第53話 正しい改革は、なぜ人を怒らせるのか
王宮筆頭実務顧問室の扉は、朝から三度叩かれた。
一度目は、王妃執務院からだった。
慈善記録官制度の運用初日にあたり、南施療院から届いた受領書の写しに不備があるという。
二度目は、王太子府からだった。
ジュリアスが新しく導入した署名確認手順について、古参の側近たちが「殿下のご負担が増えすぎる」と不満を漏らしているらしい。
三度目は、財務院からだった。
新たに設けられた「確認費」という予算項目について、どの部署が負担するのかを巡り、すでに揉めているという。
クラリスは三通の連絡票を机の上に並べた。
左から、慈善記録官制度。
王太子府署名確認。
財務院予算項目。
どれも、昨日までなら「改革が動き出した証拠」と言えたかもしれない。
しかし今朝のそれは、もう少し生々しかった。
改革は、美しい告示のままでは終わらない。
動き出した瞬間から、人を怒らせる。
「お嬢様」
イリスが茶を置いた。
正式にはもう、ここは王宮筆頭実務顧問室である。
けれどイリスは、二人だけの時には今も「お嬢様」と呼ぶ。
クラリスも、それを直さなかった。
その呼び方には、王宮の役職名とは別の、長い時間が入っている。
「顔が、朝から改革疲れでございます」
「まだ朝よ」
「朝から三件揉めておりますので」
「揉めているというより、反応が出ているだけです」
「それを世間では揉めていると言います」
クラリスは否定しようとして、やめた。
たぶん、イリスが正しい。
机の右端には、レオンハルトが用意した七つの箱が並んでいる。
緊急
明日でよい
誰かに任せる
断る
名前をつける
現物を確認する
今日は帰る
クラリスは三通の連絡票を見比べた。
そして、慈善記録官制度の不備票を「緊急」へ入れかける。
その瞬間、イリスの視線が刺さった。
「何?」
「その件は本当に緊急でございますか」
「受領書に不備があります」
「未着ですか」
「いえ。物資は届いています」
「現物確認済みですか」
「はい」
「受領者名の記載漏れですか」
「代理署名者の役職名が抜けています」
イリスは無言で、箱を一つ指した。
明日でよい
クラリスは少し抵抗した。
「でも、初日から不備を放置すると」
「放置ではなく、明日の確認です」
「今日のうちに修正依頼だけでも」
「慈善記録官補佐に任せられます」
次にイリスが指した箱は、誰かに任せるだった。
クラリスはしばらく連絡票を見つめた。
確かに、その通りだ。
制度初日に、顧問本人が代理署名者の役職名まで修正していては、補佐官制度の意味がない。
「では、慈善記録官補佐へ照会。明日までに修正案を提出してもらいます」
「よろしいかと」
クラリスはその連絡票を、誰かに任せるの箱へ入れた。
少しだけ、胸が落ち着かない。
自分で処理すれば、すぐ終わる。
けれど、それが危険なのだ。
自分でやれば早い、は王宮を腐らせる。
そのことを、彼女はもう知っている。
次に、王太子府の不満票。
ジュリアスの署名確認手順について、古参側近が反発している。
理由は明確だった。
これまでなら、王太子が細部を読まずとも、側近が説明し、決裁が進んだ。
だが今は、ジュリアス自身が署名前に内容を確認する。
不足があれば差し戻す。
署名欄だけでなく、実配置、現物確認、補佐費の根拠まで見る。
当然、処理速度は落ちる。
そして、これまで曖昧に通していた者たちは困る。
「これは……」
クラリスは迷った。
王太子府の問題だ。
だが、署名確認制度は報告書の再発防止策に含まれている。
完全に無関係ではない。
イリスが尋ねる。
「緊急ですか」
「いいえ。ただし、放置すると制度が形骸化します」
「では、名前をつけてはいかがでしょう」
「名前?」
クラリスは箱を見た。
