第44話 王太子は、初めて自分の署名を疑った
署名とは、名前を書くだけの行為ではない。
少なくとも、王宮ではそうだ。
一つの署名が、予算を動かす。
一つの署名が、人を配置する。
一つの署名が、ある仕事を「承認されたもの」に変える。
けれど、その署名の先に本当に人がいたのか。
その予算は、本当に必要な場所へ届いたのか。
その人員は、本当にそこに配置されたのか。
ジュリアスは、その当たり前のことを、これまで当たり前として見てこなかった。
国王執務室へ向かう廊下で、彼は手元の書類を握りしめそうになり、寸前で力を緩めた。
記録を傷めてはいけない。
それを、今は分かっている。
書類は紙ではない。
誰かの時間であり、誰かの労力であり、誰かに届かなかったものの痕跡だ。
クラリスが、それをずっと見ていた。
自分が見なかった場所を。
「兄上」
隣を歩くレオンハルトが声をかけた。
ジュリアスは顔を上げる。
「何だ」
「顔が硬い」
「当然だろう」
「それでいい。軽い顔で入られるよりは」
弟らしい慰めなのか、突き放しなのか分からない言葉だった。
ジュリアスは苦く笑いかけたが、うまく笑えなかった。
「私は、今日、父上に何と言えばいい」
「自分で書いたのだろう」
「書いた。だが、書いた言葉が足りている気がしない」
「足りないなら、足りないまま出せばいい」
ジュリアスは、思わず弟を見た。
レオンハルトは前を向いたまま続ける。
「完璧な反省文を出すための場ではない。自分の署名に調査を入れてほしいと申し出る場だ」
「……手厳しいな」
「兄上に甘くした結果が、今の王宮だ」
反論はできなかった。
以前なら怒っていただろう。
弟にそこまで言われれば、王太子としての面子が傷ついたと思ったはずだ。
けれど今は、その傷つく面子そのものが邪魔だったのだと分かる。
国王執務室の扉の前に、クラリスが立っていた。
濃紺のドレス。
派手ではない。
だが、凛としている。
その手には、王太子妃教育関連支出の分類表がある。
隣にはオスカー。
少し後ろにイリス。
マルタ女官長も、王妃執務院側の控えを持って控えていた。
クラリスはジュリアスに礼をした。
「王太子殿下」
「クラリス顧問」
そう呼び返す。
その呼び方にも、もう少しずつ慣れてきた。
慣れなければならない。
彼女は、自分の婚約者としてここにいるのではない。
王宮臨時顧問として、自分の署名を調べる側に立っている。
「資料は整っています」
クラリスが言った。
「分かった」
ジュリアスは、自分が書いた申し出書を見下ろす。
その紙の端に、まだ迷いが残っている気がした。
言葉は整えた。
だが、心は整っていない。
それでも、今日はこのまま入るしかない。
扉が開かれた。
国王アレクシスは執務机の前に座っていた。
その隣には王妃エレオノーラがいる。
体調を考えれば長時間の会議は負担になるはずだが、彼女は出席を望んだのだという。
王妃は、クラリスを見ると静かに頷いた。
クラリスも礼を返す。
全員が着席すると、国王が低く言った。
「始めよう」
最初に報告したのはオスカーだった。
声は少し硬いが、言葉は明瞭だった。
「黒革の小箱より発見された資料のうち、王太子妃教育関連支出に関するものについて、ご報告いたします」
机上に資料が並べられる。
補助教材費。
国外儀礼比較表作成費。
外交語学教師追加手当。
王妃執務院補佐人員費。
王太子署名欄のある決裁書。
国王は一枚ずつ目を通した。
王妃も黙って読んでいる。
途中、王妃の指先がわずかに震えた。
それは、王妃執務院補佐人員費の項目だった。
「補佐人員、四名」
王妃が静かに読み上げた。
「女官補佐二名、書記補佐一名、儀礼補佐一名」
クラリスは答える。
「実際には、わたくしの補佐として常駐していた者はおりませんでした」
王妃は目を伏せる。
「マルタ」
「はい」
マルタ女官長が控えを開いた。
「王妃執務院側の配置記録にも、該当する四名の実配置は確認できておりません。臨時補助の女官派遣は数度ございますが、決裁書にある常駐補佐とは一致いたしません」
国王の眉間に深い皺が刻まれた。
「支出は行われている」
「はい」
オスカーが答える。
「ただし、支出先については符丁が用いられており、ヴァルト側へ流れた可能性を示す記録がございます」
しばらく、紙をめくる音だけが響いた。
ジュリアスは、自分の前に置かれた決裁書を見ていた。
そこには確かに、自分の署名がある。
若い頃の字だ。
今より少し勢いがあり、線が太い。
自信だけはあった頃の字。
内容を本当に読んだのか。
思い出せない。
そのことが、何より重かった。
「ジュリアス」
国王が名を呼んだ。
ジュリアスは背筋を伸ばす。
「はい」
「これは、そなたの署名か」
「はい。私の字です」
