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第54話 財務院は、確認費という言葉を嫌った

 財務院の会議室は、王宮の中でもっとも紙の匂いが濃い場所だった。


 王妃執務院のような花の香りはない。


 王太子府のような磨かれた銀器の気配もない。


 あるのは、乾いた紙、古い革表紙、インク、蝋、そして何度も開かれた帳簿の重さだった。


 クラリスは、その会議室の入口で一度立ち止まった。


 今日の議題は、確認費。


 善意確認制度を動かすために必要な費用である。


 受領先へ確認に行く人件費。

 現物を確認するための移動費。

 記録を写す紙代。

 補助記録を整理する時間。

 未着報告を受け付ける窓口の維持費。


 どれも、本来なら最初から必要だったものだ。


 けれど、これまで王宮はそれを費用として見てこなかった。


 誰かがついでにやる。

 誰かが善意で見る。

 誰かが残業して整える。

 誰かが泣き寝入りする。


 そうして、帳簿の上では安く見えていた。


 安く見えていただけだった。


「クラリス」


 隣に立つレオンハルトが声をかけた。


「はい」


「今日の相手は、敵とは限らない」


「分かっています」


「だが、味方とも限らない」


「それも分かっています」


 クラリスは、手元の資料を持ち直した。


 今日の同席者は、レオンハルト、オスカー、慈善記録官室からリーナ、そして財務院内の若手監査官であるエリオット・グレイン。


 ミレーヌは慈善記録官室で、初日不備の修正手順をまとめている。


 イリスは会議室の外で控える予定だった。


 財務院側が、侍女の同席までは難色を示したためである。


 それを聞いた時、イリスは特に怒らなかった。


 ただ、クラリスに一枚の札を渡した。


 その場で全部引き受けない


 今、その札はクラリスの資料の一番上に挟まっている。


 護符のようだった。


「入ろう」


 レオンハルトが言い、扉が開かれた。


 財務院側の出席者は五名。


 主席代理として、グレゴール財務参事官。


 白い口髭を整えた、細身の男だ。


 旧バルツァー派に近いと噂されるが、本人はそれを一度も認めていない。


 その隣に、予算管理官二名。


 記録係一名。


 そして、若手監査官エリオット。


 エリオットはまだ二十代後半の青年で、少し緊張した顔をしていた。


 彼はクラリスと目が合うと、小さく頷く。


 完全な味方ではない。


 だが、少なくとも話を聞こうとしている目だった。


「王宮筆頭実務顧問」


 グレゴール参事官が、ゆっくり礼をした。


「本日はお時間をいただき、感謝いたします」


「こちらこそ、協議の場を設けていただきありがとうございます」


 クラリスも礼を返す。


 互いに丁寧。


 だが、空気は硬い。


 テーブルに着くと、すぐにグレゴールが口を開いた。


「まず、財務院として申し上げたいのは、善意確認制度そのものに反対しているわけではない、という点です」


 来た。


 クラリスは静かに頷いた。


「承知しております」


「今回の不正は痛ましいものでした。再発防止の必要性も認めます。しかし、制度は熱に浮かされて作るものではありません」


 熱。


 つまり、今回の改革を感情的な反動だと言いたいのだ。


 オスカーの筆が動く。


 レオンハルトは表情を変えない。


 グレゴールは続けた。


「確認費という項目を恒常的に置けば、各部署が“確認”を名目に支出を増やす恐れがあります。慈善に限らず、儀礼、教育、備品、外交。あらゆる部署が確認費を求めれば、財政は膨張します」


「ご懸念は理解できます」


 クラリスは答えた。


「理解していただけるなら、再考の余地があると?」


「いいえ」


 クラリスが即答すると、会議室の空気が少し止まった。


 グレゴールの眉がわずかに動く。


「再考しない、と?」


「確認費を置くこと自体は必要です。ただし、濫用防止の設計は必要です」


 レオンハルトが、わずかに口元を緩めた。


 グレゴールは椅子に座り直す。


「では、お聞きしましょう。確認費とは、結局何ですかな。財務院から見れば、新たな固定費です」


「はい。固定費です」


 クラリスは否定しなかった。


「確認は無料ではありません」


「しかし、確認に費用をかければ、実際に寄付品へ回る金が減る」


「確認に費用をかけなかった結果、寄付品そのものが届きませんでした」


 その言葉に、グレゴールの隣の予算管理官が少し顔をしかめた。


 クラリスは資料を開く。


「南施療院の膝掛け三十枚、孤児院の冬服三十着、包帯布の品質低下。どれも商会報告だけで納入済みとされたため、発見が遅れました。確認費を削った結果、物資が消え、補填費、調査費、外交上の信用回復費が発生しています」