名前をつける
そうか。
今起きているのは、単なる不満ではない。
制度変更に伴う抵抗だ。
ならば、そう記録する必要がある。
「王太子府署名確認手順に対する初期抵抗」
クラリスは紙に書いた。
イリスが頷く。
「分かりやすいです」
「王太子殿下と王太子府補佐官へ照会。反発の具体例、処理遅延件数、差し戻し理由を記録してもらいます」
「お嬢様が説得に行かれる必要は?」
「ありません」
言ってから、クラリスは自分で少し驚いた。
以前なら行っていた。
ジュリアスが困っているなら、補佐しなければと思った。
けれど今は違う。
これはジュリアス自身が向き合うべき改革だ。
クラリスは制度上の助言はできる。
だが、彼の代わりに王太子府を説得してはならない。
「ありません」
もう一度言うと、イリスは満足そうに微笑んだ。
「大変よろしいです」
三つ目は、財務院からの予算照会。
確認費。
善意確認制度における新しい費用項目。
受領先確認にも、人手が要る。
現物確認にも、移動費がかかる。
補助記録を整理するにも、紙と時間が必要になる。
それらを曖昧にすれば、また誰かの無償労働になる。
だから確認費を置いた。
しかし、財務院は早くも不満を示している。
――確認のための費用が増えれば、実際に寄付品へ回る金額が減るのではないか。
一見、もっともらしい反論だった。
だが、クラリスはもう知っている。
確認費を惜しめば、寄付品そのものが消える。
「これは、早めに整理が必要ね」
「緊急ですか」
イリスが問う。
「緊急ではありません。ただ、放置はできません」
「どの箱ですか」
クラリスは、少し考えてから連絡票を二つに分けた。
一枚目は、財務院からの照会そのもの。
これは名前をつけるへ。
もう一枚、新しい紙を用意して書く。
確認費の説明資料作成
これは誰かに任せるへ入れた。
「説明資料はオスカー様と財務院の若手監査官へ依頼します。わたくしは骨子だけ」
「骨子だけ」
「骨子だけです」
「記録しました」
「なぜ記録を?」
「後で増えた時のために」
クラリスは返す言葉を失った。
イリスは本当に容赦がない。
その時、扉が叩かれた。
「入ってください」
現れたのは、ミレーヌだった。
手には、五欄様式の束を抱えている。
表情は真剣だが、少し困っているようにも見えた。
「クラリス顧問。慈善記録官室から、初日の受領書控えを持ってきました」
「ありがとうございます。今ちょうど、その件を補佐に戻そうとしていたところです」
ミレーヌは、少しだけ目を丸くした。
「お姉様が、戻すのですか」
「はい」
「ご自分で直さないのですか」
「直しません」
クラリスが答えると、ミレーヌの顔が明るくなった。
変な反応だった。
普通なら、姉が仕事をしないことに驚くところだ。
けれどミレーヌは違った。
「よかった」
「よかった?」
「はい。慈善記録官補佐の方が、“クラリス顧問が全部直してしまったら、自分たちはまた写すだけになる”と心配していました」
クラリスは言葉を失った。
そんな心配をされていたのか。
そして、その心配は当たっていたかもしれない。
イリスが横から、静かに札を見せた。
便利な人に戻らない
「……分かっています」
クラリスは小さく咳払いした。
「では、ミレーヌ。代理署名者の役職名が抜けている件は、慈善記録官補佐へ戻してください。ただし、叱責ではなく、修正手順の確認として」
「はい」
「初日です。間違いが出ること自体は問題ではありません。問題は、間違いを誰が直し、次からどう防ぐかです」
ミレーヌは頷いた。
「記録に残します」
「お願いします」
ミレーヌは少し迷ってから言った。
「それと、南施療院のサーラ院長から、短い手紙が届いています」
クラリスは受け取った。
