紙を置いた。


「予想していたより、少し早いです」


「私もだ」


「ただ、起こるとは思っていました」


「私の名前が出ることも?」


「はい」


 レオンハルトは黙った。


 少し痛そうな顔をした。


 その表情を見て、クラリスの胸も少し痛んだ。


 彼が悪いわけではない。


 むしろ、彼はずっと助けてくれている。


 だが、政治の場では、助けてくれる人の存在そのものが攻撃材料になる。


「君を守りたい」


 レオンハルトは言った。


 飾りのない言葉だった。


 クラリスは、すぐには返事をしなかった。


 レオンハルトは続ける。


「だが、私が前に立つほど、君の仕事が私の影に見える」


 その言葉は、クラリスが考えていたことそのものだった。


「はい」


 彼女は静かに答えた。


「それは、わたくしも懸念しています」


「私が王弟府で噂を潰せば、たぶん一時的には静かになる」


「ですが、余計に“やはり王弟殿下の力だ”と言われます」


「そうだ」


 レオンハルトは、少し悔しそうに目を伏せた。


「腹立たしいな」


「はい」


「君が傷つけられているのに、私が動くことが君のためにならない場合がある」


「……はい」


 クラリスは、正直に頷いた。


 そう言うのは、少し苦しかった。


 守ろうとしてくれる相手に、守り方を制限してほしいと言うのだから。


 だが、ここを曖昧にしてはいけない。


「殿下が支えてくださることは、ありがたいです」


 クラリスは言った。


「ですが、わたくしの職務が殿下の私的な庇護に見えるのは困ります」


「分かっている」


「ですので、王弟府からの支援は、すべて文書で残してください。調査協力、証拠保全、照会補助、会議同席。理由と範囲を明記して」


「私的な助言は?」


「職務に関わるものは、可能な限り記録へ」


 言ってから、クラリスは少しだけ表情を緩めた。


「ただし、すべての会話を記録されると、息が詰まります」


「それは私も困る」


 レオンハルトも少し笑った。


 その笑いで、空気が少しだけ和らぐ。


「では、線を引こう」


 レオンハルトは紙を一枚引き寄せた。


「公的会議では、私は王弟として君に接する。君は王宮筆頭実務顧問として発言する」


「はい」


「王弟府の支援は文書に残す。王弟府記録官を通す」


「はい」


「私的な助言が職務判断に関わる場合は、後で要点を記録化する」


「はい」


「私が感情で君を守ろうとした時は」


 そこで彼は少し詰まった。


 クラリスは静かに待った。


 レオンハルトは、短く息を吐く。


「止めてくれ」


「わたくしがですか」


「君が難しければ、イリス殿に」


 扉の外に控えているはずのイリスが、なぜか気配だけで頷いたような気がした。


 クラリスは小さく笑った。


「イリスなら遠慮なく止めます」


「だろうな」


「わたくしも、止めます」


 レオンハルトは、少し驚いたように彼女を見た。


 クラリスは続けた。


「殿下がわたくしを支えようとして、かえって職務を曇らせる時は、申し上げます」


「頼む」


「その代わり」


「何だ」


「わたくしが、殿下の支援をすべて遠ざけようとした時は、止めてください」


 レオンハルトは目を細めた。


「君ならやりかねないな」


「自覚はあります」


「自覚があるなら少し安心だ」


「少しだけですか」


「かなり心配は残る」


 クラリスは否定できなかった。


 自分で立たなければ。


 そう思うあまり、必要な支援まで拒もうとする可能性はある。


 それもまた、極端なのだ。


 一人で背負わないこと。


 しかし、誰かの影にも入らないこと。


 その両方を保つのは、思った以上に難しい。


「庭へ出ないか」


 レオンハルトが言った。


「今ですか?」


「この部屋でこのまま話すと、全部規則にしたくなる」


「それはいけませんか」


「必要だが、少し息が詰まる」


 クラリスは少し考え、頷いた。


「では、少しだけ」


 王弟府の庭は、王宮中央庭園ほど華やかではない。


 低い生け垣と、古い石の小道。


 季節の花はあるが、控えめだ。


 人通りも少ない。


 ただし完全な私的空間ではなく、王弟府の窓から見える場所である。


 誰にも見られない場所を選ばない。


 それもまた、今の二人には必要な距離だった。


 歩きながら、レオンハルトが言った。


「私は、君を影に入れたいのではない」


 クラリスは足を止めなかった。


 でも、その言葉は胸に落ちた。


「はい」


「君が光の下で立てるよう、影を受け持ちたい」


 庭の空気が、少しだけ止まったように感じた。


 それは政治的な言葉のようで、そうではなかった。


 守る、でもない。


 支配する、でもない。


 後ろ盾になる、でも足りない。


 影を受け持つ。


 クラリスが光の下で立つために、見えないところの危険や圧力を引き受けるという意味だ。


 嬉しい。


 そう思った。


 同時に、怖いとも思った。


 その言葉を素直に受け取れば、何かが変わってしまう気がした。