 オスカーが補足表を配る。


 そこには、確認費を置かなかったことで結果的に発生した費用が整理されていた。


 未着物資補填。

 王弟府調査費。

 財務院再監査費。

 社交界記録整理費。

 ノルヴァルト公国との照合費。

 商会取引停止に伴う再入札費。


 グレゴールの目が、表の上で止まる。


「これは」


「今回の不正後に発生した追加費用です」


 クラリスは言った。


「確認費を惜しんだ結果、王宮はより大きな費用を払っています」


 エリオット若手監査官が、静かに頷いた。


 グレゴールはそれを横目で見たが、何も言わなかった。


「ですが」


 グレゴールは、すぐに態勢を立て直した。


「それは今回のような不正があった場合の話です。通常時にも同じ確認費をかけるのは過剰ではありませんか」


「過剰な確認は避けるべきです」


 クラリスは答えた。


「ですので、確認費には段階を設けます」


 リーナが資料を広げた。


「善意確認制度における確認区分案です」


 彼女は緊張しながらも説明を始めた。


「低額・定型寄付は受領先署名のみ。中額または季節支援品は受領先署名と品目確認。高額寄付、再仕立て品、外国産物資、過去に未着があった経路については現物確認を必須とします」


 グレゴールがリーナを見る。


「あなたは?」


「王妃執務院慈善記録官室の補佐、リーナと申します」


「現場側の案ですか」


「はい」


 リーナは、少しだけ背筋を伸ばした。


「確認費をすべてに同じようにかけるのではなく、危険度に応じて分けます」


 クラリスは補足する。


「今回の不正では、再仕立て品、赤い紐の箱、南門倉庫経由、複数商会名義、商会報告のみのものに危険が集中していました。今後は、こうした条件を危険度として扱います」


 エリオットが初めて口を開いた。


「危険度分類を財務院側の支出審査にも組み込めば、確認費の膨張はある程度防げます」


 グレゴールの顔が少し硬くなる。


「エリオット監査官」


「はい」


「財務院側からも、そのような案を出すということか」


「出すべきかと存じます」


 若手監査官は、緊張しながらも引かなかった。


「確認費を一律に拒むより、危険度別の上限を設けた方が財務管理上も安定します」


 会議室に、わずかな緊張が走る。


 財務院の中にも、考え方の違いがある。


 旧バルツァー派に近い参事官と、改革寄りの若手監査官。


 クラリスはその対立を煽らないよう注意した。


 ここで財務院を割ることが目的ではない。


 制度を通すことが目的だ。


「財務院の裁量を奪いたいわけではありません」


 クラリスは言った。


 グレゴールが彼女を見る。


「確認費を、財務院抜きで決めるつもりはありません。むしろ、財務院の審査基準として組み込んでいただきたいのです」


「審査基準」


「はい。確認費が必要な案件、不要な案件、簡易確認で足りる案件を、財務院、王妃執務院、王宮筆頭実務顧問室の三者で基準化します」


 レオンハルトが続けた。


「財務院が不正の温床だったと見られたままでは、そちらも困るだろう。確認費の基準を財務院が共に作れば、再発防止に関与した実績になる」


 グレゴールはレオンハルトを見た。


 王弟の言葉は、重い。


 責めるだけではない。


 財務院の面子の置き場所を作っている。


 クラリスは、ローゼン侯爵夫人の言葉を思い出した。


 逃げ道ではなく、誇りの置き場所。


 社交界だけでなく、財務院にも必要なのだ。


 グレゴールは、しばらく黙った。


 そして、少しだけ声を低くした。


「財務院にも、痛みはあります」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「バルツァー元財務卿の件で、財務院全体が疑われている。長年真面目に働いてきた者も、同じ目で見られる。そこへ確認費という名で新たな縛りを入れられれば、反発も出ます」


