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『妹が「お姉様の仕事くらい私にもできます」と言うので、婚約者も王妃教育も譲りました。ですが三日で王宮が止まりました』  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第46話 始まりは、王妃が倒れた年だった

 王妃エレオノーラが倒れた年のことを、王宮の誰もが覚えている。


 表向きには、静かな発表だった。


 王妃陛下はご体調を崩され、しばらく公務を控えられる。

 王妃執務院の業務は、女官長および各担当官が引き継ぐ。

 王宮行事に大きな支障はない。


 そう告げられた。


 けれど、王宮で働く者たちは知っていた。


 支障は、あった。


 ただ、表に出さなかっただけだ。


 王妃エレオノーラは、華やかな場に立つだけの人ではなかった。


 慈善事業。

 神殿との調整。

 孤児院支援。

 施療院への物資配分。

 社交界夫人たちとの連絡。

 外国大使夫人との非公式な茶会。

 王太子妃教育の進捗確認。

 若い女官や見習い令嬢の配置。


 そうした、表からは見えにくい仕事を、彼女は長年見ていた。


 王妃が倒れた時、止まったのは一人の公務ではない。


 王宮の裏側に張り巡らされていた細い糸が、いくつも緩んだのだ。


 審問室で、バルツァー元財務卿はその年のことを語り始めた。


 声は落ち着いていた。


 だが先ほどまでのような、財務官としての硬い理屈だけではない。


 どこか、古い帳簿を開くような声だった。


「王妃陛下が倒れられた年、王妃執務院は急速に弱りました」


 マルタ女官長の指が、膝の上で小さく動いた。


 クラリスはそれに気づいた。


 マルタは何も言わない。


 だが、聞いている。


 王妃執務院を支えてきた女官長として、この言葉は決して軽く聞けないはずだった。


 バルツァーは続けた。


「王妃陛下が担っておられた調整は、あまりにも多かった。女官長たちは懸命に引き継ごうとした。だが、人が足りない。記録が足りない。決裁が遅れる。問い合わせが滞る。神殿も、施療院も、孤児院も、社交界も、一斉に王妃執務院へ問うてきた」


 彼は、そこでわずかに口元を歪めた。


「美しい王宮の裏側は、あの年、ひどく混乱しておりました」


「だから、不正を始めたと?」


 レオンハルトの声は冷たい。


 バルツァーは首を横に振った。


「最初から不正のつもりだった者ばかりではありません」


「都合の良い言い方だな」


「事実です」


 バルツァーは、レオンハルトを見た。


「支払いが遅れる。物資の手配が遅れる。寄付品の受領確認が戻ってこない。茶会の寄付金は集まるが、現場からの報告は遅い。財務院には、支出予定だけが積み上がる」


「それで?」


「財務院は、支払いを整理しました」


 クラリスは、その言葉を静かに受け止めた。


 整理。


 また、柔らかい言葉だ。


 バルツァーは言う。


「まずは、支払い時期をずらした。次に、品目の優先順位を変えた。毛布より儀礼用布。包帯布より外交晩餐会用の支出。孤児院の冬服より、王太子殿下の公式訪問準備」


 国王アレクシスの表情が険しくなる。


「その優先順位は、誰が決めた」


「財務院です」


「そなたか」


「私だけではありません」


 バルツァーは、今度は逃げるようには言わなかった。


 事実として言っているようだった。


「当時の財務院内では、王宮の威信を保つ支出を優先するべきという空気がありました。王妃執務院が弱り、慈善支出や教育関連支出の確認が甘くなった。そこへ、財務院が入り込んだ」


