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第60話 王太子府の差し戻し箱は、一日でいっぱいになった

 王太子府に置かれた新しい箱は、朝のうちは空だった。


 磨かれた木製の箱で、側面に小さな札がついている。


 差し戻し


 たった四文字。


 けれど、その四文字を見た王太子府の書記官たちは、まるで見慣れない獣でも置かれたような顔をした。


「……これ、常設ですか」


 若い書記官のトーマが小声で尋ねた。


 隣にいた古参補佐官ライオネルは、眉間に皺を寄せたまま答える。


「殿下が、そうお決めになった」


「常設なんですね」


「聞き返すな」


「はい」


 トーマは慌てて背筋を伸ばした。


 王太子府では、書類は基本的に流れるものだった。


 王太子に上げる前に補佐官が整え、要点を付け、関係部署の確認印を揃え、殿下の判断を仰ぐ。


 署名が済めば次へ送る。


 儀礼局へ。

 財務院へ。

 王妃執務院へ。

 各貴族家へ。

 商会へ。


 流れが滞らないことが、王太子府の誇りでもあった。


 だが、今朝からその流れに、新しい水門ができた。


 差し戻し箱。


 そして、その水門を閉じたり開いたりするのは、他でもない王太子ジュリアスだった。


「次」


 執務机の向こうで、ジュリアスが言った。


 ライオネルが決裁書を一枚差し出す。


「春季儀礼用備品更新費でございます。例年通り、燭台磨き布、来賓用敷布、儀礼靴紐、香炉用布袋などの更新です」


 ジュリアスは書類を受け取り、最初の頁だけでなく添付資料までめくった。


 以前なら、ライオネルの説明を聞き、金額を見て、すぐ署名していたかもしれない。


 例年通り。


 その言葉は便利だった。


 だが便利すぎた。


「現物確認者は?」


 ライオネルの表情が止まる。


「備品局からの確認印がございます」


「確認者の名前は」


「部署印があれば通常は」


「名前は」


 ジュリアスは同じ声で繰り返した。


 怒鳴ってはいない。


 だが、引かなかった。


 ライオネルは書類をめくる。


 確認印はある。


 備品局の丸い印。


 だが、誰が現物を見たのかは書かれていない。


「……記載がありません」


「差し戻し」


 ジュリアスは、書類の上に赤い札を置いた。


 トーマが慌てて受け取り、差し戻し箱へ入れる。


 午前第一刻の終わり。


 差し戻し箱に入った書類は、五件になった。


 第二刻の半ば。


 十二件。


 昼前には、箱の中で紙が斜めに立ち始めた。


「殿下」


 ライオネルが、ついに声を低くした。


「これでは、本当に王太子府の業務が止まります」


 ジュリアスは羽根ペンを置いた。


 机の端には、二枚の札が並んでいる。


 署名は読む


 差し戻しは罰ではなく確認


 どちらも飾りではない。


 飾りなら、もっと美しい字で書いた。


 この二枚は、自分への戒めだ。


「止まるなら」


 ジュリアスは、ゆっくり顔を上げた。


「今まで流れすぎていたということだ」


 部屋が静まり返った。


 ライオネルは口を閉じた。


 若い書記官たちは、誰も動かない。


 ジュリアス自身も、その言葉の重さを感じていた。


 止まるなら、今まで流れすぎていた。


 それは王太子府の誇りを傷つける言葉だ。


 だが、ここで言わなければならない。


 書類が止まることを恐れて、確認を省いてきた。


 その結果、クラリスを支えるはずの補佐人員費が、実配置なしで通った。


 王太子妃教育費の不正が見えなかった。


 自分の署名が使われた。


 もう、速さだけを誇るわけにはいかない。


「ただし」


 ジュリアスは続けた。


「止まったままでは困る」


 ライオネルが、少しだけ顔を上げる。


「ですから申し上げております」


「違う。確認をやめるのではない。なぜ止まるのかを分ける」


「分ける?」


「差し戻し理由を分類する」


 ジュリアスは、差し戻し箱を見た。


 昼前で、もうほとんどいっぱいだ。


「このままでは、差し戻しが多すぎる、という不満だけが残る。どんな理由で戻したのか分からなければ、同じ書類がまた戻ってくる」


 ライオネルは、少し黙った。


 若い書記官トーマが、おそるおそる口を開く。


「殿下。分類欄を作るのでしょうか」


「作れるか」


「はい。ええと……根拠資料不足、実確認者名なし、前年踏襲のみ、支出先不明、文言不備、緊急確認……くらいでしょうか」


 ジュリアスは頷いた。


「よい。まずその分類で始める」


 トーマの顔が少し明るくなった。


 だが、ライオネルはまだ渋い。


「殿下、分類作業にも人手がかかります」


「分かっている」


「差し戻し対応に人員を割けば、通常処理はさらに遅れます」


「だから記録する」


