第62話 王宮筆頭実務顧問は、王太子妃より偉いのか
噂というものは、廊下を歩かない。
なのに、誰よりも早く廊下の先へ行く。
王宮筆頭実務顧問室の扉に新しい木札が掛けられてから、まだ半月も経っていない。
それなのに、王宮内外ではもう別の名前がついていた。
――影の王太子妃。
最初にその言葉を耳にした時、クラリスは思わず羽根ペンを止めた。
それは王宮廊下の曲がり角だった。
慈善記録官室へ向かう途中、反対側の柱の陰で、二人の若い貴族令嬢が声をひそめていた。
「だって、王太子妃にはならなかったのに、王太子府にも王妃執務院にも口を出せるのでしょう?」
「王弟殿下も後ろ盾ですもの。実質、王太子妃より上なのでは?」
「怖いわね。婚約者を譲って、仕事で王宮を握るなんて」
そこで、令嬢の一人がクラリスに気づいた。
顔が真っ青になる。
もう一人も慌てて礼をした。
「ク、クラリス顧問……!」
「おはようございます」
クラリスは足を止めた。
怒鳴るつもりはなかった。
叱るつもりもない。
ただ、聞こえてしまった以上、何も言わずに通り過ぎるのも不自然だった。
「立ち話は、声がよく響きます」
二人はさらに青くなった。
「申し訳ございません!」
「いえ」
クラリスは静かに首を振った。
「噂があることは承知しています。ただし、職務内容について誤解があるようですので、近日中に説明文を出します」
「説明文……でございますか」
「はい」
令嬢たちは困惑した顔をした。
普通なら、ここで叱責や牽制が来る。
けれど、説明文。
あまりにも実務的な返しだったのだろう。
クラリスは軽く礼をして、その場を離れた。
後ろで、令嬢たちがさらに小さな声で何か話している気配がした。
だが、もう聞かなかった。
聞いたところで、噂は減らない。
王宮筆頭実務顧問室へ戻ると、イリスがすでに茶を用意していた。
「お嬢様」
「はい」
「噂を拾ってこられましたね」
クラリスは動きを止めた。
「なぜ分かるの」
「お顔が“訂正文を書きたい”になっております」
「顔で分かるのね」
「かなり」
クラリスは小さく息を吐き、机に座った。
「影の王太子妃、だそうです」
イリスは一瞬だけ瞬きした。
「なかなか嫌な響きでございますね」
「ええ」
「記録しますか」
「記録します」
即答した自分に、少しだけ笑いそうになった。
以前なら、傷ついたかもしれない。
もちろん、まったく傷つかないわけではない。
王太子妃になれなかった代わりに仕事で王宮を握る。
婚約者を譲ったのに、権限を得た。
そう言われれば、胸の奥に小さな棘は刺さる。
けれど今は、それ以上に思うことがあった。
これは、制度への誤解だ。
制度への誤解は、放置すれば制度そのものへの不信になる。
クラリス個人の評判だけなら、多少は流せる。
だが、善意確認制度や王太子府の署名改革、財務院との確認費協議まで「クラリスが権力を握るため」と見られれば、改革は動きにくくなる。
「噂の内容を分類します」
クラリスは紙を出した。
イリスが何も言わず、追加の紙を置く。
「まず一つ目。王宮筆頭実務顧問は王太子妃より大きな権限を持つ、という噂」
「二つ目は、王弟殿下の後ろ盾で王太子府に影響を与えている、でしょうか」
「はい。三つ目、エルディア公爵家が王宮実務を握るつもりだ、という噂」
「四つ目、婚約破棄後の意趣返し」
「そこまで言われていますか」
「おそらく」
イリスは淡々としていた。
クラリスは少し眉を寄せる。
「言葉にすると、なかなかですね」
「噂は、文字にすると大抵ひどいものです」
「でも、文字にしないと扱えません」
「はい」
クラリスはそれらをまとめ、見出しを書いた。
王宮筆頭実務顧問職に関する権限誤解
イリスが頷く。
「よい名前です」
「嬉しくない名前だけれど」
「名前がつけば扱えます」
それは、最近の合言葉のようになっていた。
昼前、レオンハルトが顧問室を訪れた。
彼は噂の件をすでに知っていた。
王弟府の情報網は、こういう時だけ異様に早い。
「クラリス」
「はい」
「噂の出所を調べる」
「お待ちください」
クラリスは即座に止めた。
レオンハルトの眉がわずかに動く。
「なぜだ」
「王弟府が動けば、余計に本当らしく見えます」
「事実でないものを放置しろと?」
「放置ではありません。別の形で対応します」
レオンハルトは腕を組んだ。
不満そうだ。
いや、不満というより、心配している顔だった。
「君への中傷だ」
「わたくし個人への中傷だけなら、そうです。でも今は職務への誤解でもあります」
「だからこそ、早く潰すべきだ」
「力で黙らせれば、“王弟殿下の後ろ盾で口封じした”という噂になります」
レオンハルトは黙った。
それは、おそらく彼自身も分かっていることだった。
けれど、腹が立つのだろう。
クラリスのために。
その怒りはありがたい。