「殿下」


 クラリスは、少し遅れて口を開いた。


「その言葉は、記録に残しづらいです」


 レオンハルトは一瞬きょとんとし、それから低く笑った。


「そう返すか」


「すみません」


「いや、君らしい」


 クラリスも少し笑った。


 笑わなければ、顔が熱くなっていたかもしれない。


「でも」


 彼女は続けた。


「お気持ちは、受け取りました」


 レオンハルトの表情が静かに変わった。


 柔らかくなる。


 それだけで、クラリスは少し困った。


 この距離は危ない。


 政治的にも、心にも。


 けれど、遠ざけすぎるのも違う。


「私は、間違えるかもしれない」


 レオンハルトは言った。


「君を支える距離を」


「わたくしも、間違えると思います。頼る距離を」


「では、間違えたら?」


「確認します」


「また記録か」


「必要なら」


「必要だな」


 二人は、そこで少しだけ笑った。


 恋の言葉にはまだ遠い。


 だが、ただの職務上の会話でもない。


 その曖昧さを、急いで名前にする必要はないのかもしれない。


 ただ、政治的な線だけは引いておく。


 その上で、心が少し近づくことまで否定しない。


 それが今の二人にできる精一杯だった。


 王弟府の廊下へ戻ると、イリスが待っていた。


 彼女はクラリスを見る。


 次に、レオンハルトを見る。


 それから、何も言わずに一枚の札を出した。


 公私の距離、要確認


 クラリスは足を止めた。


「イリス」


「必要かと」


 レオンハルトが札を見て、真面目に頷く。


「正しい」


「殿下まで」


「かなり正しい」


 イリスはもう一枚の札も出した。


 文書で支える


「それも必要ですね」


 クラリスは少し諦めたように言った。


 イリスは満足そうだった。


「王宮筆頭実務顧問室へ戻りましたら、本日の確認事項を整理いたしましょう」


「あなた、全部聞いていたの?」


「聞こえた範囲でございます」


「どこから?」


「扉の外からと、庭へ出る前後で」


「十分聞いているわね」


「職務上必要な範囲でございます」


 レオンハルトは、声を立てずに笑った。


「イリス殿がいれば、私も距離を間違えずに済みそうだ」


「必要があれば止めます」


「頼む」


 即答だった。


 そのやり取りを見て、クラリスは少しだけ肩の力を抜いた。


 支える距離を、間違えない。


 それは一人では難しい。


 支える側も、支えられる側も、時に近づきすぎる。


 あるいは怖がって離れすぎる。


 だから、第三者の目がいる。


 記録がいる。


 札も、たぶんいる。


 夕方、王宮筆頭実務顧問室には新しい確認書が作られた。


 王弟府と王宮筆頭実務顧問室の協力関係に関する整理


 一、王弟府は、調査保全、証拠管理、不正照会において協力する。

 二、協力は文書により依頼、承認、記録する。

 三、王弟府の支援は、王宮筆頭実務顧問の私的庇護ではなく、職務上の連携とする。

 四、公的会議では、双方が役職に基づいて発言する。

 五、職務判断に影響する私的助言は、必要に応じて要点を記録化する。

 六、感情的な介入と見られる対応は避け、制度上の手続きを優先する。


 最後に、イリスが勝手に余白へ小さく書き加えた。


 公私の距離、要確認。


 クラリスはそれを消そうとして、やめた。


「残すのですか」


 イリスが尋ねる。


「……内部用の控えには」


「よろしいかと」


 レオンハルトも、それを見て少し笑った。


「私も写しをもらおう」


「本気ですか」


「本気だ。忘れると困る」


 クラリスは、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 それを隠すために、書類を整える。


「では、王弟府用には正式文面のみで」


「内部控えには札文言も」


 イリスが念を押す。


「……はい」


 その日の終業時刻。


 クラリスは机の上の確認書を閉じた。


 噂は消えていない。


 王弟殿下とクラリス顧問の距離が近い。


 そう言う者は、これからもいるだろう。


 実際、近い部分はある。


 信頼している。


 支えられている。


 心が動くこともある。


 けれど、それをそのまま曖昧に職務へ混ぜてはいけない。


 支えるなら、文書で。


 守るなら、制度で。


 近づくなら、距離を確認しながら。


 レオンハルト殿下は、支える距離を間違えないようにしようとしてくれている。


 そしてクラリスも、頼る距離を間違えないようにしなければならない。


 イリスが、いつもの札を置いた。


 今日は帰る


 その隣に、なぜかもう一枚。


 公私の距離、明日も確認


「毎日?」


「必要です」


 クラリスは、小さく笑った。


「分かりました」


 札が増えるたび、仕事も増えている気がする。


 けれど今日の札は、不思議と嫌ではなかった。

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