 ジュリアスは言った。


「どれだけ遅れるか。何に人手がかかるか。どこが詰まるか」


「そこまで記録している時間が」


「記録しなければ、毎日同じ話をすることになる」


 ライオネルは、言葉を失った。


 それは、痛いほど正しかった。


 王太子府は、速く処理することには慣れている。


 だが、なぜ遅れたかを記録することには慣れていない。


 遅れは、恥だった。


 差し戻しも、恥だった。


 だから隠す。


 急いで直す。


 誰かが裏で調整する。


 それが、これまでのやり方だった。


 午後、王宮筆頭実務顧問室へ緊急ではないが急ぎの使者が来た。


 妙な言い方だが、王宮ではよくある。


 緊急札を貼るほどではない。


 けれど、今日中に相談したい。


 そういう時、人はだいたい困った顔でやって来る。


「王太子府からです」


 イリスが取り次ぎ、クラリスは受領記録を取ってから封を開けた。


 中身は、ジュリアスからの簡潔な連絡だった。


 差し戻し箱が半日で満杯になった。分類を始める。王宮筆頭実務顧問室の助言を求めたい。ただし、処理の肩代わりは求めない。


 最後の一文を読んで、クラリスは少しだけ目を細めた。


「肩代わりは求めない、と書かれています」


 イリスが横から覗き込み、満足そうに頷いた。


「王太子殿下も学習されておりますね」


「言い方」


「成長と言い換えます」


「同じでは?」


「少し違います」


 クラリスは、もう一度書面を読んだ。


 肩代わりは求めない。


 その言葉があるだけで、王太子府との関係は少し変わる。


 以前のジュリアスなら、クラリスに来てほしいと言っただろう。


 書類を見てくれ。

 分類してくれ。

 どうすればいいか教えてくれ。


 そしてクラリスは、きっと行った。


 夜遅くまで、王太子府の差し戻し書類を整理した。


 そうして、王太子府は助かり、クラリスの仕事はまた増えた。


 今は違う。


「行きます」


 クラリスが言うと、イリスがじっと見た。


「肩代わりではなく?」


「助言です」


「何をなさいますか」


「差し戻し理由の分類基準を確認します。書類そのものは処理しません」


「記録しました」


「本当に記録するのね」


「必要ですので」


 クラリスは少し笑い、オスカーを呼んだ。


「王太子府へ同行できますか」


「はい。胃薬もあります」


「今日は分類だけです」


「分類でも胃は痛みます」


 それは否定できなかった。


 王太子府に着くと、空気は明らかに重かった。


 差し戻し箱は、本当にいっぱいだった。


 箱から紙が少しはみ出している。


 トーマが慌てて二つ目の箱を用意しようとして、ライオネルに止められていた。


「二つ目を置けば、さらに増える」


「でも、入りません」


「入らないことを見せるのも記録だ」


 ライオネルがそう言ったのを聞いて、クラリスは少しだけ眉を上げた。


 さっそく変化がある。


 差し戻しが多すぎることを隠すのではなく、見せる。


 それはよい傾向だった。


「クラリス顧問」


 ジュリアスが立ち上がる。


「来てくれて助かる」


「処理はしません」


「分かっている」


 彼はすぐに答えた。


「助言だけ頼む」


 その返答に、イリスがいれば札を出したかもしれない。


 よろしいです


 クラリスは内心で少し笑った。


 オスカーは差し戻し箱を見て、眼鏡の奥で目を細めた。


「なかなか壮観ですね」


「笑い事ではありません」


 ライオネルが硬い声で言う。


「笑ってはいません。分類し甲斐があると思っただけです」


「それも大概です」


 ジュリアスが、差し戻し理由の仮分類表を差し出した。


「トーマが作った」


 クラリスは表を見る。


 根拠資料不足。

 実確認者名なし。

 前年踏襲のみ。

 支出先不明。

 文言不備。

 本当に緊急。


 悪くない。


 むしろ、初動としてはかなりよい。


「まず、この分類で十分です」


 トーマがほっとした顔をした。


 だが、クラリスは続けた。


「ただし、“本当に緊急”は差し戻し理由ではなく、処理優先度です。別欄にしましょう」


「あ……そうですね」


 トーマがすぐに書き直す。


「それから、“根拠資料不足”の中にも種類があります。添付忘れなのか、資料自体が存在しないのか、保管場所が分からないのか」


 ライオネルが口を開いた。


「そこまで分ける必要がありますか」


「あります」


 クラリスは、差し戻し箱を指した。


「差し戻しが多いことより、なぜ差し戻されたかを知らない方が危険です」


 部屋が静かになった。


「添付忘れなら、提出前確認表で減らせます。資料自体が存在しないなら、決裁手順の問題です。保管場所が分からないだけなら、資料棚の問題です。すべて同じ“根拠資料不足”にすると、解決策を間違えます」


