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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第47話 黒幕はいない。ただ、見ない者が多すぎた

 報告書の題名を決めるだけで、半刻かかった。


 王宮臨時顧問室の机には、案がいくつも並んでいる。


 慈善物資流通不正に関する調査報告。


 これは短すぎた。


 慈善物資流通不正および王太子妃教育関連支出不正流用に関する調査報告。


 これは正確だが、少し足りない。


 慈善物資流通不正、王太子妃教育関連支出不正流用、および非公式業務搾取に関する調査報告。


 長い。


 けれど、近い。


 オスカーはその題名を見て、眼鏡の奥で目を細めた。


「題名だけで一仕事終えた気分になりますね」


 イリスが茶を置きながら答える。


「実際には始まってすらおりません」


「ありがとうございます。胃が痛くなりました」


「先に胃薬を用意しております」


「さらにありがとうございます」


 会話だけ聞けば穏やかだ。


 けれど、机の上にある資料は穏やかではない。


 バルツァー元財務卿の供述。

 セム・ヴァルトの帳簿。

 ダレス・モルンの証言。

 ロジム・バルカの証言。

 赤い紐の箱。

 南施療院の未着記録。

 孤児院の冬服不足記録。

 社交界の補助記録。

 王太子妃教育関連支出の不正流用疑惑。

 王太子ジュリアスの署名確認資料。


 それらが、部屋の空気を重くしている。


 クラリスは題名案を見つめた。


「この報告書は、処罰対象を並べるだけでは足りません」


 その言葉に、レオンハルトが頷いた。


「分かりやすい悪人だけを裁てば、王宮は少し楽になる」


「でも、また起きます」


「そうだ」


 レオンハルトは、机の上の資料を一枚取った。


 バルツァーの供述記録。


 そこには、昨日の言葉が記されている。


 黒幕はいない。ただ、見ない者が多すぎた。


 それはクラリスが口にした言葉であり、バルツァーが認めた言葉でもあった。


 この事件には、もちろん罪を負う者がいる。


 バルツァー。

 セム。

 ダレス。

 ハイム商会主。

 ラドナー運送。

 南門倉庫管理人。

 ヴァルト家関係者。


 彼らは裁かれなければならない。


 だが、彼らだけを裁いて終われば、王宮はまた同じ穴を作る。


 王太子府が署名を深く見なかったこと。

 王妃執務院が弱体化した時、補完する仕組みがなかったこと。

 財務院が数字だけで現場を処理したこと。

 社交界が善意の見栄えで満足したこと。

 商会報告だけで納入済みとしたこと。

 見習い令嬢や侍女の控えを正式な記録として扱わなかったこと。

 現場の未着報告が、上に届かなかったこと。


 それらを、書かなければならない。


「題名は、これでいきましょう」


 クラリスは羽根ペンを取った。


 紙の中央に、丁寧に書く。


 慈善物資流通不正および非公式業務搾取に関する調査報告


 少し間を置き、下に補題を加える。


 ――王太子妃教育関連支出、社交界慈善記録、ならびに受領確認制度の欠陥について


 オスカーが覗き込み、深く頷いた。


「長いですが、必要な長さです」


「題名で逃げないためです」


「逃げ道がありませんね」


「少しは必要でしょうか」


「今回は不要かと」


 イリスが静かに札を置いた。


 題名決定


 クラリスは思わずその札を見た。


「そこも札にするの?」


「進捗を見える化しております」


「便利ね」


「はい」


 便利と言ってから、クラリスは少しだけ苦笑した。


 便利。


 かつて自分がそう扱われていた言葉。


 だが今は違う。


 札は、誰か一人に仕事を押しつけるためではなく、仕事を分けるためにある。


「では、章立てを決めます」


 クラリスは大きな紙を広げた。


「第一章、不正の事実」


 オスカーが書き取る。


「第二章、不正に関与した者と経路」


 レオンハルトが続ける。


「第三章、不正を可能にした制度的欠陥」


 マルタ女官長が低く言った。


「第四章、被害と未着物資の補填」


 リーナが紙を見ながら加える。


「第五章、再発防止策」


 ミレーヌが少し迷いながら手を上げた。


「第六章に、補助記録の扱いを入れるのはどうでしょうか」


 全員の視線が彼女へ向く。


 ミレーヌは少し肩を揺らしたが、すぐに続けた。


「見習い令嬢の覚書や侍女の控えがなければ、箱の数も赤い紐も分かりませんでした。だから、補助記録を今後どう扱うかを別に書いた方がいいと思います」


 クラリスは、静かに頷いた。


「必要です」


 オスカーもすぐに書き加える。


「第六章、補助記録の正式参考資料化」


 ミレーヌの表情が、ほんの少し明るくなる。


 だが、浮かれない。


 彼女はすぐに自分の手元の様式へ目を戻した。


 その変化を、ローゼン侯爵夫人が扇の奥から見ていた。


 今日のローゼンは、正式な参加者として顧問室にいる。


 社交界側の協力者。


 同時に、自身の茶会を利用された当事者。


 彼女は、いつものように優雅な姿勢で座っているが、手元の扇は閉じられたままだ。


「補助記録は、社交界にも必要ですわ」


 ローゼンが言った。


「夫人本人の帳簿より、侍女の控えの方が正確なこともあります」


「夫人方は、それを嫌がりませんか」


 リーナが尋ねる。


 ローゼンは、淡く笑った。


「嫌がります」


 即答だった。


「でも、嫌がるから価値があるのです。夫人本人の記録だけなら、いくらでも美しくできますもの」


「美しくする」


 クラリスが繰り返す。


「ええ。茶会の記録は、どうしても美しくなります。招待客、菓子、寄付総額、感謝状。そこに、箱が一つ足りなかったとか、侍女が商会の男に不審を覚えたとか、そういうものは入りにくい」