「入り込んだ、か」


 レオンハルトが低く繰り返す。


「ええ」


 バルツァーは認めた。


「王妃執務院が担っていた見えない調整を、財務院が数字だけで処理し始めたのです」


 クラリスは、机の上の資料を見た。


 数字だけ。


 その言葉は、今回の不正の根に近い。


 現場を見ず、数字だけで見た。


 受領先を見ず、商会報告だけで処理した。


 王太子妃教育の実態を見ず、支出項目だけを動かした。


 王妃の病は罪ではない。


 だが、王妃が見ていたものを、誰も同じようには見なかった。


 そこに穴が空いた。


 その穴を、バルツァーたちは利用した。


「王妃陛下が倒れたことを、理由にするのですか」


 クラリスは静かに言った。


 バルツァーは彼女を見る。


「理由ではありません。始まりです」


「同じことです」


「違います」


「では、なぜ今それを語るのですか」


 バルツァーは黙った。


 クラリスは続ける。


「王妃執務院が弱った。人が足りなかった。記録が遅れた。それは事実かもしれません。ですが、そこから孤児院の冬服を削ることも、施療院の報告を商会に止めさせることも、王太子妃教育費を別の流れへ移すことも、自然には起こりません」


 声を荒げる必要はなかった。


 言葉だけで十分だった。


「誰かが選びました」


 審問室が静まる。


「混乱は、罪ではありません。病も、罪ではありません。けれど、混乱を利用することは罪です」


 バルツァーは、少しだけ目を伏せた。


 そこで、国王が低く言った。


「王妃は、今日この場にはいない」


 バルツァーが顔を上げる。


 国王の声は、静かだった。


 静かだからこそ、重い。


「だが、そなたの言葉は、王妃にも届く。王妃が倒れたことを、王宮の不正の始まりとして語るなら、余は聞かねばならぬ」


「陛下」


「続けよ。ただし、病を盾にするな」


 バルツァーは、深く頭を下げた。


「承知しました」


 その声には、先ほどよりわずかに力がなかった。


 彼の論法が、一つ崩されたのだ。


 王妃の病を理由にすれば、王宮全体の責任へ広げられる。


 自分一人ではないと言える。


 だが、クラリスと国王は、それを許さなかった。


 始まりとして聞く。

 だが、盾にはさせない。


「当時、王妃執務院の慈善記録は月ごとの確認から、季節ごとの確認へ変わりました」


 バルツァーは語り続けた。


「それも、当初は一時的な措置でした。冬物支援、春の施療院備品、夏の神殿補助、秋の孤児院衣類。その四期にまとめる形です」


 マルタ女官長が、静かに口を開いた。


「その変更は、王妃執務院側でも把握しています」


 全員の視線が向く。


 マルタは、持参した控えを開いた。


「当時、王妃陛下の療養と人員不足により、月次確認が滞っていたのは事実です。財務院から、季節ごとの一括確認に変えてはどうかという提案がありました」


「その提案を出したのは?」


 レオンハルトが尋ねる。


 マルタは少し沈黙し、答えた。


「財務院慈善支出担当官。そして、最終的に承認したのはバルツァー財務卿です」


 バルツァーは否定しなかった。


「一括確認になったことで、何が起きましたか」


 クラリスが尋ねる。


 マルタは、苦い表情をした。


「遅れが見えにくくなりました。月ごとなら、未着がすぐに分かる。季節ごとになると、三か月分まとめて処理されます。商会報告だけで納入済みにされるものも増えました」


「そして、受領先の声は遅れて届く」


「はい」


 マルタの声は低い。


「サーラ院長の未着報告も、その時期のものです。王妃執務院へ届いたはずですが、季節報告へ回された可能性があります」


「そこで止まった」


「はい。あるいは、止められました」


 マルタはバルツァーを見なかった。


 だが、その言葉は彼へ向けられていた。


 バルツァーは、静かに言った。


「財務院にも報告は来ていました」


「なぜ上げなかった」


 国王が問う。


「確認中としました」


「何を確認していた」


「商会へ」


「受領先ではなく?」


「当時は、商会が物流を把握していると判断しました」


 クラリスは目を伏せた。


 また同じ構造。


 現場ではなく、商会を見る。


 受け取った人ではなく、納めたと報告する人を見る。


 それでは、届かないものは永遠に届いたことになる。


「その判断が、不正の入口でした」


