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第61話 ローゼン侯爵夫人、社交界に敵を作る

 社交界の噂は、香水より早く広がる。


 しかも厄介なことに、香水より薄められにくい。


 一度どこかの茶会で囁かれた言葉は、翌日には別の屋敷のサロンで少し形を変え、三日後にはまるで昔からあった事実のような顔をしている。


 ローゼン侯爵夫人は、それを誰よりもよく知っていた。


 だから、自分に向けられている噂も、当然知っていた。


 ――ローゼン侯爵夫人は、王宮の若い顧問に取り込まれたらしい。


 ――社交界の善意まで帳簿に載せるなんて、無粋にもほどがありますわ。


 ――あれでは、夫人方がまるで商会の帳簿係ですわね。


 ――慈善とは、心ですのに。


 ――いえいえ、ローゼン様はご自分の茶会が利用されたから、少し過敏になっておられるのよ。


 最後の噂だけは、少し正しい。


 過敏になっている。


 なって当然だった。


 自分の茶会が使われた。

 自分の名前が使われた。

 自分の善意が、届いたふりをするための飾りにされた。


 その事実を知った日から、ローゼン侯爵夫人は以前と同じようには笑えなくなっていた。


 もちろん、笑う。


 社交界の人間だから。


 扇も使う。

 香水も選ぶ。

 菓子の大きさにも気を配る。

 相手が何を言いたくて、何を言えずにいるのかも読む。


 けれど、以前のように、見栄えだけで満足することはできなくなった。


 南施療院で見た、擦り切れた膝掛け。


 あれが、今も目に残っている。


「奥様、本日の招待客ですが」


 控え室で、侍女が名簿を差し出した。


 ローゼンは扇を閉じたまま、名簿へ目を落とす。


 ホルスト伯爵夫人。

 ヴェルナー伯爵夫人。

 リント男爵夫人。

 カルネ侯爵未亡人。

 エッシェン伯爵夫人。

 グラナート侯爵夫人。


 最後の名で、侍女の声が少しだけ硬くなった。


 グラナート侯爵夫人。


 社交界でも古い家格を誇る夫人で、王都慈善音楽会の名誉顧問を長年務めている。


 慈善は貴婦人の品格によって行われるべきで、王宮の書式に縛られるものではない。


 そう公言している人物だった。


 つまり、今日の茶会における最大の反対派である。


「おいでになるのね」


「はい。先ほど先触れが」


「よろしいわ」


 ローゼンは淡く微笑んだ。


「来てくださるなら、話せます」


 侍女は一瞬だけ心配そうな顔をした。


「奥様」


「何?」


「……本日のお茶は、少し濃いめにいたしましょうか」


 ローゼンは思わず笑った。


「そうね。夫人方のご機嫌を保つためではなく、私の気力のためにお願いするわ」


「承知いたしました」


 侍女が下がる。


 ローゼンは鏡の前に立った。


 今日のドレスは、淡い菫色。


 柔らかい色だが、胸元の刺繍は控えめに鋭い線を入れている。


 扇は白ではなく、深い紫。


 怒りすぎているようには見せない。


 だが、譲るつもりもない。


 これが、今日の装いだった。


 茶会は、午後の光が庭に落ちる頃に始まった。


 最初の会話は穏やかだった。


 天候。

 春の花。

 王宮の新しい掲示。

 ノルヴァルト産の毛織物の評判。

 若い令嬢たちの婚約話。


 誰もすぐには本題に入らない。


 それが社交界である。


 だが、全員が知っている。


 今日の本題は、紅茶でも菓子でもない。


 テーブルの中央に置かれた、例の標準記録様式だ。


 それは今日も銀盆に載せられていた。


 ローゼンは、あえて隠さなかった。


 隠せば、余計に噂になる。


 ならば、茶器と同じように置く。


 この紙もまた、これからの慈善茶会に必要な道具なのだと見せるために。


「ローゼン侯爵夫人」


 最初に仕掛けてきたのは、やはりグラナート侯爵夫人だった。


 年齢はローゼンより上。


 銀髪を美しく結い上げ、真珠を首に巻いている。


 声は柔らかいが、言葉の端に冷たさがあった。


「最近、社交界ではずいぶん新しい流行が生まれているようですわね」


「ええ。新しい流行は退屈を防ぎますもの」


 ローゼンは笑って返す。


「記録用紙まで流行になるとは、私も長く生きて初めてですわ」


「私も初めてですわ」


「善意というものは、もっと自由であるべきだと思いませんこと?」


 夫人たちの視線が集まる。


 ローゼンは、カップを置いた。


 音はほとんど立てない。


「自由であるべきですわ」


 グラナート夫人の目が少し細くなる。


 ローゼンは続ける。


「ただし、届いたふりをする自由は、いりません」


 空気が変わった。


 ホルスト伯爵夫人が、わずかに扇を持ち直す。


 リント男爵夫人は緊張した顔で膝の上の手を握った。


 グラナート夫人は、笑みを消さない。


「随分と強い言葉ですこと」


「実際に強い出来事がございましたから」


「あなたの茶会が利用された件ですか」


「ええ」


 ローゼンは逃げなかった。


 社交界で、自分の失態を自分から口にすることは勇気がいる。


 いや、勇気というより、覚悟がいる。


 相手はそこを突いてくる。


 あなたの茶会が悪かったのでは。

 あなたが見ていなかったのでは。

 あなたが利用されやすかったのでは。


 そう言われる隙を、自分で開くことになる。


 けれど、ローゼンは開いた。


 閉じたままでは、何も変わらないからだ。


「私の茶会は利用されました」


 彼女ははっきり言った。


「南施療院へ届くはずだった膝掛けは届かなかった。帳簿上では美しく処理されていました。茶会は成功。寄付も成功。再仕立ても予定済み。けれど、病室には届いていなかった」