 ローゼンは、少し目を伏せた。


「だから入れなければなりません。美しくない記録も」


 その言葉は、彼女自身にも向いているのだろう。


 クラリスは頷いた。


「報告書に入れます」


「お願いします」


 次に、ジュリアスが入室した。


 彼は、いつもの王太子らしい華やかな礼服ではなく、執務用の簡素な上着を着ていた。


 手には、確認済みの署名書類の束を持っている。


 部屋に入ると、彼はまず国王ではなく、クラリスでもなく、オスカーへ向かった。


「オスカー書記官。昨日受け取った第一束の確認結果だ」


 オスカーは少し驚きながら立ち上がる。


「ありがとうございます。受領記録を取ります」


「頼む」


 以前のジュリアスなら、クラリスへ直接渡しただろう。


 そして、クラリスがそれを受け取り、整え、記録へ回していた。


 今は違う。


 記録経由。


 本人もそれを理解している。


 オスカーが受領時刻を記し、封筒の状態を確認し、ジュリアスへ受領控えを渡す。


 ジュリアスはそれを受け取って、一瞬だけ苦笑した。


「署名より、受領控えの方が重く感じるな」


 オスカーは真面目に答えた。


「慣れると安心できます」


「そういうものか」


「そういうものです」


 少し妙な会話だった。


 だが、確かに前進だった。


 ジュリアスはクラリスへ向き直る。


「私の署名がある書類は、三十七件あった」


「はい」


「そのうち、内容を覚えているものは七件。おぼろげに覚えているものが九件。まったく覚えていないものが二十一件」


 部屋が静かになる。


 ジュリアスは、逃げずに続けた。


「まったく覚えていない二十一件のうち、王太子妃教育関連支出に関わるものが六件。慈善物資関連が四件。残りは儀礼費と王宮備品費だ」


「ご自身で分類されたのですか」


 クラリスが尋ねる。


「ああ」


 ジュリアスは、少しだけ視線を落とした。


「分類してみると、自分がどれだけ見ていなかったかが分かる」


 その声は、苦かった。


「報告書に入れてください。王太子署名管理の問題として」


 レオンハルトが兄を見る。


「いいのか」


「いい」


「王太子府への批判になる」


「なるだろうな」


 ジュリアスは頷いた。


「だが、入れなければ同じことが起きる。私の署名は、私だけの面子ではない」


 クラリスは、その言葉を静かに受け取った。


 ジュリアスは、遅い。


 けれど、確かに変わり始めている。


 自分の署名を疑う。


 自分の無関心を記録に残す。


 それは王太子にとって、簡単なことではない。


「第三章に入れます」


 クラリスは言った。


「制度的欠陥として。王太子府署名管理の不足、補佐確認体制の欠如」


「頼む」


 ジュリアスは短く答えた。


 ミレーヌが、そのやり取りを見ていた。


 彼女の表情には複雑なものがある。


 かつて憧れた王太子。

 姉の婚約者だった人。

 自分が奪ったと思っていた相手。

 そして今、自分の署名の重さに向き合っている人。


 ミレーヌは何も言わない。


 だが、手元の分類表に一つ欄を追加した。


 署名者確認


 クラリスはそれに気づき、少しだけ頷いた。


 よい追加だった。


 午後になると、フィオナ司祭が顧問室へやってきた。


 彼女は神殿側の記録を抱えている。


 相変わらず飾り気のない修道衣で、目は鋭い。


「遅くなりました」


「お忙しい中、ありがとうございます」


 クラリスが礼をすると、フィオナは首を横に振った。


「こちらも当事者です。遅くなったことを悔いるべきでしょう」


 彼女は施療院と孤児院の追加受領記録を机に置いた。


「未着、不足、品質違い。三年分だけでも、かなりあります」


 オスカーの顔色が少し悪くなる。


「かなり、ですか」


「かなりです」


 フィオナは容赦なく言った。


「ただし、すべてが不正とは限りません。輸送中の破損、本当の遅延、現場側の記録漏れもあります」


「そこを分ける必要がありますね」


 クラリスが言う。


「はい」


 フィオナは頷いた。


「私は、誰かを一人でも多く罰してほしいわけではありません。届かなかったものが、なぜ届かなかったのかを知りたいのです」


「報告書の第四章に、被害と未着物資の補填として組み込みます」


「お願いします」


 フィオナは少しだけ目を伏せた。


「処罰は必要です。ですが、処罰だけでは次の冬服は届きません」