だが、今は使い方を間違えると危険だった。
「では、どうする」
「職務範囲を公開します」
「公開?」
「はい。王宮筆頭実務顧問が何をできて、何をできないか。命令権、照会権、改善提案権、緊急停止勧告、拒否権、休息規定。すべて整理し、王宮掲示と主要部署への回覧に出します」
レオンハルトは、しばらくクラリスを見た。
「噂に、説明文で返すのか」
「感情で返すよりは、制度で返します」
イリスが静かに札を出した。
噂にも職務範囲
レオンハルトがそれを見て、ほんの少し眉を上げた。
「……札が増えているな」
「必要ですので」
イリスは涼しい顔で答えた。
クラリスは説明文の草案を広げた。
「まず、王宮筆頭実務顧問は各部署の長を飛び越えた決裁権を持ちません」
「これは重要だな」
「はい。次に、主な権限は調査、照会、改善提案、緊急停止勧告です。勧告はできますが、最終決裁は国王陛下、王妃陛下、王太子殿下、王弟府、または各部署長の範囲です」
「王太子府との関係は?」
「相互確認関係と書きます。王太子府の署名確認改革に助言はしますが、王太子府の決裁権は王太子殿下にあります」
「王弟府は?」
「王弟府は調査保全や不正照会における協力関係。私的庇護ではなく、文書に基づく支援です」
レオンハルトの目が少しだけ深くなる。
「私的庇護ではなく、か」
「必要な文言です」
「分かっている」
レオンハルトは短く答えた。
「私が前に出すぎれば、君の仕事が私の影に見える」
クラリスは少しだけ言葉を止めた。
それは、彼が気づいているということだった。
守りたいのに、守り方を間違えると彼女の職務を曇らせる。
レオンハルトはそれを理解している。
「ありがとうございます」
「感謝されるような話ではない」
「いいえ。大事なことです」
少しだけ沈黙が落ちた。
その空気を破ったのは、イリスだった。
「説明文には、休息規定も入れますか」
クラリスは思わず振り向いた。
「そこ?」
「重要です」
レオンハルトが頷いた。
「入れた方がいい」
「殿下まで」
「王太子妃より偉いという噂に対し、終業時刻と拒否権があると示すのは効果的だ」
「どういう効果ですか」
「無制限の権力ではなく、制限された職務だと伝わる」
確かに。
妙に納得してしまった。
「では入れます」
クラリスは説明文に一項目加えた。
本職は無制限の職務ではなく、職務範囲、終業時刻、休息規定、拒否権を持つ正式職である。
イリスが大変満足そうに頷いた。
午後、ジュリアスが顧問室へ来た。
手には王太子府の差し戻し分類表を持っている。
だが、今日はその件だけではないようだった。
「噂の件を聞いた」
「早いですね」
「王太子府にも入ってきた」
彼は苦い顔をした。
「すまない」
言いかけて、途中で止まる。
最近、ジュリアスは謝罪の扱いに慎重になっている。
謝れば済むわけではない。
それを学び始めているのだ。
「……いや、まず状況を確認したい」
「はい」
クラリスは説明文の草案を見せた。
ジュリアスは丁寧に読み、途中で何度か頷いた。
「よく整理されている」
「王太子府の関係について、ご確認ください」
ジュリアスは該当箇所を読む。
「王宮筆頭実務顧問は、王太子府の決裁権を代行しない。王太子府に対しては署名確認手順、根拠資料管理、実配置確認に関する助言および照会を行う。最終責任は王太子府にある」
彼はしばらくその文を見ていた。
「最終責任は王太子府にある」
「強すぎますか」
「いや」
ジュリアスは首を振った。
「必要だ。むしろ、私からも言うべきだ」
「殿下から?」
「ああ」
彼は説明文の余白に目を落とした。
「噂の中には、君が私を抑えているというものもあるのだろう」
「はい」
「それは違う」
ジュリアスは顔を上げた。
以前なら、自尊心から怒ったかもしれない。
王太子が元婚約者に抑えられているなど、面子に関わる。
だが、今の彼の表情は違った。
噂が自分の面子を傷つけるからではなく、制度を歪めるから否定しようとしている顔だった。
「クラリス顧問は、私を抑えるためにいるのではない」
ジュリアスはゆっくり言葉にした。
「私が見落としたものを、次に見落とさないためにいる」
部屋が静かになった。
クラリスは、すぐには返事をしなかった。
その言葉は、重かった。
彼自身の失敗を前提にしている。
過去を認めた上で、今の職務関係を説明している。
「その文、使ってよろしいでしょうか」
クラリスが尋ねると、ジュリアスは少し驚いた顔をした。
「私の言葉を?」
「はい。王太子殿下からの補足として」
ジュリアスは一度目を伏せ、それから頷いた。
「使ってくれ」
「ありがとうございます」
「いや」
彼は苦笑した。
「これくらいは、私が言わなければならないことだ」
その日の夕方には、説明文の草案が整った。
題名は、簡潔にした。