 ライオネルは黙った。


 反論したいが、できない顔だった。


 ジュリアスが頷く。


「分けよう」


 クラリスは、差し戻し書類を直接処理しなかった。


 代わりに、最初の十件だけを例として分類した。


 一件目、備品局の確認者名なし。


 分類、実確認者名なし。


 二件目、王宮備品費の前年踏襲。前年資料番号なし。


 分類、前年踏襲のみ、および根拠資料保管場所不明。


 三件目、外交返書の文言確認不足。


 分類、文言不備。


 四件目、儀礼用布の支出先に商会名だけあり、担当者名なし。


 分類、支出先不明に近いが、商会担当者未記載として別項目。


 五件目、緊急行事用備品。現物確認者名なしだが、明朝必要。


 分類、実確認者名なし。優先度、緊急。


「緊急だから確認しない、ではありません」


 クラリスは言った。


「緊急だから、確認方法を簡略化して記録する、です」


 トーマが必死に書き取っている。


 若い書記官の顔には、混乱と興奮が混じっていた。


「クラリス顧問」


 彼がおずおずと手を上げた。


「根拠資料の保管場所が分からないだけのものが多い場合、どうしたらよいでしょうか」


「まず数を出します」


「数を?」


「はい。差し戻し理由の半分が“資料の置き場所が分からない”なら、書類の質ではなく保管の問題です」


 オスカーが横から頷いた。


「根拠資料棚を作るのがよいかもしれませんね」


 トーマの目が明るくなった。


「根拠資料棚……」


 彼はすぐに紙へ書きつける。


「決裁書に対応する根拠資料を、年度別、部署別、案件番号別に置く棚ですか」


「あるいは、棚そのものより台帳が先かもしれません」


 オスカーが言う。


「資料がどこにあるかを示す根拠資料台帳。棚はその後です」


「台帳……!」


 トーマは、完全に目が輝いていた。


 書記官の血が騒いでいるらしい。


 ライオネルが渋い顔をした。


「また台帳が増えるのか」


「台帳を増やさないと、差し戻しが減りません」


 トーマが思わず言い返し、すぐに青ざめた。


「失礼しました」


 ライオネルは彼をしばらく見た。


 叱るかと思われた。


 だが、古参補佐官は小さく息を吐いただけだった。


「……続けなさい」


 トーマは目を丸くした。


「はい」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ動いた。


 ライオネルもまた、変わらざるを得ないのだ。


 夕刻までに、差し戻し箱の中身はすべて処理されたわけではない。


 むしろ、物理的にはほとんど残っていた。


 だが、最初の三十件について理由分類が終わった。


 結果は、意外なものだった。


 根拠資料不足、十三件。


 そのうち、資料自体が存在しないものは二件。


 添付忘れが四件。


 保管場所不明が七件。


 実確認者名なし、六件。


 前年踏襲のみ、五件。


 文言不備、三件。


 支出先不明、二件。


 本当に緊急、優先度高が一件。


「半分近くが、資料の置き場所か添付漏れですね」


 トーマが言った。


「ということは」


 クラリスは頷く。


「王太子府が止まっている理由の半分は、判断ではなく資料管理です」


 ジュリアスが深く息を吐いた。


「耳が痛いな」


「でも、改善できます」


 クラリスは言った。


「根拠資料台帳と提出前確認欄で、かなり減らせるはずです」


 ライオネルが表を見つめていた。


