第45話 バルツァー元財務卿は、まだ負けていなかった
王宮審問室には、窓が少ない。
光を入れないためではない。
余計なものを入れないためだ。
外の庭の美しさも、廊下を行き交う人の気配も、遠くで鳴る鐘の音も、ここではほとんど届かない。
石壁と長机。
記録官の席。
証拠を並べるための台。
そして、向かい合う椅子。
そこに座る者は、肩書きや飾りをできるだけ剥がされる。
それでも、バルツァー元財務卿は、剥がされていなかった。
職務停止中の身でありながら、彼は背筋を伸ばし、深い灰色の上着を乱さず、両手を膝の上に置いていた。
白髪交じりの髪は整えられている。
顔には疲れがある。
だが、敗者の顔ではない。
王宮の金庫を長く握ってきた男の顔だった。
「バルツァー・ローデン」
国王アレクシスが低く名を呼んだ。
今回の再尋問には、国王自身が同席している。
その隣にレオンハルト。
少し下がった位置にクラリス。
オスカーは記録係。
イリスは壁際。
王弟府の記録官と財務院の監査官も控えている。
王妃エレオノーラは同席していない。
だが、王妃執務院からはマルタ女官長が記録確認役として来ていた。
この場に並べられた資料は、以前とは比べものにならない。
赤い紐の箱。
セム・ヴァルトの証言。
ダレス・モルンの証言。
ハイム商会の商会印。
南門倉庫の荷札。
南施療院の未着記録。
社交界慈善記録。
そして、黒革の小箱から見つかった覚書。
逃げ道は、狭くなっている。
それでもバルツァーは、静かに頭を下げただけだった。
「陛下」
「今日、改めて問う」
国王の声は重かった。
「そなたは、慈善物資流通不正、王太子妃教育関連支出の不正流用、商会・倉庫・会計代理人を通じた金銭調整について、どこまで知っていた」
バルツァーは、すぐには答えなかった。
沈黙は長くない。
しかし、計算された沈黙だった。
「王宮財政の調整については、承知しておりました」
調整。
その言葉に、クラリスは指先を少しだけ握った。
彼らはいつもそう呼ぶ。
不正ではなく調整。
横領ではなく処理。
削減ではなく効率化。
未着ではなく遅延。
言葉を柔らかくすることで、痛みを見えなくする。
バルツァーは続けた。
「ただし、私腹を肥やすためではございません。王宮は、綺麗ごとだけでは回りません」
オスカーの筆が動く。
クラリスはバルツァーを見る。
彼の声は落ち着いていた。
まるで、長年会議で使い慣れた論法をもう一度出しているだけのようだった。
「王宮の財政は、常に不足しております。儀礼、外交、軍備、神殿、教育、慈善。すべてに満額を出すことはできません。どこかを調整しなければ、全体が止まる」
そこで彼は、わずかにクラリスを見た。
「クラリス嬢なら、お分かりでしょう。書類上、すべてを理想通りに動かすことなど不可能だと」
その呼び方。
クラリス嬢。
今の肩書きではない。
王太子の婚約者だった頃、王宮の実務を黙って支えていた頃の呼び方。
彼はまだ、クラリスをその位置に戻そうとしている。
クラリスは、静かに答えた。
「綺麗ごとだけで王宮が回らないことは、承知しております」
バルツァーの目が、ほんの少し細くなる。
「ですが」
クラリスは続けた。
「綺麗ごとでは回らないことと、孤児院の冬服を奪うことは違います」
審問室の空気が沈んだ。
バルツァーは表情を崩さない。
「奪ったとは、強い言葉ですな」
「では、届かなかったと言い換えましょうか」
クラリスは、南施療院の記録を机に置いた。
「膝掛け三十枚は未着。代替品は薄手布十五枚のみ」
次に、孤児院の記録。
「冬服三十着分不足」
さらに、神殿の包帯布記録。
「包帯布の品質低下」
最後に、王太子妃教育関連支出。
「補佐人員費、実配置確認できず。教材費、現物確認できず。国外儀礼比較表作成費、実作業者はわたくし本人。支払い先不明」
一枚ずつ、音を立てずに並べる。
「これらは、すべて“調整”ですか」
バルツァーは、紙を見た。
まるで、初めて見る書類ではないように。
いや、おそらく初めてではない。
彼は知っていた。
ただ、紙の向こうにいる人を見なかっただけだ。
