第55話 王太子府は、差し戻しという言葉に慣れていなかった
王太子府で最初に悲鳴を上げたのは、書記官ではなく砂時計だった。
いや、もちろん砂時計は悲鳴など上げない。
けれど、机の上で静かに落ちていく砂を見ながら、王太子府の補佐官たちは同じことを思っていた。
――遅い。
これまでなら、朝一番に積まれた決裁書の半分は、昼前には署名済みとして次の部署へ送られていた。
王太子ジュリアスは忙しい。
儀礼、謁見、外交文書、王族としての公式行事、貴族家からの陳情。
だから決裁書の細部は、補佐官が整理する。
要点を伝える。
殿下は確認し、署名する。
それが王太子府の流れだった。
だが今は違う。
ジュリアスは、読む。
署名欄の上だけではなく、品目、支出先、実配置、確認欄、添付資料、担当部署の名前まで読む。
そして、少しでも不明な点があれば、こう言う。
「差し戻しだ」
そのたびに、王太子府の空気が止まる。
差し戻し。
王太子府は、その言葉に慣れていなかった。
「殿下」
古参補佐官のライオネルが、ついに口を開いた。
彼は四十代半ばの男で、王太子府に長く仕えている。礼儀正しく、仕事も早い。だが、その早さはこれまでの慣例をよく知っているからこその早さでもあった。
「この決裁書は、例年通りの王宮備品費でございます。内容は昨年とほぼ同じですので、ここまで細かくご確認されずとも」
ジュリアスは署名用の羽根ペンを置いた。
机の端には、一枚の札が置かれている。
署名は読む
自分で書いた札だ。
文字は少し硬い。
だが、その硬さが今の彼にはちょうどよかった。
「昨年とほぼ同じ、という説明を昨年も聞いた気がする」
ライオネルは一瞬だけ言葉を止めた。
「それは、例年の処理でございますので」
「その例年の処理で、王太子妃教育費の補佐人員費が実配置なしで通っていた」
部屋が静かになった。
誰も、その話題を正面から出したがらなかった。
けれどジュリアスは出した。
自分で。
「備品費を疑っているのではない。確認しない慣例を疑っている」
「しかし、殿下。この速度では、通常業務に支障が」
「支障は出るだろう」
ジュリアスは認めた。
「だが、支障を理由に確認を省けば、また同じことになる」
ライオネルは、苦い顔をした。
彼は不正をしたわけではない。
少なくとも、ジュリアスはそう見ている。
だが、慣例に慣れすぎている。
確認の不足を、仕事の速さで覆ってきた。
それは王太子府全体の癖だった。
「ライオネル」
「はい」
「この決裁書の“備品更新済み”という欄だが、現物確認は誰がした」
「備品局からの報告がございます」
「備品局の誰が?」
「……確認いたします」
「差し戻しだ」
ライオネルの眉がわずかに動いた。
部屋の奥で、若い書記官が息を呑む。
ジュリアスはそれを見て、少しだけ胸が重くなった。
自分は今、嫌われている。
それが分かった。
これまでの自分は、たぶん好かれやすい王太子だった。
華があり、決断が早く、書類も滞らせない。
だが、その早さの裏で誰かが何かを埋めていた。
クラリスが。
オスカーのような書記官が。
名も知らない補佐官が。
見習いが。
侍女が。
それを見なかった自分が、今さら確認すると言い始めたのだ。
反発が出て当然だった。
昼過ぎ、王太子府から王宮筆頭実務顧問室へ、予定通り中間報告が届いた。
クラリスはその封筒を見て、すぐには開けなかった。
まず、受領記録を取る。
オスカーが整えた新しい手順だ。
差出部署。
受領時刻。
書類種別。
添付資料数。
返信期限。
それから封を切る。
イリスが横で満足げに見ていた。
「よい手順でございます」
「オスカー様が聞いたら喜びます」
「本人は胃を押さえながら喜ぶでしょう」
クラリスは少し笑い、それから報告書に目を落とした。
ジュリアスの字だった。
以前より丁寧に書かれている。
いや、丁寧というより、逃げないように書いている字だ。
報告内容は三つに整理されていた。
一つ、署名確認手順の導入により、決裁速度が約半分に低下。
二つ、古参補佐官を中心に「通常業務に支障」との意見。
三つ、差し戻し理由の多くは、実確認者名の不明、添付資料不足、前年踏襲の根拠不明。