 夫人たちは黙った。


 誰も菓子へ手を伸ばさない。


「私は恥をかきました」


 ローゼンは続ける。


「ええ、とても。社交界で長く慈善茶会を開いてきたこの私が、現物の行き先を見ていなかったのですもの」


 グラナート夫人が静かに言う。


「そのようにご自分を責められなくとも」


「責めていますわ」


 ローゼンは即答した。


「でも、私が恥をかいたことより、施療院の膝掛けが届かなかったことの方が問題です」


 その言葉に、若いリント男爵夫人が顔を上げた。


 彼女は前回、昨年の寄付毛布について受領先確認がないと告白した夫人だった。


 あれから、彼女は自分の屋敷の記録を探している。


 結果はまだ出ていない。


 けれど、隠さないと決めたらしい。


「恥を隠して、施療院の膝掛けが届かない方が、もっと恥ですわ」


 ローゼンの声は、静かだった。


 だが、部屋の隅まで届いた。


 グラナート夫人の扇が、ゆっくり閉じられる。


「ですが、慈善活動に細かな記録を求めれば、夫人方は萎縮しますわ。善意を差し出すたびに疑われるようでは、誰も手を伸ばさなくなるかもしれません」


「それは困りますわね」


「でしょう?」


「ですから、疑われないために記録するのです」


 ローゼンは、銀盆の上の様式を一枚取った。


「寄付しました。届きました。受け取りました。その三つが揃えば、誰も余計な疑いをかけません」


「それでも、無粋ですわ」


「無粋でしょうね」


 ローゼンはあっさり認めた。


 夫人たちが少し驚く。


「私も、最初はそう思いました。茶会に帳簿。刺繍会に受領書。美しくありませんわ」


「では」


「でも、届かない善意よりは美しい」


 グラナート夫人が黙った。


 ローゼンはそこで追い詰めすぎなかった。


 社交界では、言葉で完全に勝ってしまうと敵を増やす。


 もっとも、今日は増やす覚悟で来ている。


 ただ、それでも逃げ道ではなく、誇りの置き場所は必要だった。


「グラナート侯爵夫人」


 ローゼンは柔らかく呼びかけた。


「あなたの慈善音楽会は、長く王都の施療院を支えてきましたわ」


「ええ」


「その記録が整えば、あなたの善意はもっと強くなります」


「強く?」


「はい。噂ではなく、記録として残りますもの。何年何月、どの音楽会で集めた寄付が、どの施療院へ、どの品として届いたか。後の夫人方も学べますわ」


 グラナート夫人は、少しだけ表情を変えた。


 命令されるのは嫌う。


 だが、自分の功績が後世の手本になると言われれば、揺れる。


 ローゼンはそこを突いた。


「記録は、夫人方を縛るだけのものではありません。よい慈善を、次の世代へ残すものでもあります」


 沈黙。


 それを破ったのは、リント男爵夫人だった。


「あの」


 声は小さい。


 だが、全員が彼女を見た。


 若い男爵夫人は一瞬ひるんだが、膝の上の手を握り直した。


「私は、空欄を出します」


 ローゼンは彼女を見る。


 リント夫人は続けた。


「昨年の毛布の件です。商会報告はあります。でも、孤児院からの受領確認がありません。礼状にも品目名がありませんでした」


 数人の夫人が、わずかに目を伏せた。


 それは、同じ経験がある顔だった。


 寄付はした。


 礼状は来た。


 でも、本当に品物が届いたかまでは見ていない。


 リント夫人は声を震わせながら言った。


「以前なら、商会報告があるから届いたことにしていたと思います。でも、今は……届いたふりをするより、空欄を出す方がよいと学びました」


 ローゼンは、胸の奥で静かに息を吐いた。


 若い夫人が、社交界の場で自分の不備を口にした。


 これは小さなことではない。