「覚えているか」
「覚えておりません」
そう答えるのは、屈辱だった。
だが、嘘はつけない。
「ただし、私の署名であることは認めます」
国王はしばらく息子を見ていた。
「そなたは、これをどう見る」
ジュリアスは、用意していた申し出書を手に取った。
紙が少し重く感じる。
彼は一拍置いた。
クラリスに言われたことを思い出す。
即答は、時に反射的な防御に見える。
受け止めてから返す。
「父上」
ジュリアスは、声を整えた。
「王太子妃教育費に関する決裁書に、私の署名があります。私は内容を記憶しておりません。ですが、署名した以上、責任があります」
国王は黙って聞いている。
「この件を、慈善物資流通不正とは別枠ではなく、正式調査対象に加えてください。私の署名がある書類も、例外なく確認してください」
王妃が、静かに目を上げた。
レオンハルトは表情を変えない。
クラリスも、ただ聞いている。
「私は、自分の署名を疑います」
ジュリアスは、言った。
その言葉は、思っていたより重く響いた。
王太子が自分の署名を疑う。
それは、自分の正しさを疑うことでもある。
自分の立場を、自分で傷つけることでもある。
だが、傷つけずに済ませた結果が、今の書類だった。
「王太子として、署名をした以上、私は見たことにしてきました。説明を受けたつもりで、確認したつもりでいました。けれど、実際には見ていなかった」
ジュリアスは、クラリスの方を見た。
一瞬だけ。
すぐに国王へ視線を戻す。
「クラリスを支えるはずだった補佐も、教材も、教師手当も、私は確認していませんでした。彼女が一人でできると思っていた。そう思えば、私が見なくて済んだからです」
王妃が、唇を結んだ。
ジュリアスは続ける。
「これは、私が直接金を抜いたという話ではありません。ですが、私の無関心が利用された可能性があります。だから、調査してください。私の署名を含めて」
沈黙が落ちた。
国王は、長く息を吐いた。
「そなたが、自分でそれを申し出るとはな」
ジュリアスは頭を下げる。
「遅すぎます」
「そうだ」
国王は容赦なく言った。
ジュリアスの肩がわずかに揺れる。
「だが、今申し出たことは記録に残る。逃げなかったことも、遅すぎたことも」
「はい」
王妃エレオノーラが、クラリスへ視線を向けた。
「クラリス」
「はい、王妃陛下」
「私は、あなたに王妃になるための教育を与えていたつもりでした」
その声は、少しだけ震えていた。
「でも、あなたを支える制度そのものが削られていた。教材も、補佐も、人員も。私はそれを見抜けなかった」
「王妃陛下」
「謝らせてください」
クラリスは、すぐには返事をしなかった。
王妃の謝罪。
それは、とても重い。
受け取れば、王妃の心は少し軽くなるかもしれない。
だが、それだけで終わらせてはいけない。
「お気持ちは、受け取ります」
クラリスは静かに言った。
王妃が目を伏せる。
「ですが、わたくしへの謝罪だけでは足りません」
部屋の空気が少し動いた。
クラリスは続ける。
「同じ仕組みは、次の誰かにも起こり得ます。王太子妃候補、王女、見習い令嬢、王妃執務院の若い女官。支えるはずの予算が名目だけになれば、また誰かが一人で抱えます」
王妃は、しっかりと顔を上げた。
「だから、記録に残してください。誰に謝るかではなく、何を変えるかを」
王妃はしばらくクラリスを見ていた。
そして、静かに頷いた。
「分かりました」
その声は、先ほどより強かった。
「王妃執務院として、王太子妃教育関連支出の再確認を正式に受け入れます。今後、教育費、補佐人員費、教材費については、実配置と現物確認を必須とする案を作りましょう」
マルタ女官長がすぐに頭を下げる。
「承知いたしました」
国王が、レオンハルトへ視線を移した。
「レオンハルト」
「はい」
「王弟府は、この調査を支えよ。王太子署名関連の書類は、そなたの方でも保全する」
「承知しました」
「ジュリアス」
「はい」
「そなたは、過去の署名書類をすべて確認することになる。痛むぞ」
「承知しております」
「本当にか」
国王の声は厳しい。
「そなたは、痛みを知らずに済ませてきた。クラリス嬢が痛む仕事を先に処理していたからだ」
ジュリアスは顔を伏せなかった。
「はい」
「今回は、誰も先に片づけてはくれぬ」
「はい」
国王は、少しだけ目を細めた。
「ならば、やれ」
「はい」
短い許可だった。
だが、それで十分だった。
王太子妃教育費の調査は、正式対象に加えられる。
ジュリアス自身の署名も含めて。
オスカーが記録に書き加えた。
羽根ペンの音が、やけに澄んで聞こえた。
会議が終わった後、ジュリアスは部屋を出る前にクラリスへ近づいた。
レオンハルトもイリスも近くにいる。
だから、余計な空気にはならない。