そこには、簡潔な文があった。
膝掛け、確かに届きました。昨夜、病室は少し静かでした。眠れた者がいたのだと思います。
クラリスは、その一文をしばらく見つめた。
大げさな感謝ではない。
華やかな礼状でもない。
けれど、その短い文の中に、制度の意味があった。
病室が少し静かだった。
眠れた者がいた。
膝掛けは、届いた。
「……これは、第五章の運用記録に入れましょう」
クラリスが言うと、ミレーヌは小さく頷いた。
「はい」
その時、廊下が少し騒がしくなった。
オスカーが駆け込んでくる。
珍しく息を切らしていた。
「クラリス顧問」
「どうしました?」
「財務院から、確認費についての再照会です。先ほどの文書より、少し強い内容になっています」
「もう?」
イリスが眉を動かす。
「早すぎますね」
オスカーは紙を差し出した。
そこには、かなり固い文面でこう書かれていた。
――確認費の恒常化は、財務院の予算裁量を不当に制限する恐れがある。今後、各部署が確認名目で費用を膨張させる前例となり得るため、慎重な再考を求める。
クラリスは読み終え、静かに紙を置いた。
なるほど。
予想より早い。
財務院の反発は、単なる面倒がっているだけではない。
予算裁量を奪われることへの警戒だ。
確認費が明記されれば、財務院は「調整」という名で削れなくなる。
どこに確認費が必要か、記録に残る。
誰がそれを減らそうとしたかも残る。
財務院にとっては、厄介な制度なのだ。
「これは、ただの照会ではありませんね」
クラリスが言うと、オスカーが頷いた。
「はい。牽制です」
ミレーヌが不安そうに尋ねる。
「財務院は、善意確認制度に反対しているのですか」
「全員ではないでしょう」
クラリスは答えた。
「でも、困る人はいます」
「困る人?」
「確認されると困る人。裁量が狭まると困る人。これまで曖昧にできていたものを、曖昧にできなくなる人です」
ミレーヌは、少し考え込んだ。
「正しい改革なのに、怒る人がいるのですね」
「ええ」
クラリスは静かに言った。
「正しいからこそ、怒る人もいます」
その言葉は、自分にも刺さった。
正しい改革は、誰かの便利を奪う。
誰かの裁量を狭める。
誰かが隠していた怠慢を見える場所へ出す。
だから怒られる。
クラリスは、財務院の照会文を見つめた。
ここからが、第4章の始まりなのだろう。
慈善不正は終わった。
だが、改革は始まったばかりだ。
「この件は、名前をつけます」
クラリスは新しい紙を取り、書いた。
確認費を巡る財務院抵抗
オスカーが深く頷いた。
「分かりやすいです」
「ただし、敵対として扱いません。まずは論点整理。確認費の目的、上限、濫用防止策、財務院との分担を整理します」
「誰が作りますか」
イリスがすかさず見る。
クラリスは一拍置いた。
危ない。
今、自分で作ると言いかけた。
「骨子はわたくし。資料作成はオスカー様と財務院若手監査官。運用例は慈善記録官室。社交界側の実例はローゼン侯爵夫人へ照会します」
「よろしいかと」
イリスが頷いた。
その時、レオンハルトが入ってきた。
彼は室内の紙の配置を見るだけで、状況を半分ほど理解したようだった。
「財務院が動いたか」
「はい。確認費について反発が出ています」
「早いな」
「かなり」
レオンハルトは、財務院の文書を読み、低く笑った。
「不当に制限、か。彼ららしい言い方だ」
「どう見ますか」
「財務院全体というより、旧バルツァー派の残りだろう。財務院の裁量を守るという名目で、確認費の固定化を嫌がっている」
「やはり」
「ああ。だが、ここで正面から叩くと、財務院全体を敵に回す」
「では」
「論点整理だ」
クラリスは少しだけ目を見開いた。
同じことを考えていた。