 グラナート夫人がゆっくり彼女を見た。


「リント男爵夫人。あなた、それを出せば、ご自分の茶会の不備も記録に残りますわよ」


「はい」


「怖くありませんの?」


「怖いです」


 リント夫人は正直に答えた。


「でも、隠して後で見つかる方がもっと怖いです」


 その言葉に、ホルスト伯爵夫人が小さく笑った。


 嘲笑ではない。


 どこか、自分も分かるという笑いだった。


「分かりますわ」


 ホルスト夫人は言った。


「私も昨日、慈善記録官室から差し戻しを受けましたもの」


 部屋が少しざわめいた。


 ホルスト夫人は扇を閉じ、肩をすくめる。


「発送前確認と受領先確認の違いを、侍女長が説明されて帰ってきました。最初は腹が立ちましたわ。まるで私が疑われているみたいで」


「今は?」


 ローゼンが尋ねる。


「少し腹が立っています」


 夫人たちから笑いが漏れた。


 ホルスト夫人も苦笑する。


「でも、寝台布が本当に孤児院へ届いたと分かるなら、その方がよいのでしょうね」


 その言葉で、場の空気が少しだけ変わった。


 反対派と賛成派が、はっきり分かれ始めている。


 完全に受け入れたわけではない。


 けれど、若い夫人たちや実際に差し戻しを受けた夫人たちが、少しずつローゼン側へ寄っている。


 グラナート侯爵夫人は、それを見逃さなかった。


「ローゼン侯爵夫人」


「はい」


「あなたは、社交界の慈善を王宮の管理下に置きたいのですか」


 ついに来た。


 本題の中の本題。


 ローゼンは、微笑みを消さなかった。


「いいえ」


「では、王宮筆頭実務顧問の意向を社交界へ持ち込んでいるだけでは?」


 クラリスの名は出さない。


 だが、全員が分かる。


 王宮の若い顧問。

 公爵令嬢。

 元王太子婚約者。

 今や王宮筆頭実務顧問。


 その彼女が社交界まで支配しようとしている、という噂。


 ローゼンは、カップを手に取った。


 一口飲む。


 濃いめに淹れた紅茶は、今日のためによく働いていた。


「グラナート夫人」


「はい」


「クラリス顧問は、社交界を支配するほど暇ではありませんわ」


 不意を突かれたのか、何人かが吹き出しかけた。


 ローゼンは続ける。


「彼女は今、財務院と確認費で揉め、王太子府の差し戻し箱と格闘し、慈善記録官室の空欄を見守り、ついでに自分の終業時刻を侍女に監視されています」


 ホルスト夫人が扇で口元を隠す。


「それは……大変そうですわね」


「大変ですわ。だから、社交界の慈善は、社交界の私たちが整えるべきです」


 ローゼンは、そこで声を少し低くした。


「王宮に命じられたからではありません。私たちが、善意を食い物にされたくないからです」


 グラナート夫人は黙った。


「私たちの茶会です。私たちの寄付です。私たちの名で集めた善意です。それが届かなかった時、恥をかくのも私たちです。なら、私たちが確認するのです」


 ローゼンは、銀盆の記録用紙を指した。


「これは王宮からの鎖ではありません。社交界が自分の善意を守るための扇ですわ」


 扇。


 その言葉に、夫人たちの目が動いた。


 帳簿ではなく、扇。


 顔を隠すためだけではない。


 時に、見えないものを指し示すためにも使う。


 かつてローゼン自身が言った言葉に近い。


 グラナート夫人は、しばらく黙っていた。


 やがて、静かに言う。


「あなたは、本気で社交界を変えるおつもりなのね」


「届かなかった膝掛け一枚分くらいは」


「一枚?」


「いえ」


 ローゼンは微笑んだ。


「三十枚分でしたわね」


 部屋に、静かな緊張が走った。


 これで、ローゼンは確実に敵を作った。


 グラナート侯爵夫人は、彼女を許さないだろう。