ジュリアスも、それを分かっているようだった。
「クラリス顧問」
「はい」
「私は、これから署名を見る」
「はい」
「おそらく、何度も間違いを見つける。何度も、自分が見ていなかったことを知る」
「そうなると思います」
「君は、本当に容赦がない」
ジュリアスは苦く笑った。
だが、以前のような不満ではない。
自分に向けた苦笑だった。
「その時、私はまた謝りたくなると思う」
クラリスは静かに聞く。
「だが、昨日言った通り、謝る前に見る。記録を見る。私が何を見なかったのか、知る」
「それがよろしいかと存じます」
「君なら、そう言うと思った」
ジュリアスは頷いた。
「では、まず最初の束を送ってくれ」
「オスカー様経由で送ります」
「直接ではないのだな」
「記録に残すためです」
「……分かった」
少し前なら、そこで寂しさや苛立ちを見せただろう。
だが、ジュリアスは受け入れた。
記録に残す。
それが、自分のためでもあると理解し始めている。
ジュリアスが去った後、クラリスは少しだけ肩の力を抜いた。
途端に、疲れが来た。
王妃の謝罪。
ジュリアスの申し出。
国王の承認。
正式調査対象への追加。
どれも必要だった。
だが、心が無傷で済む話ではなかった。
「クラリス」
レオンハルトが声をかける。
「はい」
「今日は、もう大きな判断はしない」
「ですが、調査対象が増えましたので」
「だからこそ、今日はしない」
イリスが素早く同意する。
「賛成でございます」
「まだ昼過ぎです」
「心の終業時刻でございます」
あまり聞いたことのない言葉だった。
クラリスは少しだけ笑ってしまった。
「心の終業時刻」
「はい。肉体は動いても、判断力が先に帰宅する日がございます」
レオンハルトが真面目に頷く。
「良い表現だ」
「採用いたしますか」
「王弟府でも使おう」
「やめてください」
クラリスは、ようやく少し呼吸が楽になった。
顧問室へ戻ると、ミレーヌが待っていた。
彼女は立ち上がり、クラリスを見る。
「どうでしたか」
「正式調査対象に加わりました」
クラリスが答えると、ミレーヌは唇を結んだ。
「王太子殿下は」
「ご自分の署名も調査対象にするよう申し出ました」
ミレーヌは、少し驚いた顔をした。
「そう……ですか」
「ええ」
ミレーヌはしばらく黙り、それから小さく言った。
「私も、自分の書いたものを疑えるようになりたいです」
クラリスは妹を見る。
「どういう意味?」
「前は、自分が書いたものは正しいと思いたかったんです。間違えていたら、私が駄目だと言われるみたいで怖くて」
ミレーヌは手元の分類表を見た。
「でも、今は、間違いを見つける方が大事だと思います。正しかったことにするより」
クラリスの胸の奥が、少し温かくなった。
「それは、とても大切なことです」
「はい」
ミレーヌは頷いた。
「だから、王太子妃教育費の分類表も、もう一度見直します。自分の分類が正しいと思い込まないように」
「お願いします」
クラリスは、自然にそう言えた。
任せる。
確認してもらう。
一人で抱えない。
それは、少しずつ身についてきている。
夕方、オスカーが王太子署名書類の第一束を整理し終えた。
封筒には、こう記された。
王太子殿下確認用。記録経由。返答期限あり。
ジュリアスへ直接渡さず、書記官室経由で送る。
それだけで、正式な流れになる。
誰が渡し、誰が受け取り、いつ返答したか。
すべて残る。
イリスが満足そうに言った。
「良い封筒でございます」
「封筒を褒めるのは珍しいわね」
「記録に残る封筒は美しいです」
オスカーが深く頷いた。
「同感です」
少し変わった人たちだ、とクラリスは思った。
そして、その変わった人たちが今の自分を支えている。
終業時刻、イリスはいつもの札を置いた。
今日はここまで
クラリスは机の上の資料を見た。
王太子妃教育費の束は、まだ半分も読めていない。
バルツァー元財務卿の再尋問も控えている。
セムの追加証言も必要だ。
ダレスの帳簿も、社交界の補助記録も残っている。
だが、今日はここまで。
「閉じます」
クラリスは、そう言って書類箱を閉めた。
レオンハルトが少しだけ微笑む。
「良い判断だ」
「心の終業時刻ですので」
そう返すと、レオンハルトは少し驚いた後、声を立てずに笑った。
その笑みを見て、クラリスも少しだけ笑った。
王太子は、初めて自分の署名を疑った。
それは王宮にとって、小さくない出来事だった。
署名は権威の印である。
だが同時に、責任の入口でもある。
ジュリアスがその入口に立った日、クラリス自身もまた、自分一人で過去を抱え込むことを少しだけ手放した。
記録は、痛い。
けれど、痛みを隠すためではなく、次に同じ痛みを生まないためにある。
そのことを、王宮はようやく学び始めていた。