レオンハルトは、彼女の紙を見て少し笑う。
「もう書いていたか」
「名前をつけました」
「良い」
その一言が、妙に嬉しかった。
クラリスは資料を揃えた。
「財務院との協議を設定します。ただし、わたくし一人では行きません」
イリスが、満足げに頷いた。
「大変よろしいです」
「レオンハルト殿下、オスカー様、慈善記録官室から一名。可能であれば、財務院内の改革派監査官も同席してもらいます」
「手配する」
レオンハルトが答えた。
ミレーヌが小さく手を上げた。
「私は、何かできますか」
「あなたは慈善記録官室の初日不備の修正手順を確認してください。それが確認費の実例になります」
「実例?」
「はい。代理署名者の役職名漏れを、誰がどう直し、次にどう防ぐか。その作業にも時間がかかります。それが確認費の必要性を示す実例です」
ミレーヌの目が明るくなる。
「分かりました。記録します」
「お願いします」
ミレーヌは五欄様式を抱え、急いで部屋を出ていった。
その背中は、以前よりずっと軽い。
自分の仕事がある人間の足取りだった。
オスカーも資料を抱え直す。
「では、私は確認費説明資料の土台を作ります。胃薬も持っていきます」
「無理はしないでください」
「クラリス顧問に言われると、少し不思議な気持ちです」
「わたくしも言いながら少し不思議でした」
イリスが札を置いた。
人に言うなら自分も
「はい」
クラリスは素直に頷いた。
午後には、王太子府からも返答が届いた。
ジュリアスの字で、短く書かれている。
署名確認手順に対する抵抗を確認した。王太子府内で記録を取り、三日後に共有する。なお、私自身が説明する。
クラリスはその文を読み、静かに頷いた。
ジュリアスが、自分で説明する。
以前なら、クラリスに事前整理を求めただろう。
今は違う。
彼は自分の執務室に「署名は読む」と置いた。
その札の意味を、自分で守ろうとしている。
夕方になり、ようやく机の上の三件は整理された。
慈善記録官室の不備は、ミレーヌとリーナが修正手順を記録する。
王太子府の抵抗は、ジュリアス本人が対応し、クラリス側は制度助言に回る。
財務院の確認費反発は、名前をつけ、論点整理を行い、協議へ進める。
どれも、クラリス一人では処理していない。
それでも、王宮筆頭実務顧問室はきちんと動いている。
クラリスは、七つの箱を見た。
今日使った箱は、誰かに任せると名前をつけるが多かった。
緊急は空のまま。
それが、少し嬉しかった。
「お嬢様」
イリスが言う。
「今日は、緊急箱が空でしたね」
「ええ」
「よい日です」
「揉めごとは多かったけれど」
「緊急ではありませんでした」
クラリスは頷いた。
改革初日。
王宮は怒り始めた。
財務院は反発し、王太子府は戸惑い、慈善記録官室は初日から不備を出した。
それでも、王宮は止まっていない。
止まらずに、直しながら動いている。
それは、以前とは違う。
終業時刻になった。
イリスが、当然のように最後の箱を指した。
今日は帰る
クラリスは、少しだけ机の上を見た。
財務院協議の骨子は、まだ半分しか書けていない。
王太子府の返答も、読み返したい。
ミレーヌの初日記録も確認したい。
だが、今日はここまでだ。
「帰りましょう」
クラリスは言った。
イリスは満足そうに微笑む。
「はい」
部屋を出る前に、クラリスは扉の木札を見た。
王宮筆頭実務顧問室。
その名は、今日も重かった。
けれど昨日より少しだけ、部屋らしくなっていた。
正しい改革は、なぜ人を怒らせるのか。
その答えは、もう少し先にある。
ただ一つ、今分かっていることがある。
怒られない改革は、たぶん何も変えていない。
そして、何かを変えるなら、怒りも不備も反発も、すべて記録して進むしかない。