王宮筆頭実務顧問の職務範囲について
内容は、噂への直接反論ではない。
誰が何を言ったかも書かない。
ただ、職務範囲を明確にする。
王宮筆頭実務顧問は、王太子妃ではない。
王族の代理決裁者でもない。
王弟府の私的代理人でもない。
エルディア公爵家の代表として王宮実務を握る職でもない。
正式な職務として、調査、照会、改善提案、緊急停止勧告を行う。
命令権は限定的。
各部署の決裁権は各長にある。
王太子府、王妃執務院、王弟府、財務院とは相互確認関係。
職務範囲外の私的依頼、無償奉仕、正式決裁を経ない業務は拒否できる。
終業時刻、休息規定、補佐官制度を持つ。
最後に、ジュリアスの補足文を入れた。
王太子府における署名確認改革は、王太子府自身の責任において進めるものである。王宮筆頭実務顧問は、王太子を抑えるための役職ではなく、王太子府が見落としたものを次に見落とさないための確認職である。
この文は、効いた。
翌朝、王宮掲示板に貼られると、人だかりができた。
いつもの告示より、読むのに時間がかかる。
だが、読んだ者の反応はさまざまだった。
「命令権は限定的なのね」
「王太子府の決裁権は王太子殿下にある、と書いてあるわ」
「拒否権まであるのか」
「終業時刻も書いてあるぞ」
「終業時刻……?」
そこが妙に話題になった。
王宮筆頭実務顧問は、王太子妃より偉いのか。
そう囁いていた者たちの一部は、首を傾げた。
無制限の権力者なら、終業時刻など明記しない。
拒否権も、休息規定も、補佐官制度も必要ない。
それは、権力というより職務だった。
もちろん、すべての噂が消えたわけではない。
「書いてあるからといって、本当かしら」
「王弟府の影響は残るでしょう」
「公爵家の娘であることは変わらないわ」
そう言う者もいる。
だが、噂の形は少し変わった。
漠然とした嫉妬や恐れから、職務範囲への具体的な疑問へ。
具体的な疑問なら、答えられる。
クラリスにとっては、その方がずっとましだった。
王宮筆頭実務顧問室で掲示後の反応をまとめていると、オスカーが報告を持ってきた。
「王宮内から、職務範囲に関する正式照会が三件来ています」
「内容は?」
「一つ目、儀礼局から。王宮筆頭実務顧問の緊急停止勧告が儀礼日程に及ぶ場合の手順について。二つ目、財務院から。確認費協議における顧問室の照会権限について。三つ目、王妃執務院から。慈善記録官室の差し戻し権限と顧問室の関係について」
クラリスは頷いた。
「よい照会です」
イリスが横から言う。
「噂より仕事になりましたね」
「ええ」
「面倒は増えましたが」
「それは……はい」
職務範囲を公開した結果、正式照会が増えた。
つまり仕事は増えた。
だが、曖昧な噂に振り回されるよりずっとよい。
レオンハルトも訪ねてきた。
「掲示を見た」
「いかがでしたか」
「よい。少なくとも、王弟府が口封じに動くよりはずっとよい」
「まだ少し不満そうですね」
「君への噂を放置するのは、やはり腹が立つ」
彼は正直だった。
クラリスは少しだけ笑った。
「怒ってくださるのは、ありがたいです」
「なら」
「でも、怒りで動かないでくださったことの方が、もっとありがたいです」
レオンハルトは、少し黙った。
それから、静かに息を吐く。
「難しいな」
「はい」
「君を支えることと、君の仕事を私の影にしないことは、時々ぶつかる」
「わたくしも、助けていただくことと、自分の職務として立つことの間で迷います」
「では、迷ったら記録か」
「たぶん」
イリスがそっと札を出した。
迷ったら文書
レオンハルトがそれを見て、少し笑った。
「万能だな」
「かなり」
クラリスも笑った。
その日の終わり、クラリスは説明文の写しを一枚、机の端に置いた。
王宮筆頭実務顧問は、王太子妃より偉いのか。
答えは、違う。
そもそも、比べるものではない。
王太子妃は、王太子の伴侶として王家の一翼を担う立場。
王宮筆頭実務顧問は、王宮の実務上の欠陥を見つけ、記録し、改善提案を行う職務。
どちらが偉いかではなく、何をするかが違う。
その違いを言葉にできたこと。
それが今日の成果だった。
イリスが終業時刻の札を置く。
今日は帰る
クラリスは、まだ職務範囲照会の三件を見ていた。
見たい。
返答案だけでも作りたい。
しかし、イリスの視線が強い。
レオンハルトもいる。
オスカーもなぜか少し身構えている。
逃げ道はなかった。
「帰ります」
クラリスが言うと、部屋全体が少し安心した。
そんなに信用がないのだろうか。
ある意味、ないのだろう。
クラリスは苦笑し、説明文を閉じた。
噂は、完全には消えない。
けれど、噂の上に職務範囲を置くことはできる。
感情で殴り返すのではなく、制度として説明する。
それが、王宮筆頭実務顧問としての今日の答えだった。