クラリスは、最後の項目で手を止めた。
前年踏襲の根拠不明。
これは大きい。
「イリス」
「はい」
「王太子府の問題は、署名確認だけではありません」
「慣例確認の問題でございますか」
「ええ。前年と同じ、例年通り、慣例により。その言葉が、実質的な確認の代わりになっています」
イリスは小さく頷いた。
「便利な言葉ですね」
「便利すぎます」
クラリスは新しい紙を取り出し、上に題名を書いた。
王太子府署名確認手順における初期抵抗と慣例処理の問題
そこまで書いて、手が止まる。
自分で全部整理したくなる。
今すぐ王太子府へ行き、補佐官たちと話し、慣例処理の一覧を作らせ、差し戻し基準を整えたくなる。
その方が早い。
自分がやれば。
イリスが、黙って七つの箱の一つを指した。
誰かに任せる
クラリスは目を閉じた。
「……王太子府の内部説明は、殿下ご自身がなさるべきですね」
「はい」
「わたくしは助言書を作るだけ」
「助言書の骨子だけ、では?」
「骨子だけです」
イリスは微笑んだ。
「よろしいです」
クラリスは、助言書の骨子を書いた。
一、署名確認の目的は速度低下ではなく責任の明確化。
二、差し戻しは罰ではなく確認手順。
三、前年踏襲の場合、前年の根拠資料番号を記載。
四、実確認者名を必須化。
五、決裁速度低下は初期費用として記録し、三か月後に改善率を確認。
そこまで書いて、彼女は羽根ペンを置いた。
まだ書ける。
もっと詳しくできる。
けれど、これは骨子だ。
王太子府の言葉に直すのは、ジュリアスと彼の補佐官の仕事である。
「これを王太子殿下へ送ってください」
「承知いたしました」
イリスが受け取る。
そして、机の上に一枚の札を置いた。
助けすぎない
「今日の新作?」
「はい」
「胸に刺さるわね」
「必要です」
午後、ジュリアスは王太子府の補佐官たちを集めた。
大きな会議ではない。
王太子府内の実務会議だ。
出席者は、ライオネルを含む補佐官五名、書記官二名、記録係一名。
机の上には、クラリスから届いた助言書の骨子がある。
だが、ジュリアスはそれを読み上げなかった。
まず、自分の言葉で始めた。
「今日、私は決裁書をいくつも差し戻した」
誰も答えない。
「不満があることは分かっている」
ライオネルが少しだけ眉を動かした。
「殿下、それは不満というより、業務上の懸念でございます」
「そうだな。では、業務上の懸念として扱う」
ジュリアスは紙に書いた。
業務上の懸念
クラリスの影響だろうか、と自分でも思った。
名前をつけると、怒りが少し形を変える。
「決裁速度が落ちた。これは事実だ」
補佐官たちは黙っている。
「だが、速度が落ちた原因を“私が細かく読んでいるから”で終わらせるつもりはない」
ジュリアスは、一枚の差し戻し書を示した。
「この備品費の決裁書には、“前年通り”とある。だが、前年の根拠資料番号がない。現物確認者名もない。つまり、私が信じるべきものが慣例しかない」
若い書記官が、小さく顔を上げた。
「殿下。これまでは、それで通っておりました」
「だから問題なのだ」
ジュリアスは静かに言った。
「私はこれまで、それで通していた。その結果、王太子妃教育費に実配置のない補佐人員費が含まれていた」
ライオネルが目を伏せた。
「殿下、それは財務院側の」
「財務院側の不正だ。だが、私の署名が使われた」
ジュリアスは遮った。
怒鳴らない。
だが、逃がさない。
「私は、もう自分の署名を“説明を受けたつもり”で通したくない」
会議室が静まる。
彼は続けた。
「差し戻しは、君たちを罰するためではない。確認手順だ」
そこで、クラリスの助言書を一枚だけ示した。
「王宮筆頭実務顧問から助言を受けた。だが、王太子府の運用は私が決める」
ライオネルが少し驚いた顔をした。
ジュリアスは、あえてそう言った。
クラリスに言われたからやる、では王太子府は動かない。
王太子自身が決めなければならない。
「今後、前年踏襲の決裁書には、前年の根拠資料番号を記載する。現物確認が必要なものは、確認者名を記載する。実配置の人員費は、配置先と担当者を記載する」
書記官が慌てて書き取る。
「初期は遅くなる。私も読むのに時間がかかる。君たちにも負担が増える」