「財政とは、選択です」
バルツァーは言った。
「すべてに十分な配分はできません。ならば、優先順位をつける。王宮の威信、外交上の体裁、国防、王族の安全。それらを守るため、目立ちにくい支出を調整することは必要でした」
「目立ちにくい支出」
クラリスは繰り返した。
「孤児院の冬服が?」
「王宮全体から見れば、小さい」
その言葉に、ミレーヌがこの場にいなくてよかった、とクラリスは思った。
彼女が聞けば、どんな顔をしただろう。
小さい。
冬服三十着。
膝掛け三十枚。
補佐人員四名。
数字にすれば、小さいのかもしれない。
けれど、それを小さいと言える場所にいたから、彼らは奪えた。
「南施療院で、膝掛けが足りず、眠れなかった老人がいました」
クラリスは言った。
声は荒げない。
「母親が自分の布を子どもにかけ、自分は椅子で震えていたという記録もあります」
バルツァーの眉が、わずかに動いた。
「感情論ですな」
「いいえ。現場記録です」
クラリスは即座に返した。
「サーラ院長の証言として正式記録に残っています」
オスカーが、静かに頷きながら筆を動かしている。
バルツァーは少しだけ口を閉じた。
感情論。
そう切り捨てようとしたものが、記録として戻ってくる。
それが、今回の調査の強さだった。
レオンハルトが口を開いた。
「バルツァー。黒革の小箱から出た覚書には、こうある」
記録官が写しを読み上げる。
「“王妃執務院には美しい報告を。現場不満は商会経由で吸収”」
国王の表情がさらに険しくなる。
レオンハルトは続けた。
「これは何だ」
「報告の整理です」
「苦情を止めることを、整理と呼ぶのか」
「未確認の不満をそのまま上げれば、王宮は混乱します」
「未確認ではない。南施療院には未着記録がある」
バルツァーは一瞬、目を伏せた。
「すべての苦情を王宮上層に上げることはできません」
「だから商会に止めさせた」
「商会が調整することもありました」
「また調整か」
レオンハルトの声が冷たくなった。
国王が手を上げる。
それだけで、室内は静まった。
「バルツァー」
「はい」
「そなたは、王宮のためと言う」
「はい」
「では、なぜ金貨がヴァルト家の箱にある」
バルツァーは黙った。
国王は続ける。
「なぜ複数の商会印が、セム・ヴァルトの倉庫にある。なぜダレスは偽造を認めた。なぜロジムは口止めの退職金を受け取った。王宮のためなら、なぜ隠す」
答えられない問いだった。
いや、答えはある。
ただ、口にできないだけだ。
しばらくして、バルツァーは静かに言った。
「仕組みが大きくなりすぎたのです」
初めて、彼の声に少しだけ疲れが見えた。
「最初は違いました。予算の穴を埋めるためだった。王妃執務院が弱り、財務院にしわ寄せが来た。王太子殿下は表の儀礼を優先された。慈善や教育支出は、誰も厳しく見ていなかった」
ジュリアスの名が出た瞬間、クラリスは一瞬だけ目を伏せた。
だが、すぐに戻す。
今日の場にジュリアスはいない。
彼は別室で自分の署名を確認している。
逃げているわけではない。
それぞれの場所で、自分の責任を見ている。
「誰も見ていなかったから、削ったのですか」
クラリスが問う。
「見ていない場所からしか、削れません」
バルツァーは答えた。
その言葉には、恐ろしいほどの実務感覚があった。
間違っている。
だが、王宮の裏側を知る者なら、その冷たさを完全には笑えない。
予算は限られる。
支出には優先順位がある。
目立つところは削りにくい。
声の大きい者は抵抗する。
だから、声の小さいところから削られる。
クラリスは、ゆっくり息を吸った。
「あなたが削ったのは、余白ではありません」
バルツァーが目を上げる。
「声を上げづらい人たちの分です」
室内が静かになった。
「孤児院の子ども。施療院の患者。寄付を受け取る側。王宮で補佐もなく働く者。見習い令嬢。侍女。記録に載らない仕事をしていた人たち」
クラリスは一つずつ言った。
「あなた方は、彼らが怒鳴り込んでこないことを知っていた。だから削った」
バルツァーは、初めて少しだけ表情を変えた。
怒りに近いもの。