 クラリスは言った。


 バルツァーは、今度は反論しなかった。


 レオンハルトが資料をめくる。


「王太子妃教育費についても、同じ年から異常が出ている」


「王太子妃教育関連支出は、王妃執務院と王太子府の間で管理が曖昧でした」


 バルツァーは答えた。


「王妃陛下が見ておられた時は問題ありませんでした。ですが、王妃陛下が倒れられた後、教育内容の実施確認が弱くなった」


「そこへ財務院が入った」


「はい」


「そして補佐人員費を抜いた」


 レオンハルトの言葉は鋭かった。


 バルツァーは、しばらく黙った。


「抜いた、というより」


「言葉を飾るな」


 レオンハルトの声が審問室に響いた。


 バルツァーは目を閉じた。


「……実配置のない人員費を、別支出に回しました」


「別支出とは?」


「最初は、王宮儀礼費です」


「最初は」


「後には、調整口座へ」


「ヴァルト側か」


「はい」


 オスカーの筆が、休むことなく動く。


 クラリスは、胸の奥が重くなるのを感じた。


 補佐人員費。


 本来なら、クラリスを支えるはずだった費用。


 それが最初は儀礼費へ、後にヴァルト側へ流れた。


 王宮の見栄えを守るために、見えないところが削られた。


 まさに、彼女が言った通りだった。


「なぜ、王太子殿下の署名がある書類を使ったのですか」


 クラリスが尋ねた。


 バルツァーは、少しだけ顔を上げる。


「王太子殿下の署名があれば、王妃執務院側も深く疑いません」


 その一言に、空気がさらに冷えた。


 国王の表情が硬くなる。


「ジュリアスを利用したのか」


「殿下は、お忙しかった」


「利用したのかと聞いている」


 バルツァーは、深く息を吐いた。


「はい」


 短い返答。


 ジュリアスがこの場にいなくてよかったのか。


 いた方がよかったのか。


 クラリスには分からなかった。


 だが、彼は知ることになる。


 自分の署名が、クラリスを支えるはずの予算を別へ流すために使われたことを。


 そして、それを可能にしたのは自分の無関心だったことを。


「王太子殿下は、クラリス嬢が問題なく教育をこなしていると思っておられました」


 バルツァーは続ける。


「実際、クラリス嬢は問題なくこなした。資料が足りなければ自分で作り、人員が足りなければ自分で補い、教師が不足すれば自習された」


 その声には、皮肉のようなものが混じっていた。


 クラリスは黙って聞いた。


「だから、支出を削っても表面には出なかった」


 イリスの目が、かすかに冷たくなる。


 マルタ女官長の手も、わずかに震えた。


 クラリスは、静かに口を開いた。


「つまり、わたくしが穴を埋めたから、穴があることにされたのですね」


 バルツァーは答えなかった。


 答えは、もう出ていた。


「便利でしたか」


 クラリスの声は、穏やかだった。


 穏やかすぎた。


「わたくしが、黙って足りないものを埋めることは」


 バルツァーは、初めて言葉に詰まった。


 国王も、レオンハルトも、マルタも、誰も口を挟まない。


 これは、クラリスが聞かなければならない問いだった。


 バルツァーは、しばらくして低く答えた。


「……便利でした」


 審問室の空気が、痛いほど静かになった。


 クラリスは目を閉じなかった。


 その言葉を受け止めた。


 便利。


 そう見られていた。


 そう扱われていた。


 王太子の婚約者としてではなく。

 未来の王妃候補としてでもなく。

 人としてでもなく。


 足りないところを黙って埋める、便利な存在として。


 だが、その事実を知った今、以前のように自分の内側だけで抱え込む必要はない。


 イリスがいる。

 レオンハルトがいる。

 オスカーが記録している。

 国王が聞いている。

 マルタ女官長も聞いている。


 これはもう、クラリス一人の痛みではない。


 王宮の記録になっている。


「記録してください」


 クラリスは言った。


 オスカーが、すぐに頷く。


「はい」


「王太子妃教育関連支出の不正流用は、クラリス本人の無償補填により表面化が遅れた、と」


 オスカーの筆が、一瞬だけ止まった。


 それは、あまりに冷静な記述だった。


 だが、必要な記述でもある。


 彼は深く息を吸い、書いた。


「記録しました」


 国王が、低く言った。


「バルツァー」


「はい」