 少なくとも当分は。


 高位夫人の一部も反発する。


 ローゼン侯爵夫人は王宮に媚びた。

 社交界の伝統を壊した。

 善意を帳簿へ売り渡した。


 そんな噂が、明日には広がる。


 だが、同時に別の噂も広がるだろう。


 リント男爵夫人が空欄を出すと言った。

 ホルスト伯爵夫人が差し戻しを受け入れた。

 ローゼン侯爵夫人が、自分の恥を隠さなかった。


 どちらの噂が勝つかは、まだ分からない。


 でも、何も動かなかった昨日よりはいい。


 茶会の終わり際、グラナート夫人は記録用紙を手に取らなかった。


 それは予想通りだった。


 だが、彼女の侍女が控えめに一枚を受け取ったのを、ローゼンは見逃さなかった。


 帰り際、リント男爵夫人がローゼンの前に立った。


「ローゼン侯爵夫人」


「何かしら」


「私、昨年の毛布の空欄を出します」


「ええ」


「もし、本当に届いていなかったら」


「補填しましょう」


 リント夫人の目が揺れる。


「私にできますでしょうか」


「一人では無理ですわね」


 ローゼンは優しく、しかしはっきり言った。


「でも、一人でやる必要はありません」


 リント夫人は、少しだけ笑った。


「それ、クラリス顧問みたいです」


「まあ」


 ローゼンは扇を開いた。


「影響を受けているのかしら。困りましたわね」


「困っているようには見えません」


「ええ」


 ローゼンは扇の奥で微笑んだ。


「少しも困っておりません」


 その夜、王宮筆頭実務顧問室にローゼン侯爵夫人からの報告が届いた。


 クラリスは封を開け、ゆっくり読み進めた。


 社交界反対派の発言。

 グラナート侯爵夫人の懸念。

 リント男爵夫人の空欄提出宣言。

 ホルスト伯爵夫人の差し戻し受容。

 高位夫人たちの反発見込み。


 そして最後に、ローゼンらしい一文が添えられていた。


 敵は増えました。でも、空欄を出す夫人も増えました。差し引きでは、勝ちですわ。


 クラリスは思わず笑ってしまった。


 イリスが茶を置きながら尋ねる。


「ローゼン侯爵夫人からですか」


「ええ。社交界に敵を作ったそうです」


「予定通りでございますね」


「予定通りというのもどうかと思うけれど」


「でも、必要だったのでしょう?」


「はい」


 クラリスは報告書を机に置いた。


 社交界の改革は、王宮の命令だけでは進まない。


 ローゼン侯爵夫人のように、自分の恥を晒してでも言葉にできる人が必要だ。


 そして、リント男爵夫人のように、震えながら空欄を出す人が必要だ。


 その小さな勇気が、いずれ大きな慣例を変えていく。


 クラリスは、新しい紙に見出しを書いた。


 社交界標準様式への反発と支持層の形成


 イリスが横から覗き込む。


「また名前がつきましたね」


「はい」


「箱は?」


 クラリスは、報告書の写しを名前をつけるの箱へ入れた。


 少し考えてから、リント男爵夫人の発言だけを別紙に写す。


 届いたふりをするより、空欄を出す方がよい。


 それを、机の端に置いた。


「よい言葉です」


 イリスが言う。


「ええ」


 クラリスは頷いた。


 その日、ローゼン侯爵夫人は社交界に敵を作った。


 だが同時に、空欄を恐れない夫人を一人増やした。


 改革とは、たぶんそういうものなのだ。


 拍手されることより、敵を作りながら、それでも一人ずつ隣に立つ人を増やしていくこと。


 銀盆の上の記録用紙は、もうただの紙ではなかった。


 社交界が自分の善意を守るために持つ、新しい扇になり始めていた。

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