あるいは、不快感。
「では問おう、クラリス嬢」
彼の声が低くなる。
「王宮を動かす金が足りない時、誰を削る?」
クラリスは黙った。
バルツァーは続ける。
「外交儀礼を削るか。相手国に侮られますぞ。軍備を削るか。国境が危うくなる。王族警護を削るか。陛下や王太子殿下の身が危うくなる。神殿支援を削るか。民の不満が広がる」
彼は、少し身を乗り出した。
「誰かを削らねばならぬ時、あなたは選べるのか?」
重い問いだった。
それは、単なる開き直りではない。
王宮の実務に関わるなら、いつか必ず突き当たる問い。
全員を救うことはできない。
すべての支出を満額で通すことはできない。
なら、どこを削るのか。
誰に我慢してもらうのか。
クラリスは、即答しなかった。
ここで綺麗な答えを言えば、それこそ綺麗ごとになる。
バルツァーはそこを突いている。
クラリスが理想だけの令嬢であれば、ここで崩れる。
だが、彼女はすでに多くの帳簿を見てきた。
現場も見た。
痛みも見た。
そして、今の問いから逃げてはいけないことも分かっていた。
「選ぶ必要がある時は、あると思います」
クラリスは言った。
バルツァーの目が細くなる。
「では」
「ですが、選ぶ前に見えるようにします」
クラリスは、机上の書類に手を置いた。
「誰が何を負担しているのか。何を削れば、どこに痛みが出るのか。誰が代わりに無償で埋めているのか。どの現場が沈黙しているだけなのか」
彼女は続ける。
「見えないまま削るから、弱いところから奪われるのです」
バルツァーは黙った。
「削るなら、記録に残します。理由を残します。代替策を残します。誰が決めたかを残します。削られた側の声を上げる経路を作ります」
クラリスの声は、少しずつ強くなった。
「あなたは、それをしなかった。見えないまま削り、調整と呼び、商会に苦情を止めさせ、報告だけを美しくした」
国王も、レオンハルトも、何も言わなかった。
バルツァーだけが、クラリスを見ている。
「それは財政ではありません」
クラリスは、静かに告げた。
「隠蔽です」
長い沈黙が落ちた。
バルツァーは、しばらくクラリスを見ていた。
やがて、微かに笑った。
愉快そうではない。
負けを認める笑いでもない。
ただ、目の前の相手を少しだけ見直したような笑いだった。
「やはり、あなたは危険だ」
黒革の小箱にあった覚書。
クラリス嬢のような者が出る前に整理せよ。
その意味を、バルツァー自身が口にしたようだった。
「危険なのは、わたくしではありません」
クラリスは答えた。
「記録です」
バルツァーは、目を伏せた。
「……そうでしょうな」
その一言は、初めて彼の中から出た本音に聞こえた。
国王が静かに問う。
「バルツァー。そなた一人で始めたのか」
バルツァーは、すぐには答えなかった。
だが、先ほどまでの沈黙とは違う。
抵抗ではなく、計算でもなく、過去を見ている沈黙だった。
「いいえ」
彼は、ついに言った。
審問室の全員が、その声を聞いた。
「私一人で始めたことではありません」
オスカーの筆が止まりそうになり、すぐに動いた。
国王の目が細くなる。
「誰だ」
「誰か一人ではありません」
バルツァーは、疲れたように息を吐いた。
「始まりは、王妃陛下が倒れられた年です」
室内の空気が、また変わった。
マルタ女官長の表情が強張る。
クラリスも、胸の奥が冷えた。
王妃エレオノーラの病。
王妃執務院の弱体化。
その隙に始まった調整。
バルツァーは、そこへ話を戻そうとしている。
自分だけの罪ではないと言うために。
王宮全体の隙だったと言うために。
だが、それは同時に、事件の始まりを語ることでもあった。
国王は低く命じた。
「続けよ」
バルツァーは、ゆっくり顔を上げた。
その目には、まだ完全な降伏はない。
けれど、沈黙の壁には確かにひびが入っていた。
「王妃陛下が倒れ、王妃執務院が止まりかけた。あの年、王宮の裏側は崩れ始めました」
クラリスは、静かに息を整えた。
この先は、さらに痛い話になる。
だが、聞かなければならない。
削られたものを、見えるようにするために。