「理解しております」


「本当に?」


 グレゴールの声には、少し棘があった。


 クラリスは、すぐには答えなかった。


 少し間を置く。


 財務院の怒りを、ただ抵抗として片づけてはいけない。


 彼らにも、自分たちの誇りがある。


「完全には、まだ理解できていないと思います」


 クラリスは正直に言った。


 グレゴールの目がわずかに見開かれる。


「ですが、記録し、聞くことはできます。財務院側が何を恐れているのか。確認費のどこに過剰支出の危険があるのか。どの権限が曖昧なのか」


 彼女は資料の余白に書いた。


 財務院側懸念


 「本日の協議では、それを明文化したいのです。賛成か反対かを決める前に」


 エリオットが、静かに息を吐いた。


 グレゴールは、しばらくクラリスを見ていた。


「……あなたは、バルツァー様とは違う形で厄介ですな」


 オスカーの筆が止まりかける。


 クラリスは少しだけ首を傾げた。


「それは、褒め言葉でしょうか」


「半分ほど」


「残り半分は?」


「警戒です」


 イリスがいれば、きっと満足げに頷いただろう。


 クラリスは小さく頷いた。


「では、半分だけ受け取ります」


 レオンハルトが、わずかに笑った。


 協議は、その後一刻ほど続いた。


 財務院側の懸念は、いくつかに整理された。


 一つ、確認費が無制限に膨らむ恐れ。

 二つ、各部署が責任回避のため過剰確認を求める恐れ。

 三つ、財務院の予算裁量が不透明に制限される恐れ。

 四つ、確認作業そのものが遅延を生む恐れ。

 五つ、財務院全体が不正関与部署として扱われることへの反発。


 クラリス側も、必要な条件を出した。


 一つ、確認費をゼロに戻さないこと。

 二つ、危険度別基準を設けること。

 三つ、受領先確認と現物確認を商会任せにしないこと。

 四つ、確認作業にかかる人件費を無償化しないこと。

 五つ、財務院側にも制度作成者として名を残すこと。


 最後の点で、グレゴールの表情が少しだけ変わった。


「財務院側にも名を?」


「はい。確認費基準は、財務院と共同作成とします」


「不正後の尻拭いではなく?」


「再発防止制度の共同設計者として」


 グレゴールは、何も言わなかった。


 だが、その沈黙は先ほどまでより柔らかかった。


 協議の終わり、エリオットが小さく言った。


「この形なら、財務院内でも説明しやすいと思います」


 グレゴールは彼を一瞥し、やがて頷いた。


「草案を作りましょう」


 クラリスは、胸の奥で息を吐いた。


 勝利ではない。


 まだ入口だ。


 だが、財務院は完全な拒絶から、共同基準作成へ動いた。


 それだけでも、大きい。


「ありがとうございます」


 クラリスが礼をすると、グレゴールは書類を整えながら言った。


「ただし、王宮筆頭実務顧問」


「はい」


「正しい改革が、すべて歓迎されるとは思わないことです」


 クラリスは、静かに答えた。


「すでに学び始めています」


「なら結構」


 彼は少しだけ口元を動かした。


「財務院は、怒りますよ」


「記録します」


 グレゴールは一瞬きょとんとした。


 それから、低く笑った。


「本当に厄介だ」


 会議室を出ると、廊下でイリスが待っていた。


 彼女はクラリスの顔を見るなり、尋ねた。


「全部引き受けませんでしたか」


「引き受けませんでした」


「即答しましたか」


「していません」


「財務院を敵に回しましたか」


「半分ほど警戒されました」


「上出来でございます」


 クラリスは少し笑った。


「採点が甘くなった?」


「いいえ。財務院相手にしては上々です」


 レオンハルトも隣で頷いた。


「財務院に誇りの置き場所を作ったのは良かった」


「ローゼン侯爵夫人の教えです」


「彼女は喜ぶだろう」


「でしょうか」


「自分の技が財務院に効いたと知れば、間違いなく」


 それを想像して、クラリスは少しだけ笑った。


 顧問室へ戻ると、机の上にはミレーヌからの報告が置かれていた。


 代理署名者の役職名漏れは、慈善記録官補佐が修正手順をまとめ、次回から受領書の確認欄に「代理者役職」を追加することになったという。


 末尾には、ミレーヌの字でこう書かれている。


 初日の間違いを、初日のうちに仕組みに戻しました。


 クラリスは、その一文を何度も読んだ。


「良い記録です」


 オスカーが横から言った。


「ええ」


 クラリスは頷く。


「とても」


 イリスが、七つの箱の前に立つ。


「本日の分類は?」


 クラリスは、財務院協議の記録を名前をつけるに入れた。


 確認費基準草案作成依頼を誰かに任せるへ。


 財務院との次回協議予定を明日でよいへ。


 そして、グレゴールの言葉を書いた紙を少し迷ってから、机の中央に置いた。


 正しい改革が、すべて歓迎されるとは思わないこと。


 イリスがそれを見て頷く。


「本日の教訓ですね」


「はい」


 終業時刻になった。


 まだ財務院協議の議事録は整えきれていない。


 確認費基準の骨子も、もっと詰められる。


 ローゼン侯爵夫人への照会文も書きたい。


 けれど、クラリスは今日は帰るの箱を見た。


「帰ります」


 イリスは、満足そうに微笑んだ。


「はい」


 財務院は、確認費という言葉を嫌った。


 なぜならそれは、これまで見えなかった労力に値札をつける言葉だったからだ。


 確認は無料ではない。

 誠実さも、制度にしなければ続かない。


 そして、その当然のことを帳簿に書く時、人は怒る。


 けれどクラリスは、もう知っていた。


 怒りもまた、記録して進めばいい。

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