「……差し戻しが多いのではなく、資料の扱いが粗かった」


「両方です」


 クラリスは容赦なく言った。


 ライオネルは一瞬だけ苦い顔をし、それから頷いた。


「そうですね。両方です」


 その返答に、ジュリアスがわずかに目を動かした。


 ライオネルが認めた。


 これは小さくない。


「トーマ」


 ライオネルが若い書記官を呼ぶ。


「はい」


「根拠資料台帳案を作りなさい。私も見る」


「はい!」


 声が少し大きすぎた。


 だが、誰も咎めなかった。


 クラリスはそこで立ち上がった。


「では、わたくしはここまでにします」


 ジュリアスが少し驚いた。


「もう戻るのか」


「はい。ここから先は王太子府の仕事です」


 その言葉に、ジュリアスは少し黙った。


 それから、ゆっくり頷いた。


「そうだな」


「分類基準の初稿はお渡ししました。台帳案は王太子府で作成してください。必要なら、完成後に確認します」


「分かった」


 ジュリアスは、差し戻し箱を見た。


 まだいっぱいだ。


 だが、ただの書類の山ではなくなった。


 理由を持った山になった。


「クラリス顧問」


「はい」


「助かった。だが、肩代わりはさせなかったつもりだ」


「はい」


 クラリスは小さく微笑んだ。


「助言だけでした」


 ジュリアスはほっとしたように笑った。


「それならよかった」


 帰り際、ライオネルがクラリスに頭を下げた。


「クラリス顧問」


「はい」


「私は、差し戻し箱など王太子府を止めるだけだと思っていました」


「今も少し思っておられるのでは?」


「かなり思っています」


 正直だった。


 クラリスは少し笑う。


 ライオネルも、ほんのわずかに口元を緩めた。


「ですが、理由を分類することには意味があると分かりました」


「ありがとうございます」


「まだ納得したわけではありません」


「それで十分です」


 納得していない。


 でも、意味は認めた。


 改革の初期としては、それで十分だった。


 夜、王宮筆頭実務顧問室へ戻ると、イリスが待っていた。


「肩代わりは?」


「していません」


「書類を処理しましたか」


「最初の十件だけ分類例として見ました」


「十件」


「例です」


「まあ、許容範囲でございます」


 採点されている。


 クラリスは苦笑した。


「王太子府の差し戻しの半分近くは、資料の置き場所か添付漏れでした」


「では、箱より棚の問題でございますね」


「そうね」


「王太子府にも箱が増えそうです」


「棚も増えます」


 オスカーが横で少し楽しそうに言った。


「根拠資料台帳も増えます」


 イリスは、静かに一枚の札を置いた。


 台帳は増えるもの


「格言みたいに言わないで」


 クラリスは笑ってしまった。


 王太子府の差し戻し箱は、一日でいっぱいになった。


 それは失敗のようにも見えた。


 だが、箱がいっぱいになったことで、初めて見えたものがある。


 差し戻しの理由。

 資料の置き場所。

 慣例の穴。

 若い書記官の提案。

 古参補佐官の戸惑い。

 王太子自身の責任。


 止まったから、見えた。


 王宮は、止まることを恐れすぎていたのかもしれない。


 大切なのは、止まらないふりをすることではない。


 止まった理由を記録し、次に少しだけ流れをよくすることだ。

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