ジュリアスは、そこで一度言葉を切った。
「だから、その負担も記録する」
補佐官たちが顔を上げる。
「負担を?」
「そうだ。処理時間、差し戻し件数、差し戻し理由、再提出までの日数。三か月後に見直す」
ライオネルが、少しだけ表情を変えた。
「三か月後に、手順を改める余地があるということでしょうか」
「ある」
ジュリアスは答えた。
「ただし、確認を省く方向には戻さない。無駄を減らすために改める」
ライオネルは黙った。
王太子が、自分たちの負担を見ないのではなく、記録すると言った。
それは小さな違いだった。
だが、現場にとっては大きい。
「殿下」
若い書記官がおずおずと手を上げた。
「前年資料番号を入れるなら、決裁書の様式も少し変えた方がよいと思います」
ライオネルが彼を見た。
若い書記官は少し怯んだが、ジュリアスが促す。
「続けろ」
「現在の様式だと、備考欄に入れるしかありません。ですが備考欄は他の注記にも使います。なら、“根拠資料番号”の欄を別に作った方が」
ジュリアスは頷いた。
「採用する。試作を作れ」
若い書記官の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい」
ライオネルは、その様子を見ていた。
少し複雑な顔だった。
これまでなら、若い書記官が様式変更を提案することなど少なかった。
慣例を知る古参が流れを作り、若手はそれに従う。
だが、確認手順が変われば、見えてくるものも変わる。
「ライオネル」
ジュリアスが呼んだ。
「はい」
「君には、差し戻し理由の集計を頼みたい」
「私が、ですか」
「不満がある者の言葉も拾えるだろう。私はまだ、王太子府の現場の負担を見切れていない」
ライオネルは、少しだけ目を見開いた。
王太子が、自分は見切れていないと言った。
その言葉は、古参補佐官にとって意外だった。
「……承知いたしました」
「忌憚なく書け」
「本当によろしいので?」
「痛いことほど先に記録した方がいい。後で膿む」
それは、クラリスが言いそうな言葉だった。
だが、今ジュリアスの口から出た。
ライオネルは、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
夕方、王宮筆頭実務顧問室へ王太子府から二通目の報告が届いた。
クラリスは、いつもの手順で受領し、封を開けた。
そこにはジュリアスの字でこう書かれていた。
王太子府内説明を実施。差し戻しを罰ではなく確認手順として定義。前年根拠資料番号欄を新設予定。古参補佐官ライオネルに差し戻し理由集計を命じた。三か月後に手順見直し。
クラリスは、その報告を読んで、静かに息を吐いた。
「どうでしたか」
イリスが尋ねる。
「殿下が、ご自分で説明されました」
「それは何よりです」
「若い書記官から様式変更案も出たようです」
「良い兆しですね」
「ええ」
クラリスは報告書を机に置いた。
王太子府は、差し戻しという言葉に慣れていなかった。
だが、慣れていないからこそ、そこに変化がある。
差し戻しは失敗ではない。
確認のやり直しだ。
それを王太子自身が言葉にした。
この小さな変化は、きっと後で効いてくる。
夜、ジュリアスは自分の執務机に新しい札を置いた。
差し戻しは罰ではなく確認
その横に、前からある札。
署名は読む
二枚並べると、少し滑稽だった。
王太子の机に置くには、あまりに地味すぎる。
だが、ジュリアスはそれを片づけなかった。
ライオネルが帰り際に一度その札を見て、何か言いたそうにした。
結局、何も言わずに礼をして下がった。
まだ納得しているわけではないのだろう。
それでいい。
納得は、命じても生まれない。
記録し、直し、少しずつ慣れるしかない。
ジュリアスは最後の決裁書を開いた。
羽根ペンを持つ前に、本文を読む。
以前なら面倒だと思ったかもしれない。
今も、面倒ではある。
けれど、その面倒を誰かに押しつけてきたことを、彼はもう知っている。
だから読む。
署名は、読む。
王太子府は、差し戻しという言葉に慣れていなかった。
だがその日から、少しずつ、差し戻しは怒られることではなく、見直すことだと記録され始めた。