 その言葉に、部屋の全員が静かになった。


 それは、第49話で御前会議に出るはずの核心でもある。


 だが、今ここで彼女が言ったことで、報告書の方向が決まった。


 誰かを裁くためだけではない。


 次に届かせるための報告書。


「その一文も、報告書に入れてよろしいでしょうか」


 クラリスが尋ねると、フィオナは少し驚いた顔をした。


「私の言葉を?」


「はい」


「……構いません」


 イリスが、小さく札を置いた。


 次の冬服を届かせる


 クラリスはその札を見て、静かに頷いた。


「報告書全体の基準にしましょう」


 夕方近く、顧問室の机には章立てが完成していた。


 第一章 不正の事実

 第二章 関与者および流通経路

 第三章 不正を可能にした制度的欠陥

 第四章 被害と未着物資の補填

 第五章 再発防止策

 第六章 補助記録の正式参考資料化

 付録 証言、帳簿写し、商会印、赤い紐の箱、署名確認一覧


 見ただけで重い。


 しかし、必要な重さだった。


「分担を決めます」


 クラリスが言うと、イリスが即座に札を置いた。


 クラリス顧問が全部書かない


「分かっています」


「先に置いておきます」


「では、第一章はオスカー様とわたくしで」


 イリスが無言で見た。


「……オスカー様主担当、わたくし確認」


 イリスは頷いた。


「よろしいです」


 オスカーが少し笑った。


「では、私が第一章の草案を作ります」


「第二章は王弟府記録官とレオンハルト殿下」


 レオンハルトが頷く。


「引き受ける」


「第三章は、わたくしが骨子を作ります。ただし、王太子府署名管理はジュリアス殿下、王妃執務院部分はマルタ女官長、社交界部分はローゼン侯爵夫人に確認をお願いします」


「承知した」


「お引き受けしますわ」


「承知しました」


 それぞれが答える。


「第四章はフィオナ司祭、リーナ、ミレーヌ」


 ミレーヌが驚いたように顔を上げた。


「私もですか」


「はい。品目分類と補填対象の整理をお願いします」


「……はい」


 彼女は少し緊張しながらも頷いた。


「やります」


「第五章は全員で。第六章はミレーヌ案を土台に、オスカー様とリーナで整えてください」


 オスカーが記録する。


「かなりの分量になりますね」


「はい」


 クラリスは正直に認めた。


「だから、一人では書きません」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった。


 イリスは満足げに頷く。


 レオンハルトは静かに笑う。


 ミレーヌは嬉しそうに目を伏せる。


 ジュリアスは、少し眩しそうな顔をした。


 ローゼンは扇の奥で小さく笑った。


「成長なさいましたわね、クラリス顧問」


「皆様に言われ続けましたので」


「良いことです」


「夫人も、ずいぶん記録に慣れられましたね」


「まあ」


 ローゼンは眉を上げる。


「私を褒めているの?」


「半分ほど」


「残り半分は?」


「社交界の扇への警戒です」


 ローゼンは、今度こそ声を出して笑った。


 重い資料の山の中で、その笑いは少しだけ場を軽くした。


 終業時刻が近づく頃、第一章の冒頭文だけが決まった。


 クラリスが書き、全員で直した一文。


 本件は、特定の不正関与者による横領事件であると同時に、王宮、財務院、王太子府、王妃執務院、社交界、商会、受領現場の間に存在した確認不全が招いた制度的失敗である。


 オスカーが読んで、胃を押さえた。


「重い一文ですね」


 フィオナが頷く。


「ですが、正しい」


 ジュリアスも静かに言った。


「入れてくれ」


 ローゼンも頷く。


「ええ。逃げないために」


 クラリスは、その一文を報告書の冒頭に置いた。


 黒幕はいない。


 ただ、見ない者が多すぎた。


 それは、誰か一人を楽に断罪する言葉ではない。


 王宮全体に向けられた、重い鏡だった。


 終業時刻。


 イリスが札を置く。


 今日はここまで


 机の上には、まだ山ほど資料がある。


 報告書は、始まったばかりだ。


 けれど今日は、ここまで。


 クラリスは羽根ペンを置いた。


「明日、皆で続きを」


 誰も驚かなかった。


 それがもう、この顧問室のやり方になっていた。

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