「そなたは、王妃の病、王太子の無関心、クラリス嬢の献身、社交界の見栄、商会の欲を、すべて利用したのだな」


 バルツァーは、すぐには答えなかった。


 だが、もう否定しなかった。


「利用できるものは、利用しました」


 国王の手が、机の上で強く握られる。


 しかし、怒鳴りはしなかった。


 王として聞いている。


 最後まで。


「他に、誰がいた」


 国王が問う。


 バルツァーは、しばらく沈黙した。


 そして言った。


「黒幕はいません」


 レオンハルトが眉を寄せる。


「何?」


「少なくとも、すべてを命じる一人の黒幕はいません」


 バルツァーの声は、疲れていた。


「財務院の一部は、見て見ぬふりをした。商会は差額を得た。倉庫は物資を流した。社交界は報告で満足した。王太子府は署名を深く見なかった。王妃執務院は弱っていた。神殿や施療院の声は届かなかった」


 彼は、ゆっくり顔を上げる。


「私は中心の一つでした。だが、私一人が巨大な悪としてすべてを動かしたわけではない」


「責任逃れか」


 レオンハルトが低く言う。


「いいえ」


 バルツァーは首を振った。


「むしろ、厄介な事実です。私を裁けば終わるなら、王宮は楽でしょう。だが、それではまた起こる」


 クラリスは、その言葉を聞いて、静かに息を吸った。


 彼は今、核心に触れた。


 バルツァーを裁く。


 セムを裁く。

 ダレスを裁く。

 ハイム商会を裁く。


 それは必要だ。


 だが、それだけでは足りない。


 この仕組みを可能にしたのは、王宮全体の見なかった部分だ。


「黒幕はいない。ただ、見ない者が多すぎた」


 クラリスは、ぽつりと言った。


 バルツァーは、彼女を見た。


 しばらくして、静かに頷いた。


「その通りです」


 その瞬間、審問室には勝利の空気などなかった。


 むしろ、より重いものが降りてきた。


 分かりやすい敵を倒して終わりではない。


 王宮そのものを見直さなければならない。


 国王は、深く息を吐いた。


「今日の尋問はここまでとする」


 記録官が区切りを告げる。


 バルツァーは連れていかれた。


 退出する前、彼は一度だけクラリスを見た。


「クラリス嬢」


 レオンハルトの目が鋭くなる。


 クラリスは黙って見る。


 バルツァーは、わずかに笑った。


「あなたは、王宮を甘く見ていない。だから危険だ」


 クラリスは、静かに答えた。


「王宮を甘く見ていたのは、あなた方です」


 バルツァーの笑みが消えた。


「見えないものは、永遠に見えないと思っていた」


 彼は何も言わず、護衛に連れられて審問室を出た。


 扉が閉まる。


 重い音だった。


 国王は、しばらく黙っていた。


 やがて、低く言う。


「クラリス嬢」


「はい」


「この件は、処罰だけでは終わらぬな」


「はい」


「報告書を作れ。事実だけではない。不正を可能にした構造もだ」


「承知いたしました」


 レオンハルトが、すぐに言った。


「王弟府も協力します」


 マルタ女官長も頭を下げる。


「王妃執務院の記録も、すべて出します」


 オスカーは少し青い顔で、それでも筆を握り直した。


「書式を整えます」


 イリスは静かにクラリスの後ろへ立つ。


「そして、お嬢様が全部書こうとしたら止めます」


 国王が、ほんの少しだけ目を瞬かせた。


 この場でそれを言うのか、という顔だった。


 だが、クラリスは少しだけ笑った。


「お願いします」


 その返事に、イリスは満足そうに頷いた。


 審問室を出ると、廊下には夕方の光が差していた。


 窓の少ない部屋から出たせいか、その光は少しまぶしかった。


 クラリスは立ち止まり、深く息を吸う。


 始まりは、王妃が倒れた年だった。


 けれど、それは王妃の罪ではない。


 病の罪でもない。


 その隙を見て、声の小さい場所から削った者たちの罪だ。


 そして、見なかった王宮全体の責任でもある。


 次に書くべき報告書は、誰か一人を断罪するためだけのものではない。


 王宮が、自分自身を見直すためのものになる。


 クラリスは、胸の奥に重いものを抱えたまま歩き出した。


 今度の敵は、一人の男ではない。


 見ないまま動いてきた王宮そのものだった。

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